「暦のしずく」(7)第七章「箱訴」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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*1~5章の超あらすじは参照

暦のしずく」(7)第七章「箱訴」 74(4/13)~84(6/29)
朝日新聞be(土曜版)
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ

感想
公事宿で働く伝吉の繋がりで、秩父屋 半七から駕籠訴に関わっている百姓の喜四郎と定次郎を匿うことになった文耕。
講釈小屋の夜警をさせるも金森藩に見つかり、里見の助けを借りて何とか対応する文耕。久しぶりの活劇を楽しめた。
そして二人は更に吉原の俵屋に匿われる。何と都合のいい(笑)
以前文耕と縁談話があった一色啓之進の妹 田鶴が金森家の奥女中頭をしているという話にはびっくり。ここで出したという事は、次章にも絡むのだろうな。

再び家重に御前講釈を行い、郡上における騒動の裏にある政の歪みを訴える文耕。しかしこれはどう考えても危険。

この小説の、どの辺りからがフィクションなのか微妙だが、家重の抜擢により意次はこの郡上一揆の吟味に関わる事になり、側用人から一万石の大名に取り立てられた。
そして結果的に馬場文耕の処刑にも関わることになる。
次第に外堀が埋まって来た。この年の十二月に処刑される文耕。

郡上一揆についてはウィキペディアが詳しい(文耕の件も)

 

これによれば文耕は吟味中にも幕府批判を繰り返し、本来なら遠島程度の罪状だったのが、市中引き回しの上打首、獄門となった。文耕にそこまでの行動をさせた思いとは?
次章は「公儀を畏れず

あらすじ
第七章 箱訴 一 ~ 十一
一 74
弟子の源吉が秋田から戻ってから、文耕は秋田騒動の絵解きに熱中したが、暮れの二十五日には久しぶりに琴弾句会に出た。
連衆みなから歓迎された文耕だが、そこで秋田騒動の事を少し話すと、大名の留守居役らしき人が件の、処刑された那珂忠左衛門と数度会った事があると話した。藩主 佐竹義峰の長女 照姫に気に入られ、江戸詰め家老として君臨していたという那珂。
騒動の推移が、ひとつの筋として見えて来た。
江戸詰めで藩政を牛耳る那珂忠左衛門が、国元にも一派を作り義峰の跡を継いだ義真を毒殺。次の藩主 義明を女色で溺れさせ、財政逼迫には銀札を発行。出入りの商人を使い運用しようとしたが失敗して物価高の失政を招いた。
藩主 義明が国元に戻った折りに那珂一党と直訴組が揉めるが、結局直訴組は敗北。だが残った忠臣派の決起で義明も立ち戻り、逆襲に成功。一党は捕らえられ、那珂忠左衛門は処刑された。

明けて宝暦八(1758)年。文耕は満を持して秋田騒動を語った。
講釈は大反響を博した。出来事を一日づつ語り継ぐ毎日。
楽日の講釈も終わり、木戸銭を受けとって小屋を出た文耕。
すると水茶屋に居た武士が立ち上がり、文耕に並んだ。


いつぞや身銭を切って講釈を聞いた、痘痕のある同心。
面白くはあったが、決着したとはいえ生ものの題材だという。
うちのお奉行、と言っており北町奉行所だろう。
「気をつけるこった」と言って去る同心。
その危惧は市兵衛も抱く。二月もこれで行くと聞き不安顔。

二月は夜講は行われず。井筒屋の主人が床に臥せっていた。
采女ケ原の昼講では、秋田騒動を予定通り語った文耕。
ただし随所に妾のお百という女を出し、拵え物の体にした。
采女ケ原の楽日が過ぎると、文耕はこの秋田騒動を読物にすべく執筆に精力を集中した。現代なら中編小説。当時なら大長編。
これを不二屋兄弟に持ち込むと、大いに喜ばれた。

やがて三月の采女ケ原の昼講の日が近づいて来た。
今度は「江戸をんな暦」として十人の女の話を考えていた。
三月十日の午後、そんな折りに来訪者。
伝吉が連れて来た、黒羽織姿の押し出しの良い町人。
「秩父屋半七と申します」伝吉の言葉を引き取って
「折り入ってのお願いがございまして」込み入った用件か。
「まあ上がれ」文耕が言った。


二 75
その町人は部屋に上がると改めて挨拶をした。
「神田橋本町で公事宿を営む秩父屋半七でございます」
伝吉には助けられている、とそつのない受け答え。
話は長いがと断り、四半刻ほどかかったが、無駄がなかった。

美濃の郡上にある金森藩という小藩に、四年前から続く騒動。
短い期間に二度も転封(領地替え)を強いられ疲弊。
加えて短期間に江戸藩邸が二度焼失し、再建費用が嵩んだ。
更に藩主 頼錦が幕府の奏者番に用いられ、要職に進む地位ではあるものの交際費が桁違いに必要であり、藩の財政を圧迫。
その対策として領民に種々の税をかけたが、年貢の取り立てを定率の定免法から、毎年の作柄に応じて課する倹見法、それも最も過酷な有毛倹見法にした。これは百姓の増収成果を全て搾取するものであり、明らかな増税。庄屋たちの声も届かず、百姓らが集団で強訴に及び、一旦は藩側もそれを断念する。


だが翌年の宝暦五年、藩の策略により庄屋らが検見取りを「お請けする」書状に印を押してしまった。
それに対し百姓の代表が、江戸詰めの藩主 頼錦に願書を出すが
容れられず、捕らえられる。百姓らは更に幕閣の要人の駕籠行列に飛び込み直訴する「駕籠訴」に及んだ。相手は慈悲心が篤い
老中 酒井左衛門尉。その件は北町奉行依田和泉守が吟味する事になった。扱いは好意的だったが、吟味されぬまま翌年十二月、郡上への帰国が命じられた。科人でもあるので「村預け」として幽閉されるまま宝暦七年となり「願い流れ」になりかけている。

秩父屋の話を聞きながら文耕は二、三年前から断片的に聞いていた事象が繋がって行くのを感じていた、
だがこの話が、秩父屋の頼み事とどう結びつくのか分からないが、文耕は百姓らの大胆な行動に強く惹かれた。
その時、あの痘痕の同心が言った「生もの」の言葉を思い出す。
この話は生ものどころか、飛び跳ねる魚の様なものではないか。


三 76
文耕は改めて秩父屋に、自分への頼みの内容を訊いた。暫く大きな動きがなかった郡上で、昨年暮れに事件が起きたという。


そこでは検見取りに反対する百姓を立者、藩に従おうとする百姓を寝者と呼ぶが、町方で味方する町方立者の有力者 宿屋太平治が昨年十月、些細な事で牢に入れられた。
これに怒った立者百姓が、太平治の解き放ちを求め騒ぎを起こした。それは何とか収まったが、騒ぎの首謀者 勘助が捕縛された上、斬首された。
危機感を覚えた立者百姓は「願い流れ」を恐れ、真偽確認のため二人を江戸に送った。一方藩は、寝者百姓の手引きで帳元である歩岐村の四郎左衛門宅を襲い、帳面を奪う挙に出た。
帳元というのは金銭の出納責任者。闘争の資金管理を確実に行うことで長期の活動を成立させていた。組織の全容と資金の流れは、帳元の持つ帳面を見れば分かる。

帳面が奪われた事を知った立者らは、その案内をした寝者百姓を捕らえ、四郎左衛門宅に押し込めた。それを知った藩側が、救出のため大量の足軽を送り込む。それに対峙する数千の立者百姓。双方に多数の負傷者が出た。事態は「騒動」から「一揆」になりそうな様相を帯びて来た。
江戸に送った二人は役に立たず、追加で七、八人を送った。
一方「駕籠訴」の際、村預けとなっていた喜四郎と定次郎が密かに村抜けをして郡上を出た。

その二人が、駕籠訴の時に世話になった秩父屋を頼って訪れた。
二人は駕籠訴人の中でも三十代と若く、読み書きも出来た。

喜四郎は弁が立ち、定次郎は寡黙だが実行力がある。

事が成るかどうかは、この二人が捕まらない点にかかっている。
だが秩父屋に関わりのある場所はくまなく探索される。かといって並みの者には頼めない。そこで伝吉に相談したという次第。
「見込まれてしまったな」文耕はどこか楽しげに言った。
文耕が即座に断らなかったのは大岡の屋敷で、単に噂を語ったり書いたりではなく「真」に向かわなくてはと思ったから。
秋田騒動は源吉の働きで詳細は分かったが、事実の色付け程度。
一方この金森騒動は、蠢きのたうっている獣の様なもの。
引き受けるとは決めたが、はてどこに泊めるか。
伝吉が、暮れに源吉に言っていた、采女ケ原の見世物小屋で夜番をする話を遠慮がちに言った。良案だが、まずその二人に会ってからと秩父屋に言う文耕。危険を冒すに値するか確かめたい。


四 77
その夜、件の百姓二人が伝吉に伴われてやって来た。
切立村の喜四郎に、前谷村の定次郎。定次郎はいかにも百姓、喜四郎は上方商人の様な細面。年嵩の喜四郎が主に答えた。


村抜けをしたとなると重罪。なぜそうしたかを訊く文耕。
先に発った立者百姓の結果を見届けたいと言う。
二人は頭取かと訊くと「それは申し上げられません」
誰が頭取か分からない様に「傘連判状」にしているという。

現在、郡上にある資料館に連判状のレプリカがある。

傘状に書かれ、初めもなければ終わりもない。だがそれが、頭取を求められ拷問の末牢死する者を増やす要因となった。

お前たちの敵は誰だと訊く文耕。黒崎佐一右衛門という、陰湿な検地役人の名を出した。憎むというより卑しいと言う喜四郎。
元は百姓だった黒崎を憐れむ言葉に同感する文耕。
その訳を訊く喜四郎に、二年ほど百姓をしていた事を話す文耕。
それは園木家での日々。その話で喜四郎らは心を開いた。
彼らが話す郡上の百姓の困難。春は遅く、冬は早い・・
年貢以外の税も重い。粟や稗しか食べられない生活。

江戸に潜んで、これからどうしようというのだ、と訊く文耕。
駕籠訴から二年経ち、先の望みがない。もはや箱訴しかない。
箱訴とは、八代将軍吉宗が設けた目安箱に上訴を投函する事。
自分らは村抜けをしており箱訴に名は連ねられないが、箱訴が通るまでは捕まりたくない。無駄に死にたくないと訴える。
文耕は二人に、匿うことを告げた。感謝しつつも今まで黙っていた定次郎が「どうして助けてくださるので」と訊く。
笑って「ただの、酔狂」と言う文耕だが、それだけでないことは二人にも伝わった。


五 78
美濃の騒動は、百姓たちが訴えを取り上げてもらえるかどうかについての、金森藩との熾烈な争いである事は間違いない。
二人の話は内部の者でしか知り得ないことばかり。奪われたという帳面も、実は事前に持ち出してあったという。争いの中心近くにいる者からの情報に、強い興奮を覚える文耕。
秩父屋によれば、この二人を守ることが、争いの帰趨を決するほど重要だという。十年程前に刀を売り払って以来の血のたぎり。

四人で話していると、隣のお清が信太と共に吉の字屋の仕事から帰って来た気配。文耕はお清に、今夜伝吉の知り合いを泊めるから翌朝は飯を二人分多めに欲しいと言った。余計な詮索はせず引き受けたお清。伝吉は弟子入り以来、お清とも顔見知り。
二人の夜具を大家の十蔵のところへ借りに行かせた文耕。
翌朝の二人は早くから起きて夜具を畳み、井戸で顔を洗った。
釣られて起きる文耕。お清が朝餉の支度を持って来た。
それを食べながらの会話で「あじない」との言葉を聞いて「美濃の人ですか?」と訊くお清。緊張する二人。
死んだ父親が大垣の出だったので思い出したと言うお清。
ホッとして喜四郎が、美濃でも北の方だと返した。

その日喜四郎と定次郎を伴い、いつもより早く長屋を出た文耕。


采女ケ原で市兵衛に、長屋の住人の知り合いだと言い二人を引き合わせた。小屋の夜番にどうかとの勧めにすぐ乗った市兵衛。
その後小屋の隣の水茶屋「蓬莱屋」の娘お芳に、この二人に朝の煮炊きの竈を貸してやる様頼む。礼は水運び。店には井戸がないので、お芳は喜ぶ。これで三方全てが得になる・・・
その日から、講釈が終わった後小屋に残り、二人から郡上の争いの、更に細かいを聞く文耕。

三月十五日、采女ケ原の講釈の中日、文耕が長屋に戻るとお清がやって来て午下がりに女の来客があったと言った。お六ではなく武家のお女中風だという。待つというので部屋に上らせたお清。
茶を出した時に訊いたところでは、妻になる筈だったとの話。
あるいは、と思いかけて打ち消す。その者ならどこかの旗本にでも嫁いでいる筈。さて、誰だろう・・・


六 79
「名を名乗ったか」と訊くと、お清がお茶を出した際、いっしきの田鶴と言えばお分かりになる筈、と言ったという。


「まさか、ここを知っている筈がない」と呟く文耕。
お清の話では、宿下がりの折りにどなたかに聞いたとか。
理解した文耕。恐らく田沼意次から兄の一色啓之進が聞き、伝わったのだろう。啓之進は田沼同様、若い頃の道場仲間だった。
三千五百石という、文耕の家とは比べ物にならぬ旗本の跡取り。
文耕より二つ程上で、田沼が道場通いを止めても共に通った。
啓之進の好意で何度か一色家に招かれ、少しは田鶴とも話した。
ところが文耕二十三歳、田鶴十六歳の時、縁談話が持ち上がる。
啓之進の目論見かも。だが家格が違い過ぎて立ち消えに。
一刻ほど待って帰る時に用向きを訊いたら「ひとつだけお訊ねしたいことがある」と言ったという。また思いを巡らせる文耕。

采女ケ原の小屋で夜番をする喜四郎と定次郎は、上野の上州屋に居る歩岐村の治右衛門ら立者百姓との連絡を手紙で始めた。
直接会う危険を避けた。伝吉が仕事のついでに飛脚をした。
そのやりとりにより三月二十日、上州屋の者たちで追訴を行う事になった。相手は二年半前の駕籠訴の折りに好意的だった依田和泉守。だが追訴は失敗。駕籠訴の件は落着済みだと門前払い。
上州屋の者たちと、箱訴に向けて文面を整える事になったと言う喜四郎と定次郎。箱訴は最後の手段。百姓らは追い詰められる。

二日後の三月二十二日、文耕は恒例の貸本屋の寄り合いに出た。
そこで、やはり来ていた下槙町の栄蔵に、出入りしている金森藩について訊ねる文耕。以前とは数段違う緊迫した空気だと言う。
北町奉行所から、追訴の報せが届いているかも知れない。
今後僅かな事でもいいから探ってくれと栄蔵に頼む文耕。
そんな話を小耳にしたお六が、金森藩邸の御用人が仲町の料理茶屋に良く来ると言った。いつも決まった客を招いているという。
相手を訊くと老中 本多伯耆守の御用人。
「なに、それは間違いないか!」思わず鋭い声が出た。
金森側御用人は宇都宮、本多側御用人は石井だという。
但しお六らが呼ばれるのは話のあとなので、内容は分からない。
郡上の争いに関わる何かが話されているかも知れない。
もし二人の話の内容が分かればあの「願い流れ」の理由の一端が見えて来るかも知れない。
注.栄蔵第五章 46参照

七 80
貸本屋の寄り合いの三日後の三月二十五日、文耕はその月の琴弾句会に出た。句会のあとの酒宴で、奏者番の金森頼錦についてそれとなく訊いた。連衆の中に居る近しい者の評は悪くない。
詩歌や書画を好み、天文にも知識があるという。
その中で頼錦が、老中の本多正珍から我が子の様に扱われているという話が出た。かつて正珍の娘との婚約が成ったが病死。以後頼錦は他の女を正室として娶らなかった。それを多とした正珍。頼錦が奏者番を得たのも、その背景のため。
郡上での農民らの駕籠訴がうやむやになったのも、その流れか。
金森家と本多家の用人が会っていたというのも理解出来る。
また寺社奉行の本多忠央、勘定奉行の大橋親義も郡上の争いに関わっているとの情報を得た文耕。幕閣中心の者らの関わり。

翌日、朝餉のあとも郡上の争いについて考え続けた文耕。
金森頼錦を好ましく思う本多正珍が、年貢の取り立て方変更の目論見を知った。そこで寺社奉行の本多忠央から勘定奉行の大橋親義に便宜を図るよう依頼。大橋は頼錦へ農政に詳しい黒崎佐一右衛門を紹介した。だが強引な検見法への変更は失敗し、駕籠訴にまで発展。その訴えが通りそうになったのを阻止した正珍。
それに関与し、時日を稼いだのが北町奉行の依田和泉守政次。
だが頼錦はその時日を活用出来ず、騒動は北町奉行所への追訴が行われるまでになった。だが叶うことはない。佐田は当事者。

脳裏に浮かぶ、郡上の争いの絵柄に線を入れ続ける文耕。
暗くなり始めた頃、貸本屋の栄蔵が「大変だ!」と言って飛び込んで来た。文耕が出す椀の水を飲んだ後、話し始めた。
先日の寄り合いで頼んでいた金森家の動きを調べるため、金森藩の芝藩邸へ本を持って行ったところ、邸内の長屋の一角に駕籠が二挺置かれていた。近くを通る時、切れ切れに話が聞こえた。
「・・采女ケ原の・・馬場文耕が・・」そこまで聞いて屋敷を出て、一旦荷を預けここまで走って来たという。
文耕を心配してのこと。「いや、狙いは私ではない」
だがどうして二人のことが金森側に分かったのか。
文耕は里見の部屋に声をかけ、脇差を貸して欲しいと申し出た。
火急の用と知り、打刀を差し出す里見。こんな事があろうかと用意してあったという。出ようとする文耕に
「お待ちください。私も参ります」と言う里見。
先に立って走るように歩き始めた文耕。



八 81
「これから采女ケ原に向かいます」と言う文耕に「承知」と里見。見世物小屋で匿っている百姓二人に対し、金森家に家臣が向かっていると説明する文耕。二人を守る事を理解する里見。
また里見は、打刀が刃引きしてある事を教えた。自らの刀も。
斬れない刀。人の命を奪わぬ腐心をするより戦い易いと言う。
但し、切っ先だけは研ぎが入っているという。万一への備え。

家臣らが行動を起こすのは、闇が深まってからの筈。間に合ったかも知れないと思う文耕は、見世物小屋に飛び込んだ。
中では、蝋燭の灯りの下で喜四郎と定次郎が夕餉を摂っていた。
金森家の者が来るかも知れないと言うと、二人は何も言わずに舞台の袖から小さな行李を出し、他は風呂敷包みにした。

慌てず騒がず、それらを素早く終えた姿に感じ入る文耕。
「よし、急ごう」だがその時、外を見張る里見が制した。
「来たか」黙って頷く里見。外に出る文耕と里見。
そこには武士が四人、中間風の下僕が四人。背後に二挺の駕籠。
相手をする者が居るのを予想していなかった武士たち。
二人が村抜けをしたお訊ね者だと、引き渡しを要求した武士。
お訊ね者なら八丁堀が出張る筈だと返す文耕。相手が抜刀した。
だがその四人の中で使えそうなのは二人。

里見と、相手を決めて抜刀した文耕。阿波の園木覚郎に伝授された技に、二人の相手と戦う時のものがあった。

下手とまず戦い、隙を作って上手が仕掛けたら迎え撃つ。それが見事に決まった。相手は刀を取り落とし、右手は動かない。

一方里見も上手の者を倒した。

残る二人は、茫然と構えているだけ。
早く戻って医師に見せれば助かるだろう、と促すと武士二人は、中間らと共に倒れた二人を駕籠まで運び、去って行った。

小屋に戻ると文耕が喜四郎と定次郎に、吉原へ行くと言った。
里見が訊き返す。「俵屋という見世に行く」と文耕。
笑いながら付け加える。「別に登楼する訳ではないがな」


九 82
文耕と里見、そして喜四郎と定次郎は夜道を、吉原目指し走る。
かなりの距離だが、舟を使えば足取りを掴まれる。
一刻ほど歩くと、ようやく大門をくぐった。吉原はまだ宵の口。
驚きの喜四郎と定次郎。吉原へは初めて来たという。
俵屋に着くと、顔見知りの若い衆が俵屋小三郎を呼んで来た。
ようやく遊びにいらした、との言葉に「いや、頼みがある」
それを察して小三郎専用の部屋に通された。
単刀直入に「この二人を匿ってもらいたい」と切り出す文耕。
そして郡上で起きている、金森藩と百姓の争いと、この二人の立場を手早く伝えた。俵屋に目を向けられ、自己紹介する里見。
俵屋も自己紹介しようとすると、馬場殿の講釈で良く知っていると返す里見。善人にされてしまった、と笑って言う俵屋。
二人は間違いなく引き受けると言う俵屋。恐縮する二人に、こんな商売が出来るのも皆さんのおかげだと話す俵屋。
また、ここなら采女ケ原の様なことはないと付け加えた。
吉原は一種の治外法権であり、大概の問題は内部で処理。登楼の際は刀も預ける決まりであり、大名といえども勝手は出来ない。
俵屋が金森藩のやり方をくさすと、内部にいるよからぬ者のせいだと藩主を庇う喜四郎。だが里見は、領民を苦しめる藩主に従ういわれはない、と辛らつに断じた。
ただ喜四郎は、自分らが村抜けをしている立場である事から、俵屋に迷惑がかかる事を恐れる。俵屋も「それは、確かに・・」
だがそれに対しても里見は、民が当たり前に暮らせる世を作れないなら、領主であっても従ういわれはないと話す。驚く文耕。

皆が里見の言葉に黙り込む。しばらくして文耕が、楼内の者を押し込める部屋があったと聞いた話を俵屋にする。
同じ事を思っていた俵屋。田舎から出て来て金子が足りなくなった客に、連れが金を持って来るまで居残らせるという名目。
この部屋の引き戸を開け、案内する俵屋。そこは四畳ほどの板の間。窓はなく、上部に小さな明かり取りがあるだけ。


見世の者にも良く言い聞かせておく、と言う俵屋。


十 83
俵屋に匿われた喜四郎と定次郎が上州屋に居る郡上の立者百姓とやり取りするため、伝吉に代わって源吉が動いた。
仕事が背負い小間物のため、怪しまれない。
その立者百姓らによって四月二日、箱訴が行われる事になった。
箱訴とは、評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れる事。
八代将軍吉宗が、市井の声を聞くために設けた画期的なもの。
毎月二、十一、二十一日に投函が許された。
四月二日のその日、立者百姓六名が目安箱に訴状を投函した。
だが数日を経てもお上からの沙汰がない。
もう一度行うこととし、四月十一日に二度目の箱訴が行われた。だが三日、七日経っても沙汰なく、皆は絶望した。

その顛末を源吉から聞いていた文耕は、考えの実行を決意。
だが四月に入り、市兵衛がやって来て昼講の中止を申し出た。
金森藩士襲撃を退けた翌日、二人が夜警を続けられなくなったと市兵衛に断りを入れた文耕。だが丁度その時、小屋がひどく荒らされているとの報せ。あの後、金森藩家中の者が二人を捜して荒らし回ったらしい。舞台の修復は可能だが、あの二人と騒ぎとの関連を疑われ、文耕に昼講の自粛を命じた町役人。
どうも上からの命令らしい。奉行の依田和泉守か、金森側に繋がる本多伯耆守か。いずれにせよ、井筒屋主人の病気で夜講が出来ない現在、講釈をする場を全て奪われた文耕。

四月二十日の夜、吉原に向かう文耕。里見の仲介で田沼意次と俵屋で会う事になっていた。申し出を快諾してくれた俵屋。
文耕が内所の奥座敷で待っていると、田沼の一行が来て宴席用の二階に上がる。四半刻も過ぎ、田沼が里見と連れ立って来た。
早速用向きを訊く田沼。文耕は、家重公の前でもう一度講釈をさせて欲しいと申し出た。理由を訊かれ、郡上で起きている騒動について話し、縁故による政の歪みを語りたいと言った。
四月三十日に行われる有章院家継様の祥月命日で、前回の様な段取りが可能だと言う田沼。
その話の後、千代田城の留守居役を勤める一色啓之進の話を始めた田沼。会う度に文耕の事を訊かれており、先日文耕の近況を話したという。田沼が話す、意外な一色家と金森の繋がり。
啓之進の妹が、金森家の奥女中として女衆を束ねているという。
どこにも嫁ごうとしない事から、その様になった。
田沼は、文耕と田鶴の間の縁談めいた話は知らない様子。
──金森家の奥女中・・・ 凝然と座り続ける文耕。


十一 84
文耕は、その翌日から美濃郡上一揆の読物を書く準備を始めた。題して「美濃笠濡らす森の雫」それが御前講釈の元にもなる。
年貢取り立てを、定免法から検見法に変えるお達しに対する、百姓らの強訴と藩の撤回。だが翌年また蒸し返された。
承諾した各村の庄屋の陰に、郡上郡代の青木次郎九郎が居る。
郡代とは幕府の直轄地を管理する役人。勘定奉行の支配下にあり、土地が十万石以上は郡代、それ以下は代官と呼ぶ。
金森藩に隣接する幕府の直轄地に、美濃郡代の陣屋がある。
その青木の申し渡しであり、庄屋はお達しが幕府からと判断。
それが騒動の錯綜の根本。
郡代が大名家の内政に口出しするなどは許されないこと。
そこには勘定奉行、更にその裏には老中の本多正珍と、寺社奉行の本多忠央の存在があった。

四月三十日。二度目の御前講釈の日を迎えた。
大岡の屋敷の同じ部屋に通された文耕。田沼が既に控えている。
小姓により家重の御成りが知らされる。田沼と共に平伏の文耕。
家重が着座し「面を上げるがよい」の声。大岡忠光も居た。
多少の軽口を言い笑う家重。遠慮なく話すようにと言う忠光。
それでは、と風呂敷包みから紙の束を出した文耕。

金森家の成り立ちから始まり当主頼錦が、義父となる筈だった老中 本多正珍の繋がりで奏者番になったものの、財政逼迫を招いたと話を進める。そして年貢取り立ての変更を契機に百姓らによる強訴、江戸での駕籠訴、箱訴に至るまでの経緯を、一切の修辞も交えず語る。


最後に青木郡代の、筋違いの行いの背後に幕閣中枢の者の影が見え隠れしていると加えた。老中、寺社奉行、勘定奉行らによる閥が政を歪めている。

一気に語って息をつき、頭を下げた文耕。
暫しの沈黙のあと静かに言った家重。
「あいわかった。よくぞ、知らせてくれた」
田沼が付け加える。調べ直したところでは、駕籠訴を評定所で調べたものの立ち消えとなっていた。金森家に、領内を丸く収めるため時日を与えたという流れだった様だ・・・
忠光が老中 本多の処遇を口にすると「そうだな」と家重。
家重の疲れを見て取り、散会を申し出た田沼。

本町通りを、虚脱した様に歩く文耕。だがそれは心地よかった。
将軍を前にこの一揆を語った事で、争いの沼に自ら漕ぎ出した。
もはや、その舟がどんな危いところに辿り着こうと、決して悔やむまい、と文耕は思った。