硫黄島の戦い
(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦 (Operation Detachment)。
概要
硫黄島遠景(2007年)
『硫黄島の星条旗』をかたどった海兵隊戦争記念碑
1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」(土手道作戦)としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。
作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなった[14]。
いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった[1]。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名[4]の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり[注 3]、フィリピンの戦い (1944年-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。