吉田修一の「さよなら渓谷」を読む! | とんとん・にっき

吉田修一の「さよなら渓谷」を読む!

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どこまでも不幸になるためだけに、私たちは一緒にいなくちゃいけない……。
きっかけは隣家で起こった幼児殺人事件だった。その偶然が、どこにでもいそうな若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れた記者が探り当てた、 15年前の"ある事件"。長い歳月を経て、"被害者"と"加害者"を結びつけた残酷すぎる真実とは――。『悪人』を超える純度で、人の心に潜む「業」に迫った長編小説。(本の帯より)


このように書かれた文章を見ると、直木賞作家が書く「ミステリー小説」の趣があるように見えます。しかし、そうでないところが吉田修一の真骨頂です。前作「悪人」で完全に一歩前に出たというか、そう僕は「大化けした」と書きましたが、たしかに長編をものにして大きく飛躍しました。「悪人」は朝日新聞に連載されたものでしたが、「さよなら渓谷」は、「週刊新潮」に2007年7月26日号から2007年12月27日号に連載されたものです。共に厳しい制約を乗り越え、ハードルを突破しました。どうしても前作「悪人」と比較されてしまいがちですが、それもしかたがない。読後、こんな言い方が妥当かどうか判りませんが、テーマの奥底に流れる「人間観」は同じなんだなと思いました。端的に言えば、「負」、つまりマイナスとマイナスがくっつくということが、逆にどうしようもなく「人間らしさ」を表しているように思いました。


都心から気軽に来られる景勝地として人気の高い「桂川渓谷」。この渓流にほど近い「水の郷住宅」という市営団地、土地の材木を利用して第3セクターにつくらせたので、老朽化はしているが丁寧な仕事がされています。他の市営団地に比べて古く、家賃が安いので、年金生活者や独居老人、共働き夫婦や母子家庭など、様々な人がひっそりと暮らしています。住民同士のつき合いは7、8年前からほとんどなくなっています。この小さな団地に、新聞や雑誌の記者たちが四六時中はりついています。ここに暮らす立花里美という女が、「息子が帰ってこない」と交番に通報し、警察は誘拐事件を視野に入れた捜索を始めます。


団地の管理組合も捜索隊を結成し裏山や渓谷を探します。しかし、里美の一人息子で、4歳の誕生日を迎えたばかりの萌の遺体が、渓谷の奥でで発見ます。当初、住民たちの間で変質者の仕業ではないかという説が広まっていましたが、母親である里美の失踪当日の行動と、当初の供述との食い違いが次第に明らかになります。警察や記者に対する彼女の態度も悪く、日に日に厚化粧になり、テレビカメラや記者の前に立つ彼女は、息子を殺された母親と言うよりも、世間の注目を浴びて浮かれている女にしか見えません。まずは警察に任意で連行されての事情聴取、こうなるとマスメディアの格好の餌食です。


ここまで書けば、ほとんどの人は秋田の事件を思い浮かべるでしょう。畠山鈴香がテレビカメラの前で虚勢を張ってしゃべり続けたことを。毎日のようにワイドショーを賑わしていました。当然、作者は畠山鈴香の事件をモデルにして、立花里美という女を創り上げていることは言うまでもありません。「勝手に撮らないで下さい。何の権利があるんですか。ここからこっちは私のテリトリーですから」と、里美はテレビカメラに向かって唾を飛ばして怒鳴っています。報道陣と野次馬がごった返す中、里美は背広姿の刑事に、ワゴン車に押し込まれます。記者たちは「これでやっと終わりだな。この騒ぎにはもううんざりだよ」といいながら、散らばり始めます。里美の隣家の尾崎俊介はその様子を見て、「事情聴取じゃなくて逮捕でしょ?何か証拠でもでたんなら、もうもどれないですよ」と、組合長の奥さんに言います。


中堅出版社記者の渡辺一彦が、これから会社に戻って原稿を仕上げなくちゃと思っていると、偶然にもドライバーの須田保が、里美の隣家の尾崎俊介とは大学時代の友だちで、同じ野球部だったということが判りました。「偶然とはいえ、あの女の隣でしょ?いやーほんとびっくりした。20歳の頃だったから、15年、いや16年ぶりかな」と須田は興奮が収まらず、帰りの車の中で話し続けます。渡辺は仕事が終わって、カメラマンで独身の大久保を誘って飲みに行きます。「そういえば、あの運転手が桂川の団地で偶然会った友だちってのも、例の事件の仲間なのかな」と言い出しました。「あの人さ、大学のとき、チームメイトの何人かで、女の子をレイプしてんだよ。あの団地で会った奴も、その時の仲間の一人なんかじゃないかなって」。大久保の愚痴を聞きながら、渡辺は須田が犯したという集団強姦事件のことが頭から離れません。部下の小林杏奈に集めて調べてもらった「和東大学野球部」「集団レイプ事件」「集団性的暴行」などの資料を日付順に並べて見ています。


昨年8月初旬、被害者のA子さんは、和東大学野球部の部員4名に暴行を受けます。現場が大学野球部の寮だったこともあり、事件は一時期マスコミに大きく扱われます。「年齢相応の分別や運動選手らしい健全さは微塵も感じられず、被害女性の人格を無視し性欲のはけ口としか見ていない」と裁判長は指摘し、主犯格の尾崎俊介(21)、須田保(21)に対し、懲役3年、執行猶予5年を言い渡します。今までに運動部の集団強姦事件は、何度もあり、マスコミを賑わしました。その最たるものが「帝京ラグビー部集団強姦事件」です。この事件をモデルとしていることは、もちろん言うまでもありません。新宿の街頭で声をかけて、大学のグラウンドへ進入し、その後、敷地内の寮へ連れ込んでいます。


取り調べを受けていた里美は、事件に関しては以前黙秘のままですが、なぜか隣家の尾崎俊介の名前を煩雑に出すようになります。刑事は「男女の仲だったわけですかね?」と、俊介を疑います。「何の関係もないですよ。隣だからあ顔を合わせれば挨拶はくらいはするし、彼女の息子と何度か遊んでやったことはありますけど」と、俊介は興奮して刑事に言います。刑事も「これが仕事ですのでね」と言いながら、「そうそう、あなた、あの美人の奥さんとは籍いれてないんですってね」と、猪突に話題を変えたりします。帰り際、階段ですれ違った刑事に「俺、あんたみたいな男、虫酸が走るんだよ」と耳元で言われます。立ち止まった俊介に、「あんたが昔、やったことだよ。寄ってたかって女を犯したんだろう?ちょっと調べたら、すぐ出てきたよ」とその刑事は言います。この刑事の言い草が、僕には妙に違和感がありました。果たして刑事がそんなことを言うのかなと。でも思い返してみれば、俊介のやったことは「集団強姦」という、たしかに酷いことですから。


部下の小林は「もし本当に尾崎と里美がデキていたんなら、その尾崎が若い頃、それも名門大学野球部時代にレイプ事件起こして他なんて、ネタとしてはかなりのもんじゃないですか」と、渡辺に言います。二人の間に男女の関係があり、だとすれば、今回の凶行の動機もぼんやりと見えてきます。渡辺は俊介とその妻・かなこへの取材を開始します。つてをたどって、和東大学の野球部出身で現在事務局に勤める佐伯にも「第34期生 尾崎俊介」の取材をします。次第に明らかになってくる尾崎俊介の過去。社に戻ると小林が「和東大学野球部レイプ事件被害者 水谷夏美 資料」と書いてあるファイルを机上に投げ込みます。水谷夏美は、自殺未遂を繰り返した末に失踪。「もしあの尾崎って男が、あんな事件を起こしたくせにのほほんと未だに生きてて、奥さんもいながら、あの里美って女にも手を出して、それで萌くんが亡くなったんだとしたら、私、絶対に許しませんから、そんな自分勝手な男、私が殺したいくらいですよ」と、小林は息巻きます。


渓流沿いに尾崎は坂を上っています。車道を挟んで渡辺は並んで歩いています。渡辺が「水谷夏美さん。あんまりいい人生じゃなかったみたいですよ」と声をかけます。尾崎は思わず立ち止まります。渡辺は、「もし、好きになった女が、そんな事件に遭ってたとしたら、自分はどんな風に思うんだろうって。・・・あんな事件に遭った女と、ちゃんと向き合えるか、そんな目に遭った女を、そんな目に遭わなかった女と同じように見られるか。彼女の人生を思えば思うほど、自分でも自信がなくなっちゃって・・・」と、尾崎に一方的に話しかけます。尾崎は何も言わずにその場を立ち去ります。


パトカーが1台停まっています。私服刑事と若い警官が尾崎に話しかけます。「今、奥さんにお話を伺っていたんですよ。・・・立花里美との関係ですよ。あなたは関係などなかったとおっしゃったが、奥さんにはそう見えてなかったようですよ。見えてなかったどころか、あなたと立花里美が煩雑に関係を持っていることを知っていて、相当、悩んでいらっしゃったみたいじゃないですか」と、淡々とした口調で言います。景観がパトカーのドアを書け、尾崎は抵抗することもなく乗り込みます。それを見ていた渡辺は、「本当に、尾崎とあの女がデキてた・・・?」と声に出して呟きます。その時、俊介の妻・かなこが渡辺の前を通りかかります。「本当なんですか?」と渡辺が言うと、「バカみたいなこと言わないで下さい。妻のいる男は、他の女と寝ないんですか」と言い返し、「あなたに私たちの何が分かるんですか?」とも言います。遠ざかるかなこの背中を見送っていると、ふと、尾崎が過去に犯したことを知っているのではないかと、渡辺は思います。


ここまでが「さよなら渓谷」という作品の約半分、よく知られている2つの事件を題材にして、縦糸横糸、見事に紡ぎ合わせた物語となっています。しかし、実はここからが物語の主要な部分に突入します。立花里美が我が子を殺したことは、単なる導入部に過ぎません。事件を追う中堅出版社記者の渡辺一彦とその部下の小林が調べ上げた、里美の隣家の尾崎夫妻のことも、ある一面に過ぎません。レイプ事件の加害者である尾崎、そして被害者であり失踪中の水谷夏美、また尾崎の未入籍ではあるものの実質的な妻・かなこ、バラバラに切り離されていたそれぞれの人生が、「アッと驚くような」思いもかけない形で交錯します。いわゆる「ネタバレ」は、この作品に限って必要なように僕は思いますので、この辺にしておきます。


渡辺は「女は復讐するために、憎悪する男に抱かれることができるのか」と、疑問を浮かべます。「いったい何があったのか。何が本当で、いったい何が嘘なのか?」。「私が決めることなのよね」、渓流に突き出された素足を見つめたまま、かなこは呟きます。渡辺が渓流沿いに河原へ出ると、水辺に尾崎が立っていました。「彼女なら、数日前に出ていきましたよ。置き手紙がありました」と尾崎は言います。「さよならって、そう書いてありました」。「幸せになりそうだったんですよ、俺と彼女」、「だったら、なればいいじゃないですか」、「無理ですよ。一緒に不幸になるって約束したんです。そう約束したから、一緒にいられたんです」。


姿を消せば、許したことになる。一緒にいれば、幸せになってしまう。大きく息を吐いた尾崎は「俺は、探し出しますよ。どんなことをしても、彼女を見つけ出します。・・・彼女は、俺を許す必要なんかないんです」と尾崎は呟きます。2人で幸せになってもいいじゃありませんかとそう叫びたいのに、渡辺にはどうしてもそれが言えません。「もし、あのときに戻れるとしたら、あなたは、また彼女を・・・」、そんな質問が渡辺の口から漏れます。哀しいラストですが、希望はあります。


著者の吉田修一は、次のように言います。
この『さよなら渓谷』は、「どんなお話なのか説明してください」と言われても、非常に説明しにくい小説です。著者の自分でさえ、口ごもってしまう。ものすごく乱暴に言ってしまえば、「レイプ事件の加害者と被害者が、十五年の歳月を経て、夫婦のように一緒に暮らしている日常を描いた小説」ということになります。絶対にあり得ないと思える状況ですが、自分としては究極の恋愛を書いたつもりです。進むことも戻ることも出来ないけれど、自分のすべてをさらけ出すことが出来る。誰といるよりも安心できる相手なのに、一緒にいても絶対に幸福にはなれない――出会い方のボタンを掛け違ったまま負の部分で繋がらざるを得なかった男女の感情の揺らぎを感じてもらえれば、と思います。「運命の相手」とこれ以上ない不幸な出会い方をしてしまった男と女。言い換えれば、不幸な出会い方をしたからこそ、互いの「運命の相手」になりえた男女を描いたと言えるかもしれません。


seihannzai こんな本があることを知りました。

「性犯罪被害にあうということ」
著者:小林 美佳
出版社:朝日新聞出版  
価格:¥ 1,260
2000年、24歳で性犯罪被害にあった女性の実名手記。心身がどれほど傷つき、対人関係がどれほど損なわれるか……といったことがリアルに描かれる。同時に恋、友情、家族との関係なども盛り込まれ、青春小説の趣もある。著者は表紙にも登場。




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