新聞小説「暦のしずく」(1)第一章「采女ケ原」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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新聞小説「暦のしずく」(1)第一章「采女ケ原」

5(10/29)~16(1/28)朝日新聞be(土曜版)連載
作 沢木耕太郎  画 茂本ヒデキチ
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感想
前回、序章として馬場文耕を巡る時代背景が紹介され、実際の物語としては本章から始まる。

太平記に、独自の解釈を加えて講釈を行う馬場文耕。
小屋を仕切る市兵衛の好意で仕事が続けられる。小屋からの帰路で、旗本を撃退した時に居合わせた若い浪人、里見樹一郎と飲むことになる文耕。師匠だった園木覚郎の話を始める。

物語の導入としては手慣れた感じで、好感が持てる。沢木耕太郎の時代モノは初めてらしいが、さほどの違和感はない。
まだ文耕の人物像までは固まっていないが、里見との会話から行くと園木の下で修業したものの、極意を極めたところまでは行っていない。むしろ里見の方が「良く分かってらっしゃる」(笑)
同じ十蔵長屋の住人だというから、今後里見もレギュラー的位置付けか。

忙しい人は「超あらすじ」
内容確認したい人は「あらすじ」をどーぞ

超あらすじ
第一章 采女ケ原 一 ~ 十二

宝暦七年二月。采女ケ原の小屋で講釈を演じた馬場文耕
小屋を仕切る藤乃屋市兵衛の好意で仕事を得ており、今日も席料の取り分をもらう。文耕の講釈に惚れ込んでいる市兵衛。

隣からお茶を運んで来た水茶屋「蓬莱屋」の娘 お芳。
市兵衛の息子 信吉が、日本橋へ奉公に出ている。
お芳から、信吉が奉公先の娘に好かれているという噂話を聞くが、否定する市兵衛。

小屋を出て、長屋のある松島町に向かう文耕は、その日の演目「太平記」を思い出す。単に読むのではなく、自らで解釈する。
理屈っぽいと言われるが、市兵衛はそれを気に入っている。
大名屋敷の通りで、編笠をかぶった武士が道を遮った。

用事がおありか、と訊ねると「ある」
兄 山形辰之進が文耕のせいで悶死したという。文耕が三年前に書いた「世間御旗本容気(かたぎ)」の中での、九官鳥を業者から買い、その転売に失敗した浪人の話。

それは実話であり、噂に負けて当人の兄は悶死。

「鎧谷壮伍」と名乗ったその弟は運よく養子の口を得たが、実家はお取りつぶしになったという。
「仇を討つ」と編笠を放り投げる鎧谷。

刀を抜いた相手に丸腰の文耕は、何もない両手を出し、あたかも刀がある様、正眼に構えた。身動き出来ず、汗が滲む鎧谷。
鎧谷が刀を払った時、凄まじい速さでその脇を駆け抜ける文耕。
文耕の手には抜き身の脇差が。なおも刀を振りかぶる鎧谷。
「そこまで!」と浪人風の若者が出て来て止めた。
もう勝負はついていると言う。鎧谷の袖が斬られていた。すれ違いざまに相手の脇差を抜いて行った早業。無念そうに去る鎧谷。

歩く文耕の横に並ぶ若い浪人。見事な腕に流派はいずこ?と聞く。無尽流と言い、園木覚郎の名を出した文耕。
「近世畸人伝」にある、園木の記述。
先ほどの文耕を「無刀の舞い」と評した事に感心する文耕。
また、あの瞬時の動きを克明に覚えている事から、彼も尋常な使い手ではないだろう。
「なぜだ」とさりげなく訊ねる文耕。

なぜ私をつけたのかと聞くと、実は同じ松島町で十蔵店に住んでいるという。長屋のかみさん連中の噂を思い出した文耕。長屋で文耕の噂を聞いて出向いたとのこと。小粒銀もこの男の仕業。
返そうとする金を受け取らないので、これで飲もうという話に。
いきつけの「吉の字屋」で給仕のお兼に酒と肴を注文した文耕。

改めて名を訊くと里見樹一郎と名乗った。手酌で飲む二人。
里見の歳は二十七。園木のことが聞きたいと言う里見。
長くなるが、里見には話したくなった。

里見と同年代の頃、備前岡山の城下で道場に通っていたが、園木の噂を聞いて弟子入りした。だが園木は百姓の老爺のような風貌。落胆して数日で辞去しようとしたが、思わぬ事態に遭遇。
藩の権勢者の使いが来て、当家の松を譲って欲しいと頼むが断った園木。翌日も同様。その松を刀で斬り倒してしまった園木。
その時の松と園木の位置関係、日射の状況などを聞いた里見は、
園木先生は、硬い木の背から刃を入れたと言った。
長年の謎が解けて声を上げる文耕。

園木覚郎は、松の木の背骨を斬ったのだと言う里見。
一体何者か、との疑念が湧く。それに構わず先を聞く里見。
翌日それを知った使者は驚愕して引き返した。
数日して荒んだ顔の浪人が訪れ、指南にかこつけて果し合いをけしかけた。丸腰の園木は両の拳を出し、幻の刀を正眼に構えた。
「先ほど馬場殿がしたように、ですね」と里見。
だが違ったのは、園木が脇差で相手の腹を深く刺したこと。
骸を送り返された屋敷側だが、その後何も起こらず。
園木は町で位牌を買い求め、仏壇に安置すると読経を始めた。
戒名のない位牌がこれで十三体。弟子入りした文耕。

だが始まったのは、世話を受けている百姓夫婦を手伝う農作業。
鍬を振るい、犂を牽き、鎌で収穫した。夜は豊富な蔵書を読む。
一切の剣の手ほどきがないまま二年が過ぎ、修行は?と訊くと「もう済んでいます」促されて木刀を振ると、あまりの軽さ。
二年間の農作業以上の修行はなかった。
それ以後は真剣相手に危機を回避する際の、二十一の技の伝授。
「馬場殿は、運のよいお方だ」里見が溜め息をついた。
十一
だがその二年がなければ、その後剣を捨てることもなかった。
二十一の教えにあった「逃げろ」の一項。いかに脱するか。
幻の刀が相手に通じない時は?と訊く里見に「左腕を剣とする」
敵に踏み込めば近すぎて力が出せず、斬り落とされはしない。
その間に敵の脇差を抜いて腹を刺す。
全て真剣の戦いのためのもの・・・・
最後に園木は、視力を失った時の対処を伝授した後、剣での立身の虚しさを伝えた。当時の文耕にその意味は分からず。
十二
今日、初めて講釈というものを聞いたと言う里見。
楠木公が死を予見しながら兵庫に向かった訳を、考えもせず。
この日の講釈は「太平記」の第十六巻。朝廷に弓を引いた足利尊氏を攻める新田義貞を援けるため呼ばれた楠木正成。だが比叡山への動座献策も容れられず、湊川で果てた正成。
正成が死を選んだのは忠心というより、後醍醐帝への絶望。
それを、なぜ楠木公は自ら帝になろうとしなかったのかと問う里見。帝が天の意思に背いていれば、取って代わってもいいと、他国の例を言う里見。里見の言う天と、この国の天との違い。
飯を食べ終わると「この一日は天が与えてくれた良き一日でした」と言う里見。文耕の心に天という言葉が残った。


あらすじ
第一章  采女(うねめ)ケ原

一  
宝暦七年二月。采女ケ原に暮れ方七つの鐘が聞こえてきた。
今で言えば午後四時。この時代の時刻に関する薀蓄が並ぶ。
ここ采女ケ原の見世物小屋から客が出始める。十人ほどを送り出した後、羽織姿の初老の町人が出口を半分ほど塞ぐ。
文耕さんお疲れさまでした」
呼ばれた総髪の男は羽織を脱いで、冷たくなった茶を旨そうに飲んだ。
お茶なら煎れ立てを隣りの水茶屋「蓬莱屋」の看板娘 お芳が持って来ると言う町人に、これがいいんだと言う文耕。
町人は木箱の上に乗った笊から中味の銭を空けた。
横には「席料は思し召し次第 無料御出はお断り」の貼り紙。
「ほう、これは珍しい」「市兵衛さん、どうかしましたか」
小粒銀が入っていたと言う市兵衛。それは五匁ほどのもの。
今で言えば七千円ほどか。一文は二十円程度。

市兵衛は木挽町で呉服を商う藤乃屋の隠居で、采女ケ原を管理する町役人から、水茶屋や芝居小屋の管理を任されていた。
小屋の差配まで任されており、興行主に場所を貸している。
文耕には席料を七分、店側は三分という寛大な取り決め。
だが、決まった席料を取らない文耕の収入は二、三百文ほど。
そんな文耕が小屋を借りていられるのは、新兵衛の好意から。
どこが気に入ったのか、市兵衛は文耕の講釈に惚れ込んでいる。


二 
市兵衛は席料をまとめると、文耕の取り分としてさし(一文銭九六枚)一本と小粒銀を渡した。
「そんなに多く貰っていいのかい」と言う文耕に「木挽町はちっとも困りませんから」と返す市兵衛。

そこへ新しいお茶を持って訪れた、隣の水茶屋の娘 お芳。

いつも文耕が講釈のあと冷えた茶を飲むのも承知している。
文耕がなぜ嫁を取らないかという話で、いっとき市兵衛も交え話が弾む。その話がお芳にも飛び火し、文耕先生のところならすぐ嫁に行きますと言って、文耕を慌てさせる。それが市兵衛の息子で、日本橋の大店へ奉公に出している信吉にも及んだ。

お芳は、特別美人ではないが、何故か話す相手を明るくする。
その彼女が、信吉の噂を小耳に挟んでいた。
なんでも当代の旦那に気に入られてひとり娘の婿にと・・・
十年だけの奉公と決めて預けている、と否定する市兵衛。
あり得ないことではないと文耕は思った。茶屋の店先での客が行う噂話を、驚くほど確かに記憶するお芳。お芳から聞いた話を元に、いくつか自分の本に書いているほどなのだ。


三 
信吉を兄さんと言って幼い頃遊んだお芳は、市兵衛の気持ちを知ってか知らずか、大店の嫁で気を遣うより好いた人との貧乏暮らしがいいと言って、話を切り上げた。

小屋を出た文耕は、長屋のある松島町に向かったが、京橋川を渡る普通の道筋ではなく、反対側の築地川に向かった。
ぼんやりと歩きながら、今日の講釈を思い出していた。今年は「太平記」を一巻から四十巻まで、一日一巻の割合で講釈を進めている。この日は十六巻まで来ていた。
文耕の講釈は、元となる本を読み進みつつも、それに加えて自分の解釈を述べるのが他の者と違っていた。理屈っぽいとは思うが、市兵衛はそこが面白いと言ってくれる。
見物人の多くは、壱の席が終わり中入りでお芳がいれるお茶を飲むとあっさり帰ってしまったりする。
この日は太平記前半の山場。そもそも太平記は、鎌倉の北条政権末期から、室町の足利政権に至る軍記。中でも最も好意的に描かれているのが楠木正成。十六巻ではその正成が桜井で息子の正行と別れ、湊川で壮絶な死を遂げて首が六条河原に晒される。
熱を込めて語ったが、最後まで聞いた客は十名ほど。確かに金は欲しいが、いつまでもこんな講釈を続けていても仕方がない・・

大名屋敷の塀に沿って歩いていると、向かいから羽織袴で編笠をかぶった武士が歩いてきた。文耕が僅かに左に寄ると、相手もその方に動く。元の道筋に戻ると武士も元に戻った。
どうやら偶然ではない、相手との距離は四、五間。足を止めた。
「何か用がおありかな」文耕が訊ねると「ある!」
その鋭さには禍々しいものが含まれていた。


四 
怪訝に思いながら「誰かと間違えてはいないかな」
「私は・・・」の言葉を待たず「馬場文耕!」
私の名を知っている。という事は待ち伏せ・・・
「おまえの・・・命が欲しい」と言う相手。どうやら本気。
理由を訊くと「敵討ちだ」はて、心あたりがない。
更に訊くと兄が文耕の筆のせいで悶死したという。
その名は山形辰之進。「番町の鳥旗本」と言われて思い出した。

三年前、文耕が書いた「世間御旗本容気(かたぎ)」
江戸に暮らす十五人の旗本たちの噂話の中にあった「弓取りも弓は袋に鳥屋形気」という一編。
馴染みの鳥屋から、物真似や「高砂」の上手な九官鳥を五十両で買い、高価転売しようとした旗本。前祝いで仲間とバカ騒ぎをしたせいで、その九官鳥が汚い言葉を覚えてしまい、転売先から突っ返された。店に買い戻してもらおうとした矢先に、九官鳥は死んでしまったという話。

その本が出たせいで兄は鳥旗本と陰口を叩かれ、外にも出られなくなって悶死してしまったという。名を変えた筈だと言ったが、当時は版木で刷った刊本より写本の方を信じる風潮があった。
その弟の名は「鎧谷壮伍」目出度く養子の口が見つかった訳だ。
もう一人の弟は家督を継ごうとしたが、お取りつぶしになった。
弟として兄の敵を討つ、と言って編笠を放り投げる鎧谷。


五 
編笠の下の顔は、まだ三十代とも言える若さ。
「考え直すことはできないかな」「命乞いか」
鎧谷は長い方の打刀の鯉口を切り、刀を抜く。
腕に覚えがあるらしく、抜刀で緊張が解けて顔に赤みがさした。
「仕方がない」文耕は包みを置いて羽織を脱ぎ、草履を脱ぐ。
何も持たぬ両手を出し、あたかも刀がある様に正眼に構えた。
「何の真似だ」との問いを無視して両手を僅かに動かす文耕。

そのうちに鎧谷の額に汗がにじみ、正眼のまま動かなくなった。
「文耕、手妻(手品)を使うか!」鎧谷には、多分文耕の持つ「かすみの刀」が見えている。間合いを詰める文耕。
文耕が飛び込むと見えたのか、鎧谷が刀を左に払った。
その瞬間、文耕が凄まじい速さで鎧谷の右の脇を駆け抜けた。
文耕が振り向いた時、その右手には抜き身の脇差があった。
驚愕した鎧谷が、再び刀を振りかぶった。
「そこまで!」の声と共に浪人風の若い侍が出て来た。
「もう勝負はついております」「どう勝負がついたのだ」
右の袖を見なさいと言われて鎧谷が見ると、刀で切られている。
馬場殿が、すれ違いざまに貴方の脇差を抜いて突いたと言う侍。
恐らく馬場殿は、刃傷沙汰が貴方も科を受けると手加減した。
文耕の投げた脇差が弧を描いて鎧谷の足元に刺さった。無念そうにそれを納める鎧谷。そして「これで終わったと思うなよ」
鎧谷は編笠を置いたまま、急ぎ足でその場を離れて行った。


六 10
歩き去る鎧谷を見送ると、草履を履き直して包みを持った文耕。
歩く文耕の横に並ぶ若い浪人。文耕が礼を言うと破顔一笑。

馬場殿の腕なら返り討ちは簡単だが、旗本を傷付けると面倒になると思い、出しゃばったと謝る浪人。
そして見事な腕に流派はいずこ?と聞く。ムジン流と答えた。
それは無尽流。一人一派、園木覚郎と申される方のもの。
園木覚郎についての記述。
寛政年間に出された「近世畸人伝」の続編に出て来る。
阿波の人で、城勤めを辞してからは武芸の腕で鳴らしたが、妹に婿を取って悠々自適の隠居生活。
また文化年間に記された、著作とその作者の目録「典籍作者便覧」にも兵家之部に名が出て来る(三木流の先達)
三木流というのは竹を編み込んだ、銃器を防ぐ胴着を攻略するための、火を点けた矢を発射する砲術のこと。園木も教授した。
園木の著作として挙げられる「森之雫」が、まさに文耕が逮捕される主因となった記事の名と同じ。

文耕は、つい園木の名を出したことを後悔。話が長くなる。
長い沈黙に、意味を察して話を切り替える浪人は呟く。
「園木覚郎・・・無尽流・・・無刀の舞い・・・」
「無刀の舞い?」と訊き返す文耕に、あの時の体の動きを再現し、能舞台の演技を一瞬で演じた様だったと言う浪人。
言い得て妙だと感心する文耕。確かに一度だけ見た園木覚郎の立ち回りは無刀の舞いと言うにふさわしかった。
だが、あの瞬時の動きを克明に覚えているこの浪人もまた、尋常の使い手ではないだろう。文耕はさりげなく訊ねた。
「なぜだ」「はっ?」文耕の顔を見る浪人。


七 11
長身の文耕より拳一つほど背が高い、その若い浪人。なぜ私のあとをつけていた、と聞くと帰り道が一緒だったと言う。
同じ松島町で十蔵店に住んでいるようだ。それで先日、長屋のかみさん連中が噂していたのを思い出した。旗本の若様が勘当でもされて長屋暮らしを始めたような・・・といった見立て。
長屋で文耕の噂を聞いて、一度聞いてみようと出向いたとの事。
小粒銀はこの男が出したものだった。返そうとするのに取り合わない浪人。それで、この銭で一杯飲もうという話に。

江戸橋の先、甚左衛門町のはずれにある飯屋「吉の字屋」
先に入る文耕。並んだ長床几の前に、酒樽を敷いた長い板が渡してある。始めは敬遠されたが、長床几よりその板にものを置くと便利で、次第に定着した。俎もどきとか、もどきと呼ばれる。
店の奥に入って、空いたもどきの席に座る文耕と浪人。
店主勘助の女房 お兼が注文を取りに来た。お連れが一緒とは珍しいとの軽口。いつもツケで飲み食いさせてくれる。
若い浪人が飲める口と聞いてまず二合づつ頼み、肴は・・・と言うとお兼が、今日出せるものの名を挙げた。それを皆頼む文耕。
まるで盆と正月が一緒に来たようですね、とお兼。


八 12
改めて若い浪人に名を訊く文耕。里見樹一郎と名乗った。
かすかな訛りから、生国を肥前か肥後と当てた。
酒が運ばれ、二人はしばらく黙って手酌で飲む。歳を尋ねると二十七だという。士官の話には戸惑いを見せた。話を変える里見。
「差支えなければ、園木先生の事をお聞かせ頂けませんか」
話せば長くなるが、この里見には話してみたい気になった。

里見と同じ様な年頃だった文耕は備前岡山の城下で、直心陰流長沼派の道場に仮寓していた。そこで道場に通う岡山藩士たちが話す園木への畏敬。文耕は師範に紹介状を書いてもらい、阿波徳島へ船で渡った。園木は百姓の老爺の様な風貌で、常に無腰。
得るものはないと失望した文耕は、数日で辞去しようと思っていたがその二日後、思いもよらない事に遭遇。
蜂須賀藩の権勢者が使者を立てて、家の庭の松を譲って欲しいと申し入れたが断る園木。翌日もその使者が来て、金はいくらでも出すからと再度の申し入れ。だがそれも断る園木。
脅しまがいの言葉を残して去る使者。
園木はその後打刀を腰に差し庭に出ると、その松に向かって斬り下ろした。素早さに何が起きたか分からなかったが、松はゆっくり倒れた。刀で太い木の幹を断ち切るなど見た事がなかった。

文耕の話を、眼を輝かせて聞いていた里見は、その時の松に対する園木の位置などを詳しく聞いた。答えつつも奇妙に思う文耕。
木の年輪は日射の関係で北が密、南が疎になるという。園木先生は、まずは硬い木の背から刃を入れた・・・・
長年の謎がふいに解けた気がして「むっ!」と声を出す文耕。


九 13  12/14
園木覚郎は、松の木の背骨を斬ったのだと言う里見。
文耕は、改めて園木の腕に得心したが、それを教えた里見に対し、一体何者かと疑念が湧く。山育ちだからと躱す里見。
「その松の木の一件は・・・どうなりました」

翌日また同じ使者が来て、倒れている松に驚愕し引き返す。
この結末を見届けるまでは滞在しようと決心した文耕。
数日後、荒んだ顔つきの浪人が訪れ、指南を受けたいと申し出るが、穏やかに断る園木。
押し問答の末叩き斬ると言い出す浪人。血で汚れるからと無腰で外に出た園木に、長い方の打刀を抜いた浪人。
付き添っていた文耕は二人の間に入るが、園木に押しやられる。そして園木は両の拳を前に出し、幻の刀を正眼に構えた。

「先ほど、馬場殿がそうしたように、ですね」と里見。
園木と浪人の戦いも、先の文耕と鎧谷壮伍と同様に展開した。
ただ違ったのは、園木が老人とも思えぬ動きで浪人の脇差を抜き、相手の腹を深く刺したことだった。
その一撃で絶命した浪人。
園木は村人に頼んでそれを屋敷に送りつけた。 
その後は嘘のように何も起こらず、その件は闇に葬られた。
七日目の午後、城下へ出掛け、買い物をして来た園木。
夕食後、仏間でその包みを開けると位牌が現れた。園木はそれを仏壇に安置すると読経を始めた。全てが氷解し驚愕する文耕。
戒名のない位牌が仏壇に十二基あるのが不思議だった。
これまでに十二人討ち果たして来た。あの浪人が十三人目。
翌朝、文耕は園木に、弟子にして欲しいと頭を下げた。


十 14  1/14
すると園木は「無尽流は私で終わりです」と断った。
弟子は諦めるが、しばらく置いて頂きたいと言う文耕。
元々いつまで逗留しても良いと言ってある、と返す園木。
だが数日で出ていくつもりだった事を見抜かれる。
なぜその気になったかを聞かれ、結局本音の「強くなりたい」「名を上げたい」を口にしてしまう文耕。
意外にも「手助けができないこともない」と言われる。

それから修行が始まった、筈だったがただひたすら、園木の世話をしている百姓夫婦と共に農事をするばかり。
その家では一反づつの田と畑を持ち、季節ごとに仕事がある。
鍬を振るい、犂を牽き、鎌で収穫した。
夜は食事のあと、園木の豊富な蔵書を読むよう勧められた。
二年目に入ると、畑だけでなく田圃の稲にまつわる仕事も。
夜には「太平記」や「天草軍記」などの講義をしてくれた。
その間、いっさい剣の手ほどきはしてくれず。
丸二年が過ぎた秋、意を決した文耕は、いつ剣の修行に入らせていただけるのかと訊ねると「もう済んでいます」
そして庭に促され、木刀の素振りを指示された。
それを振り下ろして驚く。あまりにも木刀が軽い。
「この二年間の農作業、それ以上の修行はありません」    
そんな事を言えば百姓は皆剣の達人・・・園木の言うには、基本は受けのためのもの。攻めのための疾さは生来のもの。
文耕には既にその速さがあったと言う園木。
その日以降、真剣による戦いで危機に際しての、二十一の対処法を授けられたという。

それを黙って聞いていた里見樹一郎が、つい溜め息をついた。
「馬場殿は、運のよいお方だ」


十一 15  1/21
確かに、それ以後園木以上の人物に出会わなかった。教えを受けられたのは幸運。だがその二年がなければ、その後剣を捨てることもなかった。果たして運が良かったのか。
里見が注目するのは、二十一の教えの中に「逃げろ」の一項があったこと。敵が三人までなら倒せるが、四人以上では勝てるという法がない。いかに脱するかの伝授。それは文耕も同じ。
改めて訊く里見。
それはこちらに差料がない時の、幻の刀を見せる技について。
文耕が園木にそれを訊いた時は、一つの詐術を使うと言った。
幻の刀の切っ先と、相手を交互に見るうちに、相手に迷いが起き、次第に刀が見えて来ると・・・
実は、先の戦いでその技を使ったのが初めてだった。
園木の言った通りになって内心驚いたのだ。
それでも相手に通じない時は?と訊く里見。
それは文耕にとっての疑問でもあった。
「左腕を剣とする」それを説明してくれた園木。
武器がないと知れば、相手は即座に斬ろうとする。だがその瞬間に突進すれば、腕を斬り落とすほどの力は出ない。
その間に敵の脇差を抜いて腹を刺せる。

「命より腕が惜しいなら、素直に命を差し出すがよかろう」
笑いながら言った園木。それを聞いた里見は
「すべて真剣の戦いのためのものだったのですね」

園木はその後、最後に視力が失われた時の対処を伝授してくれた後、剣で身を立てる事の虚しさを伝えた。
その時の文耕は、園木の言葉の意味を分かっていなかった。
長い話だったな、と言う文耕は、お兼を呼んで飯を頼んだ。


十二 16  1/28
今日、初めて講釈というものを聞いたと言う里見。楠木公の事について、どうして死を予見しながら兵庫に向かったのか、考えもしなかったという。講釈の肝心なところに喜ぶ文耕は、
「おまえさんならどう思う?」と訊ねた。

この日の講釈は「太平記」の第十六巻。朝廷に反旗を翻した足利尊氏。朝廷側の総大将 新田義貞の対応のまずさに、後醍醐帝が楠木正成を呼び寄せ、義貞を援けるよう指示。
そこで正成が比叡山に退くことを献策するが容れられず。
正成は命に従い、七百騎あまりで五十万騎の敵に向かった。そして最後は湊川で弟楠木正季と刺し違えて果てた。

正成は敗れ、死ぬと知っていながらなぜ兵庫に向かったか。
多くの「太平記」読みが後醍醐帝への忠心と言う中で「太平記評判秘伝理尽鈔」の作者は、死する事も戦略だったと述べる。
この正成が生きている限り尊氏は敗れて死に、帝の世を招来するためにならない。だから正成は自らを滅した。
だがこの日の講釈で文耕は自らの考えを述べた。
正成は、実は後醍醐帝に深く絶望していた。親政が行われても世の中は良くならない。今後誰が勝ち残っても太平の世が訪れることはない・・・

なぜ楠木公は生きる道を選ばなかったのか、と問う里見。
強い口調で、なぜ自ら帝になろうとしなかったか、とも言う。
驚く文耕。自ら帝になるなどという発想は、当時の武士の誰も持ち得なかった。
海の向こうでは、帝が天の意思に背いていれば、取って代わる者が現れると言う里見。里見の言う天が、この国の天とは異なっていると感じる文耕。
飯と汁が運ばれ、二人は黙ってそれを食べた。
里見が満足そうに「この一日は天が与えてくれた良き一日でした」と言った。文耕の心に天という言葉が残った。