新聞小説「暦のしずく」(2)第二章「怪動」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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新聞小説「暦のしずく」(2)第二章「怪動」

17(2/4)~27(4/15) 朝日新聞be(土曜版)連載
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ
過去レビュー           

感想
第一章の「采女ケ原」では主人公である馬場文耕の概要が語られた。腕に覚えがあるが、その道を封印して講釈師をやっている。
本章ではいきさつのある芸者お六との関係と、奉行所の手入れ「怪動(けいどう)」で捕まってしまった、お六の妹分の小糸を救う算段に腐心する文耕の姿が描かれる。
隣に住むお清親子との関わりを見ても、貧しいながらも文耕の優しさがじんわりと浮かんで来る。
そして、かつて怪動で捕まったお六の下げ渡しを行い、そしてまた小糸の下げ渡しにも協力しようという俵屋小三郎も「イイ奴」
登場人物が出揃い、連載ものとして本格始動を始めた。

そして次の第三章は「夜講
小糸のために何かやって欲しい、と言う俵屋の意を受けて一肌脱ぐ文耕。


超あらすじ
第二章 怪動 一 ~ 十一

目覚めて一息ついたところへ、隣に住むお清が朝飯と味噌汁を持って来た。信太という息子がいる。亭主の飾り職人 彦一が一年前に死んでしまい、紙問屋で働き始めたお清。
見舞った折りに二人を頼むと託された文耕は、飯を作ってくれたら米代は持つという提案をして今に至っている。
例の飯屋「吉の字屋」での手伝いも紹介してやった文耕。

お清から昨夜のことを聞かれる。調理場から見られたか。
里見樹一郎と少し飲み過ぎた。帰り際に、信太を手習所に通わせる事の相談を受ける。講釈のない日には、信太に読み書きを教えていた文耕。賛成の返事を受けて喜ぶお清。
午後からの講釈「太平記十七巻」の準備をする文耕。
お清が深川仲町の芸者、お六に挨拶する声が聞こえる。
ほどなくして表の引き戸を開け、お六が入って来た。

深川芸者の粋な羽織姿。そのお六が正座で深々とお辞儀した。
貸本屋だった父が労咳で死に、その借金のため自ら芸者になった。
文耕が残したお六の逸話。武士、町人の集まる句会で百人一首の「もじり」が余興で行われた折に、医師が話した蘊蓄の間違いをさりげなく教えたお六。その知識が深川界隈で有名になった。
お辞儀からなおると「お願いがあります」
昨晩深川に入った怪動で、十七人の女たちが捕まったという。

公認の吉原に対して、気軽に遊べる岡場所の台頭を取り締まるため、奉行所が数年に一度行う手入れが「けいどう(怪動)」
捕まった娼妓は吉原に送られ、三年無給で働かされる。
お六は父親の墓参で助かった。恩人の命日を忘れていた文耕。
江戸に戻った時無一文だった文耕は、たまたま会った貸本屋の惣助から本を借りたのが縁で、筆耕の仕事を紹介された。その後の講釈の仕事も。何とか今暮らせるのはお六の父、惣助のおかげ。

労咳で寝込んでしまった惣助。文耕は、筆耕の仕事はあったがとても他人を助ける余力はなかった。父親亡きあと深川の娼楼へ身を売ったお六。以来惣助の命日には供養していた文耕。
妹分の小糸と墓参りをしたが、断れない座敷に出て彼女が捕まったという。お六自身も先だっての怪動で捕まっていた。
二度捕まっていたお六。最初は丸二年、吉原で荒い勤め。二度目の時は、文耕が楼主俵屋小三郎に頼み、芸者として扱われた

お六の頼みは、小糸にも俵屋に入札してもらえないかという事。
二十五で自前の芸者になった折りに小糸を引き取ったお六。
何とかしてやりたいが、俵屋もただの善人ではない。
命だって惜しくないと言うお六を宥める文耕。
講釈を終えて長屋に戻った文耕。隣の信太が居れば一緒に食べるところだが、今日は「吉の字屋」で賄飯を食べる日なのだろう。
暮れ六つの鐘を聞き、いくらか急いで吉原に向かった文耕。

現代に戻っての地理講釈。かつて吉原は日本橋近くにあったが、幕府の意向で今の場所に移転。
日本橋から吉原までの五十丁がどれほどの距離かの検証。
概ね5.2キロ。時間にして一時間程度。
吉原の町並み説明。大門が唯一の入り口。
京町一丁目に俵屋があった。

文耕と俵屋の接点は五年前。長屋を訪れた俵屋小三郎。客が皆岡場所へ流れる。遊女の人気を講釈で盛り上げたい。たまたま文耕が講釈の折りに話した、天草出身の遊女の話で思いついた。
言下に断る文耕だが、太平記とて伝聞ではないかと食い下がる俵屋。言葉に詰まる文耕。同じ疑問を持ったこともあった。

妓楼の喧伝に講釈は使えぬと断り続けた文耕。だが俵屋はその後も時々手土産を持って訪れる。話すうちに、手代にまでなった薬種問屋を辞し、急死した兄の代わりに妓楼を継いだ事が分った。
次第にこの男に親しみを持つ様になった文耕。
お六が怪動で四年前に捕まった時、思い出したのが俵屋。お六の面倒を見る代わりに、講釈で人気を高める様頼んだ俵屋。
結局読物でお六の宣伝をすべく、それを書き上げた文耕。
前述の句会での活躍は文耕の創作。
本は次第に評判になり、お六の人気も高まって行った。

怪動で捕まったお六は吉原での勤めを終え、深川で自前の芸者になった時に小糸を引き取った。その矢先の出来事。
妓楼 俵屋まで行き俵屋小三郎に会う。昨夜の事は知っていた。
小糸のことも、今売り出し中の芸子と知っていた。微苦笑する。
十一
今回程度の人数だと全町での入札となり、高値が必要かも知れぬと言う俵屋。また引き取るに当り文耕の力添えが必要だとも。
俵屋が望むのは講釈の場での話。夜講の場を設けると言う俵屋。
前祝いと称して酒と肴を出され、痛飲した文耕。
見送られる時、薬種問屋での掛け取りの事を聞いた文耕。盆と暮れの二回で金額は三十両ほどだという。聞いた理由は濁した。




あらすじ
第二章 怪動(けいどう)
 17
明け六つの鐘で目覚めた文耕は、起きて水を飲んだ。
一息ついたところへ、引き戸を強く開けて隣に住むお清が入って来た。薄い壁のせいで、文耕が水を飲んだ事も知られていた。
手にした盆を上がり框に置いたお清。しじみの味噌汁付き。
お櫃と汁の小丼を寄せて盆を返す文耕。


お清は、彦一という飾り職人と男児 信太の三人で暮らしていたが、一年前に彦一が風邪で寝込み、そのまま原因も分からず弱って死んでしまった。途方に暮れる母と子。大家の十蔵も困り果てたが、何とか紙問屋で午後の仕事を見つけてやった。
彦一の死の数日前に見舞っていた文耕。「女房と・・ガキの事を・・お願いします」との言葉に「わかった、心配するな」
だがそのまま死んでしまった彦一。困惑する文耕。
文耕自身、本職は写本づくりで余裕はない。
そこで大家の十蔵を通じて、自分の飯も炊いてくれるなら米代は全て持つと提案した。喜んだお清。米代稼ぎの責を負う文耕。
もう一つ文耕がしたのは昨日の飯屋「吉の字屋」への紹介。
老夫婦だけでやっており、手伝いが必要だった。
すぐに仕事に慣れ、頼られる様になったお清。


 18
お清は、毎朝炊き上がった飯を小さなお櫃に入れて持ってくる。
それで充分だが、味噌汁や煮豆など添えてくれるのが有難い。
「昨日の晩はずいぶん遅いお帰りでしたね」とお清。
結局店では三本飲んだ。調理場から何かの折に見られたか。
相手の里見樹一郎は、同じだけ飲んだのに全く酔った風を見せなかった。少し喋り過ぎたかも知れない。
帰り際、お清が息子の信太を手習所に行かせた方がいいか聞く。
文耕は亭主に頼まれたこともあり、講釈のない日には信太に読み書きを教えていた。飲み込みが早く教え甲斐がある。
金はかかるが手習所で学ばせたい気持ちもあるお清。
「手が離れるなら却って有難い」との返事に喜ぶお清。
信太に無駄な時間を取られない事が、喜びでないのに気付く。

文耕は、座ってお櫃から茶碗に飯をよそった。江戸では、どんな貧乏人も白米を食べようとする。今朝のお菜はしじみの味噌汁に佃煮、煮物。ゆっくり食べてから食器を洗い、箱膳に戻す。

昼から行う講釈「太平記」の十七巻の準備。

楠木正成が死に、後醍醐帝が比叡山に退去。新田義貞はことごとく破れ、後醍醐帝は和睦を模索する・・・
それが終わった頃、お清の声。深川仲町の芸者、お六に声をかけていた。深川からわざわざこの松島町まで来た。
文耕の在宅を聞いてすぐ表の引き戸が開き、お六が入って来た。


 19
文耕の部屋は江戸長屋の中でも最小の「九尺二間」(土間一畳半、居室四畳半)畳を敷いているのは文耕だけ。

無理をして買った。読書にも筆耕にも畳は必須。
文耕の部屋の土間に入ったお六は羽織姿。普通女は羽織など着ないが、それが深川芸者の粋だった。だがまだ午まえ。

その恰好はどうした、との質問には答えず許しを得て部屋に上がると、正座をして深々とお辞儀をした。
さすがは深川一、二を争う芸者。動作に張りがあり美しい。

貸本屋だった父親。母親は産褥で死に、父親がお六を育てた。
だが労咳で死んだ父の借金のため、自ら芸者となった。
文耕の著作の一つに「当代江都百化物」という読物がある。
文耕が捕縛される宝暦八年の直前に出された人物誌。
その中に、「本屋お六」についての描写がある--
ある座敷で武士、町人が集まり句を詠む会が催された。題は百人一首の「もじり」の句作り。お六ら芸者も控える。
一人が唄った句で盛り上がり、医師がその句の所以の者を「能因法師」と皆に話した。医師の隣にいたお六が「恵慶法師」と囁く。自分の間違いに気付いた医師は訂正。
お六の知識を確かめる様に、皆がこぞって問題を出す。

全ての問いに正解したお六。詳しい事の理由を、家が貸本屋で小さい頃から本を片端から読んだからだと言った。
以来深川界隈で有名になり、本屋のお六として知られた。

深いお辞儀からなおると「お願いがあります」と言うお六。
「昨晩、深川に怪動が入りました」「何!またか」
不意をつかれて十七人が捕まったという。捕まった女たちは深川から吉原に送られ、三年に亘って無給でこき使われる。
暗然たる思いの文耕。


 20
昨夜は仲町以外はおざなりだったと言うお六。「狙われたか」
江戸時代、公に許された遊里は吉原だけ。だが百万都市の江戸で足りる筈がない。非公認の遊里が各所に発生。

それらを総称して岡場所と呼んだが、吉原にとっては商売敵。
江戸も中期になると、手続きが面倒な吉原より手軽で安価な岡場所が好まれた。それらの取締り要請を受け、町奉行所が数年に一度岡場所の手入れが行った。

それが「けいどう」と呼ばれ、文耕は「怪動」と書に記した。
そこで捕らえられた娼妓たちは吉原に送られ、最大三年無給で働かされる。怪動の際は、岡場所の楼主も警戒し、隠し扉から舟で逃す等の手筈も整えている。

お六の話では昨夜その「怪動」が行われた。

事前の気配が全くなく、仲町だけで十七人が捕まった。
お六が無事だった事をますはめでたいと言った文耕だが、ちっともめでたくないと言う。「昨日はお父っつあんの命日でした」
何か忘れている事があったと気になっていた。座り直し頭を下げて謝る文耕。恩人といってよい惣助の命日を忘れていた。

江戸に舞い戻った時、文耕は全くの無一文。死んだ父の仲間のつてを頼り、日雇い仕事をしながら裏長屋で暮らしていた。
そんな時に、荒物屋の店先で貸本屋を見つけた。当時は本を担いで持ち、顧客を訪ねては本を勧めるという商売。

そのやりとりを見るうちに、久しぶりに本が読みたくなった文耕は、貸本屋に一冊貸して欲しいと頼んだ。

普通なら断られるが、応じた貸本屋。
きっちり十日後に本を引き取りに来た貸本屋。

その往来が三カ月ほど続いた時、惣助から筆耕の仕事を依頼。
それは貸本を作るための筆写。日雇い仕事から解放された文耕。また惣助は商家に声をかけ、講釈の場も手配してくれた。
何とか暮らせる様になったのも、惣助のおかげ。


 21
お六の父 惣助は、文耕が江戸で暮す手立てを与えてくれた。
だがすぐに労咳で寝込んでしまった。お六は稽古事を止めて看病に専念。文耕は、惣助が繋いでくれた縁で筆耕の仕事は続いたがとても他人を助ける余力はなく、惣助らの借財は増えて行った。
お六が十七になった時、彼女自ら深川仲町の娼楼を訪ね、三十両で身を売ることを決めた。
ただし父が亡くなるまで待って欲しい。
楼主はその申し出を受けた。父を弔ってから妓楼入りしたお六。
以来、惣助の命日にはささやかな供養をしていた文耕。
それを忘れてしまったと謝る文耕。お六は、妹分の小糸と一緒に墓参りへ行ったという。それはよかったと言う文耕だが
「それがよくなかったんです」とお六。
お六は父の命日でもあり、座敷は全て断ったが、小糸が断れずに座敷に出て捕まってしまった。これから足掛け三年の苦行。
先の怪動では、文耕の計らいでいい店に引き取られたお六。

宝暦七年の現在まで、お六は二度怪動で捕まっている。最初は丸二年、吉原の妓楼で荒い勤めをやらされた。
二度目の時は、文耕が何とか京町の楼主 俵屋小三郎に頼んで落札してもらい、芸者として扱われた。

このお六については文耕の「当代江戸百化物」でも触れているが、年齢が合わない。様々な経緯が語られ、最終的に深川に戻った時の年齢が三十二歳となっている。だが記述通りに年表を書いてみると、同じ時期で二十七歳となる。
なぜお六に余分な齢を取らせたか。当時吉原で働かせる娼妓は二十七までという定めがあった。文耕は、お六が三たび怪動に引っ掛からないようにと配慮したのではないか。
とすると「百化物」が書かれた宝暦八年の一年前である現在、お六はまだ二十六歳だったことになる。


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「お願いは・・・」言いよどんだが意を決して続けるお六。
小糸にも、俵屋に入札を頼んで頂けないかとの申し入れ。
小糸はただ一人の身寄りだという。
お六が妓楼と交わした年期は九年であり、怪動での四年間は年期から差し引かれる筈だったが、楼主の計らいにより二十五で自前の芸者になれた。その折りに妹分の小糸を引き取った。
そんないきさつで、線の細い彼女を吉原には送りたくない。
畳に手をつき、額をこすりつけるほど頭を下げたお六。

何とかしてやりたいが、今度俵屋に頼めば、先方からの頼みを断れなくなる。俵屋も、ただの善人ではない・・・
「さて・・・」思案の文耕に、願いを聞いてくれたら命だって惜しくないと言うお六。「お前の命をもらっても仕方がないが」
それでたわいもない言い合い。父親の話になり文耕が、惣助さんの代わりにお前を見守るつとめがある、と言った時
「お父っつぁんは二人も要りません。あたしが欲しいのは・・」
最後まで言わせず「わかった、わかった」と切り上げる文耕。

その日、文耕は講釈を終え、お芳の煎れた茶を飲むと早々に十蔵長屋に戻った。隣の、お清の倅 信太がいれば一緒に夕飯を食べようと思ったが「吉の字屋」に行った様だ。
紙問屋のあと吉の字屋で働くようになったお清だが、信太はひとり。文耕が、沸かした湯で湯漬けを食べさせる様になった。
そのうちに、寂しい信太が吉の字屋へ行く様になり、賄飯を食べて一緒に帰るのが三日に一度。今日がその日か。
文耕は火を起こすと湯を沸かし、それと梅干で湯漬けにした。
そのとき暮れ六つ(午後六時)の鐘が鳴った。
文耕は部屋を出ると、いくらか急ぎ足で吉原に向かった。


 23
かつて吉原は、文耕の住むところの近くにあったが、遊郭が日本橋のそばにあるのが不都合だと思う幕府の意向で移転。
日本橋から吉原までは、距離で五十丁(一里半弱)
時間で一時間半。

五十丁とは実際どの程度の距離なのか。それを確かめたい私は、日比谷線人形町駅から新吉原の旧地まで歩いてみた。
馬喰町駅から神田川にかかる浅草橋を通り、浅草線の蔵前駅から墨田川沿いを歩く。その後も様々な経路の説明。
そして暫く行くと「吉原大門」と記された信号が見えて来た。
そこまでで一時間十二分。文耕だったら多分一時間程度。
歩数計では「6981」約5.2キロ。あまり長くは感じなかった。

新吉原は、元吉原の町並みをそっくり真似て再建された。
町は堀と塀で囲まれ、大門が唯一の出入り口。
町のまん中を仲の町という通りが走り、右側が江戸町一丁目、左側に伏見町と江戸町二丁目。その先の右に揚屋町、左に角町、更に京町一丁目、二丁目がある。
揚屋町には妓楼がなく、吉原で生きる者の住まいがある。
文耕は京町一丁目に行くつもりだった。そこに俵屋があった。


 24
文耕はなぜ俵屋に向かおうとしていたか。
五年前のある日、文耕を訪れる者があった。それが俵屋小三郎。吉原妓楼の主にしては三十少し上と若い。
相談のために来た。武士たちの懐具合が悪くなる一方、金のある町人などは岡場所を選ぶ。このままだと吉原は滅んでしまう。
俵屋は、手の届きそうなうちの遊女を人気者にしたい。

この時代、吉原の遊女の寸評を載せた評判記が出ていた。
それを口の端に乗せ、噂話にして行く。彼がたまたま文耕の夜講を聴いた時に閃いた。

それは天草軍記物だったが、話中で挿入された、天草から逃れて来た女児が立派な遊女となり人気を誇ったというもの。
もしその遊女が吉原にいたら、遊び人は興味を持つ筈。
もし講釈の席で、その題材にまつわる遊女が俵屋にいるという体で話してもらえたら・・・・
言下に断る文耕だったが、その遊女に会わせるので、話を作って語ってもらえれば、礼はたっぷり出すと言う。

ないことを、あるとして話す事は出来ぬと言えば「太平記」などでも、本当のところは分からない筈ではないかと食い下がる。
多くは伝え聞いたこと。作った話と大して違わない、
神や仏でない限り、全てを見る事など出来ない、と言われて言葉に詰まる。実は文耕も、同じ疑問を持ったこともあった。


 25
俵屋は続けた。どなたかが見て来た様な話を繋ぎ合わせて書いたものの、思いを巡らせたところだけで話を作って欲しい・・
妓楼の喧伝のために講釈を使うなど出来ぬ、と断り続けた文耕。残念そうに帰る俵屋。だが文耕は彼を不快には思わず。
縁が切れたと思った俵屋だが、時々手土産持参で訪れる。

話すうちに彼のことが分かって来た。俵屋の次男だったが、兄が急死したために継ぐ羽目になったという。
俗に忘八と呼ばれる妓楼が嫌いで、薬種問屋の丁稚から手代まで精進していた。
兄が奇病で死んだことで、母親から拝み倒されてこうなった。
だが仕事を続けるうち、父親がしていた遊女たちへの折檻を自分もするようになり情けない。だから妻子は持たぬ・・・
文耕はこの男に親しみを持つ様になった。

自分の稼業に折り合いを付け難い半端さが、自分に似ている。

お六が怪動で四年前に捕まった時、思い出したのが俵屋。
俵屋は余計なことは一切言わず、お六の下げ渡しを引き受けてくれた。ただ交換条件として、講釈の場でお六の人気を高める話をしてくれと頼んだ。相変わらずそれは断ったが、せめて読物にお六の事を書いてくれと言う。文耕の出す写本は誤字、脱字等直され、評判が良かった。お六を遊女ではなく、芸者として扱うとも言われ、最後は引き受けた文耕。

お六が俵屋に下げ渡されて、七日で読物を書き上げた文耕。
題して「富賀三本桜」菊弥、米蝶、そしてお六の評判記。

お六の事については前述の、句会での鮮やかな振る舞いが記されていたが、実は文耕が勝手にひねり出したもの。そして今は吉原の俵屋にいると書き添えられていた。
本は、日が経つにつれてじわじわと評判になり、お六の人気も
高くなって行った。美登里と名を変えたお六はどんどん美しくなり、それが更に人気を呼んだ・・・・


 26
怪動で捕まったお六は、吉原での勤めを終え深川に戻る。
自前の芸者になってからは、妹分の小糸、飯炊きの老女との三人で暮らし始めたが、その矢先に小糸が怪動で捕まった。

吉原に向かって歩く文耕。金がある遊び人なら舟か駕籠。
舟なら百五十文、駕籠なら三百文。現代なら三~六千円。
だが運び手に酒手をはずまなくてはならない。結局歩く文耕。
近付くにつれ各店に灯が入り、まさに不夜城。
今度小糸の頼み事をすれば、また吉原で売り出すための話を書く事を求められるだろう。歩きながらぼんやり考えていた。

京町一丁目を少し通り、俵屋の前に来た。若い衆が目ざとく見つけて挨拶する。お六の件以来だが、覚えていたらしい。
「俵屋さんはおいでかな」客以外と理解し奥に下がった男。
少し待つと良く通る声が聞こえ、俵屋小三郎が出て来た。
「もしやお遊びになられる・・・」俵屋からは、金の心配はせずに遊んでくださいと誘われていたが断り続けていた。
「いや、実は・・・」と言いかけると、俵屋は全てを察して楼主が座る席を素通りし、その奥の部屋に導き入れた。
「実は、折り入って頼み事があって・・・」

「もしや、昨夜の?」
察しがいい。だが今回はお六ではなく妹分の小糸が捕まった。
「ああ、仲町でいま売り出し中の芸子ですな」と俵屋。
可哀そうに、と言いつつ吉原にとっては商売敵の売れっ妓が減るから喜ばなくてはいけないが、と複雑な笑いを浮かべた。


十一 27
小糸は、お六ほどではないが吉原でも名が知られているため、入れ札の値も高いだろうと言う俵屋。
小糸は線が細く無理が利かないと言う文耕は、俵屋にぜひ札を入れて欲しいと頼んだ。「お六が?」頷く文耕。
今回の怪動で捕まったのは二十人余り。全町での入札だと、高値を付けなければ落とせないかも知れないと言う俵屋。
お六の時は江戸町一丁目に割り当てられていたため、名主に手を回して俵屋へ下げ渡しが出来、その後人気者になった。
俵屋は、引き受けるに当り文耕の力添えが必須だと言った。
覚悟はしていたが、お六の時のような匿名の本では通じない。

それについて俵屋が、講釈の場で話して欲しいと言う。小糸にはお六の様に強く惹き付けるものがないため、早くその存在を知らしめたい。講釈で明らかな作り話を語っていい筈がないが、言い分は妥当。
「・・・一度でいいのかな?」 もちろん、と請け合う俵屋。
下げ渡されたら、どこかで夜講の場を設けると言う俵屋は、前祝いと称して酒と肴を用意した。夜明けまで飲んだ文耕。

 

見送られながら歩く途中俵屋に、前の仕事が本町の薬種問屋だった事を改めて訊いた文耕は、掛け取りのことを聞いた。
盆と暮れの二度だと答える俵屋。どのぐらいの金額になるかと訊く文耕に、概ね三十両くらいと言った。
「それが何か?」と訊かれても口を濁して去った文耕。