仕事観、子育て観、人間関係構築法、不安や悩みの対策、
自分をなんとか好きになること、日常を新鮮にすること、
夢を現実化すること、ときには日記、を書いています。
お金というものが、
たとえば美味しい食べ物のようには
何のためらいもなくすべての人に受け入れられないのはなぜなのか、
ずっと疑問に思ってきました。
お金持ち=強欲、
というイメージがあるから??
日本昔ばなしの
いじわるじいさんといじわるばあさんや、
どこかのドラマや映画で見たことあるような
悪徳商人、悪代官のように。
それももちろんあるとは思うのですよ。
お金はまったくナシではいられないものなのに、
たくさん持っている人と
それほど持っていない人がいる。
食べ物は粗食で済ましたりできるし
何なら少食のほうが健康によい面もあるけれど、
お金については
社会システムとお金が密接に絡んでくればくるほど
少しでも多いほうがいい、
多ければ多いほどいい、
たくさんあるほうが安心!
と思われがちです。
食べ物と違って
腐らないし。
そこが富を蓄える手段としての貨幣の
大きな発明なのでしょうけど。
ただ、
なんだろう、
お金をどれだけ持っていると
どれだけすばらしいかとか
そういう価値観を超えたところでも、
なぜか
お金への、
嫌悪感というより
メンドクサイ感というか
あまり関わりたくない感というか
そういうものがあります。
これは
門学でいう
「財門」をその人が持っているかどうか、
が強く関わっていると考えていますし、
財門の高い人は
お金を「財」として集めたり使ったり回したり、
そういう能力に長けてるし、
そういうことを苦手と思わず
むしろ得意、好き、
と感じる傾向が高いです。
(「財」はお金だけでなく
人財、機会なども含むので
財門の高い人=お金の扱いに長けてる人、
とは限りません)
そんな中、
少し前に
Facebookを見ていましたら
樋口耕太郎さんという方がこのような投稿をされていました。
少々長いですが引用します。
〜〜〜以下引用〜〜〜
私の友人から、拙著「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」と「人生とは長い時間をかけて自分を愛する旅である」で、印象がずいぶん違うので、沖縄と沖縄の人に対しての印象で変わったこと、あるいは自己変容があったのか、というご質問をいただきました。私の回答?は次のとおりです。
A:まったくその通りです。6年前に出版した時と、今とでは、沖縄に限らず、世界に対して、自分自身に対して、相当異なる感覚が生じています。僕の中では、別人に近いくらい(笑)。この変化の大半は、2冊目の本の出版とほぼ同時に生じています。というより、「長い時間をかけて、ようやく」その変化が生じたから、あの本が完成した、ということに近いです。
沖縄のことで言えば、1冊目では、私の心の中に、沖縄を批判する気持ちがまだ残っていました(たぶん)。だから、一部の(左翼系の?)ウチナーンチュから反発されたのも、私の中に原因があったと思います。
今は、沖縄に対して、かなり異なる見方をしています(というより、異なる視点が加わったという感じかも)。
確かに、沖縄は、株主資本主義の視点から見て、非効率だし、曖昧だし、ルーズだし、不誠実だし、真剣味がない(ように見える)・・・。というのは、一定の事実といっていいと思うんですけれど、その理由について、見逃していたことがありました。
2冊目の本で、お金の期限について説明している箇所(第4面)があります。経済の起源は物々交換ではなく、贈与だったという説です。
贈与は、無条件ではなく、ゆる〜い義務。漁師から魚をもらった農民は、4ヶ月後の収穫の際にじゃがいもを持ってくる・・・ 経済的な取引なんですけれど、期限と金額が決まっていないので、債務不履行が起こらないんです。だって、魚のお礼をしたいという気持ちはあっても、人生って、いろんなことが起こります。4ヶ月後に台風が直撃して収穫ができないかもしれない。だから、贈与に対する反対贈与は、ベストエフォートであって、義務ではない。自分のペースで、自分が手にした富を、手にした分だけ、手にしたタイミングでお返しすればいい。ゆる〜い義務だから、無理は生じませんし、お金のために働くこともありません。
ところが、資本主義経済が生まれると、ゆる〜い義務が、数量化されて負債になります。魚をいただいたお礼に、「4ヶ月以内にじゃがいも1キロお届けします」、と約束をした瞬間に、それは農家の負債となり、漁師にとっての資産になります。その間、漁師が資金繰りに困ることがあれば、農家への債権を第三者に譲渡して決済する・・・これがお金の期限です。お金という資産は、誰かの負債なんです。
この負債が履行されないときは、暴力的な制裁が待っています。つまり、金融資産って、暴力によって資産価値が担保されているんです。資本主義経済の(金融)資産って、暴力がないと、成り立たないんです。
逆に、人を傷つけないため、暴力を生み出さないため、お金のために人を働かせないため・・・には、返済義務がゆる〜くなくてはいけない。これが沖縄のテーゲー(適当)文化の本質だと思い至ったんです。ウチナーンチュが「いい加減」に見えるのは、資本の暴力から人間を守るために極めて有効だということを直感しているからじゃないか、と。
本土出身の支店長が沖縄に赴任して、資本主義的な成果主義的なルールを導入しようとしたりします。そのルールに(真正直に)従うと人間が傷つくことがわかっているウチナーンチュは、そのルールに直接反発するのではなく、面従腹背でサボタージュすることが多いです(無意識です)。ナイチャーから見たら、不誠実極まりないんですけれど、ウチナーンチュにしてみれば、人間を守らなければ、逆に沖縄で居場所がなくなる・・・ そんなことが起こっていると思うんです。
・・・まぁ、この美しい、沖縄の赦しの文化を逆手にとって、一見優しげでありながら、人を利用してひどい生き方をしているウチナーンチュ/ナイチャーも、もちろんいますけどね。社会って、複雑なので、一筋縄ではいきません。
〜〜〜引用ここまで〜〜〜
何度か読み返して
まとめようと思いましたが、
そもそも財門なくて
経済センスがない私には
まとめきれず・・・。
要するに、
お金というものがもたらす
「めっちゃ縛られる感じ」
それが
あまりお金そのものに関わりたくない理由かなと
思った次第です。
お金持ちが強欲だとか
そういうことじゃなくて。
特に立門の高いみなさんは、
このような理由で
「お金ってなんかイヤだ」
と感じること
多いんじゃないかと思いますが
いかがでしょうか?
このように見ていくと、
「お金持ちになるためには
お金を愛しましょう!
お金を大好きになりましょう!」
って言っているのが
「Mなのか?」
と言いたくなってしまうのは
私だけでしょうか・・・
「豊かでいることを大好きになりましょう」
みたいな言い方がよいのでは?
それよりは、
情を排して
淡々と、
理屈や理論によって
「財」を動かすような、
「財門」の方々の感覚に倣うほうが
お金持ちになれる気がしてきますね。
私は
縛られる感を感じない範囲で、
お金を回すようにします。
これが、
前回の記事で
「自我を満たし財を回す」
ことができれば幸せになるのでは?
と書いた理由です!



























