・レパルス
(HMS Repulse) は[3][4]、イギリス海軍の巡洋戦艦[注釈 1]。 日本語ではリパルスと表記することもある[6][注釈 2]。 レナウン級の2番艦である[注釈 3][注釈 4]。 Repulseとは「撃退、反撃」の意[注釈 5]。第一次世界大戦中の1916年(大正5年)6月に就役したが[注釈 2]、活躍する機会はなかった[8]。海軍休日時代、イギリス海軍の巡洋戦艦3隻(フッド[10]、レナウン、レパルス)で巡洋戦艦戦隊(英語版)を編成していた。
1941年(昭和16年)5月下旬、ライン演習作戦により大西洋に進出してきた戦艦ビスマルク (Bismarck) を追跡(英語版)したが、燃料不足で交戦できなかった[11][12]。 東洋艦隊に所属してシンガポールに進出後の12月10日[13][14]、マレー沖海戦で日本海軍の陸上攻撃機の空襲により[15]、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) とともに撃沈された[16][注釈 6]。
・プリンス・オブ・ウェールズ (英語: HMS Prince of Wales) は、イギリス海軍の戦艦[注釈 1]。 キング・ジョージ5世級の2番艦[2][注釈 2]。艦名プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)は、英国の王太子に相当する儀礼称号である。
・工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 - 1979年(昭和54年)1月12日)は、大日本帝国海軍軍人。1942年3月の駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐。
経歴
山形県東置賜郡屋代村(現・高畠町大字竹森)で、農家の工藤七郎兵衛、きんの次男として生まれた。山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を経て、1920年、海軍兵学校に入学(第51期[1])。同期には大井篤や実松譲、豊田隈雄、小園安名、有泉龍之助などがいる。八八艦隊構想のため、海軍兵学校は第50期から第52期までは入学定員が300名に拡大されていた。1923年、海軍兵学校を卒業。その後オーストラリア・ニュージーランドなどの南洋方面遠洋航海に出発するが、その練習艦のうちの一つである磐手の艦長にのちに海軍大臣、総理大臣を経験する米内光政がいた。
遠洋航海終了後に、軽巡洋艦「夕張」に配属された。1924年10月に戦艦「長門」に転属、同年12月に海軍少尉に任官。以降、水雷学校、砲術学校の学生を経て、1926年に海軍中尉、第二号掃海艇乗り組みとなる。1927年、駆逐艦「椿」に転属、1929年、駆逐艦「旗風」の航海長となり、カムチャツカ方面の警備を担当。1930年に軽巡「多摩」、翌年に水雷学校高等科で学ぶ。1932年に水雷学校を卒業し、以後、駆逐艦「桃」水雷長、重巡洋艦「鳥海」分隊長、駆逐艦「狭霧」水雷長、軽巡「球磨」水雷長、軽巡「多摩」水雷長、軽巡「五十鈴」水雷長を歴任する。
1937年、海軍少佐に昇進、翌年7月1日に駆逐艦「太刀風」艦長となった[1]。同年12月1日に艦長を交代し[1]、1940年陸上勤務となり、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を務めた。同年11月1日に駆逐艦「雷」の艦長となり[1]、そのまま太平洋戦争を迎えた。
太平洋戦争
工藤が乗務する「雷」は第六駆逐隊に属し、太平洋戦争開戦時には僚艦「電」とともに第二遣支艦隊に属し香港の戦いにて海上封鎖を行った。その後、戦艦「榛名」を旗艦とする南方部隊本隊東方支援隊に入り、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加した[1]。
1942年3月1日のスラバヤ沖海戦では友軍と共同してイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈するなどの戦果を挙げる[1]。翌3月2日、航行中の「雷」は漂流者を発見。彼らは前日の掃討戦で沈没した「エンカウンター」等の乗組員であったが、艦長の工藤は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示した。敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険を冒しながらも3時間に亘り行われた救護活動の結果、「雷」は乗組員に倍する422名を救助した。工藤は救助した英士官に英語で「あなた方は日本海軍の名誉ある賓客であり、非常に勇敢に戦った」とスピーチしたという[2][3][4][5][6][7]。翌日、バンジャルマシンに停泊中のオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に捕虜を引き渡した[8]。
その後、雷はフィリピン部隊に編入され、さらに第一艦隊に編入し内地帰還を命ぜられた。5月20日には第五艦隊の指揮下に入り、アッツ・キスカ攻略作戦に参加した[8]。
工藤は1942年8月13日に駆逐艦「響」艦長に就任[1]、11月に海軍中佐に昇進した。「響」では改装空母「大鷹」の護衛にあたり、横須賀とトラック島間を3往復した[1]。12月に工藤は海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務となり、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。
戦後
戦後は故郷の山形で過ごしていた。妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移ったが、1979年に胃癌のため没した。臨終前にクラスの大井が工藤のもとに駆けつけたが、大井に「貴様はよろしくやっているみたいだな。俺は独活の大木だったよ」と答え、その後に息を引き取ったという。工藤は同市の薬林寺の墓に眠っている[5]。
上記敵兵救出の事実は、戦時中の国民世論の反発を考慮して公表されず[4]、工藤自身もこのことを親族にも語らなかったという[9]。
後述するとおり、遺族がこの逸話を知ったのは、助けられたイギリス海軍士官のうちの1人であったサムエル・フォール元海軍中尉によってである[10]。更に2006年に惠隆之介が『敵兵を救助せよ!』を出版したことで、世間にも知られるようになった[9]。
人物
身長185cm、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという[11]。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった[12]。戦後は海兵のクラス会には出席することもなく、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。
エピソード
高松宮宣仁親王が「長門」に乗務の時、階段で転んで足に怪我を負い、艦内で草履を履くことになった。時宮の1人は大正天皇のお見舞いに行くことになったが、「さすがに草履というわけにはいかないのでどうしようか」と周囲に相談したところ、宮の心中を察した少尉の1人が「私のクラスに大足の大男がいます。奴の靴を借りましょう」と靴を借りてきた。それを宮が履いてみたところ包帯で巻かれていた右足はピッタシだったが左足はダブダブだった。「仕方ないので左は自分の靴を履いていくことにする」と左右全く大きさの違う靴を履いて天皇をお見舞いした。「上手く行った。御殿の人間にも侍従にも全くバレなかった」と宮は大喜びしたという。その少尉は「それでは奴に酒をおごらないといけませんな。奴は酒好きですから」と言ったので3人で宴会となり、後に同期全員で大宴会となった。最後は「殿下のツケでお願いします」となり宮が酒代すべてを支払うことになったというエピソードがある。この少尉の言う「大足の大男」で「酒好き」の「奴」こそ、少尉時代の工藤であった[13]。
香港の戦いで敵の哨戒艇の追撃中に陸上砲台の射程内に入ってしまい、砲撃を受けた「雷」の周囲には水柱が次々と上がったが、工藤は普段と全く変わらぬ素振りで部下に操艦を任せていた。これを見た乗員は皆、「この艦は沈まない」と思ったという[2]。
雷沈没当日の夜、雷に乗艦していた時の部下たちが「艦長!」「艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていった、という夢を見た。工藤ははっと飛び起き、雷に異変が起きたことを察知したという。
上述の「雷」に救助された砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。フォール卿は1987年にはアメリカ海軍の機関誌「プロシーディングス」の新年号に「武士道(Chivalry)」と題する工藤艦長を讃えた7ページにわたる投稿文を掲載した他、天皇訪問を控えてイギリスでの反日感情が高まりかけていた1998年にもタイムズ紙に「雷」の敵兵救助を紹介する投稿文を送って反日感情緩和を図った[7]。フォール卿が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかし滞在中にそれらを実現できなかったため、惠隆之介に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォール卿へ報告され、翌2005年1月に恵は墓参等を代理して行った。
その後「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、駐日イギリス大使館附海軍武官や護衛艦「いかづち」乗員らの付き添いのもと、2008年12月7日に66年の時間を経て埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。この時行われた記者会見で、フォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っている[5][10][7]。このエピソードは2007年4月19日、フジテレビのバラエティー番組奇跡体験!アンビリバボーにて「誰も知らない65年前の奇跡」として再現ドラマを交えて紹介された。
工藤による敵兵救助行為をたたえるべく、出身地の高畠町の有志らによって顕彰碑建立が計画され、2010年から浜田広介記念館前に設置されている[10][14]。
関連項目
上村彦之丞 - 装甲巡洋艦「出雲」に乗艦して参加した蔚山沖海戦において、撃沈した装甲巡洋艦「リューリク」の敵兵を救助している。これに先立つ常陸丸事件の際には陸軍徴傭運送船喪失の責任を巡って新聞で中傷され自宅に暴徒が押し寄せるなどしていた上村にとって「リューリク」は恨みの深い相手であったが、その戦いぶりに感銘を受け救助を命じた。工藤の幼少期、この出来事を題材にした『上村将軍』と呼ばれる歌を祖母が子守唄代わりに聞かせていたとされている[15]。
・マレー沖海戦
(マレーおきかいせん)は、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)中の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘である[1]。日本海軍航空隊がイギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例である[2][注 1]。
・「海の武士道」を貫いた男——敵兵に〝師〟と仰がれたある日本兵の物語
2024年01月18日
人生
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戦艦「大和」をはじめ数多くの戦艦を送り出してきた軍港・呉。ここに紹介する駆逐艦「雷(いかづち)」も、そんな呉から出撃した軍艦の一つです。現代の日本人でこの駆逐艦「雷」の艦長を務めた工藤俊作の名を知る人はそう多くはないでしょう。工藤は船が沈み海に漂流していた当時敵対国だったイギリス軍の兵士を救助、手厚く介抱し、戦後はその生存者によって「師」と仰がれた人物です。「海の武士道」ともいえる彼の生き様は、現代を生きる私たちに勇気と感動を与えてくれます。その知られざる偉人に光を当てたジャーナリスト・惠隆之介さんのお話をご紹介します。
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危険を顧みず敵兵を救助した駆逐艦艦長
――大東亜戦争で駆逐艦「雷」の艦長だった工藤俊作中佐の顕彰に力を注がれていますね。
〈惠〉
工藤俊作という名前を、おそらくほとんどの日本人は知らないと思います。昭和17年のインドネシア・スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス艦船の漂流者422名を救助した帝国海軍の中佐です。小さな駆逐艦に、乗組員220人の2倍近い将兵を乗艦させた上に、敵兵である彼らをゲストとして厚くもてなしました。
この事実は、最近まで誰も知りませんでした。私は5年間にわたり数少ない資料や生存者の証言を手掛かりに工藤中佐の足跡、人物像を研究してきましたが、調べれば調べるほどその個性とスケールの大きさに驚かされました。
戦闘の最中、危険を顧みず多くの敵兵の救助を決断した工藤俊作という偉大な人物を私は同じ日本人として誇りに思いますし、人々に知らせずにはいられないのです。
――研究を始められたきっかけは?
〈惠〉
平成15年6月、NHKラジオの『ワールドリポート』を聴いていて、私は身震いするほどの感動を覚えたのです。それはロンドン発のリポートでした。リポーターは「このような美談が、なぜ日本で報道されなかったのだろうか」と興奮した口ぶりで語っていました。番組に情報を提供したのは元英国海軍大尉で、後に駐スウェーデン大使などを歴任したサムエル・フォールという元外交官でした。
――工藤中佐に命を救われた一人だったのですね。
〈惠〉
はい。番組はフォール卿の次のような話を報じていました。
その時、400人以上の将兵たちは24時間近くジャワ海をボートや木板に乗って漂流しながら、皆すでに生存の限界に達していたというのです。中には軍医から配られた自決用の劇薬を服用しようとする者もいました。
そういう時、目の前に突然駆逐艦「雷」が現れる。これを見たフォール卿は「日本人は野蛮だ」という先入観から、機銃掃射を受けて殺されると覚悟を決めたといいます。ところが、「雷」は直ちに救助活動に入り、終日をかけて全員を救助した。
フォール卿がさらに感動したのはこの後です。重油と汚物にまみれ、弱り切った将兵を帝国海軍の水兵たちが抱えながら服を脱がせ、汚れを丁寧に洗い流し、自分たちの被服や貴重な食料を提供し、友軍以上に厚遇しました。さらに工藤中佐が英国海軍士官を甲板に集めて敬礼し、「私は英国海軍を尊敬している。本日、貴官たちは帝国海軍の名誉あるゲストである」と英語でスピーチしたというのです。
――感動的なお話です。
〈惠〉
フォール卿も「奇跡が起こった」「夢を見ているのではないか」と思って自分の腕をつねったと語っていました。そして最後に工藤中佐のこの行為を「日本武士道の実践」と絶賛していたのです。
戦後生まれの私は、大東亜戦争中、日本は悪いことばかりしたという自虐史観の中で育ちました。海上自衛隊幹部候補生時代も信じたくはありませんでしたが、心のどこかに「もしかしたら」という疑念があったのです。それだけにこの証言を聞いて言葉にならないほど感動を覚えました。「ああ、自分が思っていたとおり帝国海軍はやはり偉大だったのだ。これぞまさしく真の武士道だ」と。
文筆活動を通して、後世のためにもこの史実と工藤中佐のことを書き残さねばならないという使命感が、この時湧いてきたのです。
乗組員の一体感をもたらした工藤中佐の人格力
――駆逐艦「雷」ではどのような艦長として見られていたのですか。
〈惠〉
周囲から「大仏」と呼ばれるくらい、やはり普段はおっとりとして身辺を飾ろうとしなかったようです。大東亜戦争の末期の緊迫した頃でも、工藤中佐の周りはほのぼのとしたファミリー的な雰囲気が漂っていて気が休まったという旧部下の証言も聞きました。
その指揮の仕方は駆逐艦長としてはかなり型破りで、着任の訓辞も「本日より本艦は私的制裁を禁止する。特に鉄拳制裁は厳禁する」というものでした。それに日頃から士官、下士官に対し、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱ってはならない」
と口癖のように言っていたといいますね。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違って報告した時も「その注意力は立派だ」と逆に誉めたといいますから。
――艦を率いるには、優しさだけでなく厳しさも必要ではないのですか。
〈惠〉
工藤中佐について調べるに当たって、私が疑問だったのは「もしかしたら戦闘意欲が乏しかったのでは」ということでした。しかし工藤中佐は戦闘指揮官としてもかなり優秀だったのです。彼は艦長時代、敵潜水艦から合計5回の雷撃を受けていますが、全部回避して生還し、うち3回は相手に反撃して撃沈しています。それだけ卓越した戦闘指揮能力をもったリーダーだったのです。
武士道というと強さばかりが強調されがちですが、工藤中佐は強さだけでなく、それと同じくらいの深い温情を持っていたのではないでしょうか。
こういう逸話がありましてね。海軍艦船では士官食堂と兵員食堂とでは食事の内容がかなり違っていました。もともとサンマ、イワシなどの光り物が好きな工藤中佐は、士官食堂で出たエビや肉料理を皿ごと持って、草履をパタパタさせながら兵員食堂にやってきて
「おーい、誰か交換せんか」
と言ったというのです。艦長といったら水兵たちにとっては雲の上の存在でありましたから、このような型破りの行為は他の艦船ではありえない話でした。
このほか士官兵の区別なく酒を酌み交わしたり、兵の家庭が困窮している事情を耳にすると、下士官に命じて、その兵が家庭に送る送金袋にそうっと、自分の俸給の一部を差し入れたという話も残っております。工藤中佐自身、農民の出ですから、底辺の人間の気持ちがよく分かったのでしょうね。
工藤中佐着任後2か月もすると「雷」の乗組員は、中佐に感化され、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになります。艦内の士気は日に日に高まり、乗組員の技量も最高度に達していったのです。
――英兵の救助活動で、その総合戦力が見事に発揮されたのですね。
〈惠〉
まさにそのとおりです。敵潜水艦が行動する海面で、長時間艦を止め救助に当たるのは、この上ない危険な行為です。しかも救助する対象は敵兵です。それを決断した工藤中佐も立派ですが、その英断を信じ、危険を承知で救出活動に当たった「雷」乗員の努力にも心打たれずにはいられません。
救出時には様々な逸話があります。浮遊木材にしがみついていた重傷者が最後の力を振り絞って艦まで泳ぎ着き、救助用の竹竿に掴まると同時に安心したように水面下に沈んでいくという光景も多く見られました。甲板上の乗組員たちは涙声になって「頑張れ、頑張れ」という声援を送る。
そのうちに、これを見かねた水兵が独断で海中に飛び込み、立ち泳ぎをしながら重傷者の体にロープを巻き付ける。続いて2人の水兵が飛び込んで救助に当たる……。そうなるともう敵も味方もありません。国籍を超えた海軍独特の仲間意識がそこに芽生えるのです。
工藤艦長はさらに遥か遠方に漂流するたった1人の敵漂流者を発見しても決して見捨てず、乗組員総出で救助した。そして救助した彼らに自分たちの貴重な飲み水や食料、衣類を与えて手厚くもてなす。これを武士道精神と言わずして何というのでしょうか。
(本記事は『致知』2009年2月号 特集「富国有徳への道」より一部を抜粋・編集したものです)
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◇惠 隆之介(めぐみ・りゅうのすけ)
昭和29年沖縄コザ市生まれ。53年防衛大学校卒業後、海上自衛隊幹部候補生に。世界一周遠洋航海を経て護衛艦隊勤務。57年退官(二等海尉)。その後、琉球銀行勤務、米国国務省プログラムにて米国で国際金融等研修。著書に『敵兵を救助せよ!』(草思社)『海の武士道』(産経新聞出版)『誰も書かなかった沖縄』(PHP研究所)など。