神さまのひとりごと

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虹『神様のひとりごと』虹


過去の記事は加筆修正等の確認後、こちらへ移管して参ります。


よろしくお願い致します。


 

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神様のひとりごと「命が尊い理由」

 

皆さま、こんばんは。

 

突然ですが、久しぶりに神様のひとりごとシリーズを投稿します。

 

実はこの度、初めて熊野三山の奥宮・玉置神社に参拝が叶いました。

 

参拝後、熊野方面へ帰るバスの中で、私が神様のひとりごとと呼んでいる、チャネリングのようなものを得ました。

 

急いで書かないと忘れてしまいそうなので、先にその内容を投稿致します。

 

いつもながら、私個人でやっているものなので、審神者による審査はなしです。

 

それでも構わない皆さまのみ、お付き合いくださいませ。

 

 

神様のひとりごとの背景

このところ、環境問題が大きく取り上げられる状況が続いています。

 

吉野、熊野の地域に関しても、残念ながら昔のままではなくなって来たなあと感じる場面がありました。

 

自然が壊れると、災害が増えるのは周知の事実です。

 

古今のニュースなどを見聞きしておりましても、私としては大丈夫かなあと思う気持ちを抱いておりました。

 

ダムの放流で灰色に濁った熊野川を眺め、本来はもっと美しい場所だったはず、と思いをはせていたところ、次のような言葉が来ました。

 

 

命が尊い本当の理由

言葉:

命を壊してはいけない理由は、すべての命が神の最高傑作だからです。

 

無限に命を生み出す能力を持つものは、神のほかにありません。

 

 

解釈と捕捉:

人間には創造ができますが、人間の創作には、しばしば破壊が伴いますね。

 

お料理を作るにしろ、絵を描くにしろ、原材料をどこからか調達して来なければなりません。

 

中でも、規模の大きな創造と破壊の例に挙げられるのは、各種の工事だと思います。

 

道路やダムのような施設は、私たちのとって必要なものですし、実際に人間の生活を豊かにしました。

 

しかし、鳥や魚など他の命が生まれ出てくる場所を狭めてもいます。

 

自然に存在する踏み荒らされない土、汚されない水は、例えるなら打ち出の小槌のようなもの。

 

手つかずの自然はすべて、多様な命を育くむ土壌です。

 

その証拠に、どんなに立派にこしらえても、コンクリートの建物の中からでは、自然に命が発生することはありませんね。

 

 

 自然界の命のルール

言葉:

自然の生み出す多様な命は、実は命自身にとって必要な存在です。

 

あらゆる命は、他の命の糧になる働きもあるからです。

 

 

解釈と捕捉:

人間を含め、かたちある命はすべて、他の命を栄養にして育つようにできているそうです。

 

花でさえも、実は土壌の栄養分を吸収するための競争があるといいます。

 

だから、一種類の植物だけが増殖すると、周囲に生えている他の草木が枯れてしまうこともありますよね。

 

でも、もし他の植物を根絶やしにしてしまったら、花の栄養分になる落ち葉や、適度な日陰をつくる茂みまで無くなってしまいます。

 

生きていくために競争になることはあっても、他の命を破壊し過ぎてしまうと、残った命は生きて行けなくなってしまう、というのがこの言葉の意味ではないでしょうか。

 

つまり最も強い命さえも、自分を支えてくれる命なしでは生きられないということですね。

 

人間も、動物も、植物も、かたちある命は皆、同じ仕組みの中に生きているのだそうです。

 

人間の場合、他の命を過剰に破壊することは、自分たちの食べ物や飲み水を積極的に減らしていることと変わりないのかもしれません。

 

だから、自分たちで気を付けられる範囲では、無駄をしないことが必要になるのでしょう。

 

仮に生きる糧が不足しても、神様の他のものには失われた命を造り出す能力はありませんよね。

 

神様にしかできない仕事がこの世にはあるのだと、人間に伝える言葉だと思います。

 

 

自然は神様のうちにある

言葉:

地上と呼ばれる世界は、神の子宮のような場所です。

 

そこに居るだけで、あらゆる命は守られ、養われ、慈愛を受けています。

 

 

解釈と捕捉:

子宮という言葉は、私が選んだものです。

 

命を柔らかく包み、内側で育むボールのイメージとして受け取ったものですが、他によい日本語が見つかりませんでした。

 

子宮の内側に居る命にとって、自分が今どこに居るのか自覚することは、普通は難しいですね。

 

内側から全体像が見通しにくい点でも、自然とその中で生きる命の関係に似ていると思いました。

 

また、一緒に浮かんだ言葉が「胎蔵」。

 

仏教用語です。

 

胎蔵界とは、大日如来という大いなる生命とその働きを受けて、さまざまな菩薩が相互に協力しながら衆生を救おうとしている世界のことだといいます。

 

(参考:高野山の霊宝館HP)

 

私の記事は、神様のひとりごととして受け取った言葉から出発しています。

 

胎蔵界については、上記の言葉をもらってから、改めて意味を調べなおしました。

 

私の説明と仏教の教義は、完全に同じではないかもしれません。

 

熊野は神仏習合の霊場として続いて来ましたから、その影響を受けた言葉が与えられたのかな、と自分では考えました。

 

私から申せることは、仏教などを通じて世の理をよく学ぼうとした先人が、胎蔵界という言葉を使ったことは、偶然ではないかもしれないということです。

 

現実に生きていると、辛いこと、苦しいことにばかり目が向きがちです。

 

でも、そんな気持ちを抱くこと自体、そもそも人間が自然という神様から離れてしまっている証拠なのかもしれません。

 

玉置山を始めとした大自然の中では、すべての命が無自覚のまま守られ、育まれています。

 

命はすべて、神様の子宮ともいえる自然の中から生まれて来るのですから。

 

 

 

以上、私自身の不勉強も手伝い拙い内容ばかりになってしまいました。

 

山に登ってこんなことを考えている変わった人もいる、という位に受け止めていただければ幸いです。

 

本日も最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました!

 


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供養と慰霊、恐山の不思議な力

皆さま、こんばんは。


本日は恐山の参拝報告の続きをお送りいたします。


少し怪しい話もありますので、不思議な話が好きという皆様のみ、お付き合いいただければ幸いです。

 

死者を弔い続ける恐山

実を申しますと、今回の恐山への参拝は、なぜ行こうと思ったのか自分でもはっきり分かっていませんでした。

 

閉山が近いと聞いて、突然行かなくては!と感じたのです。

 

実際に現地を訪れてみて分かったのは、私はこの地に慰霊に来たかったのだということでした。


というのも、私は今年の夏に、京都の千本閻魔堂で鐘楼迎えの様子を拝見したのですね。

 

千本閻魔堂では、東日本大震災の無縁仏を供養しておられました。

 

この時の体験は、以前の記事でも紹介申し上げた通りです。

 

震災から7年が経つ今になって、あまりに凄惨な風景を感じたことが、今回の恐山詣りの原動力になったように思います。

 

実際にお参りしてみて知ったのですが、現在、恐山には東日本大震災の被災者を供養するため、新しい地蔵堂が建てられていました。

 

 

今年は七回忌の御法要も行われたと言いますから、とてもよいタイミングで慰霊の旅が実現したと思います。

 

なお、この地蔵堂は、賽の河原の近く、極楽浜という水辺に置かれておりました。

 

未曽有の大災害に対する鎮魂と慰霊は、まだまだ必要かと存じますので、興味のある方は一度お参りしてみてはと思います。
 

恐山が慰霊の地である理由

ここからはいつも通り、完全に私の主観による話になりますから、読み物と思って受け止めていただければ幸いですよ。

 

恐山を訪れた当初の記憶に、話を戻します。

 

 

宇曽利湖のほとりに立つ恐山バス停に降りてみますと、土地の感じがなぜか幼稚園や公園の遊び場に非常に似ているのです。


というのも、恐山で私が真っ先に感じたのは、小学生以下くらいの子供たちの気配でした。

 

それも、集団で遊びまわっている気配です。

 

日本三大霊場と呼ばれる場所に来たのに、幼稚園に迷い込んでしまったような、不思議な感じがしたんですね。


なぜ、このような土地が生まれたのか。

 

私の感想を率直に申せば、雪室のように霊気が上空を覆っていて、恐山の土地を閉じた空間にしている印象がありました。

 

土地を閉ざしている原因はよく分かりませんでしたが、硫黄ガスと関係があるのかもしれません。

 

もし恐山が活火山ではなくて、ガスに淀む環境でなかったなら、一般的な龍神の霊場になっていたのではないでしょうか。


でも、実際の恐山はガスと温泉の湿気が常に漂う場所ですよね。

 

滅菌室のような清浄さのある土地ではないけれど、だからこそ人間が居られる環境なのでしょう。

 

恐山を参拝する方は、亡くなったお子さんに会いたいご遺族が多いとうかがいました。

 

故人を偲ぶ人間もさることながら、亡くなられた方たちも集まって来て、皆で一緒の時間を過ごせる場所という感じがしました。

 

しばらく和気あいあいと過ごし、子供同士なら仲良しグループをつくって遊び、満足したらあの世へ旅立つ。

 

そんな役割のある土地なのかもしれないな、というのが第一印象でした。

 

 

生者から死者への贈り物

 

和気あいあいと一緒の時間を過ごすことが慰霊になると考えた時、なぜこの地にイタコさんが必要だったのか、少し分かった気がしました。

 

こういうと申し訳ない部分もありますが、イタコさんの口寄せが正確にお目当ての故人を降ろせているのか、疑問視する意見があることは私も承知しております。

 

(残念ながら、私は今回の参拝でイタコさんにお会いしておりませんので、その点もご考慮くださいね。)


でも、ここで私が言いたい「故人と過ごす時間」というのは、イタコさんを介して会話している時間だけを言っているのではないんですね。


イタコさんにお願いして、直接的な会話が成り立つのであれば、もちろん故人とつながる方法としては最高でしょう。

 

しかし、それだけが一緒に過ごす手段にはならないと私は感じるようになりました。

 

ここで注目したいのは、イタコさんの口寄せを希望して、恐山にやって来ること自体が、亡くなった方への愛情表現になっているのではないか、ということです。

 

今では全国から参拝者の絶えない恐山ですから、すべての魂が死後、ここにやって来るのかは私にも分かりません。

 

でも、わざわざ本州の最北端に飛んでまで、故人の声が聞きたいという遺族の想いが伝わるとしたら、どうでしょう。

 

亡くなられた方にとって、これほどの慰めはないと思うんですね。

 

成仏に必要なのは愛と感動

恐山で目にした光景が教えてくれたこと。

 

それは、慰霊に必要なものは真心なのかもしれないという気付きでした。

 

もちろん私は霊能者ではありませんから、除霊や浄霊のような成仏のお手伝いをすることはない立場です。

 

でも、私を含むほとんどの人間は、特別な能力がないにも関わらず、お仏壇を置いたり、お墓参りをして、慰霊と供養に参加しますよね。

 

その意味はなんだろう、という疑問の答えが恐山にはあった気がします。

 

それは、亡くなった方に会いたい気持ち、伝えられなかった愛情などを、お墓に持って行ってお供えすることが、普通の人間にできる一番の御供養なのかもしれない、ということでした。

 

これも私の印象ではありますが、霊魂が浄化を通じて成仏する瞬間には、じんわりと温かいエネルギーが噴き出すと思っているんですね。

 

生きている人間でいうと、感謝の涙、感動の涙。

 

それに伴う感情が、ほとばしる感覚です。

 

楽しい、嬉しい、ありがたい――故人の魂に、そういう気持ちを味わってもらうことが、慰霊の本質なのかもしれません。

 

だとすると、イタコさんを通してではなくても、家族から死後の魂に語りかけてあげることには、大きな意味があるのではないでしょうか。


もちろん、あまりにも無念な最後を遂げたために、怒り狂ったままである霊魂に対しては、これだけでは通用しないでしょう。

 

本気で腹を立てている人には、誰の言葉であっても届かなくなってしまうのと原理は一緒です。

 

怒り心頭という状態の魂に向かって、変にお説教したり、強い態度に出たとしても、ますます怒らせるかもしれませんし、普通の人間なら近寄らないのが一番ですけれども。


自分の手の届く範囲にある家族、友人などの慰霊であれば、まず温かい気持ちで接してあげること。


それが実は一番のポイントではないかというのが今、私の感じることですよ。

 

恐山のちょっと不思議な話

 

最後に余談ですが、恐山でちょっと不思議な体験をしました。

 

霊場では良くあることなのですが、私にとって恐山は方角が分かりにくくなる土地でした。

 

活火山の地域ですから、磁場などの状況が特殊なのかもしれません。

 

それから正直に申しますと、帰ることを忘れてしまう土地のような気もしました。

 

これは初めての経験だったのですが、時間の間隔がとても狂ってしまって、お恥ずかしながらバスを逃してしまったほどでした。

 

まあ、私自身のミスに過ぎないと言われれば、それまでの話ですけれども。

 

私としては故人と遺族、それぞれの「行かないでほしい」という想念が染みついていることと、関係あるのかなあと思った次第です。

 

それとも、故人の痛みを和らげる土地の働きが、どこかモルヒネや麻酔の効き目に近いのか。

 

他者の苦しみを代わりに引き受けてくださるという、地蔵菩薩の霊場らしい出来事ではありました。

 

恐山は怖いというけれど

なお、私自身は死者の霊に対してさほど敏感な方ではありません。

 

恐山は怖い場所かと問われたとしても、ここに書いた程度の経験が全てだったとしか申せません。

 

私なりに怖い経験を避けるコツがあるとすれば、お堂などで手を合わせる時に、目の前の御本尊に集中することではないかと思います。

 

土地に落ちているものではなくて、今、自分がお参りしている神仏にチューニングを合わせておくということですね。


なぜなら、本当に霊が居る場所=行ってはいけない場所だとしたら、恐山はおろか通勤や通学すらできなくなるのではないか、というのが私の考え方なんですね。

 

どこに行っても、色々なものが居ることに変わりはないと思うのですけれど、その中の誰と親しくなるかという問題も、あるのではないでしょうか。


ですから恐山に限らず、過剰に怖いと思わない方が良いのかもしれません。

 

私自身は、目の前のお地蔵様を敬うつもりで、亡き人を助けてあげてくださいという気持ちを大事にお参り致しました。

 

結果、何事もなく済んでおります。

 

拙いことしか申せずに恐縮ですが、何かの参考になりましたら幸いです。

 

 

以上、恐山で感じた慰霊と供養のお話でした。



本日も最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました!

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