「日本書紀」での神功皇后の記述をまとめた。

熊襲討伐までの不可解な空き時間。

神功皇后の妊娠期間。

地理的に矛盾してることなど、見て取れる。

(それらは後に)

 

★前の記事

 

主に筑紫に滞在の期間のみ。

 

仲哀天皇2年1月~7月5日

 

1月11日

気長足姫命を皇后とする。

 

(☆1)2月6日。角賀(敦賀)へ。

笥飯(けひ)宮と言う。(気比神宮)

 

3月15日

仲哀天皇、南国(東海道)を巡る。

神功皇后は笥飯に留めおく(中略)。

熊襲、そむく。討伐を決める。

 

(☆2)7月5日

皇后、豊浦津に泊まる。

この日に皇后、如意玉を海中から得る。

9月宮を穴門にたてる。これを穴門豊浦宮。

*「住吉神代記」に長門国豊浦郡北樹社、住吉斎宮とあり。

 ↓

この間、*5年5か月

 ↓

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8年1月~

 

(☆3)8年1月4日

天皇、筑紫へ。後に、皇后合流。

 

以降、筑紫(福岡)

★番号は下の地図

地図はGoogle mapより

 
上の地図の黄色の星は、神功皇后の伝承地の一部。
赤の★が、「日本書紀」に記載の場所。
緑幡は子供を産んでからの行動)
 

1月21日

儺県(ながあがた)に至りて、橿日宮へ。

 

香椎宮

 

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★神功皇后妊娠期間

8年9月5日~9年12月14日

長すぎる!

 

(★4)秋9月5日

熊襲を討たんと協議。

神功皇后、橿日の地で神がかりをする。

御子を宿してると神に言われる。

  

 

 

★5)天皇、信じないで熊襲を討ちに行くが、勝てずに帰る。(青の丸で囲った地域)

 

(☆6)9年2月5日(★4の場所)

仲哀天皇、橿日宮にて崩御

 

★7)皇后、祟った神を知る為、小山田邑に斎宮を造らせる。

 
 

3月、斎宮で自ら神主となり入る。

武内宿禰に琴を弾かせる。

神々現れる。

 

現れた神々は、

撞賢木厳御霊天疎向津姫。

天事代虚事代玉入彦厳之事代神

(あまにことしろ そらにことしろ たまくしいりびこ いつのことしろのかみ)

 

日向の橘の小門の水底におられる神、

表筒男・中筒男・底筒男神。

 

吉備臣の祖鴨別を遣わして、熊襲国を撃つ。

12日経たずに再び反乱。

 

 荷持田村(のとりたのふれ)の羽根白熊鷲。

 

17日

熊襲を討とうと、橿日宮より発つ。

つむじ風起りて、御笠を飛ばされる。その処を御笠(★8)という。

松峡宮(まつおのみや★9)へ。

 

 

(☆10)20日

層々岐野(そそきの)に至りて、羽白熊鷲を撃ちて滅ぼす。(★5の丸で囲った地域

 

*二カ所説あり。筑前怡土郡雷山中、山中に層増岐嶽の大原

 

★11)25日

山門県(やまとのあがた)に至りて、土蜘蛛田油津媛を誅す。(大塚老神社)

 

★12)夏4月3日

北(松浦県玉島里・肥前国松浦郡)に至りて玉嶋里の小川のほとりで鮎を釣る。(玉島神社)

珍しいものが釣れたと「梅豆邏国(めずらのくに)」と名付けた。松浦(まつら)の起源譚

 

これにより皇后、神からの(勝利の)印と思い、更に神を祭り、西の国をうちたいと思う。

 

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★13)以降、那珂川の裂田溝(さくたのうなで)

 

 

ここに神田を定めて作る。

時に儺の河(那珂川)の水を引いて、神田に引こうと溝を作る。

 

裂田溝(さくたのうなで)

迹驚岡にいたるに、大磐塞がりて、溝が作れなくなった。

 

裂田神社の側

 

皇后、竹内宿禰を召して、剣鏡を捧げて神祇を祈りて、溝をと通すことを求めた。

 

その時、雷が激しくなりその岩を砕いて水が通った。

この溝を裂田溝と名付けた。

 

迹驚岡(とどろきのおか)*安徳台

 

 

 

 

 

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皇后、橿日浦に戻って、髪を解いて海にすすぐ。

二つに分かれたので戦勝を感じる。男装。

 

★14)秋9月10日*大己貴神社の地

船を集めて兵を集う。

兵が集まりにくかったので、大三輪社を立てて刀矛を奉る。

おのずと兵が集まった。

*福岡県朝倉郡三輪町大己貴神社。(「福岡県神社誌」)

*東区の大神神社にはこの伝承は無い。

 

海人烏摩呂に、西の海に出て国有るかと、見に行かせた。

「国見えず」と言う。

 

磯鹿(しか)の海人、名草を遣わした。

「西北に山あり、海上遥かに島が見え、その上に雲がある」

*磯鹿海人名草*磯鹿は今の志賀の島。

 

皇后、軍に命令を下す。

 

「和魂は王身(神功皇后の)に従いて、命を守らん。荒魂は先鋒として戦船を導かん」

 

時に、たまたま皇后の産み月に当たった。

石を腰に挟み、祈りて言われた。

「事を成就して、帰った日に生まれたまえ」

 

(☆15)冬10月3日

和珥津(わにのつ)より発つ。

*対馬上県郡に鰐浦

 

(☆16)遂にその国に入り

皇后の所杖ける矛を以て、新羅の王の門に樹て、後葉(のちよ)の印とする。

 

皇后、新羅より帰る。

 

★17)12月14日*宇美八幡の地

誉田天皇を筑紫で産む。

 

 

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筑紫から大和に戻る。

香坂王と忍熊王の反逆。

 

*2年間日付無し

 

(☆18)

13年2月8日

武内宿禰に命じて応神天皇と共に角賀の笥飯大神の元へ。

 

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(☆19)ある書では

神功皇后が琴を弾き、神がかりをする。

現れた神は「表筒男神、中筒男神、底筒男神」

「向匱男聞襲大歴五御霊速狭騰尊

(むかひつ おもおそおふ いつのみたま はやさのぼりみこと)

住吉神代記には、住吉三神のまたの名が向匱男聞襲大歴五御霊速狭騰尊、また、速逆騰尊だという。

 

住吉三神は、穴門の山田邑に祀られる。

長門の住吉神社

祭神、住吉

応神天皇、武内宿禰、気長足命、建御名方命

 

この時に命じたのが津守

住吉大社の社家であり、天火明命の子孫。

 

 (参考 岩波文庫「日本書紀」)

 

 

( つづく )

 

 

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古代や神のこと、少しずつつぶやきます。

小分けなので分かりやすいかもです爆  笑

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