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私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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レビュー一覧             

  *1~5章の超あらすじは参照

「暦のしずく」(9)終章「獄門」 90(8/24)~91(8/31)
朝日新聞be(土曜版)
作 沢木耕太郎  画 茂本ヒデキチ


感想
終章が始まって二回で、終わってしまった。
市中引き廻しの上、小塚原の刑場に晒された文耕の首。
引き廻しの最中、文耕の脛にある筈の火傷痕がないことから、文耕さんじゃないと騒いだ信太。
文耕処刑ののち、俵屋で田沼意次と語らった後、その会話が誰かに聞かせるものだったと覚り、文耕の生存を確信する里見。
その場所は、かつて立者百姓の喜四郎と定次郎を匿った所。

文耕の生存、などという無為な希望など読者は求めていない。
そもそも文耕は、金森藩に苦しめられる百姓たちに義憤を感じて活動を始めた。
そんな者が、例えば罪人だったとしても、自分の身代わりになって死んで行く者に対し、平気で居られるだろうか。
代わりに死んだ者は、多分残された家族に便宜が図られるとかの条件を飲んだのだろう。普通は処刑されたとしても、今回の百姓の様に、名を残して死んで行ける。身代わりとなった者は、それさえ叶わなかった。こんな事を文耕が容認する筈がない。

この作家は「春に散る」で男の生き様を骨太に描いており、今回の様な結末を選んだのが残念すぎる。
せっかくの物語が「台なし」になってしまった。
全体あらすじをまとめようと思ったが、その気も失せた。



あらすじ
終章「獄門」
一 90
十二月二十五日、金森騒動における判決が出された。
藩主金森頼への刑罰は領地召し上げの上、盛岡南部家へ永預けとなった。また家老以下家臣が遠島や叱責を受けた。これらは「お家断絶」を意味したが、死に至る刑までは科されなかった。
立者百姓への申し渡しは二十六日となり、桁違いに厳しかった。
 切立村(きったてむら) 百姓 喜四郎     獄門
 前谷(まえだに)村   百姓 定次郎       獄門
 歩岐島(ほきじま)村  百姓 四郎左衛門 獄門
 寒水(かのみず)村   百姓 由蔵          獄門
 東気良(ひがしけら)村 百姓 善右衛門  死罪
 東気良村        百姓 長助    死罪
 那比(なび)村     百姓 藤吉    死罪
 歩岐島村        百姓 治右衛門  死罪
 二日町(ふつかまち)村 百姓 伝兵衛   死罪
 剣(つるぎ)村     百姓 藤次郎   死罪
 市島(いちしま)村   百姓 孫兵衛   死罪
 向鷲見(むかいずみ)村 百姓 弥十郎   死罪
 東俣(ひがしまた)村  百姓 太郎右衛門 死罪
 向鷲見村        百姓 吉右衛門  死罪
この中には喜四郎の様に獄死した者もいる。
生きて獄門となった三名は斬首された後、郡上まで首を運ばれ、獄門台に晒された。それを受けた縁者は、本懐を遂げたことを喜び、意地を通したという。

だがこれほどの犠牲を出しても、百姓たちの望みは叶えられなかった。

馬場文耕に関わる者らへの判決は十二月二十九日に出た。
 新乗物町    貸本屋 藤兵衛  江戸払
 新乗物町    貸本屋 藤吉   所払
 神田久右衛門町 貸本屋 次右衛門 所払
 大伝馬町二丁目 貸本屋 十兵衛  所払
 通二丁目    貸本屋 与右衛門 所払
 通三丁目    貸本屋 喜六   所払
 橘町三丁目   貸本屋 七右衛門 所払
 伊勢町     貸本屋 源蔵   所払
 下槙町     貸本屋 栄蔵   軽追放
 浅草平右衛門町     長兵衛  過料三貫文
文耕の弟子源吉、竹内文長には中追放が宣せられた。

そして文耕には町中引き廻し後、浅草に於いて獄門が下された。
江戸中引き廻しとなり、後ろ手に縛られて馬に乗せられた文耕。
この事を前日知らされた十蔵長屋の住人が、並んで見守る。
馬上にいる文耕の顔が見えた時、胸を突かれた里見。
げっそりと頬がこけ、すっかり面変わりしていた。


その馬が近づいた時、信太が「文耕さん!」と叫んだ。
お清が慌てて制する。目を向けた文耕には何の感情もなかった。
馬が過ぎるとまた信太が叫ぶ。「あれは文耕さんじゃねぇ!」
叱るお清に「文耕さんだったら、くるぶしの上に梅干しがあるはずだ!」文耕から聞いた、子供の時湯たんぽで作った火傷痕。
里見にはその言葉の意味が分からなかった。
慕っていた人がいなくなるのを認めたくない思いなのか。


二 91
夕刻、小塚原の刑場に向かった里見樹一郎。文耕に最後の別れを告げるため。里見がそこに着いてみると、新しい獄門台に、文耕の首が据えられていた。遠巻きにして眺める見物人。
その台の前に胡坐をかいた男。それは破門された弟子の伝吉。
横に大徳利を置き、直に酒を飲んでいた。
「なんだって・・・あたしを・・・破門になんか・・・」
そこに黒い羽織の粋筋の女が。好奇の眼を無視し手を合わせる。
伝吉がお六と気付き、声を掛ける。
「師匠はあたしを破門にしたまま、死んじまったんです」
なおも愚痴る伝吉に、文耕の気持ちを伝えるお六。万一のことを考えて破門にしたと源吉に言っていたのを聞いていた。
ますます様子がおかしくなった伝吉に、見張りが来るから近くの店に行きましょう、と促したお六。
立ち去る二人を見送り、文耕に心で詫びて踵を返した里見。
この伝吉は、やがて講釈の名人「森川馬谷」として有名になる。
だが自分は文耕の弟子だと言い張り、酒が入ると泣いて高座に穴を空けることが度々だった。

それを関根黙庵が「講談落語今昔譚」で書いている。

明けて宝暦九年。吉原に向かう里見。田沼意次に呼ばれ、俵屋で会うことになっていた。なせ吉原なのか、理解に苦しむ里見。
十蔵長屋での里見は、文耕の朝餉の支度で生計を立てていたお清のために、文耕の部屋に移り、代役を務めていた。
俵屋に着くと主人の小三郎が自ら案内。だが二階ではなく、億の部屋に続く板戸を開けた。
すると、そこに田沼意次がいた。
「今日は馬場殿の月命日」里見が言うと、今気が付いた様に
「おお、そうであったな」と返す。そのための今日では?
居を移した事を訊かれた。そのため里見への伝達が遅れたとか。
先の顛末を話す里見。「それはよいことをされた」

その夜は酒肴の類は一切出ず、拍子抜けの気分で辞した里見。
帰路でその時の話を思い出す。改めて田沼への仕官の勧めと、例によっての断り。その話の中で意次が強く反応したのが、長屋のお清と信太母子の事。そこまで考えが及んだ時、歩みを停めた。
「そうか!」そして、不意に哄笑した。
田沼が俵屋で会ったのは、誰かにこの話を訊かせようとした。
それを更に里見樹一郎に知らせようとした・・・


歩き始めると里見は空に向かって言った。
「信太、喜べ!」そして続けた。

「馬場殿は生きておられるぞ」
(了)