新聞小説「暦のしずく」(0)序章「獄門」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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新聞小説「暦のしずく」(0)序章「獄門」

1(10/1)~4(10/22)朝日新聞be(土曜版)連載
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ
過去レビュー           

感想
作者の沢木耕太郎はノンフィクション作家として有名であり

 「一瞬の夏」「深夜特急」などが良く知られている。
また2015年に朝日新聞で「春に散る」を連載した。

 

今回彼が、朝日新聞の土曜版「be」に週刊で時代小説を連載する事になりレビューを計画したが、けっこう第一章が長尺になっているので、まず序章をアップする。

江戸中期に講釈師として生きた「馬場文耕」が主人公。長い日本の歴史の中で、ただ一人その芸によって処刑されたという。
序章では彼の生きた時代の背景、作者自身の彼に対する思いなどが綴られる。
この辺りではまだ感想と言えるほどのものはないが、我が国の文芸についてのサワリを知ることが出来て、多少賢くなった気がする(笑)
物語の本編は第一章から始まる。

オマケ

そういえば1/10の「クローズアップ現代」で沢木耕太郎が取り上げられていた(小説「天路の旅人」の出版に絡んで)

 



あらすじ
序章 獄門

  1  
昨年秋目にした「人間国宝」と言われた柳家小三治と、中村吉右衛門の訃報。人間国宝とは「重要無形文化財」として技を保持している個人を一般にそう呼ぶ。
国は、その人に対し年間二百万を支払う。
分野は、大きく芸能と工芸技術に分かれ、先の二人は芸能。

芸能分野の多くは近世:江戸時代に興隆したものだと言える。
民衆の支持が強烈なだけに、時の権力にとって危険視される。
歌舞伎、浄瑠璃など幾度となく禁止されている。
日本芸能史の中で、その芸のために命を賭けた者がいたか?
世阿弥、歌舞伎の生島新五郎などの主因は芸以外。

この日本に一人、その芸によって死刑となった芸人がいる。
宝暦年間に編纂された「公事方御定書」による死刑の方法。
鋸挽、磔、火罪、獄門、死罪、下手人、斬罪、切腹。
斬罪と切腹は武士に限られ、一般はそれ以外。
獄門は首を斬り落とされ、刑場で三日三晩首が晒される。
宝暦八年十二月、その獄門に処せられた芸人がいた。
長い日本の歴史で、ただ一人だけ芸により死刑となった芸人。
名を馬場文耕という。講釈師だった。

 


 2
講釈師とは講談師のこと。文耕が生きた江戸中期では、職業としては確立していなかった。慶長の頃、赤松法印という人が家康公の前で太平記の類を進講したのが始まり。
取り上げる内容から「太平記読み」とも言われた講釈師たち。
江戸時代に入ると大名などに軍事を読み、講じる者が増える。
そのうち、市中で民に向けての「辻講釈」をする者も現れる。
次第に名のある講釈師が出始める。青龍軒、名和清左衛門などを経て、ついには深井志道軒が登場する。陰茎をかたどった棒でリズムを取る演出。多数の人が押し寄せたという。


これが、馬場文耕が講釈師として生きるようになった時代。

この馬場文耕、確かなことはほとんど分からず。先の深井志道軒は平賀源内他多くが書き残し、浮世絵にも残っている。
馬場文耕の来歴に触れた文章が現れるのは、芝居通の関根只誠(しせい)が書いた「只誠埃録」において。
だが、文耕が生きた宝暦年間とは百年以上の開きがある。
伝説か噂話と言われてもやむなし。
しかし架空の人物でない事は確か。江戸後期に編纂された「徳川実記」に文耕の文章が引用されている。
同時代の評が一切ないにも関わらず、彼の書いた著作は無署名も含め十七作あるという。

「町のうわさ」の様なものを書いていた馬場文耕。
九代将軍家重について「当時珍説要秘録」で記した「うわさ」
夜は酒色に溺れているため、寝起きが悪く呂律も回らない・・
あまりの過激さだが、この文章が獄門の原因ではない。


 3
町で仕入れた噂話を変形させ、事実の様に記した馬場文耕。
唐突だが、日本におけるジャーナリストの歴史を考えてみる。
民間初である「海外新聞」を発行した浜田彦蔵の協力者だった、岸田吟香(後の「東京日日新聞」主筆)こそが最初のジャーナリストだろう。
幸徳秋水、尾崎秀実らも記事以外の要因で処刑された。
そうした眼で見た時「取材したことを報じる記事」のために処刑された人が一人いる。それもやはり馬場文耕。
文耕は講釈のかたわら、自ら取材した事を書くようになった。
そのうちの一つの記事が幕府の忌諱に触れ、処刑された。
芸によってだけでなく、書いた記事によって処刑された唯一のジャーナリスト。
一匹狼だった彼を現すとしたら「ルポライター」
ルポルタージュとライターを合成した和製英語。
私も初期の頃、名刺の横にそれを冠していた。

馬場文耕に告げられた判決文の意訳。
・・・かねてよりの講釈の生活が苦しく、聴衆の援助を期待して公儀の事件を講釈した・・・
実は、この判決文こそが文耕について語られた唯一の文章。
松島町の十蔵長屋での貧しい暮らし。
事件の講釈で逮捕された。
関根只誠が「只誠埃録」で書いたものに比して確度が高い。
だが只誠のものにも妙にリアリティーがある。
夜講をしたという小間物屋文蔵の家の看板(ただ見は勘弁)
場末の采女ケ原での講釈(深井志道軒は浅草寺の境内)
これなども、あり得ることとして頷けてしまう。


 4
その采女ケ原はどこにあったか。現在の東京にはないようだ。
私の本籍は築地。町名変更の前は小田原町だった。
そこに采女橋という名がある。采女ケ原は采女橋の銀座寄り側の一帯である事がわかった。名の由来は、かつて今治藩主の松平采女正(うねめのかみ)の屋敷があったからだという。
馬場文耕は松島町から采女ケ原の小屋まで、講釈をする日は歩いて通った筈だ。いったいどのくらいの距離なのか・・・

冬のある日、文耕が通ったという采女ケ原から松島町まで実際に歩いてみた。時間にして35分。信号がなければ30分ほど。
江戸時代なら四半刻。乾いた喉で手頃な店を見つけた。
熱燗とつまみ、刺身で躰も温まり、また文耕の事を考える。
床几に腰かけたのだろうか。そもそも文耕は酒を飲んだのか。
違っていたらイメージが狂う。
はて・・・ 脈絡もなく考えるうち、私が歩いたルートが違っていたかもと不安になる。賑わっていた通りを避けて築地へ回ったかも知れない。私の本籍近くの小田原町を歩いたか・・・
私の内部で急に文耕が生き生きと動き出すような気がした。
文耕は・・・文耕が・・・文耕には・・・文耕なら・・・