吉田修一の「悪人」を読む! | とんとん・にっき

吉田修一の「悪人」を読む!


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吉田修一の本は、「熱帯魚」とか「最後の息子」、「7月24日通り」、等々、そのうち暇ができたら読もうと、ブックオフで購入したものが何冊かあります。でも、まあ、この「悪人」を読んでしまったので、今のところは「読むのは、しばらくはまあいいか!」と思っています。不確かな記憶なんですが、大森望と豊崎由美が「文学賞メッタ切り」のなかで、綿矢りさが「蹴りたい背中」で「大化け」したというようなことを言ってましたが、町田康は「告白」でまさに「大化け」、そして吉田修一も「悪人」で「大化け」しました。作家が大きく育つためにははやり「長編」をものにしなければなりません。「デビューから10年。吉田修一は作家として大きく飛躍したことだろう!」と、浅田彰は述べています。もちろん、吉田修一のひとつの到達点、「最高傑作」であることは間違いありません。この作品は、「朝日新聞」の2006年3月4日から2007年1月29日まで連載されたものです。420ページの大長編です。僕の家も朝日新聞なんですが、新聞小説は読む習慣がないので、横目でちらちら眺めながら、新刊が出るのを待っていました。


今年の4月後半に単行本として売り出され、購入しておいたものを一気に読んだ、というわけです。いや~っ、感動しましたね、祐一と光代には!まさに究極の「純愛」です、そして、悲しくも切ない物語です。なにしろこの本、真っ赤な文字を使った装幀が迫力があり、凄い!そして本の帯には、以下のようにあります。幸せになりたかった・ただそれだけを願っていた。保険外交員の女が殺害された。捜査線上に浮かぶ男。彼と出会ったもう一人の女。加害者と被害者、それぞれの家族たち。群像劇は、逃亡劇から純愛劇へ。なぜ、事件は起きたのか?なぜ、二人は逃げるのか?そして、悪人とはいったい誰なのか?「逃亡くそたわけ」に続き、同じ「逃亡劇」ですが、様相はまったく異なります。出てくる地名は、久留米、天神、長崎、佐賀、有田、呼子、島原、等々、またまた全編これ九州弁で圧倒されます。方言は標準語と比べると、やはり微妙な情感が漂います。地方都市に暮らす人々を描いた吉田修一の「新境地」で、しかも「格差社会」と「閉塞感」が漂います。


新聞小説の制約上、毎回、加害者、被害者、そして双方の家族、等々、視点が変わりながら描かれています。今まで小説を読んで、このブログに、「この作品に出てくる人はみんないい人です」というようなことを、何度か書いたことがあるのですが、この小説に出てくる人は、多かれ少なかれみんな「悪人」です。祐一、祖母、実母、友人の一二三、祐一が指名した風俗嬢、被害者の佳乃、佳乃の父、佳乃の職場の同僚2名、佳乃の上司、佳乃の裏商売の相手、祐一と懇ろになる光代、光代の双子の妹、殺人の一方の加害者である増尾、増尾の友人と、たくさんの登場人物がいます。」が、枝葉末節とは言いません。それらの人々がいてこそ、この作品が成り立っていることは言を待ちません。そして「ワイドショーの報道」や「老人を食い物にする健康食品販売」、「バスジャック事件」、等々が、次々に出てきて物語の厚みを加えます。しかし、ここでは祐一と光代、2人に絞って話を進めたいと思います。


祐一は幼い頃、フェリー乗り場で母親に置き去りにされた過去があります。長崎市郊外に住む母方の祖父母に育てられ、自分のことを息子のように思うおじの会社で働いています。この会社に勤めて4年、仕事はきついが、祐一は自分には会っていると思っています。自慢の愛車はスカイライン、もっぱら祖父の病院への送り迎えに使っています。一介の労働者の無学な祐一と、高学歴で外車を乗り回す増尾が、常に対比されます。三瀬峠の旧道で増尾に背中を蹴り出された佳乃に、祐一はただ車で送ろうとしただけなのに「人殺し!」と言われ、「馬鹿にせんでよ!私、あんたみたいな男と付き合うような女じゃないっちゃけん!」と罵倒されます。「嘘だ!濡れ衣だ!」と祐一は心の中で叫びますが、誰も証人がいません。そのときふいに「母ちゃんはここに戻ってくる!」とフェリー乗り場で叫んだ自分の声が甦り、佳乃ののどを押さえつけ殺していまいます。




光代は佐賀市郊外の国道沿いにある紳士服量販店の販売員をしています。来年は30歳、周囲は田んぼしかない2DKのアパートで、双子の妹・珠代と暮らしています。祐一と光代は3ヵ月前、初めて出会い系サイトで知り合い、祐一に「会おう」と言われたとたんに光代は返事を出せなくなりますが、3日前、勇気を振り絞って出したメールに祐一は親切に応対してくれます。メール交換が3日も続き、週末に佐賀駅前で会う約束をします。祐一の車でドライブし、呼子の灯台を見に行くはずでした。しかし、祐一は突然光代をホテルに誘います。「ホテルに行かん?」「それ、本気で言いよっと?」と言いながら、光代は「行ってもよかよ、ホテル」と落ち着いた声で答えます。珠代と暮らす部屋は不自由のない、居心地のいい部屋だったが、ただその部屋に「きょうは帰りたくない」と強く思います。


セックスなんかどうでもよかった。ただ、誰かと抱き合いたかった。抱き合える誰かを、もう何年も求めていた、と、祐一の背中に光代はそう語りかけます。「会いたくて、会いたくて仕方がなかった。つい数日前に出会ったばかりなのに、一日でも会えないと、それで何もかもがおわってしまいそうで恐ろしかった」。「俺、それまでは部屋にこもって映画ばっかり見とったけん、人の気持ちに匂いがしたのは、あのときが初めてでした」と祐一。逃避行の最中、「こういう状況で言うのもあれやけど、こんなにのんびりした正月過ごしたの久しぶり」と言い、「私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年・・・。私、今まで何しとったとやろ?なんで今まで祐一に会えんかったとやろ?今までの一年とここで祐一と過ごす一日やったら、私、迷わずここでの一日を選ぶ・・・」と光代は、不謹慎と知りつつも断言します。


「俺、もっと早う光代に会っとればよかった。もっと早う会っとれば、こげんことにはならんやった……」と祐一は光代に言います。「俺、人、殺してしもた」。「祐一が私を連れて逃げとるんじゃないやけんね。私が、祐一に頼んで一緒に逃げてもろうとるやけんね。誰に聞かれても、そういうとよ」と光代は言ったが、「俺は、アンタが思うとるような、男じゃなか」と言い、結局、世間的には祐一が脅迫して精神的に追い込んで、無理やり光代を連れ回したことになります。最後に「俺が言うのは筋違いやけど、馬込さんには、早う事件のことを忘れてくれって・・・、馬込さんなりに幸せになってくれって・・・。」と祐一は伝言を託します。祐一にできる精一杯の愛情表現です。


妹に「アンタも同じ被害者なんやけん、無理にいくことない」と言われるが、暴力的に佳乃の人生を断ち切った祐一を許した自分には「私には一生をかけて、佳乃さんに謝り続ける義務があると思います」と光代は言います。光代は初めて三瀬峠の佳乃の亡くなった場所に花を供えに行きます。供えられた花は枯れていたが、目印のようにオレンジ色のスカーフが、ガードレールに巻かれていました。このスカーフは、祐一を母親から引き取り育てた祖母が巻いたものです。「これからは月命日には、必ず謝りに行くつもりです」。


今まで通り妹と暮らすようになり、元の職場に復帰することができた光代は、「きっと私だけが、一人で舞い上がっとったんです。佳乃さんを殺した人ですもんね。私を殺そうとした人ですもんね。世間で言われとる通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ?そうなんですよね?」と、光代が自分に語りかけるようにして、この物語は終わります。


この作品の終わり方に、幾通りか考えられます。例えば、2人とも死ぬ場合、祐一か光代、どちらか片方が死ぬ場合、そしてどちらも生き続ける場合。だいたいが「心中もの」のように、2人が死んで終わる場合が多いのですが、ちょっと無責任な感じがしていました。しかし、この作品では祐一と光代、どちらも死なずに、2人とも今後、苦難を背負って生き続けるという選択を課しています。殺人という罪を犯した祐一に救いはあるのでしょうか?この2人に間違いなく未来はあるのです。


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