福岡県那珂川市には神功皇后の伝承も存在する。
彼女の前に現れ守った神が、ここにおられたからだ。
福岡県那珂川市安徳の「裂田(さくた)神社」
裂田溝。
上の写真の右上の方に、裂田神社。
神功皇后が大陸に出征する際に、彼女が乗った船の舳先に現れ、玉体を守ったという住吉三神。
「人(神功皇后)の前に初めて姿を現した」
だから、現人神。
そう思っていましたが少し違います。
彼はこちらの伝承では、
「神功皇后の前に初めて現れ、”人の姿となった”神」
その神を祀るのが「現人(あらひと)神社」。
神功皇后はその神の神田に水を引く為に、土地の人と共に那珂川の地に溝(うなで・水路)を造った。
神功皇后は、”神田の為”に水路を築いたのだ。
他でもない、ここが「住吉神」のおられる地。
裂田の溝は、伏見神社(山田にある)の前の那珂川にある「一の井堰」の辺りから始まる。
今ではコンクリートで被覆されいるが、江戸の時代には、どんな大雨でも壊れない「筑前一」の堰と言われていた。
近年の工事の時の調査で、その堰の作りが出雲族のたたらの炉の地下構造と同じものであったと分かったそう。
この辺りは古くから、出雲一族が入っていた証になる。
裂田の溝は、その堰の手前の取水口から安徳台の側を通り、何キロも経て今光(いまみつ)に至り、再び那珂川に注いでいる。
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日本書紀の神功皇后紀によると、迹驚の岡(とどろきのおか・安徳台)の側に差し掛かる時、大岩が塞がった。
皇后が武内宿禰に命じて鏡と剣を奉らせ、神に祈ると雷がこの岩を裂き、溝を築くことが出来た。
そこでこの溝を裂田溝(さくたのうなで)と名づけ、その側に裂田神社を造った。
ほとんどの場所は何度も修繕、整備されているが、それほどまでに古い水路が、現在も使われているのはここだけだそう。
日本一古い、現存する水路になる。
夏になると子供達が泳いでいる。
この写真の手前
右側の崖は、9万年前の阿蘇火砕流堆積層。
ここまで阿蘇の火砕流はきたのだ。
おそらく、この辺りはうなでが築かれた当時のままの姿。
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実在しないかもしれないという神功皇后。
だが、遙かな昔にこの地に水路を引き一大事業をなしとげた人達の功績は、日本書紀というこの国の最古の歴史書に書き留められている。
それを長い間、大切に受け継ぎ、守っている土地の人達。
今でも、うなでにはごみ一つ落ちていない。
清流が流れ、魚が泳ぎ、子供達が遊んでいる。
今でも那珂川の田畑を潤し、秋になると見事な黄金色の穂を実らせる。
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裂田神社の側に初めて来た時、まさに秋だった。
黄金色の稲穂に白鷺が舞う光景を見た時、涙が止まらなかった。
望んでいた光景が、目の前に広がっている。
そんな不思議な気持ちになっていた。
ここが神話の舞台であることなど、まだ知らなかったのだが。
後に彼らは共に生きていたことを知る。