「暦のしずく」(5)第五章「駕籠」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

「暦のしずく」(5)第五章「駕籠」 46(9/16)~62(1/20)
朝日新聞be(土曜版)
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ
過去レビュー           

感想
文耕の生活がある意味「のんびり」と語られる。番町皿屋敷の「お岩」の話の始まりが文耕とは知らなかった。
そんな話の後、講釈場を提供している市兵衛が持って来た、大名家へ出向いての講釈。豪華な駕籠に乗せられて行った先は「大岡忠光」の屋敷。文耕を推挙したのはかつて「龍助」として一年あまり親交のあった「田沼意次」
そして講釈を聞かせた相手はなんと徳川家重。前章で彼の愚行をさんざん講釈ネタとして吹聴していた。だが実像の家重は言葉がやや不明瞭な以外は全くの常識人。そして謎の人だった里見樹一郎の正体も明らかになった。
終盤で出た「本多正珍」の名から文献を引き出した(コチラ

馬場文耕は、郡上一揆に関わる幕府の対応について糾弾する講釈を繰り広げたため処刑された。また本多正珍は郡上一揆に関して不正に関与したとして処分を受けている。
この一連の幕府の沙汰に田沼意次が関わっている。
この辺りを読み込むと、この小説のバックにあるものを細かく理解出来るのだが・・・

この小説の現時点は宝暦七年(第二章「怪動」五に記載あり)であり、文耕はこの翌年に逮捕され十二月二十九日に処刑される。
そういえばネット検索でこんなものを見つけた。

野村胡堂の「宝暦三奇人」を紹介したブログだが、田沼意次が自邸に馬場文耕と平賀源内を呼んで、余興を披露させたくだりが書かれている。意次を「成り上がり者」と言う文耕。更に文耕の娘 お栄が意次のお気に入りだという。

へー、そんな話もあるんだ・・・



あらすじ
第五章 駕籠 一~十七 

一  46
九月二十二日の夕方、十蔵長屋の部屋を出た文耕。
行先は藤兵衛と藤吉兄弟が営む貸本屋。
歩くうち、同じ長屋に住む里見樹一郎の後ろ姿が見えた。今日は珍しく二本差し。夜講の時に二本差しで来るのは、万一の時文耕に貸すため。改まった場所にでも行くのか。里見には分からない事が多い。浪人中といいながら金に困っている気配はない。
行先が分かれば里見の人物が分かる様な気がして少し追いかけ始めたが、卑しい行為の様な気がしてやめた。
藤兵衛らの貸本屋「不二屋」は、藤の付く兄弟のもじり。
潜り戸から店に入る。奥では十人程の男が酒盛りの最中。
「今始めたところです」と、よく似た面差しの二人のうち、壮年の藤兵衛が声をかけた。もう一人が藤吉。


不二屋では毎月二十二日に、親しい貸本屋を集めて寄り合いを催していた。商売物の本の調達、売買のためこの日に集まる。

そのあとで情報交換も含めた酒盛りを行う。ある時藤吉に誘われ酒宴に参加して以来、決まって顔を出す文耕。
彼らが話す得意先の出来事が宝の山のようであり、読物にする話の多くを手に入れた。

藤兵衛の女房 お陸が出す酒や肴。この日は十一人が集まった。
飲み食いするうちに皆の口も滑らかになっていく。
蝋燭問屋で起きた離縁話。手代と不義をした女房。亭主は金まで渡して離縁。それは裏で亭主が新しい女を入れるための画策。
そんな時、下槙町の栄蔵が話す、美濃の金森様の件。国元で百姓一揆が起き、その対応で江戸と郡上を行き来するため、本など読む暇もないとの事。聞き流す文耕だったが、金森藩の「百姓一揆」が彼の運命を大きく変えることになる。

二 47
酒も入り、通三丁目の喜六が文耕に向かって、昨年出した「当世武野俗談」は良く読まれるが、春に出た「宝丙密秘登津」は人気がないと言った。それは先の俗談が市井の人々を描いたのに対し、武家社会の表裏を描いたものだから。白壁町の平助も同様に頷く。今の武士に喜ばれると思っていた文耕。
家重の情けない行状や、その家重の側用人で異例の出世を遂げた大岡忠光が、彼を見出した小堀和泉守を引き立てた話も。
それは大岡出雲守に遠慮して読まないのだという。

そこで話が途切れると、座長の藤兵衛が文耕の次の新刊「近世江都著聞集」を、女たちの話も豊富だと宣伝した。
それに異を唱える橘町の七右衛門。文耕は女の気持ちが分からないという。皆が頷く。それは深川仲町の芸者お六への彼の扱い。
苦笑する文耕。ただ、西鶴には及ばないと自分では自覚。
七右衛門が、文耕には怪談物などが向いていると言った。
その一方で、もっと長いものを書いて欲しいという注文も。

そんな時に女が訪ねて来た。深川芸者のお六だった。

義理がある客の座敷を片付けてから来たという。亡き父惣助が貸本屋だった事もあり、親がわりとして接してくれた藤兵衛夫婦
や、周囲の仲間たちも親戚のおじさんと思える存在だった。
とりわけ子分の様な小糸が吉原の俵屋へ行ってからは、この寄り合いが大切なものになっていたお六。
一文の稼ぎにもならぬが、自分の楽しみとしてやって来ている。

三 48
お六がその酒宴に来る本音が文耕が来ているから、という事を皆が知っていた。本当は最初から文耕の横に座りたいのに、一人づつ酌をしては返杯を受けて回る。

そんなお六を陸が心配して声をかけた。
ちょっと飲みたい気分だと言うお六。町奉行所の同心の一人が日頃から言い寄っており、今夜ご隠居連の連れとして来た折り、文耕にかかずりあっているとひどい目に遭う、と言われたという。
それを聞きながら何日か前の事を思い出す文耕。中入りが始まると同時に入って来た、顔に痘痕のある同心。講釈が終わり帰る時、皆と同様銭を出そうとした。市兵衛が不要だと言うも、今日は役目ではないからと払って行った。

市兵衛が知らないからこの界隈の同心ではない。文耕はお六に、その同心に痘痕はなかったか訊くが、なかったと言う。
下槙町の栄蔵が文耕に、あまり波風を立てないものを書いてくれと頼んだ。志道軒の忠告を思い出したが、何かを変えるつもりはなかった。

酒宴は夜四つ頃まで続き、お六が深酔いしていた。
駕籠屋が出払ってしまう、と帰宅を促す陸に、文耕さんのところで泊まると言ったお六。夜具は二つはないと言う文耕に「ひとつあれば充分」
橘町の七兵衛が囃すように応援する。
駕籠を頼むが、笑いながら出て行ってしまった藤吉。

四 49
翌朝は起床が少し遅かった。

朝餉を済ませ、不二屋での心覚えを書き止める文耕。
貸本屋たちとの話を思い出しながら別の事を考えていた。
講釈では世話物が既に書いたものでは足りず、読むために書いていた。続く様であれば更に話を集める必要がある。
そんな中で話が浮かんで来た。幼い頃父が話してくれた、番町の屋敷跡に残る井戸と皿の話。更に旅先で聞いた、姫路城と井戸と皿の話。どちらもお菊という幽霊が絡む。

そんな事を考えている時、木挽町の市兵衛が訪ねて来た。
上がり框に座り、お願いの筋があると言った。初めての事。


さる大名家から文耕の講釈を聞きたいとの依頼。木挽町の町名主を通じて。文耕の我が儘が通るのもこの人のおかげと話を聞く。
相手は特に名を秘すとのこと。礼金の三十両に驚く文耕。
前金の十両、と言って服紗の包みを差し出した市兵衛。
ただ最近の文耕は潤っており、筆耕の仕事も減らしている。
それより読物を書いて欲しいと貸本屋からの催促が多い。
礼金の多さより依頼主が分からない事が面白く、それを受けようと思い始めた文耕。
だが名が分からなければ行きようがない。
それには迎えの乗物を出してくれるという。腹を決めた文耕。
「わかった、引き受けよう」期日は九月の三十日、午後。
不安そうな表情を残し、市兵衛は去って行った。

五 50
件の日の午後、大家の十蔵が文耕の部屋に飛び込んで来た。
そうこうするうち、立派な権門駕籠が横付けされる。
同行の武士が口上を述べるが、どこの家臣かは言わず。


文耕はいつもの写本を持ち、駕籠に乗り込んだ。駕籠は人形町通りを北に向かう。近在の武家だとの予想が外れた。
少し行き先について考えるのはやめ、話す内容を考える文耕。

駕籠は人形町を超え、本町を進みきったところで日本橋に向かった。この先の常盤橋を渡れば御曲輪内に入る。それは徳川家が信頼する、譜代大名の集まる地域。迂闊な事は喋れない。
そして屋敷前に降ろされた。中に上げられ、長い廊下の先の部屋に案内される。奥に長い広間の手前に文机と座布団。
奥は襖になっており、奥向きの者も聴くという配慮か。
御曲輪内にある家を思い浮かべる。

土井大炊頭、堀田相模守、細川越中守・・・大岡出雲守忠光!
わざわざ自らの悪口を言う講釈師の話を聞きたがるのか?
いや、密かに命を奪う気か。「いつか死ぬぜ」と言った志道軒。
面白い、どんな趣向か見せてもらおう・・・
しばらく待つと武士が茶を運んで来た。奥の襖の手前に座布団が一つだけ。聞き手はたった一人か、それとも襖の奥にも居るのか。そうであれば文耕の命を奪うこととは異なる目的。

六 51
背後から入って来て向かいに座った武士。まだ四十代前だろう。
五十代に近い筈の大岡忠光ではなさそう。整った顔立ち。


どこかで会った気がするが、それだと家紋が違う。
今回の趣向が面白いと言うと声を上げて笑った。
その笑い声に記憶がある。「龍助・・・殿か?」
覚えていてくださいましたか、と返される。家紋は父の遺命で七曜星に変えたという。元服を機に諱を意次とした事は知っていた。だがここは龍助、いや田沼意次の屋敷ではない。
かつて少年時代、共に直心影流長沼派の道場に通う仲だった時は本郷の御弓町に住んでいた。一年ほどで意次は自分の腕に見切りをつけ、道場通いをやめてしまった。
ここはどなたの屋敷かと訊こうとした時、襖の奥で数人が着座する気配が感じられた。
田沼意次が、始めてくれるよう文耕に頼んだ。
この日は大岡越前守忠相の話をするつもりだった。だがここが大岡忠光の屋敷なら同じ血筋であり、阿る様で気が進まない。
そこで文耕は急遽、かつて井筒屋で語った秋篠の話をした。
鶴岡伝内を殺して金を奪った中間軍蔵と、それを追って仇討ちに出た新次郎の苦難。そして遊女秋篠との出会い。冷たく愛想尽かしをされた後の仇討ちで、若衆に化けた秋篠の助力により成就。
二人はめでたく夫婦となり、家は栄えた・・・
 
長尺の話を一気に語り終え、一息ついた文耕。
するとしばらくして襖の奥から「それで、終わりか?」
と、くぐもった男の声。女衆だとばかり思っていた文耕は驚く。
「襖を、開けい」それを制する声。「上様!」息を吞む文耕。
この世に上様と呼べるのはひとりしかいない。
「かまわぬ、開けい」
小姓二人が開いた襖の向こうに、羽織袴姿の武士が座っていた。
羽織には何と葵の紋が。田沼意次は両手をついて平伏。
文耕も反射的に座布団から降りて平伏した。
一呼吸おいて頭上から声が降って来た。「家重だ」

七 52
平伏のままの文耕。また声が聞こえた。
「どうして、家重や忠光の話をしないのだ」「はっ?」
「采女ケ原では家重の下の用が近い事を嗤っていると聞いたぞ」
「面を上げい」と何度も言われ、顔を上げた文耕。
これが本当に噂に聞く、あの家重公なのか。多少言葉に難はあるものの聞き取れなくはない。少し歪んだ口元には笑みが。

ところで。九代目家重については、現代でも様々に言われる。
言語不明瞭で、それを解するのは大岡忠光だけだったとの話。
知恵遅れや頻繁な小用。だが信頼に足る記録は残っていない。
現時点で家重に関する最も信頼出来る資料は、昭和32年に行われた増上寺の、徳川墓所改葬に関わる遺骨調査。家重の身長は156.3cmであり当時の庶民平均より僅かに低い。

より細面で鼻筋が通り、美男子だったとの評。また臼歯には歯軋りの跡があった。

家重は「宝丙密秘登津」「近代公実厳秘録」と文耕の本を列挙し「読んだ」と言った。にも関わらず怒るより笑ってさえいる。
そして文耕が吉宗公を崇める書き振りをするのは、家重を貶めるための隠れ蓑だと看破した。その通りだった。
家重を愚かな将軍と書くのは、むしろ望むところだと言う。
「上様っ!」と遮る武士。家紋は「大岡七宝紋」
この人物が大岡忠光なのだ。続ける家重。
やがて家治が次の将軍になる。この家重が愚鈍であればあるほど家治の賢明さが際立つ。そのためにも家重の腑抜け振りを喧伝せよ。いくらか苦しそうだが文耕にも無理なく聞き取れる。
家重公の言葉が忠光にしか分からないというのは、上様が自分にだけ分かる様話されるからだと言う忠光。
その方が万事都合が良かったと話す家重。笑みが消え、近くの者の誰が家重を蔑んでいるかが全て見通せたと言った。

八 53
家重は饒舌と思えるほど良く喋った。元服を経て三十五歳で将軍になると、簡単な案件は頷いたり首を振ったりで処理出来た。
だが難しい案件などは刻を置き、忠光を通じて伝えさせた。
それは時に忠光が聞き間違えたとされ、彼にとっては損な役。

文耕は、何故自分の講釈など聞こうと思ったかを家重に尋ねた。
龍助の勧めだったという。吉宗公有徳院様は若い頃、市井の者との交わりがあったが、自分は病弱で果たせなかった。そんな中、城下で幕府への悪口雑言を語る講釈師に興味が沸いた。
襖の奥で悪口雑言が出る事を楽しみにしていたが、それは出ず。
それでも仇討ちに、遊女との交情の話を聞き、文耕の人柄が解ったという。剛の者でもなく拗ね者でもない、ただの涙もろい伊達者だと評された。その言葉を頭で反芻する文耕。
これまでの話を語り直さなくてはならないと言う文耕に、そのまま世にそう講釈し続けよと言う家重。

「新しい道は家治が開けばいい・・・龍助らと共に」

はっと顔をあげ、すぐ低頭した意次。文耕も、そこに自分の時代は終わりつつあるとの惜別の念を感じた。

ただ講釈の中で、お幸(家治の生母)が家重の淫酒を諫めて遠ざけられた件については、正しておきたいと言った。

それは亡き比宮をあまりに思い出したからだと話した家重。
家重はこの場を切り上げて増上寺に行かねばと言う。
今日は家継公有章院様の月命日。

その途中用を足すため大岡屋敷に寄った体にした。
そなたも書いているとおり、と言って笑う家重。
そろそろ、と忠光が促す。「わかった」
意次と共に平伏する文耕。



九 54
気配で家重公が退出したのが分かった。田沼意次に促されて顔を上げる文耕。右手に控えていた大岡忠光もいなくなっていた。
驚いておいでですな、とかすかに笑う意次。
「よもや、家重公があの様な方だったとは」
意に沿わぬ躰のため、優しい心根を持っておられると言う意次。
正室の比宮、また家治を産んだ側室のお幸の方に対する思いも、世間のそれとは大きく違っていた。
だが文耕は、どうして家重公に自分の講釈を聞かせるなどという事が出来たのか、と意次に疑問をぶつけた。

家重公は意次からその事を知った。話せば長いことになるがと言い淀んだが、意を決してその名を出す。
「里見樹一郎はご存知ですな」今度は文耕が驚いた。


浪人中とは聞いていたが、田沼の御家中の者だったか。
だが仕官はしておらず、勧めているのに里見が望まない。
元来は紀伊家の足軽だった田沼家。優れた者を抱えたいが難渋。
そんな中でも、武芸のみならず深い知識を持つ里見が欲しい。
多分長崎あたりで学んだろうとのこと。今はまだ市井で暮らしたいとの物言い。それで時々屋敷に来ては様々な話を入れて行く。
そんな中でここ数カ月は常に馬場文耕の話をしている。
里見の見解では、今後講釈は大きな力を持つ・・・
その流れでうっかり家重公に文耕の話をした結果、こうなった。
今回は家継公の月命日の折り、小用で大岡屋敷に立ち寄る事で実現した。後悔しておいでだろうと言うと、思いのほか喜んでおいでだと看てとれた、と言う意次。
また、お幸の方についての思いも初めて聞いたことで、大岡様も一瞬驚いたのが見えたという。

十 55
家重が喜んだ事の引き合いで、御前に袴もつけずに現れた事を話す意次。それを聞き不意に自分の身なりが貧相と思えた文耕。
「それにしても・・・馬場文耕があの左京殿だったとは」と言う意次。互いに元服前後の頃左京殿、龍助殿と呼び合っていた。
文耕が「龍助殿か」と訊いた時「覚えていて下さいましたか」と言った。「いかにして文耕が左京だと」と訊く文耕に、いきさつを話す意次。

家重公からこの話を示された時、文耕の素性を調べるよう馴染みの同心に指示した意次。顔に痘痕のある同心を思い出す文耕。
松島町の十蔵店大家 十蔵から地主、貸本屋藤兵衛を辿り中井左馬次という名まで判明。だが致仕したという伊予の各藩に問い合わせても、中井姓の家臣そのものがいない事が判明。
松島町の前に住んでいた新材木町の大家から、案内をした口入れ屋まで辿った。多少の脅迫も交え、その人物の父君の名までを知ることが出来た。口入れ屋自身がその父と、中川宗瑞を師匠とする句会で知り合った。時折り二十歳ほどの子息を連れて来ていたが、巧みな句作りが印象的だったという。

父が病死すると子息が、形見分けの書物を持って訪れる。

家禄と屋敷を返上して旅に出たという。
それから五年ほどして店を訪ねて来た時には、浅黒く精悍になっていた。世話を受けるにあたり、旧名は捨てたので予州浪人 中井左馬次にしたいと頼まれた。

そして連れて行ったのが新材木町。

口入れ屋から聞いたという、父親の名を聞いて驚愕する意次。
それは十代の頃、共に同じ道場に通った相弟子の父の名。


相弟子には兄弟はなく、だとすると馬場文耕とはその相弟子・・・

十一 56
左京殿が馬場文耕とは信じられなかったと話す意次。それで同心に頼んで采女ケ原の小屋まで行き、確かめてもらった。
意次は享保十七年に十五歳で家重の小姓になる事に決まり、それまでの間に道場通いする事になった。
一方文耕は十二歳の時から自ら進んで道場通いを始めていた。
その二人がたまたま選んだのが直心影流の芝道場だった。文耕は通い始めてすぐ頭角を現し、足の運びは人並み外れて疾かった。
その後に道場入りした意次は、半年も経たぬうちに剣術の能力がない事を認識した。

それでも文耕と共に帰るのが楽しく一年ほど続いた。


田沼家は三百俵高の旗本、文耕の家は五十俵取りの御家人であり家格がはるかに違った。旗本と御家人との違いについての解説。
将軍と直接顔を合わせられる家臣を旗本、会えないのを御家人と言うのが無難な区別。五十俵取りだと内職をしないと苦しい。

家格は違うが文耕が一歳上でもあり、意次は常に敬してくれた。
あの左京殿が人前で語るとは思えなかったと話す意次は、御自分から話す方ではなかったと重ねる。いつも訊ねかけて来た意次。
それで一つのやりとりを思い出した。東本願寺の法王が帰敬式で門徒の子にかみそりをあてる事で、七千五百人近くの門徒が夫々銀一枚を差し出したという。その事を話し、年貢や冥加金を喜んで出させるにはどうしたらいいのでしょう、と言った意次。
そんな少年の頃から、意次は天下国家を考えていたのだろうか、と遠くを見る様に家重らの居た高座の向こうを見る文耕。

十二 57
田沼意次が十六歳で小姓として登城した時、当然部屋住みで稽古を続けていた文耕。長沼道場ではかなりの腕と評価された。
二十歳になった時、父が勤めている進物取次の部署で働くことになった文耕。だがその仕事は物足りなく、これで一生を送ると思うと苦痛になった。ある時父が通っている句会への同行を頼み、続けて通ううち、師匠に認められる様になった。だがそれは猿真似だと分かっており、単調な仕事の支えには思えなかった。
二十五歳の時父が病に倒れ、半年足らずで死んでしまった。
暫く考えた末、家督相続せず家禄、屋敷の返上を決意。

思いに引きずられ無口になった文耕に意次が、家禄を返上した理由を訊いて来た。意次のような大身の旗本には、僅かな禄米で細々と暮らし、上役に阿る恥ずかしさなど分からぬだろう。
そこで当たり障りなく、剣の道を究めたかったと返した。
それは嘘ではなく、道場では敵なしとなっても自分の腕が試せない。それで修行のため旅に出た。期間は足掛け五年ほど。

東海道から山陽道を更に西へ。阿波から伊予へ行き、更に九州、秋月まで。「長い旅でしたな」ねぎらう様に言う意次。

確かに長かった、と振り返る文耕。江戸の道場では他流試合を禁じられていたが、地方での手合わせではほぼ負けることがなく、やや慢心の気持ちがあったかも知れない。
だが四国の阿波に渡り、園木覚郎に会って一変。そこでの二年間は農事だけの日々だったが、疾さと強さを身につけた。
無尽流皆伝の手ほどきを受け、近く園田家を辞するなと思う様になった頃、園木を倒して名を上げたいと願う浪人が訪れた。
園木が「相手をお願いできますかな」と振って来た。
全てを卒えるのにふさわしいかの見極め。

十三 58
その浪人に、すさんだ日々を重ねた腐臭の様なものを感じた。
二年前の自分もそうだったかも、と思い出す文耕。滞在を許された自分と、この相手。どこかに違いがあったのだろうか。
どこで?と訊くと「庭でいいでしょう」血を流すなとの意味か。
「用いるのは?」「木刀がよろしいと思います」
納屋から木刀を持参し浪人と対峙。相手は長い刀を上段に構え、文耕は正眼に構えた。さほどの疾さはない。
一の太刀を躱して反撃すると、相手の右腕を折ることになりその後の渡世にも支障が出る。二の太刀まで躱して左腕を打つと決めた。力量に大差があり、読んだ通りの動きをした。
左腕を狙ったが、勢いで肩を打つことになった。


骨が砕ける音がしたが、落とした刀を拾って構える相手。
「それまで!」の園木の言葉に救われて浪人は立ち去った。

それから数日後、園木の買い物に同行する文耕。途中、彼を倒すことが出来るだろうかと、後ろから幻の刀で斬り掛かろうとしたが、その隙を捉えられなかった。
園木は仏具店で白木のままの位牌を買った。以前、刺客を返り討ちにした時、それを祀るため白木の位牌を買い求めに来たことがあったが、今回相手をしたのは文耕。
帰り道も同様に「斬れるかも知れない」と幻の刀で呼吸を計っていると不意に「いまだ!」の声が飛び、思わずその刀を振った。
その寸前、園木が振り向きざまに文耕の胴を真っ二つにした。
あれは園木の声だった。声に誘われ斬りつけ、返り討ちされた。

その夜、園木は選別にとあの白木の位牌を渡した。万一人を殺めたら、これに向かって念仏でも唱えなさい。もう一つの餞別は昼間の太刀。あれが最後の教え(臨機の太刀)
四人以上の相手で逃げられない時に思い出すと良いかも・・・
文耕は、その翌日園木の家を辞した。

十四 59
意次の「長い旅でしたな」の言葉に誘われて蘇った情景。
そのうちでも、園木家での二年の記憶に勝るものはなかった。
旅の最後が筑前の秋月と聞いていた意次。口入れ屋の、文耕は士分を捨てる覚悟だったとの話をぶつけ「何故(なにゆえ)に」と訊ねた。それは家禄返上の説明より難しい。

園木家を出た文耕は伊予の松山に向かった。そこには直心影流 長沼国郷の高弟が開いた道場があった。滞在中、そこで仕官を勧められたが、園木覚郎を知った事でその望みは霧散した。
だがこの先どう修行を続ければいいか分からない。
園木からは、筑前の黒木藩に居る三木流砲術の弟子の紹介状を貰っていたが途中、黒田藩の支藩 秋月藩の城下町に立ち寄った。文耕は、道中世話になった者の繋がりで、以心流を伝える剣術指南役の家を訪れた。妻ともども温かく迎え入れられ、すぐに馴染んだ文耕。力量をすぐに見抜かれた文耕は指南の手伝いを求められ、引き受けた。
二人には男の乳児がおり、それも心地よく感じていた文耕。

そんな日々が続いたが、その指南役が親切心で、密かに秋月藩へ文耕を仕官させる話を進めていた。
それが藩主に届くと、御前で指南役と手合わせをする話が決まった。丁重に断った文耕だが、藩主に逆らう事が出来ない指南役は、手合わせだけでもと懇願。
そして当日。藩主の望みで防具なしの木刀による手合わせ。
手合わせが始まると、文耕同様指南役も同じ正眼の構え。


--はて? 不吉な予感がする文耕。

十五 60
手早く決着をつけようと間合いを詰める文耕。すると同じ間合いで後ろに下がられてしまう。次いで文耕が上段に構えを移すと、指南役も同様にした。こちらの構えを模しているのだ。
そこで数日前の、彼とのやりとりを思い出した。庭の小さな池の水面を見て、木刀の構えを様々に変える事を半刻も続ける。
以心流にある「水月ノ間と水月ノ心」月を映す水と同様に相手と対峙するという。相手の全く同じ動きをし、寸前で察知。
文耕は、今度は間合いを一気に二歩詰めた。指南役は逆に前に飛び込み打って来た。辛くもその木刀を避けた文耕。
続けざまに打ち込まれ、余裕を失った文耕は突きを入れた。
園木が教えてくれた臨機の太刀で、相手に敵わない時は突きに専念せよというのがあった。突きは下手側の最後の武器。


全く予期していなかった指南役は、喉仏を砕いて絶命した。
死者が出たことに立腹の藩主。仕官の話は立ち消えになった。
葬儀のあと、別れを告げるため指南役の家を訪れた文耕。
妻は忌が明けたら実家に戻るという。妻は恨みがましい事は一切言わなかったが、この子が成長して父の死の理由を知ったら、仇討ちしたいと言うかも知れないと言った。
文耕は黒木藩には向かわず、宿で白木の位牌を一晩拝む。
翌日その位牌を川に流した文耕は、古物商で大小二刀を売った。店主は名刀だと怯んだが、押して頼んだ文耕。

こうした思いはいくら意次でも理解出来ぬだろうと思った文耕は「御目見得以上とか、以下といった事のない世界で生きるのも悪くない」と返した。
無礼を承知でと断り、あまりに勿体ない、と言った意次。

十六 61
文耕が士分を捨てた事を、重ねて勿体ないと言う田沼意次。
それについては意次の亡き父 意行(もとゆき)も左京殿の事は粗略に扱ってはならぬと言ったという。一度だけ会っていた文耕。
それは享保十八年、意次十五歳、文耕十六歳の秋。田沼家に立つ立派な楓を見る観楓の宴に、意次の朋友として呼ばれた文耕。

田沼意行についてはあまり知られていない。紀州家の四男で、後の吉宗となる新之助の足軽になった意行。吉宗が将軍になってからも仕え続けたのは、篤実な勤めぶりからか。
和歌にまつわる話が伝わっている。献上された琴の内部に書かれた紀貫之の和歌表現「べらなり」が奇妙だとの声に、他の歌の例を挙げて肯定し、吉宗らを感心させたという。
それを機に意行は和歌を学ぶ事になった。
古典好みの吉宗が享保十七年に曲水の宴を開いた。
酒を注いだ盃を流しながら歌を詠むという趣向。
その翌年に田沼家で観楓の宴が催された。
前年の十七年は飢饉で米の値段が高騰。だが翌年の享保十八年は豊作で、大人たちは米価も落ち着くと話している。小禄の御家人には、米価の下落が必ずしもいい事ではないと感じていた文耕。
その気配で意行から意見を求められた文耕。遠慮したが強く勧められ思った事を話した。

不作、豊作で唯一困らないのは仲買いや問屋など。お上はこれらの者から、もっと冥加金を取る方法を考えてはどうか・・・
意行が感心したが、意次の受け売りだと言う文耕。数ケ月前、東本願寺法王下向で門徒が五千両も献じた話を意次がした。
昔の話で記憶がない、と言って文耕に花を持たせた意次。
その心憎い振る舞いに、少年離れした配慮を感じた文耕。

十七 62
田沼家での観楓の宴も終わり、文耕が帰ろうとすると、意次の父意行がそこまで歩こうと誘った。自分が田沼家の息子の友人としてふさわしいかの品定めをされていたと気付いた文耕。
このまま歩いて、我が家の暮らしぶりを見るつもりがあるのか?
そんな時意行が、やがて役についた時はしばらく動かず待つようにと諭した。自身の奥底を見透かされている気がした。意行はそれだけ伝えると戻って行った。「待つことです」を反芻する。 
だが文耕は待てなかった。二十五歳で家禄を返上してしまった。

そんな事を思い出していると意次が、意行が亡くなる少し前、文耕の年齢を彼に訊いた事があったと言う。もし存命ならば田沼家入りを申し入れたことだろうとも話した。
意次自身この立場になった時、もし文耕が居たならと思ったのは一再ではないと続けた。里見樹一郎を家臣にと思ったのも、彼に文耕の面影を見たからだとも話す。
意次はしばらく文耕の話した後、増上寺から戻る家重を迎えに行った。本来月命日に行くのは老中の本多正珍だったのが、家重自ら出掛けたため、途中の道草が疑われない様配慮が必要。
意次から聞いた本多正珍の名は聞き流したが、それは巨大な敵として、後に立ち現れることになる。

文耕は礼金の残りを受け取ると、駕籠を断って屋敷を出た。
実に驚くべき午後だった。崇められている将軍に会い、言葉まで交わしたこと。罵っていた大岡忠光が、それについて咎めなかったこと。あの田沼意次に会い、里見樹一郎の正体も分かった事。
それにしても、と心で呟く文耕。


これまで自分は何を書き、何を語っていたのだろう。