吉田修一の「元職員」を読んだ! | とんとん・にっき

吉田修一の「元職員」を読んだ!

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吉田修一の「元職員」を読みました。講談社創業100周年記念出版「書き下ろし100冊」第一弾!とあります。すごい企画ですね。歴史に残る作品が一冊でも出ればもうけものです。吉田修一の「元職員」、なにしろ第一弾、ですから、期待しましょう。


「背後の風景が、すとんと抜け落ちたような気がした。突然、断崖絶壁の先端に後ろ向きで立たされたような感覚だった」と、この物語は始まります。栃木県の公社職員・片桐は一人、ファーストクラスから、タイの首都バンコクのスワンナプーム空港に一週間の予定で降り立ちます。本当は妻と来るはずだったのに直前に妻が突然バンコクに行きたくないと言い出し、一人旅となりました。ねっとりした南国の空気が、着ているTシャツと肌の間に滑り込んできます。片桐は、タイには15年も前、学生時代に一度だけ友人と来たことがありました。卒業旅行ということで、一泊数百円のゲストハウスに泊まる貧乏旅行でした。


到着した翌日、屋台で津田武志という青年に出会います。彼は「もう3年もこっちで働いているんで、だんだんタイ人化してて」と笑いながら言います。武志は日本人が経営するレストランで働いているという。その夜、武志が働く店へ片桐は行ってみます。繁盛した店で、武志はひっきりなしにドリンクをテーブルに運んで忙しそうにしています。会計を済ませて席を立とうとすると「一人旅も気ままだけど、退屈でしょう? 夜遊びならいつでもつき合いますよ」と、武志が声をかけてきました。


次の日の夜、片桐が街で酒を飲み、客引きの女に捕まっていると、通りの向こうから武志が「片桐さん」と呼びます。2人とも相当酔っぱらっています。女たちの手を振り払って通りを渡ると、「片桐さん、そこのバーでちょっと休みましょう」と武志は言います。「もし片桐さんにその気があれば、素人の子、紹介しますよ、可愛いっすよ、会うだけ会ってみます? 呼び出して珈琲でも飲みましょうよ」と言われると、片桐は断ろうと思いながら、珈琲くらいならいいかという気持ちになります。中心部には大きなショッピングセンターがいくつも並んでいます。「バンコクって大都会だよね」と、片桐は思わず口を開きます。


待ち合わせたスターバックスで、武志とミントはタイ語で話し始めますが、改めてミントを片桐に紹介してくれました。武志はふいに立ち上がり、「じゃあ、俺はこれで失礼しますから」と言う。「ちょっと待てよ、俺、言葉が・・・」と引き止めると、「大丈夫ですよ。ミントもカタコトなら英語話すし」と言い置いて、立ち去ってしまいました。店内にいる日本人らしき若いカップルの視線は、「あの日本人、きっとあの女を買ったんだよ」と囁く声に聞こえてきます。


ミントは大きな羽根枕を抱えて眠っています。昨夜、事が終わったあと、シャワーを浴びて浴室から出てきたミントは、「このまま帰った方がいいのか、それとも泊まっていってほしいのか?」とでも訊ねるようなそぶりをしたので、片桐は「帰らないでほしい」と、ベットを指差します。ベッドに戻ったミントは、携帯をとりだして開いた画面を見せます。ミントが見せてくれたのは、幼い弟の画像でした。5つ星のホテルで、ミントはエントランスに到着すると気後れしたようでした。予約していたのは、レジデンススイートというホテルでも2番目に広い客室で、150平米はある部屋でした。ほとんど言葉を交わさずに、素晴らしい肌の持ち主の、レモングラスの香りが漂うミントの身体を抱きました。


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朝食は、クロワッサン、珈琲、ミルク、マンゴージュース、卵料理、ソーセージ、ヨーグルトなどが、テラスに用意されています。珍しそうにジャムを選ぶミントの姿が、ふと妻の麻衣子の姿に重なります。麻衣子と伊豆の旅館に二泊三日で出かけた時のこと、最後に朝、朝食は洋食にしてもらいました。冷やされたバターがなかなかトーストの上で溶けない。「塗れない・・」と、麻衣子は手にしていたトーストとナイフをテーブルに投げつけました。「私、もうやだ・・・」。気が付くと、ミントの腕を強く掴んでいました。無理やりミントを部屋に入れ、紙幣をミントのバッグに突っ込みます。ミントはバッグを引っ掴み、入り口を出ていきます。


突然浮かんできた麻衣子の姿に動揺し、理由も告げずに酷い追い出し方をした片桐は、武志に連絡を取り、ミントに直接会って謝りたい、お詫びに何かプレゼントをしたいと伝えます。「ミントってどういう子?」と聞くと、武志は「北の方の出身で、店には出ないで、紹介客だけを相手にしている」と言う。そして「俺の話が嘘にしろ、本当にしろ、昨日の晩あいつと一緒にいて楽しかったんでしょ?それでいいんじゃないっすか?」。武志に薦められて、片桐はミントとアユタヤの遺跡を見に行きます。どの寺でもミントは花を手向け、蝋燭に火をともし、膝をついて熱心に祈っていました。ミントに促されると、片桐は何を祈っていいか分からず、「許してください」とだけ心の中でつぶやきます。ホテルの戻って、ミントにエメラルドグリーンの水着を買い与え、片桐はデッキチェアーに寝そべって、プールで泳ぐミントを眺めます。


なぜか余っていた514円が全ての始まりでした。その金で文庫本を一冊買いました。買ったくせに、結局、読みもせずに忘れていました。それくらい何の呵責もない行為でした。元々存在しないお金でした。もちろん、何ごともなく月日は流れました。「なぁ、ちょっと話があるんだ」と麻衣子に言う。「会計課に今度新しい職員が入りそうなんだ」というと、「ちょっと待ってよ。私、聞きたくないからね」と麻衣子、「お前だって、知っていただろ」と言うと、「だって、私、なにも知らなかったんだからね」と台所に蹲り、嗚咽を漏らします。「嘘つくな、お前だって、好きなもん買っただろ、好きなだけ、金使っただろ」といいながら、片桐は涙が込み上げてきます。


離陸した飛行機の中でキャビンアテンダントが飲み物を運んできます。片桐は思います。ビクビクしているから何ごとも悪い方向に向かうのであって、堂々としていれば、悪事などバレるわけがない。実際、もう3年近くも誰にも気づかれなかったことが、今さら明るみに出るはずはなかった。万が一発覚したところで、管理を怠った課長や部長たちにだって責任はある。あんな体たらくの課長や部長たちに真実を公表する勇気などあるわけがない。「自分たちの定年までは黙っていてくれ」と泣きついてくる姿が目に浮かぶ。込み上げてくる笑いを抑えるのに苦労した。今まで通り、仮面をかぶって働けばいい。本来の自分の姿など誰にも見せず、退屈で、風采の上がらない公社職員を演じ続ければいいだけだ。涙が滲み、呼吸が苦しくなるのに、それでも笑いは止まらなかった。


514円が全ての始まりだった。娼婦、妻、友人、嘘、欲、ホテル、アユタヤ、ムエタイ、仕事・・・目の前を横切る光景が危険な結末へと導いていく。吉田修一が到達した最高の犯罪文学。と、本の帯にあります。166ページの中篇、一気に読めます。「元職員」という題名が、やはり思わせぶりです。主人公の片桐は、現在でも公社の職員なのですが、後半に至るまでその悪事ははっきりとは出てきません。その辺は上手いと思いました。表紙の「元職員」というレイアウトも妙に面白い。彼の代表作「悪人」や先の「さよなら渓谷」に比べると、一気に書き上げたようで、さすがに軽い感じがします。バンコク、アユタヤ、ムエタイ、ホテル、公社、そして人物は片桐と武志、ミントと麻衣子、等々、情景が浮かびやすいので、「映画」に向いているのかなとも思いました。



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