読んだ小説
年年歳歳
阿川弘之
阿川弘之全集 第一巻
新潮社
2005年8月

初出
世界
1946年9月号

ひとことコメント
ふつうに良い小説だと思う。



GHQ統制下において、もっとも初期に公表された「原爆小説」であるが、「原爆文学」に加えられていない。その経緯については山本昭宏「核エネルギー言説の戦後史」などに詳しく、まさしく、「原爆文学」というものが、「体験者が原爆被害を克明に書いた作品や、アメリカの投下責任、日本の戦争責任をテーマにしてきた作品が、「原爆文学」とみなされてきた傾向」(127ページ)がある。

私も以前、井伏鱒二の扱いについて、当ブログで書いている。

井伏鱒二、黒い雨、を読む

おそらく阿川には同様にあてはまる特徴として、以下の点が挙げられるだろう。

・原爆被害の当事者ではない
・原爆被害を直接テーマにしていない
・小説として、おもしろい(良質である)
・戦争や原爆攻撃に対して、明示的な批判がない

阿川は、1945年8月の時点では戦地におり、生まれ故郷の広島市に戻ってきたのは、敗戦からすでに半年以上もあとの、
1946年3月であった。

この作品もまた、そうした阿川の立場のままに書かれたものであり、主人公が復員列車に揺られて実家に戻るところからはじまっている。

どうやら中国から博多まで
船でたどり着き、そのまま博多の街の風景もみることなく、消毒や検査を受けるなどして列車に乗り込んだようである。

それまでついていなかった列車の明かりがともる頃、
列車は博多港から、「臨港線から本線へ入った」(11ページ)とあるが、ここで奇妙な記述が登場する。

「電灯はなぜかますます輝き、眩いばかり水のように透明な光となってそれを照らした。
「おや」
「明る過ぎる、おかしいぞ」
誰かが言ったと思うと、青い光が閃き、列車の中は再び闇になった。」(11-12ページ)

この「青い光」とは、もちろん、原爆の「ピカ」ではない。しかしこの描写は、主人公が原爆(による被害と家族の安否)のことばかりを考えていたことを暗に示すものであると推測される。

実際上海にいたときにすでに広島に原子爆弾が落とされたことは、誰もが知っており、家族の安否を気遣い、「機会ある毎に丹念に見た、写真も新聞も、一つ一つ心を暗くするものばかりであった。便りは勿論来なかった」」(13ページ)。

その後列車は広島に向かう。

「初めはしばらく家がまばらに残り、大地震のあとのように傾いているのが見えたが、すぐに何も無くなった。線路の右と左には、見渡す限りの瓦礫の原が果てもなく続いている。上海で見たアメリカの雑誌に「原子砂漠」という言葉が使ってあったが、その通りの感じだった。」(15ページ)

列車を降りたあと、駅前の派出所の巡査に「白島のK町の辺りは勿論無いでしょうな」(17ページ)と尋ねており、彼の実家が、現在の、広島市中区白島九軒町にあったということが伺える。

おおよそ爆心地から2キロのあたりであり、いわゆる「消失区域」に含まれている。

自分の目で一度見たにもかかわらず、確証をもちたいがために、巡査に聞いたのであろう。「そうですな、無論ないですよ」(17ページ)という返事が返ってくる。

それでも家の焼あとあたりをうろつく主人公。そこで見た「立木」でさえ、死者と重ね合わせている。

「立木が炭になって、にょき、にょきと残っている。それは、手を硬ばらせて、焼け死んだ人の、死骸に似ていると思った。」(17ページ)

「想った」という言い方でしか、ここで起こった惨事に向かい合えない無念の感情が、静かに伝わってくるところである。

しかし、人間の感情は複雑である。「悲劇」を「悲劇」として受け止める準備をしてきた主人公にとって、家族の消息を、たまたま出会った知人から聞いたときには、自分でもどうしてよいのか分からなかったに違いない。

「「なんだ、生きていたんですか」
彼はずるい事をした時のように、にやにや笑い出した。」(19ページ)

ここで「にやにや」笑いだす主人公は、ある意味では、最悪の事態を想起していたにもかかわらず、そうではなかったために、拍子抜けしたために生じた「笑い」であり、当然のことながら、家族の生存が確認できたことに対する喜びを表している。

このあと、再会をはたしたのち、主人公は、母の手に「火傷」の跡を見つける。

ここではじめて、主人公は、原爆被害の「実態」と直面することになる。

「何も彼も。こんな運のいい家族は広島にはいませんよ」(23ページ)と主人公が言うとおり、火傷で済んだくらいでは、「悲劇」ではないのだ。

しかし、それでも、友人や親せき、恩師など、身近な人で亡くなった人の数は、決して少なくはない。

この「運のよさ」は、作家としては、運が悪いということになるのだろうか。こうした境遇の人間もまた、この世を生き、この体験をもって作家デビューすることに、何ら非難されるものはないはずだ。

阿川には、阿川の、原爆体験がある。

これをもって「原爆文学」ではない、ということは、できないはずだ。

おそらくこの作品もまた、それほどの「虚飾」は施されていないと想像できる。

この作品と原民喜や大田洋子とを隔てるものは、一体何なのか。

ここにこそ、私は、「原爆」と「原発」を切り離す思考との連関性をみる。

どうしてそう頑なに「原爆文学」というジャンルを、何か既成のもののように、もしくは固定したものとして、とらえようとしたのであろうか。

私には、よくわからない。

少なくとも、原発事故を経た今、過去のつまらない線引きなど、一度破棄し、幅広い作品を「原爆文学」と考え、そのうちの「代表作」として、大田洋子を推すほうが、よいと思うのだが。

また、もう一作品、阿川にはある。

読んだ小説
八月六日―亡き天野孝に捧ぐ―
阿川弘之

初出
新潮
1947年12月号

こちらの作品は、「年年歳歳」よりももっと直接的に、原爆投下の現実を扱っているといえるだろう。

それは、題名からも、内容からも、そう言える。

内容的には、当日の様子を家族の四人の手記という形で展開される。

山本昭宏は、この作品に対して、阿川の意図を置いておいて、「占領下において被爆地広島を書くことを小説化している」(237ページ)と指摘し、「年年歳歳」とあわあせてこの二作品の共通点として、「占領下日本における被爆者の声の略奪と、被曝の実態を見えないようにする占領軍の抑圧とを示してしまっている」(同)と考えている。

これはもちろん興味深い意見である。

蛇足かもしれないが、しかし私は、いくつか、別のことを言っておいてみたい。

まず、発表年代である。くりかえすが、1946年、1947年に「原爆」を扱った小説が雑誌に載ったということを、文学史上、正当に評価すべきである。もちろん、大田洋子が1945年8月30日に朝日新聞に書いた「海底のような光――原子爆弾の空襲に遭って」は、さらに重要な文章であることは言うまでもないが。

第二に、検閲との関係である。大田洋子は1948年11月になってようやく一部を削除するなど自主検閲を行った「屍の街」を中央公論社より発行するが、作品自体は、1945年11月までに書きあげていたという。この場合、検閲によって思い通りに刊行できなかった作品は、その「検閲」という暴力によって、より価値を高めているが、これは逆に言えば、検閲を通るような書き方をすることによって早い時期に多くの人に読んでもらおうと努力したことも、同じように評価すべきなのではないか。

第三に、作品の「質」であるが、大田洋子の作品が、鬼気迫る力がみなぎっており、文学として評価をするならば、この点においてであるが、「作品」の質と考えた場合には、阿川の方が圧倒的にその力量を感じる。

こうした評価は、もちろん、「文学」と無関係な人びとにとっては、どうでもよいことだろう。しかし、「原爆文学」もまた、「文学」という以上は、「文学」のもつ規則性や質の違いなどにも、十分注意を払うべきであろう。

私は大田洋子の作品の価値は、きわめて偶然に極限的な体験をした
文学者がその悲惨な現実を少しでも心にとどめておこう、少しでもその体験を言葉にして遺しておこうという強い意志のもとに書かれた「文章」であるが、王道の「小説」ではないと思う。「原爆小説」という言い方が、間違っている。

これは極端に言えば、ドキュメンタリー映画と娯楽映画との違いのようなものである。

その両者をいずれかをのみ、持ち上げるのも、低く扱うのも、フェアではないだろう。

最後に、もっとも重要なことを言っておきたい。大田洋子が唯一、阿川弘之よりもすぐれた作家であると思えることがある。

それは、自分のこの体験を小説として書く、ということが、「作家」として生きてきた自身の証のためだった。

作家でなければ、おそらく、「小説」ではなく、「記録文」「ドキュメンタリー」として、書き残せばそれで済んだはずである。

しかし彼女は「小説」にすることにこだわった。

その結果、通常の小説とは大きく異なる、風変わりな作品が生まれた。

これを「原爆文学」と呼ぶのなら、それはそれで仕方がないのかもしれない。

しかし、阿川や井伏の作品は「小説」と呼ぶのにふさわしいが、大田のは、そういったフレームをはみ出てしまっている。

こlこに、面白さと、歯痒さが、同在する端緒が見出されるのである。


阿川弘之全集〈第1巻〉小説1/阿川 弘之
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読んだ作品
半人間
大田洋子

所収
死の街・半人間
大田洋子
講談社文芸文庫
1995

一言コメント
原発事故を経た今、広島で被爆体験をした作家である大田洋子の苛立ちや怒り、不信といった感情は、私たちにとっても他人事ではなく、我が身の思いとして感じることができるように思う。「半人間」という題名も、これまでの日常に戻れない苦しみを言い表しており、かなり納得のゆくものである。しかし大きな違いは、彼女が自分をそのようにしたすべてと敵対し憎んだのに対して、私たちは、自らが加害者でもあるという「悲しみ」の感情をも抱いていることではないだろうか。



「半人間」は、「世界」1954年3月号において発表された。作品中に、やや冒頭には「1952年の現在」、末尾には「1952年9月中旬」と書かれているので、大田がその頃のことを思い、書いたということになる。

「1952年の現在、なににあざむかれているのかわからないが、あざむかれているという意識には、確かな手応えがあった。考えてゆく階段の幾つ目かで、自殺する手がかりをつかむとか、ひと思いに気を狂わせてしまうとか、そういうことがないとは限らないと、篤子は思い込んでいるのだ。篤子は死や発狂の思いを極力警戒していなければならなかった。」(189ページ)

屍の街、もすごかったが、半人間は、その屍の街から生きながられてきた人間が、生きているといっても、すでに人間ではなく、半人間となってしまったことを表している。

主人公の篤子は、精神病院に不安神経症で入院する。

「病状の苦しみの原因がいったいどこにあるのか、篤子にもつかみがたい」(193ページ)というが、本人は、広島での被爆体験が根にあることはうすうす理解している。いや、今ならばそれ以外の連関を考えないだろう。心の問題であるから、当然、本人が「理解」していれば(つまり、その現実を受け入れていれば)、病になることはない。要するに数年を経たうえでも、被爆の体験を受け入れることができないということであろう。

・不眠症
・蕁麻疹
・人と口をきくのがいやになる
・顔を見られることが煩わしい

どうやら、不眠症や蕁麻疹のために、睡眠剤や抗ヒスタミン剤の注射を常用したようである。

・心悸昂進
・胸の圧搾
・食欲不振
・胸騒ぎ
・苛立ち
・恐怖
・心臓や胸の重苦しさ

どうやらこの睡眠剤や抗ヒスタミン剤の注射をやめるために、1週間、入院をするということのようである。


さて、作者としての顔がのぞくところもある。まず、「原爆作家」というのが「誠意に欠けけたレッテル」とみなしている。そして、自分が本当に話したいことについて、次のように述べる。

「面倒な障害、当日、一都市がどんな光景を呈したかということ、当日ばかりでなく、その後の人間の肉体上にどんな変化が起こったということを、現象的にのべるだけではなく、それを落とした相手へむかって、非難と攻撃を浴びせなければならなかった」(205ページ)

1週間という話であったが、実際には16日間、眠り続けたようだ。目覚める瞬間の意識を次のように書いている。

「(生きている)と篤子は思った。同時に、(廃人)という言葉が、ひとつの文字の形で、頭の底をかすめた。しかしどのような半意識も、漠として流れてゆき、ながれて来、また、流れ去って、夢に似たただよいのなかに篤子はいた。」(223ページ)

こうした「持続睡眠」を経て、目覚め際に医者の質問に答える。

「「・・・原子爆弾におあいになったんですね。その記憶にくるしめられていらっしゃいますか」
「戦後七年間、拷問されている思いです。自殺か逃避か、いい作品を書いて生きるか、三つのなかの一つだと、戦後はずっとそう思っていました」(227ページ)

会話ではこのように語りながら、続けて地の文では、以下の順序に選択肢が並ぶ。

1、いい作品を書く
1、自殺
1、逃避

これらの選択肢は、いずれにせよ、生き方をつきつめるということになる。言いかえれば、それまでの生き方とは同じではいられない、という強迫観念を原爆によって植え付けられた格好になっている。

しかも順番が、「いい作品を書く」が先頭に移動しているということは、彼女としては、自身が納得できる作品が書けるのなら、自分が生きる意味があるが、そうでないのであれば、自分は何のために生かされているのか、と自問しているということになる。

そしてそれは、戦後七年たっても、書ききれていないというジレンマが、不安神経症を引き起こしたということであろう。

原爆体験の囚われの身となった大田洋子。

彼女の言う「作家として」という自意識は、単純に、鼻持ちならないプライド、などと思ってはならないだろう。

むしろ自分が「作家である」ということを、呪ったのではあるまいか。

自他ともに「作家である」とい承認がなければ、彼女はきっともっと楽にできたのであろう。それが、第二、第三の選択肢である。

彼女は最初から分かっていた。

怠惰に生きることも、勝手に自らの命を絶つことも、原爆を体験した「作家」の「精神」に反するということを。

そして生きようとしたのである。

おそらくこの作品を黒澤明の「生きものの記録」と対比させることは可能である。

しかし、大きく異なる点は、大田は、戦争を続けていた米軍もしくは日本軍に対する憎悪が、生きる力であり作品を書こうとする原動力であったと思われるが、黒澤が描いた中島老人は、結局、どこにも逃げることもできずに精神を崩壊させることで自らの精神を落ち着かせたのである。

「いい作品を書く」ということは大田にとって、世界への闘いなのであって、それは生きる意欲でもあったが、中島老人にはそういった「意欲」は何もなかった。

なお、もう一度、自らの生き方に対する「選択肢」が語られるシーンがある。自分の作品を読んだことのある見知った「看護婦」との対話である。

「「逃避するか突き抜けてゆくか、どっちかだわ」
 「つきぬけていらっしゃるほかはないでしょうね。世界観の裏づけをちゃんとおもちになれば、病気はずっとよくおなりになると思います」」(249ページ)

そしてその後、さらに「現実」を悟る。

「(酩酊では救われない。私一人がどれだけながく睡魔のなかに逃げていても、そのことでなにもよくなってはいない)」(258ページ)

つまり、「入院」もしくは「神経症」は、「逃避」の選択であったことを、大田はここで自覚したのだ。

しかし、謎なのは、その後である。医者に「いまあなたのいちばん気になっていることはなんです?」という質問に、こう答える。

「「社会不安なんだろうと存じます」
 あいまいに、力なく答えた。彼女はとっさに心理的な多少の芝居を、医師にたいしてしているのだった。社会不安が全部ではなかった。そこからのがれる道のない、おのれの所属する国家への不信、世界への不信、人間への不信、社会への不信。自分の肉体と精神のぶつかる接触体への不信が、あたまのなかを暗くしている。」(263ページ)




なお彼女が入院した「大学付属病院」は、文中に整形外科の分院がある、という記載があるので、東大付属病院のことであろう。閉鎖される少し前にこの分院には行ったことがある。坂口安吾(本文中では酒屋安吉)も神経科にかかっていた、というくだりもあった。


屍の街 半人間 (講談社文芸文庫)/大田 洋子
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読んだ小説
屍の街
大田洋子

所収
日本の原爆文学 第二巻 大田洋子
「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名者:企画
ほるぷ出版
1983年8月

ひとこと感想
広島での被爆体験をもとにした小説を書き続けた大田の最初の「原爆文学」(彼女はこう言われるのをとても嫌がった)。最初に手をとったのは1年前。なぜか読む気が起こらなかった。今回読んでみると、むしろ引きつけられすぎて「呪い」をかけられたような気分になった。おもしろい作品ではない。おそろしい作品である。



「屍の街」に次のような記述がある。

「私は、母や妹たちの住んでいる、白島九軒町の家にいた。白島は北東の町のはずれにあたっていて、昔から古めかしい住宅地である。いかにも中流社会らしく、軍人や勤人がたくさん住んでいたから、昼間は玄関を閉じて、婦人ばかりひっそりとしているような町であった。」(39-40ページ)

今、はたと気づいたのだが、阿川弘之の「年年歳歳」にも、この地名は登場する。彼の実家のあった場所である。

阿川の住んでいた場所は、どうやら
白島九軒町土手通りというようだが、ここと大田洋子が被害を受けた場所はかなり近接していたのではないか。

また、どうでもよいことであるが、芸人の島田洋七は1950年に
白島九軒町(といっても基町だが)から、1キロくらい離れたところで生まれている。ウィキペディアによると「父親は原爆によって被爆して洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七2歳のとき原爆症で亡くなる」とのこと。

大田は東京で暮らしていたが、疎開で妹の家にいた際に、8月6日、原爆被害に遭われた。その1年後、ほぼ同じ場所に、復員して実家に帰還した阿川が見た光景は、すでに、「同じ場所」ではなかった。

さて、それは余談であるが、大田洋子については、数多くの評論があり、いまさら私ごときが何か付け加えられることなど、ありはしない。

ちなみに、「核エネルギーの戦後史」において山本昭宏は、この二人の違いについて、次のように述べている(この本のレビューは「図書新聞」に書いた)。

「語ることへの戸惑いやもどかしさが、語り手の口から表明されない」(236ページ)

これは、阿川に対して指摘したものである。

確かに、「被爆体験」を小説にする、ということは、これまで誰もしたことのない経験であったわけだから、当然、困難がつきまとったに違いない。

「小説を書く者の文字の既成概念をもっては、描くことの不可能な、その驚愕や恐怖や、鬼気迫る惨状や、遭難死体の量や原子爆弾症の慄然たる有様など、ペンによって人に伝えることは困難に思えた。」(13ページ)

言葉にも、文章にも、作品にも、するのが困難なことは、誰でも想像がつく。

そのなかで、もがき苦しみ「作品」として社会に提起する段階で、はじめて、「作品」は自立することになるが、その際に、大きく分けると、二つの位置づけができると思う。

1 完成度の高い作品としての評価
2 実験的試みを果たした作品としての評価

おそらくこの二つは両立しまい。

この二つの評価に基づけば、阿川は前者において評価され、大田は後者によって評価されている、それだけのことであるように思われる。

しかし、大田は抗う。

「広島の不幸が、歴史的な意味を避けては考えられないことを思うとき、小説と云えども、虚構や怠惰はゆるされない。原型をみだりに壊さず、真実の裏づけを保って小説に移植されるべきであろう。」(14ページ)

今ならさしずめ、ノンフィクション、記録文学などと呼んで、小説とは分けて考えるところであるが、彼女は、「小説」であるということにこだわりつつ、「虚構」「怠惰」を盛り込まないという姿勢を貫こうとする。

この場合、「虚構を盛り込まないh」とは何を指すのだろうか。

一般的には「ありのままを書く」ということになるのだろうけれども、実際に、「ありのまま」など描くことができないのは、何も小説だけではなく、映像であっても同様だ。

極力「脚色」を廃して、自分が体験したことを文字化する。自分がそのとき何を見て、何を感じたのかを、言葉にする。伝聞は伝聞として、記事は記事として、自分が受け取った状態を維持して記す。

フッサールの現象学においてすでに試みられた手法であるが、実際には成功したわけではない。結局、ハイデガーのように、語の歴史的変遷を追いかけるか、サルトルのように「状況」にコミットするか、メルロ=ポンティのように「知覚」と「思考」との隙間に着目するのか、いずれにせよ、そのままの記述というものは、まだこの世に登場していないし、今後もすることはないであろう。

こうしたことを指すのであれば、それは、確かに一つの手法かもしれない。

「怠惰」という言葉がならなんでいるのも、おそらく、「脚色」が意図的な改変であるとすれば「怠惰」とは、こうした描写を心がける努力をしないで、適当に書くことを指すのであろう。

これはようやく完全版として刊行された「屍の街」の「序」として
1950年5月に書かれたものである。最後に、こう結ばれている。

「いずれの日か私は、不完全な私の手記を償うべく、かならず小説作品を書きたいと思っている。」(15ページ)

ここでいう「小説作品」とは、一体何を示しているのだろうか。もちろんその後大田はいくつかの作品を書いているが、それらは、この「手記」を「償う」ものだったのだろうか。

1947年には「眞晝の情熱」という単行本も出しているが、これは今では入手困難であるが、この本のことだろうか。

この本を読んでみたい。あまり評論もされていない。

話は戻すが、作家自身がどういう思いで、どういう意図で作品を書いたのかは、最終的には、読み手にとってはどうでもいいことである。

それを「虚構」として楽しむ場合もあれば、むしろ「虚構を排したもの」として楽しむ場合もあるだろう。

しかし「読む」のは必ずしも作品そのものだけとはかぎらない。

私たちは、しばしば、作品だけを自立したものとして読まず、作者とのかかわりにおいて読むこともある。

つまり、作者のこだわりや嗜好、苦しみ、葛藤、さまざまな情念をむしろ作品を通じて知ろうとする場合もあるだろう。

大田洋子がすぐれているのは、読者にそういった読み方を強いるところであるだろう。

彼女の人生、彼女の表現に少しでもふれてしまうと、その世界に吸い込まれて、逃げることができなくなる。そういった、怖さと悦楽がある。




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「私たちは・・・」と語るとき、「私たち」に誰が含まれるのか、誰が含まれないのかを、意識的に考える必要がある。

何か話したり書いたりするとき、「私たち」という言葉を用いることがしばしばある。

「私たち」とは、誰のことだろうか。

場合によっては、ややはっきりと言うときもある。

「私たち日本人は・・・」と言ったり、「関西人」「博多っ子」「どさんこ」「ハマっこ」と言うなど、民族的区分や地理的区分に基づいて「私たち」と言うこともある。

または、「私どもキリスト教徒としては」とか、「われわれ自民党は」といったような、宗教的、政治的な区分もあれば、「弊社は」「御社は」といったような組織的区分もある。

逆に、「私たち人類は」と総称することもある。

さまざまなバリエーションがある。

しかし、「私たち」とは、必ず、それを言いだした人間と「同じ立場」の人がこの世に存在することを強調すると同時に、そうではない人たちもいる、ということを暗に伝えるものである。

「そうではない人たち」、つまり「私たち」以外の人間は、しばしば、排除されたり、無視されたり、差別されたりする。

典型例はすぐさま三つほど挙げることができる。

フーコーが、狂気の歴史を探究したのは、デカルトを代表とする西洋近代知は「理性」を支えにして「私たち」の同一性を保持してきたが、その背景には、「狂気」を排除し隔離し監視し矯正するという装置が作動させる必要もあったことを明らかにしたかったからである。

ドゥルーズが同一性と差異にこだわり、
中心や上下関係のないリゾームというネットワークイメージを提起したのも、極限的には同一性の保証など、どこにもないし、同時に、差異もただ、多様性の切り取り方次第の恣意的なものにすぎないという両面を同時に描き出そうとしたからである。

さらにデリダが異人歓待論を古代ギリシア、ヘブライ、ローマ思想やカント哲学より検証しているのは、20世紀後半におけるフランスでの外国人移民排除の動きを受けてのものであり言ってみれば、敵対する他者を歓待するのは、自らの(家族や血族の)生命や財産を守るうえでの本質的な行為であり、避けてとおれないということを主張したかったからである。

したがって、「他者」について語ることは、不可避的に、「私」の愚かさや弱さを語ることであり、自ずと「私たち」という共同性を発生させ、かつ敵対を生み出すことになる。

「私たち」と言うとき、注意深くあらねばならない。


ところで、今日ここで書いてみたいのは、そうした一般論ではなく、もう少し具体的な話である。

昨日当ブログに、科学技術(特に核に関する)に対して、私たちがどういった態度をとってきたのか、もしくは、今後とるべきなのかを考えるための基礎づけを試みた。

しかし、書いていて、しっくりこない。

本当を言うと、自然科学者ではない自分は、原爆はもちろん原発の稼働や増設などの自然科学の「行きすぎた」探究や技術的応用については、少なくとも一時凍結もしくは封印をしてほしい、と願う。

そういうことに関心のある科学者と技術者は、まずは全力を挙げて原発事故の解明、廃炉や原発の安全性の確保、そして除染や被曝治療などの研究開発に勤しんでほしい。

それが個人としての率直な気持ちである。

原発は怖いに決まっている。

私はバンジージャンプやジェットコースターなどが大嫌いである。

わざわざ危険をおかしてまで実行する気持ちが、まったく分からない。

たとえば、バンジージャンプは私にとっては、1年に1人くらい綱が切れて死にますけど、それでもやりますか、と言われているようなものである。

飛行機のように、リスクと利便性とを天秤にのせてその結果で使うか使わないかを選ぶのは、まだよい。

バンジージャンプの場合、天秤に乗せるは、リスクと快楽である。つりあわせる以前のものである。

また、原発も、こうした判断が難しいしろものだ。

確率論的に対応しにくく、あまりにもその被害が長期的で、甚大で、かつ、使用済核燃料の処理などまだ未解決の問題が多い。

この天秤にさえ乗せられない。

にもかかららず「安全です」と言い切る科学者や技術者は、私にはまったく理解できる存在ではない。

どうしてだろうか、と妻と話をしていたら、妻が「理解できると思わないほうがいい。彼らはあなたにとっての異人だと思った方がいいのでは」と言われた。

なるほど。

最初から同じ、理解しあえる存在だと思っているから、苛立ち、怒りや悲しみを覚えたものだが、彼らは、私にとってまったく理解不能な他者、「異人」であったのだ。

ついつい私たちは同じ言語を使い、同じ道具を使い、同じように暮らし、外見も似たような人間を「私たち」としてまとめてしまう。

しかし、違うのだ。

ソクラテスやカント、フーコーの方が私にとっては「私たち」であり、「原発推進は当然必要です」「原発事故で誰も直接死んでいないから日本の原発は安全なんです」「資源の乏しい日本にとって原発は産業の命綱で、原発をやめることは国の存亡がかかっている」と言っている科学者や技術者は私にとっては「異人」なのでは、あるまいか。

異人であれば、最初から、理解しあえると思わずに、つまり、同一性があるということを前提とせずに、相互の主張の差異を明確にしたり、さらには相互の利害を調節することに注意を向けることができる。

そうしなければ、本来理解しあえないはずの相手と、終わることのない、歩み寄りのない論争や衝突を続けることに終始して、現実的打開策がみえなくなる。

異人歓待論とは、むしろ、ここにおいて意味があるのかもしれない。


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今さらではあるが、核に対する人間の態度について、再検討(=再整理)してみる。

「態度」というのは、すなわち、「政治的選択」ということである。政治的選択とは、個人の思惑ではなく、共同体の意志として、いかなる方向に舵をとってゆこうとするのかを表明するとともに実際にその実現に力を注ごうというものである。

ここで言う「核」とは、基本的には、原爆と原発という、兵器利用としての核と、平和利用としての核を指すが、「平和利用」の場合、医療において用いられる場合、工業用に用いられる場合も、ここに含む(本当は「利用」だけではなく、自然放射線などの研究もあることも忘れてはならない)。

大きく分類すると、以下のようになる

0 核に関する科学、技術に賛成
1 核に関する科学、技術に反対
2 核に関する技術に反対
3 核兵器の科学、技術に反対
4 米国の核(兵器)に反対
5 核兵器と原発に反対
6 放射能汚染に反対
7 核全般への不安

戦後の国内における議論は、おおよそ、「3 核兵器に反対」ではじまり、途中で、「反米」の一環として「4 米国の核(兵器)に反対」が加わり、さらに、ソ連の核(兵器)については賛成もしくは反対という政治的な分裂を生み、その後、1980年代以降、次第に「5 核兵器と原発に反対」へと移行していったが、その心情としては「6 放射能汚染に反対」もしくは「7 核全般への不安」が中心にあったとみなすことができる。

一部の科学者においては、「0 核に関する科学、技術に賛成」という全面的な肯定もなくはなかったが、主流ではなかった。また、一部の評論家や思想家のなかには、「1 核に関する科学、技術に反対」を主張する声もなくはなかったが、これもまた非現実的であり少数派であった。

さて、問題である。

まず。、核に関する科学的な解明を進める物理学者のことを非難する人は、きわめて少ないであろう。

キュリー夫人や湯川秀樹、アインシュタインの研究を全面的に否定することは、常識的にみて、ありえない。

次に、核に関する技術的発明として、原爆をつくった技術者のことを非難する人も、実は、それほど多くないであろう。

彼らに命令した人間たちが悪いのであって、技術者には選択の余地がない、と考えるはずである。

そして、核に関する技術的発明として、原発をつくった技術者のことを非難する人も、同様に、それほど多くないのではないだろうか。

多重防御の装置をはじめ、それは、確率論的に事故が起こりにくくつくられていることは、間違いない。

冷静にみて、これらのことは、核というものに関する科学ならびに技術に対する態度としては、誰もが、全面的に否定できるものではない、といえないだろうか。

つまり、これは、核に関する科学、技術そのものに、政治的判断や道徳的善悪が存在しない、ということである。

むしろ大事なのはその利用、実用である。

核に関する科学、技術の利用、実用において、私たちがいかなる形で、それらを適切に扱うことができるのか、それが政治的選択であり、倫理的な課題である。

これまで「核兵器廃絶」や「脱原発」といった言動が、一体何を意味していたのか、というと、それらの科学、技術的な達成点に関する是非ではなく、それらの「適用」における是非なのでは、あるまいか。

これまで使われてきた「反核」「反原発」が、「反戦」と同じように用いられてきたことからも分かるとおり、それは、政治的な意見表明であり、倫理的な立場表明であって、科学や技術そのものとは、厳密にいうと、切り離しうる。

このことは、最低限の、大前提としておこう。

そのうえで、ただし、
事故や被害が生じたとき、こういった機械的な分割、客観的な物言いで済まない部分があることをも、強調しよう。当事者として、加害者がいて、被害者がいるからである。

しかしここで問題にしたいのは、直接的な当事者ではない。

たとえば原発事故の場合、避難をしている方は、直接的な被害者である。関東圏に住む人間は、直接的な被害者ではない。

では無関係なのかというと、そうではない。

間接的、もしくは、広義における被害者である。

これを「汎-被害者」もしくは「準-被害者」と呼んでみる。

思うに、とりわけ核兵器と原発においては、明確な直接的被害者だけではなく、「汎-被害者」もしくは「準-被害者」が数多く存在する。

実際に、被爆者や被曝者と呼ばれる人よりも、低線量による被曝をしているか、もしくは被曝しているかもしれないと恐れおののいている人の方が多いのだ。

であるならば、問題は、複雑になる。

私たちは、どうやら、「核エネルギーの解放」をめぐる科学、技術に対して、根源的で圧倒的な「恐怖感」を抱いている。

実被害、決定的な被害ではなく、それらがこの世に存在し、活用され、戦争に用いられたり、原発事故を起こしたりしたときに、その実際の影響のみならず、その「存在」ともたらしうる「効果」(の可能性)に恐れおののいている。

これを、時代をさかのぼって、近代科学の黎明期における、たとえば、人体を切り刻み外科的処置を行う医者というものをはじめてみた江戸の町民を想像してみよう。

当時は、きっと驚いたに違いない、と誰もが思うことだろう。そんなことをする人を正常な人間とみなせなかったかもしれないし、そういった手術は人間のやることとは思えなかったかもしれない。

そういった、とりわけ近代以降の科学と技術による従来の日常感覚との軋轢は、たえず生じてきた。

科学や技術を擁護する立場の場合、こうした違和感や不安感は、「迷妄」であると一蹴されてしまう。

これらと、原爆、原発がもたらしている効果をいっしょにしてしまえるのか、否か。

最初の問いに戻るが、一部の科学者、技術者、政治家、実業家、思想家などは、吉本隆明に代表するように、おそらく根底では、いっしょだと考えていると思う。

しかし私は、違う、と思う。

両者には、大きな「断絶」がある。

科学技術は、物質(核)や生命(DNA)の根源を操作する次元に入ったとき、これまでの科学技術とは異なるものになっている。

遺伝子操作のような科学、技術もそうであるが、私たちは、それらがあまりに高度になりすぎて、不可視の領域に入り込んでいるため、人間自身が統御しきれるのかどうか、不安なのである。

一言でいえばそれは、統御しがたさ、と、不可視性、ということになる。

解明する、という「科学」的探究も慎重さを要するし、ましてやその技術的「利用」ともなれば、従来の安全基準や防災基準などでは済まされるはずがない。

かつてフランスの思想家のボードリヤールが1970年代くらいからさんざん言い続けていたように、エイズや原爆、原発、株式市場の暴落、コンピュータウイルスなどの「透き通った悪」が、今の社会には蔓延している。この「透き通った悪」に共通な特性こそが、「不可視性」と「拡散性」なのである。

核の科学、技術が私たちにもたらしたのは、もう、主体、客体、自分、他者、といった、明確な線引きのできる一つ一つの「個体」としての被害や責任の感覚ではなく、ある社会やある総体に、不可視に拡散するものへの拒絶なのである。

最初の問いに戻るが、当初、「核」をこれまでの科学的発見と技術的応用(実用)の延長線上で考えようとしたが、このこと自体が、誤った思考の枠組みなのだ。

もしくは、その両者にはっきりとした線を引くことが、今、大事なのことなのではないだろうか。



いま、民衆の科学技術を問う (1982年) (シリーズプラグを抜く〈0〉)/フォーラム人類の希望
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読んだ本
カント全集1 前批判期論集I
大橋容一郎、松山壽一訳
岩波書店
2000年5月

一言コメント
若きカント。自然現象をできうるかぎり科学的にとらえようとする。リスボン地震に対しても同様の態度を貫く。しかし科学は日進月歩で、今からみるとカントの科学性の高さも、なかなか理解しにくい。むしろカントの頑なさがにじみ出ている。


カントは地震について、3つの論文を書いている。この前年にあったリスボン地震をふまえてのものである。

地震原因論
Von den Ursachen der Erderschütterungen bei Gelegenheit des Unglücks, welches die westliche Länder von Europa gegen das Ende des vorigen Jahres betroffen hat. 1756.

地震の歴史と博物誌
Geschichte und Naturbeschreibung der merkwürdigsten Vorfälle des Erdbebens, welches an dem Ende des 1755sten Jahres einen großen Theil der Erde erschüttert hat. 1756.

地震再考
Fortgesetzte Betrachtung der seit einiger Zeit wahrgenommenen Erderschütterungen. 1756.


カントはこの頃、いくつかの自然科学に関する論考を書いている。「活力測定考」(1747年)「地球自転論」(1754年)「地球老化論」(1754年)「火について」(1755年4月)「天界の一般自然死と理論」(1755年)「自然モナド論」(1756年)などである。

地震については科学的にはほとんど解明されていない時代において、「自然探究者」として、語りうることを語ろうとしている。今からみれば、多くは「蓋然」的にしかみえないが、「数学的確実性」をふまえ、自然のもつ法則性のもとに、地震という事象の原因をつきとめようとしている。

これまで再三にわたって当ブログで述べてきたように、1755年のリスボン地震(津波)のインパクトは、ヨーロッパ中に広がっていた。とりわけ、そのなかでもヴォルテールによる神義論(=ライプニッツ)批判がもっとも話題をさらい、「カンディート」などはヨーロッパ各国においてベストセラーとなった。ルソーも負けじと被害の大きさはむしろ文明のおごりの結果であると人為論を展開した。

つまり18世紀半ばすぎにおいて、地震は、「天罰」とはみなされなくなる。

ヴォルテールやルソーと比べると、当時のカントはまだ若く、無名である。書いた論文もいわゆる学会内でしか読まれることのないものだ。

だからカントの論考が世間に大きな影響を与えたということは、まったくない。

しかし、カントのこれらの論考が重要なのは、そういった、世間への影響ではなく、むしろ、哲学者というものが、どこまでこうした大災害に対して掘り下げた思考が行えるのかを知ることができるからである。


たとえばカントは、地震が起こったときの様子を分析し、倒壊した建物の方角を観察した結果、次のような仮説をたてる。

「地震が通常生じざるをえない方向と同方向に流れる川に沿って都市を建設することに懸念を抱かせはしないだろうか」(276ページ)

当時得られている知見を最大限に生かして地震を分析し、被害の原因をつきとめ、次にやってくるであろう地震に対する「防御」をくみたてようとする。

この点においてみれば、カントの知的営みというものが、何ら、杓子定規のものでも、空想的なものでも、頭でっかちのものでもなく、いかに現実のなかで生きるかを前提としていることを思い出させてくれる。

「災厄はどこでも起こりうるのだし、地震の場合もこれを否認できないのだから、私としては災厄に対する人々の恐怖心をそのままにしておくほかなかろう、と。ただし、敬神の念を呼び起こす動因のうちで地震によるそれは最も薄弱な動因であり、本稿での私の意図は地震の自然的根拠を推測によって挙げることなので、いま挙げた諸点から容易につぎのことを察知できるであろう。すなわち、プロイセンは山のない国であるばかりでなく、ほぼ至るところ平地が続いていると見なせるはずなのだから、われわれは摂理という備えについて安んじて反対の希望を抱いてよい比較的大きな動機を有している、と。」(278ページ)

自然探究者として冷静に分析を行うことによって、
自国における不安を解消しようという思いが、ここには感じられる(のちの論考では、特に自国にかぎらず欧州全般に向けて述べられることになるが)。


またカントは、地球の内部構造について、大陸の下が「ドーム」のようになっている、というイメージを示す。

「われわれのいる大地が中空でそのドームがほぼ一つながりになって周辺に広く伸び、海底の下にさえ続いている」(275ページ)

これは、言ってみれば、私たちが「マントル対流」と呼んでいる「地熱」のありようの原初的なイメージである。

「ボイルは・・・、われわれの到達できない最も下の洞穴のうちでは持続的な帯熱とそれによって維持され消えることがない火が存在しているにちがいなく、この火が地表に熱を伝えているのだと推論しているが、これはとても理にかなっている。」(320ページ)

そして、地中にあるいくつかの物質が科学反応を起こすことによって地震が発生すると説明する。

「硫酸と鉄片とが十分な量、地中に含まれていることを誰が疑えるだろうか。さてそれに水が加わり、それらの相互作用を引き起こせば、それらから蒸気が発生し、その蒸気は広がろうとして地面を揺さぶり、活火山の火口で炎となって当然噴出する。」(279ページ)

このあと、カントは、地震そのものよりも「大洪水」に注意を向ける。

なぜならば、大洪水は、揺れがわずかな場所であっても被害をもたらしており、この因果関係を明らかにすることは、自然の探究者としては避けて通れないと考えたからである。

「しかしながら、高波が生じた諸地域においてはわずかな地震の痕跡すら感じられなかったのであり、少なくとも海岸からある程度離れたところではまったく感じられなかった。にもかからず、このような洪水には例に事欠かない。」(280ページ)

さらには、海洋とつながっていない湖沼の水面の変化についても、同様にその因果関係を検証するが、カントの姿勢はいつも変わらない。

「われわれはせっかちに自然がわれわれの目から隠しているものを虚構によって察知しようとすべきでなく、自然がその秘密を諸々の明瞭な結果において明々白々に打ち明けられるまで待つべきなのである。」(283ページ)


しかしそれにしても、カントの道徳論が今なお輝きを失っていないのと比べると、カントの地震洪水論は、当時まだ地球の内部構造について、十分な科学的な所見が得られていなかったとはいえ、
かなり色あせて見える。

カントによれば、地球の表面の内側は空洞になっており、地表からその内部には、洞穴でつながっている。この洞穴には火もしくは可燃物があり、何らかの刺激があると火もしくは可燃物が燃え盛り、それが揺れを発生させる、というのだ。

残念ながら現在の知見では、火や可燃物が原因ではなく、岩盤(プレート)のずれが地震の理由であるとされているので、カントのここでの説明は、今や何の価値ももたない。


なお、私たちは、津波、洪水という言葉を、あたりまえに用いている。つまりそれは私たちの生活に密着しているということを意味している。

それに対して欧米においては、「津波」は「
tsunami」であり、外来語が用いられたままである。つまり、彼らにとって津波は自分たちの暮らしの外側にあるもの、「別物」の意識が強いのであろう。

逆に言えば、私たちは、あまりにも津波や地震に慣れすぎてしまっているのではないか。
そして、「慣れ」は「軽視」にもつながっており、原発の設置場所とその安全対策についても、尋常ならざる「軽視」があったことを今になって気づかされる。

これほど日常の運転や点検には細かなチェックをしていたくせに、地震が起こりやすい場所に設置したり、津波がやってくることを想定しつつも同じ場所に非常電源を置いておいたりしてきたのは、欧米の原発がそういった注意を必要としなかったからだけではなく、私たちの意識が、いつのまにか甘くなっていたからではないだろうか。


それはさておき、カントは、地震の発生する理由については、かなり当時流布していた考えを流用しつつ自論を組み立てているようなのであるが、目立つのは、津波への関心であり、さらにこの「天災」を「天罰」と結びつける議論に対する批判である。

リスボン地震についてのシンプルなカントの所見は、こうである。

「あらゆる水域と陸地の大部分をあのように広範に広がり、かつわずか数分間であれ同時に感じられた地震は、歴史上ほかに例を見ない。」(297ページ)

私たちは、地震がプレート同士のずれから生まれるという説明する科学のなかで生きているので、津波についても、このプレートの移動による海水の揺れが次第に陸地にやってくるときに大きくなるため、抗いがたい凄まじい力をもった「塊」が押し寄せるという認識をとる。

しかしカントは違う。

カントは、まず通説である「海底の揺れ」の結果としてその上の海水が揺れ、陸地に水が流れ込むという考えに対して、異議をとなえる。

これだけ広範囲に洪水が広がるのは、「海水域」という「中間物質」が伝えているからだとする。

そして、従来の説が間違っているわけではないが、さまざまな現象から判断すると、単一の原因に帰することができない、という結論を下す。

「アイルランドのコーク、グリュックシュタット、時折はスペインの海辺近くで、あるいは海とつながった水域の近くで生じた陸地の揺れの大半は、まさしく押し出された海水の圧力によるものと見なされうる」(302ページ)

また、カントの注意は、こうした「洪水」と、噴水のように地中から湧き出した水との連関性までも説明しようとし、やはり当初の「火」による「蒸気」が噴き出たものとみなすのである。


さて、最後に、地震と津波への「解釈」であるが、これをカントは「地震の効用」として説明している。カントの主張は、こうだ。

まず、神の存在を彼は否定しない。しかし、その神は、何も人間の都合だけを考えているわけではない。殊更信仰心の厚い地域が壊滅的な打撃を受けたとしても、それは、単純に言えば、偶発的な自然現象にすぎない。

「人間は自然に順応することを学ばねばならないのに、自然が人間に順応してくれるように望んでいる。」(318-319ページ)

さらにカントは、震災には「被害」ばかりがあるのではなく、「効用」もある、と言っている。

「地震の原因は、一方で人間にいったん損害と思わせたりするにせよ、他方でそのことを人間のために容易に利益で埋め合わせることができる。」(319ページ)

「効用があれこれ発現する過程で人間には不都合は生ずる。だがわれわれはこれら効用のあらゆる備えをなす神の摂理に対して負うべき感謝の念を不遜にも忘れることができるであろうか。」(320ページ)

つまり、逆なのである。神義論を支持する人たちは、震災を「天罰」だとして、自分たちの信仰心を反省したが、カントからみれば、震災は自然現象であり、マイナスもあればプラスもあり、それを単純に「道徳」や「宗教」の問題に結びつけることはできないと考えたのである。

カントの場合、良い意味で、人間主義が徹底されていないのである。F・ベーコンのように、人間はとことん自然を利用し搾取し役立てるという発想がない。

「人間は自分が神の配在の唯一の目的だとうぬぼれている。」(323ページ)

強いて言えば、力関係は、こう図式化できる。

 人間 < 自然 < 神

自然を統治しているのは、あくまでも神であり、その自然の一部に人間も含まれている。

だが、カントのおもしろいところは、こうした「人間」観をもちながら、「人間」はすべてを神に依存させず、「自律」の領域があるとした点である。

人間は、自然や神とは関係なしに、掟や道徳を生み出し、自らを律しようとしてきた。

もちろん従わない者もあれば、地域によって異なる場合もある。それは、その社会、その共同体でのみ成り立つものが大半である。

しかし、もう一歩つきつめれば、「人間」にとって普遍的な律法があるのではないか、とカントは考える。

それが、定言命法で述べられる道徳律である。

これが、後期のカントにおいては、道徳律として、自然法則とともに、区別された人間の「掟」として、論じられることになるのである。


カント全集〈1〉前批判期論集(1)/イマヌエル カント
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読んだ本
日本の核開発 1939-1955 原爆から原子力へ
山﨑正勝
績文堂
2011年12月

一言コメント
当事者への直接的な問い合わせや綿密な文献考証に基づいて、日本における核エネルギーの研究開発の軌跡をたどりなおしている。物理学者と軍もしくは政治とのやりとりに関心が集まっており、国策としてどのように核は扱われてきたのかを知るには絶好の書である。



本書は、とても重要な内容を含んでいる。

なんといっても、ウランの核分裂がドイツで発見された1939年から日本で原子力政策がはじまる1955年までの国内における「核開発」の変遷を科学技術史的にたどっており、他書に追随を許さない緻密な文献検証、実際の証言の確認などを経た書物である。

本書は、福島の原発事故の後に刊行されているが、内容的には、それ以前に論文発表されたものを中心に再構成されたためか、「核開発」を問うまなざしは、若干2012年現在生きている私たちとは多少異なっているように感じられた。

当ブログで何度も書いているが、今の私たちにとってもっとも重要なのは、なぜ私たちは、原爆被害に遭いながら、原爆を拒絶しながらも、原発を積極的に、もしくは無批判的に受容してきたのか、という問いである。本書にも、この問いに対して多くを語ってほしかった。

しかし、それでも類書中、群を抜いて力作であることは言うまでもない。

まず、内容の全貌を伝えるために、目次を書きだしておく。

第1部    戦前・戦中編
 発端――陸軍と仁科芳雄
 基礎科学を追求する仁科芳雄――真珠湾攻撃後、「基礎研究に邁進」
 「物理懇談会」海軍技術研究所からの依頼
 仁科芳雄、「お国のために役立つ研究」へ
 核の研究開発開始と陸軍への報告書
 二号研究の開始
 海軍の京都帝大荒勝文策への研究依頼とF研究
 ウラン資源のドイツへの依頼と国内探査
 拡散塔の焼失と理研における二号研究の中止
 原爆投下とその調査
 戦後研究の開始とサイクロトロン破壊

第2部 戦後編
 米国による原爆投下の正当化論
 科学者たちの戦後――原爆から学んだこと
 学術研究会議の原爆被害調査と原爆傷害調査委員会(ABCC)の発足
 占領軍による原爆報道検閲と原子爆弾に関する一般国民の意識
 学術会議における原子力に関する議論――国内法による規制
 アイゼンハワー国連演説と東西原子力外交
 原子力予算計上と伏見の原子力憲章案
 ビキニ事件の衝撃と原子力三原則
 ビキニ事件に対する米国の反応
 学術会議の原子力基本法定の動き
 原水爆禁止運動の発展
 読売新聞社の「原子力平和使節団」招待と「原子力平和博覧会」
 日米原子力協定
 原水爆禁止運動の高揚――ラッセル・アインシュタイン宣言と原水爆禁止世界大会
 ジュネーヴ原子力平和利用国際会議と原子力基本法
 原子力基本法の国会審議
 原子力基本法と原子力の1995年
 周辺諸国から見た日本の核問題

まとめ 原爆被災から原子力計画の開始へ


第一部もしくは前半は、理研で多くの研究者を束ねていた仁科芳雄をキーパソンにして展開している。おそらく戦前から戦中にかけての「核開発」については、仁科芳雄が中心人物であることに異を唱える人はいないであろう。

この、仁科を中心とするグループ、そして京大の荒勝文策を中心とするグループ、この二つのグループが、どういった発端で原爆の研究開発を開始し、どのように進めていたのか、そしてどの程度まで進捗したのかについて、綿密に検証している。

結論としては、まず、日本における原爆の研究開発の進捗は、米国と比べると、まるで規模が小さく、ほとんど実用に至っていなかったことを強調する。これは、高田純や五島勉など一部の論者が、日本では戦中に原爆を開発していたが天皇がこうした非人間的な兵器を使うべきではないと考えたため開発を中止したと主張する者がいるが、ここでは彼らの珍説が否定されているに等しい。

また、これは断言していないが、科学者たちは、極力軍に協力するようなそぶりをみせつつ、実現可能性の薄いものであろうと、それに従事することによって、兵役を回避できるということに対して、仁科をはじめ、誰もが暗黙の了解で取り組んでいたことが、本書を読むと浮き上がってくる。

戦後に、「アカ」といって蔑まれた共産党をはじめ、戦争や天皇制、軍の意向などに積極的にかかわらなかった者たちは、基本的に、蔑視されていたと思われる。もしくは後ろめたい気持ちを抱いていたと思われる。

こうした件に対して本書はていねいに精緻に歴史検証を行っていると言える。

事実として説明しているものは、以下の事柄である。

・国内でもウラニウム爆弾の研究開発は行われていた。
・しかし実用化には程遠く頓挫した。
・福島県石川町でウラン採掘が行われたが、微量で頓挫した。
・ドイツからUボートでウラン鉱を持ち込もうとしたが失敗に終わった。

・GHQは当初仁科のサイクロトロンを軍事目的とみなさず、研究利用を許可した。しかし、その後本国の意向で、「怪しい」ものも廃棄すべきという通達があり、その意を汲んでGHQは破壊した。
・仁科は、明言はしていないが、サイクロトロンを用いた基礎研究を継続することに対しては、ひいては国家のためにもなる、と意義を見出していた。

しかしここで気になるのは、本書が、仁科の言動については、かなり詳細に追いかけている一方で、荒勝に関してはほとんどふれられていない点である。

また、後にふれるが、本書では、広島に原爆投下後、仁科が調査に行った際、病院のレントゲンフィルムが感光していたことを根拠に、ウラニウム爆弾と断定した、とされているが、これはいわゆるマスコミ向けの文句であり、本来の調査状況はかなり異なっている点も、掘り下げが足りない。

まず、広島における被害調査については、仁科のみならず、荒勝のグループも現地に入っている。

本書での言い方では、仁科はどうもガイガーカウンターも使わずに、原爆であると断定しているようにみえる。

それに対して荒勝は、かなり綿密に調査データを出している。

広島県(編)「広島県史 原爆資料編」(1972年)には、「原爆調査団の活動」の「参考資料8」に朝日新聞(大阪)1945年9月14~17日に発表された荒勝の「原子爆弾報告書」が掲載されている。

これをみると、荒勝は9名の調査隊を組んで8月10日に現地入りしている。

十数カ所の土砂を採集し翌日に京大にて放射能測定を開始する。

もっとも爆心地に近いと思われる場所の土砂では、「比較的強いβ」放射能が示されたという。また、この土砂の放射能の半減期を調べると「約20時間」だったという。また、ウラニウムによる比較測定を行った結果、「この土のβ放射能はウラニウムによるものでない」と確かめられたという。

素人判断だが、半減期が20時間ということは、おそらく「21時間」の半減期をもつI133を検出したということではないかと思う。また、ウラニウムとの比較というのが、今一つ分からない。今ならば、ヨウ素、セシウム、プルトニム、ストロンチウムあたりを調べるような気がするが、この頃にはまだ、ウラニウムの核分裂後にどういった物質が拡散するのか、あまり知られていなかったようである。

荒勝はこの第一班に続いて8月12日夜に第二班の調査隊を現地入りさせている。第二班は土壌ではなく、さまざまな金属に付着した放射能を調べるもので、翌日から2日にかけて採集した。その結果は、「とに角原子爆弾の一つ」とされたものの、「ウラニウム原子爆弾」とは特定していない。

「この原子爆弾は爆発に際し多量の高エネルギー速中性子を放出したことが明瞭で、緩速度中性子は殆ど放出されなかったものと思われる。このことはこの爆弾がウラニウム爆弾であろうと想像することに妥当性を与えるものである。」(517ページ)

残念ながら本書ではこうした内容については検証されていない。仁科が現地に赴いた際のやや詳しい記述は、何のためにあるのかと言えば、結局は、科学者たちが、どのように政治的に軍や政府の「核エネルギー」政策にかかわっていたのか、その事例としてにすぎないように見えてしまう。

もちろんそれが著者の最大の関心なのであろうけれども、同時に、こうしたプロセスの正確な検証は、私たちが「核」とどう向き合ってきたのかを考えるうえで、とても大事だ。

たとえば今中哲二は「広島原爆直後に行われた放射能調査活動」において(『広島原爆“黒い雨”にともなう放射性降下物に関する研究の現状』広島“黒い雨”放射能研究会、2010 年5月、所収)、この仁科、荒川以外の二つのグループすなわち、大阪大の浅田ら、それから広島大の藤原らをあわせて、四つのグループの調査結果があることを示している、

ここでの仁科グループの調査結果については、次のように説明されている。

まず、8月8日最初の広島入りの際には放射能測定器を持参しておらず、翌日に金属と土砂のサンプルを採集し10日に理研に運ばれて、ローリッツェン検電器を使った検査で銅線から放射能が認められたという(14ページ。なおこれは、村地孝一他「放射能の測定原子爆弾(広島)調査・中間報告」(仁科記念財団編「原子爆弾 広島・長崎の写真と記録」光風社書店、1973、59-62ページ、による)。

ローリッツェン検電器とは、電極に所定の電圧を加えて電荷を与えると、「静電気の反発でファイバーが開き、放射線が電離作用を起こすと、空気中に生じたイオンで電荷が中和されてファイバーがしだいに閉じていく」というもので、「この時間変化を測定して放射能を測る。金属の箱に顕微鏡をとりつけたような構造で、アルミのステージ上に放射性の試料を置き、シャッターを開いて測定を開始する」(以上の説明は、ここから引用)。

つまり、仁科のグループは、8月10日の時点で、調査の結果に基づきほぼウラニウム原子爆弾と推定したことになる。

本書が語るような、レントゲンフィルムの感光については、実は2005年8月に60年ぶりにこのフィルムが発見されていることが当時(8月4日付)の毎日新聞の記事に遺されている。それによれば、
爆心からそれぞれ2.5キロ、3.5キロ離れた陸軍三滝分院と共済病院のフィルムは感光していなかったが、爆心から1.5キロ離れた広島赤十字病院のフィルムは感光していたという。実際には広島赤十字病院全部で7枚あり、地下室の倉庫にあったもの、亜鉛製の箱に入っていたものは感光していなかったが、2階のレントゲン撮影室の保管庫にあった1枚だけが真っ黒になっていたという。そしてこれを8月10日に開いた陸海軍合同の研究会議で示したところ、「本爆弾は原子爆弾ナリト認ム」と結論を出す根拠となったのだから、あながち、本書で述べていることは誤りでないことが分かる。つまり、おそらくこの会議では他の証拠も述べられたのであろうけれども、政治言説の次元においては、この感光フィルムは決定的な証拠として認められたということである。

このように一部の内容について、他の資料を参照して確認してみると、本書がある事柄について深く掘り下げられていることがあるからといって、すべてがていねいに検証されているわけではないことがわかる。このことに注意しながら本書は読まれるべきであるだろう。

紙幅が尽きてしまいほんの少しの感想で終わらせるが、本書の後半である戦後篇は、今一つ、掘り下げが甘いように思う。

まず、原爆投下の「理由」もしくは「正当性」に関して解き明かそうとする。米国では、多くの人命を救うためにやむを得なかったという論が広まっていた。しかし実際にその人命の数については根拠がなく、要するに、何ら論理的ではない説明であることを暴露する。そんななかで興味深いのは、スミソニアン航空宇宙博物館が1995年に原爆投下50周年にエノラ・ゲイ展示を企画し、ニュートラルに歴史的な出来事を紹介しようとしたが、圧力がかかったという記述である。これについては、当時の館長が書いた「拒絶された原爆展」が翻訳されているので、いずれ読んでみよう。

ここで言われる、日本軍を叩くための「原爆必要悪」説は、武谷三男や佐藤文隆なども援用しており、問題を複雑にしている。私たちはどうして、自然科学にも妙な道徳を持ち込むことがあるのであろうか。これは「東日本大震災=天罰」説と同じで、思慮や判断を止めた愚かしい思考様式である。

後半で扱われているテーマは、そのあと、戦後の科学者たちの態度、特に仁科と湯川に焦点があてられているが、やや大雑把である。湯川については、以前、朝永との対比で、検討したように、評者たちにノーベル賞学者に対する過剰な期待がありすぎて、素朴な湯川の考え方に焦点があっていないが、ここでも似たような問題が生じている。

そのあと、日本学術会議とABCCの経緯。また、原爆報道の検閲と人々の原爆に対する意識(これはなんとわずか3ページで終わっている!)、アイゼンハウアー国連演説と米ソ対立、原子力予算の計上と伏見による原子力検証案の提起、第五福竜丸事件と原子力三原則の確立と米の反応、原水禁運動、読売による原子力平和利用のPR、日米原子力協定、ラッセル、アインシュタイン宣言、ジュネーヴ原子力平和利用国際会議、原子力基本法、韓国や中国からみた日本の核問題、などが展開される。

いろいろと言いたいことを書いてしまったが、基本的には良書であり、一読どころか三度くらいは読み返すに値すると思う。


日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ/山崎 正勝
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現実に存在しない他者

柄谷行人は『倫理21』のなかで、主にカントに寄り添いながら、普遍的な原理としての「自由」や「責任ある主体」を前提としたうえで、地理的にも歴史的にもくまなく訴求可能な「他者」概念を提唱している。

「私は、先に、間主観性や公共的合意というような議論をするような人たちに、「他者」の問題が抜けているといいました。その場合、他者には、非西洋、後進国、あるいはマイノリティの人々のことが含意されていました。しかし、そのような他者は少なくとも、今生きている人たちです。だから、合意が成立しなくても、何とか対話することができます。が、死んだ人たち、あるいはまだ生まれていない人たちとは、対話さえできません。彼らとの関係の非対称性は、けっしてくつがえせない。その意味で、彼らこそ、まさに典型的に「他者」であるというべきです。」(柄谷行人『倫理21』113ページ)

柄谷のこの「他者」概念の第一の目的、主眼は、彼が『探究』その他で以前から主張し続けているように、同じ言語共同体に属し、同じ「社会」共同体を形成し、同じ「共同幻想」の傘下にいる「他者」以外にも、世界中に多様な「他者」がいるという現実を強調することにある。

そして、真の意味での「他者」とは、対話とかコミュニケーションとかが成立してない相手のことを指すのであって、自分のまわりにいる「知人」を彼は「他者」と呼ばない。

このときに重要なのは、このような「他者」が現実に存在するかどうかが問題なのではなく、そのような「他者」の「存在」を「前提とする」ということなのだ。

したがって、究極的には、柄谷の言いたい「他者」とは、現実的に生き生活している「非西洋、後進国、あるいはマイノリティの人々」よりも、「死んだ人たち、あるいはまだ生まれていない人たち」といった、「想定するほかない他者」である。

いいかえれば、仮想的な「他者」、超越論的な「他者」、理想的な「他者」、観念論的な「他者」、そして普遍的な「他者」なのである。

ここからが重要なのだが、問題なのは、このような「他者」の設定が、非現実的で絵空事であるから無意味であり間違っている、ということなのではない。

観念論が観念論たる所以、つまりその意義とは、こういうことなのだ。即ち、観念論とは、現実的な利害関係のなかにはまりこんでしまった論議から抜け出すために必要な回路であり、現実的な物事にとらわれない、もしくは、たえず自分が「知っている」世界や知っている「他者」以外の「外部」の世界、「外部」の他者の存在する「余地」を確保しておく、と言うことが重要なのだ。

逆にいえば、世界とは、いくら経験や知識をすべて束ねていったとしても、その先の外部というものが存在し続ける、ということなのだ。


近—他者と遠—他者

ただし、このような柄谷の主張に対して次のような反論が可能である。

今仮に、自分の身近にいる他者、即ち、家族や友人、恋人、同僚、同級生、等々と、柄谷の言う他者を区別して、前者を、「近—他者」、後者を「遠—他者」と呼ぶのならば、「遠—他者」というものは、「死んだ人たち」や「まだ生まれていない人たち」と表現されているある意味で具体的な他者(つまり彼らは過去におそらく存在したであろうし、将来的におそらく存在するだろうということが、我々には想定できる)からはじまり、延々とどこまでも「他者」概念を拡張してゆくことができるのではないだろうか? という疑問である。

「遠—他者」の連続線上には、「神」や「宇宙人」や「霊」や「遺伝子」更には「動物全般」や「植物全般」更には無機物にまで拡張されるおそれはないのだろうか?  実際に柄谷は、自分の考える「他者」がある意味では「気まぐれな猫」のようだと言っている。

もちろん私は、柄谷が他者の範疇に「宇宙人」を積極的に包含させた議論をしたいわけではないことは承知している。

アメリカ合衆国を襲った同時多発テロ事件がそうであるように、我々の日常や「近—他者」の集まりは、いともたやすく「遠—他者」によって破壊されることからも分かるように、我々の思考、我々の日常には、「外部」の視点、「外部の他者」すなわち「遠—他者」の想定は絶対的に必要なのだ。

この点においては全面的に柄谷に賛成である。

しかし問題なのは、その外部性を、一つの「絶対原理」のようなものに集約してよいのかどうか、なのである。

たとえば、フーコーは死の直前のインタビューで次のように指摘している。

 「あらゆる人がそれに従わねばならないという意味であらゆる人に受け入れられる道徳形式といったものを探究するのは、私には破局的なことのように思われる」(Michel Foucault, “Le Retour de la morale,” Les Nouvelles, 28 June 1984, p.37.)

柄谷の主張が、たとえ「他者」概念の「拡張」ではなく、「遠—他者」という「外部性」の確保に主眼があるとしても、その外部性を結局は内側に取り込んで一つの普遍原理へと収斂させるのであれば、かえって自分自身の「倫理」さえも危機にさらすのではなかろうか? 

この問題を考えるにあたっては、カントに対する柄谷とフーコーとのスタンスの差異としてみることができる。


カントの自由

カントの道徳に対する「厳格さ」は、その定言命法に如実に現われている。即ち、「もし~なら、~すべし」といった条件付きの仮言命法ではなく、「どんな場合であっても、~すべし」という、無条件の指示である。

そしてこの「無条件」の道徳の存在を前提とするがゆえに、「無制約」な(もしくは絶対的な)自由の存在も仮想できるのである。そして、ここでいう「無条件」「無制約」というのは、カントの場合「物自体」の存在を想定することであった。

物自体とは、日常の経験的世界(現象)とは別のもの、言い換えれば超越論的にあるものである。そして、物自体という場所を確保したことによってカントは、現象すべてを認識できるということがありえないという経験論のジレンマを、ヒュームが結局は懐疑論的な立場に終始してしまったところの陥穽を、見事に抜け出していったのである。

このことは、現象の外、認識の外、という「外部性」をいついかなるときでも想定せねばならない、という前提をカントがとったということにほかならない。

したがって、この見地から、道徳の問題に対する一般的な二つの態度はカントによって根本から批判されることになる。

まず、校則や規則、法律等、共同体の規範、世の中の約束事に従うことが道徳的であるという立場(ヘーゲル「主義」的な立場)、そして、自分の快や幸福を追求することが目的であり、自分の欲求のままにふるまうことが道徳的であるという立場(英米系の倫理学や経験主義、功利主義の立場)の二つである。

前者はたやすく前述した外部性の導入によって批判される。複数の共同体の規則の存在と矛盾によって、それが絶対的に従わねばならないという根拠を奪われていた。

では後者はどうか?

これは、一見すると、他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい、と思われはしないだろうか。

確かに自分の狭い意味での「自由」を確保するには、あらゆる他者とのかかわりを捨象すればよい。が実のところそんなことは、できはしない。つまり、他人とは誰のことか、迷惑とはどういうことか、あらゆる場合を想定していけば、結局は自分が「存在すること」自体が、「他人に迷惑をかけている」ということに行き着くであろう。

カントは、このような両者のジレンマから逃れようとしたのである。

カントの「自由」とは、他に原因がなく純粋に自発的・自律的であることである。

それは、共同体の規範に従うことでもなければ、更には、従うという意識はないがそれを当たり前のように思ってそうしていることとも全く異なる。

もちろん経験的にわかることだが、現実的には、原因に規定されないような自由な行為や自由な主体というものはありえない。

だが、カントは、実践的/道徳的な次元では自由は存在する、と考えた。いいかえれば、(実際には自由ではないとしても、認識の次元では自由ではないように見えても)自由であれ、という義務、至上命令に従うことにおいてのみ自由は存在する、と考えたのだ。

これがカントの言う「他者を手段としてのみならず同時に目的(自由な主体)として扱え」ということにほかならない。

この、「のみならず」が重要なのである。

他人を手段として使わない、というのは、一件正しいことのように見えるが、それはきれいごとにすぎない。

また、他人を手段としてのみとらえよ、というのは単なるエゴイズムにしかならない。

カントが主張したかったのは、そのようなきれいごとでもエゴイズムでもなく、他者との関係は必然的に相手を手段として位置づけることになるが、そのような関係にありながら同時に相手もまた自分のことを手段としてみているのであり、自分も相手もともに生存していこうとするならば、互いが互いを手段であると同時に目的としてみなせ、ということなのである。


限定された倫理

だが、ここからこの考えは、「拡張」される。

カントの自由の問いは、『永遠平和のために』にあるように、必然的に、国家の戦争、国家や資本制経済そのものの揚棄へと向かい、柄谷もまた自称「アナーキスト」として、同様の主張をする。

柄谷はこのようなカントの自由に対する見解をふまえて、結局は「普遍原理」を提示したがっているように見える。

この原理は「想定」されたり「提示」されることに意味はあるが、「適用」されたり「応用」されるやいなや、「権力」となり、「抑圧」となる。それが問題だ。

「他者」概念の拡張は、一歩間違えると、かえって自分自身の倫理というものを危機にさらすおそれがある。

この危険性を回避するために、むしろ、「近—他者」に「他者」を限定するとともに、規定せざる「遠—他者」の「外部性」の余地を残しておく、ということが重要であると私は考える。

「歓待(ホスピタリティ)」の議論とは、この「外部性」のことである。

結果的に超越論的に「普遍原理」を語ることは、こういった局地的な倫理の問題とはまったく別物である、といってもよい。

別の倫理、別の次元の論議として、両者が共存するのは厭わないが、混合なり浸食するおそれがたえずつきまとい、それはいつも、普遍的個別的なものへと向かうのである。その動きだけは止めなければならない。

この危険なはざまでのみ、自分と他者との相互承認関係は成立しうる、もしくは、そこにしか存在しえない、と、私は考える。


参考文献
柄谷行人 倫理21 平凡社、2000年
¥1,680
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読んだ本
常識と核戦争 原水爆戦争はいかにして防ぐか
B・ラッセル
飯島宗享訳
理想社
1959年5月

Common Sense and Nuclear Warfare
Bertrand Russell
1959

一言コメント
アインシュタインとともに戦後の原水爆禁止運動をリードした哲学者ラッセル。アインシュタインと同様に、彼の論理哲学との連関が分からない。しかも彼はイズムではなく「常識」に照らし合わせてこの運動を進めるべきだとする。私はむしろ、原爆は駄目だが原発は平和的利用で必要という常識を疑うところから原発事故を考えるべきだと思う。



先日のブログで私は、
原爆と原発とを共に思考するべきこと、言いかえれば、原爆と原発の「同一性」を前提に現実をとらえるべきである、と主張した。

原爆と原発を区別する必要はない。なぜなら、いずれも、兵士でもない人たちの日常が「殺戮」されてしまうからである。こうした事態を仮に、「日常性のジェノサイド」と呼べば、私たちの戦後は原爆投下という「日常性のジェノサイド」ではじまり、そして今また、第二の「日常性のジェノサイド」と向かい合っている、と言える。

ここで重要なのは、第一の「日常性のジェノサイド」とどう対峙してきたのかをしっかりとと振り返ることである。それは、第二の「日常性のジェノサイド」を生きるうえで、不可欠である。

社会とは、多様な考えの人間が「共生」している。おそらく、どのようなすぐれた人間であったとしても、その一員にしかすぎず、その「全体」を代表(=表象)することは基本的にはありえない。せいぜい多数の支持を得るか、もしくは、大半の場合は少数の支持を得ているにすぎない。

それが、社会である。

社会は、多様性を前提とする。一元化されているものは、わずかに、「掟」もしくは「法」と呼ばれるものに尽きる。

それ以外は、いつでも、さまざまな考えがぶつかり合う。

原爆と原発を同じものとして語る場合、それを否定する立場がある。私はそれに対して、あえてこの二つの差異よりも同一性を語ることを選択した。なぜならば、「原爆と原発はまったく別物だ」と語るコンテクストにおいては語られえない「日常性のジェノサイド」を強調したいからだ。

さて、ここまでが先日書いた、私の第一の主張であるが、今日はあえて、その差異についても語ってみたい。当然、差異はある、からである。

ただし、私がここで述べる原爆と原発との差異は、「軍事的利用」と「平和的利用」の差異でも、連続的な核分裂を促進させるものと、それを抑制させるもとのという差異でもない。

それは、経年的、時間的、時代的な差異である。端的に言えば、「1945年」と「2011年」という差異である。

1945年とは、核エネルギーについて、さまざまなことを知らなかった時代のことだ。

広島と長崎に原爆が落とされたとき、まだ私たちは、こうした原爆と原発に共通した「日常性のジェノサイド」という事態があることをまったく理解していなかった。

それまでの戦争の連続線上で、それまでの爆弾との連続線上で、広島と長崎の出来事をとらえていた。

もちろん、その被害の大きさは、類例をみなかったわけだが、「核エネルギー」を利用した爆弾が人体や環境にもたらすものについて、十分な理解がなかった。

2011年と1945年で、大きく異なるのは、このことである。

ラッセルの本を読むとそれを痛感する。

「核戦争というものに含まれている危険は、全人類がこうむる危険であり、だからまた、そこでは全人類の利害が一致しているような危険なのです。」(7ページ)

こういったラッセルの指摘は間違っていない。

しかしこの「危険」は、戦争と核兵器が「使用」されなければ、回避できると考えられている。

これが、後に、誤りとなる。

核兵器が今まで兵器よりも格段に殺傷能力が高いといったような、「かつての兵器」と核兵器を比較する、というところで議論をすると確かにそうなるが、問題は、人間が核エネルギーを統御できる技術を十分に持っていないうちに、その技術を実用化したということにある。

これまでの「兵器」とは異なる次元の「技術」であるから、脅威なのだ。

ラッセルの発言には、まだ、「核物理学」の研究開発自体に対する肯定的な視点が含まれており、「平和的利用」については、疑問視されていない。

根底的な批判を行うのであれば、「核エネルギー」そのものの人間的すなわち技術的利用が、はたして本当に妥当なのかどうか、その時点から問うことが求められる。

「いまの調子で進んでは、この地球は存続できません。いまに、その結果いっさいのものが、あるいはほとんどいっさいのものが滅亡するような、戦争がおこりかねないのです。」(20ページ)

このようにラッセルの抱く「恐怖」は、原爆戦争による「地球の滅亡」であった。

もちろんこれが当時の世界情勢において、緊急課題であったことをここで非難したいのではない。

しかし、もう一歩ふみこめば、広島や長崎の現状をみつめるなかで、これが、死者の多さ、被害の壮絶さ、ということだけではなく、被爆者そしてそのまわりの人々の日常を長い期間にわたって奪い続けていったという意味で「日常性のジェノサイド」でもあったことに注意を向けなければならない。

生き残った者たちの、肉体の損傷、家族や知人といった社会関係の破壊、これまで住んでいた場所の破壊、そして、心理的な不安、痛み、苦しみ。

わずか10年もすれば広島においてさえも「被爆」を持ち出すことにためらいが生まれる。

もちろんGHQによる情報統制、被害検証の独占などの外圧によって、国民が「原爆」について正確に知る機会が少なかったことは、やむを得ない。

しかし、その後も、第五福竜丸、スリーマイル、チェルノブイリなど、見直す機会が幾度もあったはずだが、私たちは、どこか他人事のように、とりわけ原発における「日常性のジェノサイド」については、原爆における「日常性のジェノサイド」のみを強調することによって、見ないふりをしてきたのではないだろうか。

原発にも日常性のジェノサイドは同じようにある、しかし、それ以上に原爆の方が問題だ、というようにして、原発を正面から問うことを回避してきたのではないか。

少なくとも、私自身は、そうした悔悟に苦しんでいる。

また、作家である大田洋子が原爆にこだわりぬいて作品を書いていたとき、そこに流れているテーマは、表面は、戦争や原爆に対する憎しみであったが、彼女のその「情」は、こうした「日常性のジェノサイド」にあったと私は考える。

これは後日あらためて書くが、彼女の作品「半人間」は、そうした思いがこめられていた。

少し前に書いた黒澤明の「生きものの記録」の「生きもの」という言い方も、まさしく、死そのものよりも、攻撃を受けずして、日常性を奪われてゆく「生きもの」のさまを描いていたのであろう。

私たちがしなければならないのは、「原発事故といっても直接的な死者が出ていないじゃないか」といった開き直りの話法を受け入れることではなく、むしろ、直接的な死者が出ていないにもかかわらず、これほどまでに人の心を不安にさせるその心理的損傷を「日常性のジェノサイド」としてとらえ、見つめ直すことである。

結局、原爆の被害は、あくまでも被「爆」であり、被「曝」ではなかった、とされた。放射能によるものというよりは爆撃によるもの、という見方が私たちの歴史と現実を覆っている。

もちろん当時、被「曝」していた人たちもたくさんいた。

被害がなかったと言いたいのではない。被害として理解された概念が、被「爆」だったということである。

さらにこの「被爆」は、「戦争」と「平和」という対立概念を前提としており、戦争の結果として被爆したのだ、という理解となる。平和時における核エネルギーの利用はこの「日常性のジェノサイド」と結びつかない、と思わせるレトリックである。

日常の事故で爆撃は受けない。

それゆえ、被曝の被害に対して、平和を求め、戦争に反対する。そして核兵器に反対する。

これが「原爆」が形成した「理解枠」(=エピステーメー)である。

それに対して原発事故は、「戦争」とは直接的なつながりはない。平時における、しかも震災が引き起こした「事故」である。

もちろん事故のない状態も「平和」であるが、「戦争」という観念がここにはかかわらない。

しかし、先日の ブログでも書いたように、原爆被害も原発事故も、これまでの戦争とは異なるし、これまでの事故とも異なる。

戦争は、基本的には国家間による武力による自らの正当性の主張である。その場合、戦闘のための兵士がおり、武器があり、戦場がある。市民やその生活は、ただちには攻撃の対象とはならない。

にもかかわらず、核兵器は、そうした概念の外側にいる。

戦場では核兵器は用いられない。兵士に核兵器を用いない。

大勢が生活する都市に、核兵器は、用いられる。

これはすでに「戦争」でも「兵器」でもない。

「日常性のジェノサイド」をはたす、悪質な犯罪である。

戦争の動機である、正当性の主張とは、もはや関係がない。

自分たちが殺されたくないから、相手を殺す。

もしくはそれに必要な武器を相手よりも多く用意する。

これが、冷戦時における核兵器配備の高まりにおける言い訳であった。

くりかえすが。核兵器は、もはや兵器ではない。

核実験は、もはや「実験」ではない。

原発も、もはや「核の平和的利用」ではない。

いずれも、「日常性のジェノサイド」を実行している「全否定的」な技術なのである。



常識と核戦争―原水爆戦争はいかにして防ぐか (1959年)/B.ラッセル

¥価格不明
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読んだ本
アインシュタイン平和書簡1
ネーサン、ノーデン編
金子敏男訳
みすず書房
1974年12月

Einstein On Peace
Otto Nathan and Heinz Norden (eds)
1960 Copyright
1968 Publication

一言コメント
1914~33年に書かれた書簡を中心にアインシュタインの平和への言動を追いかけている。数多くの手紙を書き、数多くの政治文書に署名し、一貫して戦争に反対し続けた軌跡をたどることができる。
ただ、思想的深みを見出すのは困難であり、かつ、事実関係がとらえにくい。引用(注)と本文とのリンク、年表の併載などの工夫があれば、より読みやすくなったと思われる。

****

本書は、書簡をもとにした、アインシュタインの平和的言動を読む本であり、1914年から1933年までで構成されている。

とりわけ著名な人物として言えば、ロマン・ロランとジクムント・フロイトとのやりとりが収められている。また、国際連盟の知的協力委員会におけるキュリー夫人やフランスの哲学者ベルクソンとのやりとりなども含まれている。さらに「はしがき」は、平和運動の「盟友」である哲学者バートランド・ラッセルによって書かれている。

第1巻の構成は、以下のとおり。

1 1914-18 戦争の実体
2 1919-27 ドイツにおける革命・希望と幻滅
3 1922-27 国際協力と国際連盟
4 1928-31 戦争反対の抵抗1
5 1931-32 戦争反対の抵抗2
6 1932-33 ドイツにおけるファシズム前段


本書は、「平和」がテーマである。しかし当初、私はこの中から、一つのことだけを取り出したいと思った。つまり、「核物理学」と「原爆」の関係についての、彼の見解である。

できることなら核エネルギーを人間が利用することについて、すなわち、単に学問的な発見の次元においてではなく、科学技術として「核エネルギー」についてどういった考えをもっていたのかを知りたいと思い、本書を手にとった。

しかし、第1巻は、そういった内容はない。第2巻と3巻においては、こうした私の興味にかかわる内容が展開されることだろう。それらは後日読み、またあらためて書くことにするとして、今回は、では、アインシュタインは「平和」について、どういった考えをもっていたのか、少しまとめておきたい。

本書を読むと、アインシュタインが、いかにたえず国際平和を望み、少なからずそうした運動にもかかわってかかわってきたのか、その足跡を追うことができる。それは確かであるが、実は、彼が一体どういった「思想」をいだいて、そうした言動を続けてきたのかは、
あまりよく分からない。

わずかに見出されるのは、次の二点であろう。

まず、人間同士が殺し合う戦争に反対している。戦争は、学問や芸術などの文化を破壊するものだ、ということである。

そして、戦争と同時に嫌悪されたのは、偏狭な民族主義、そして、国家主義である。
自然科学研究の本質は、国家の思惑を超越したところにあり、国際的な協力体制なくして研究はありえないということ、である。、

「私の意見では、知識人が国際和平と人間の兄弟愛を、最高に進めうるのは、科学上の貢献と芸術的成果による方法であります。創造的な仕事は、人間を個人的で利己的な国家の目的を越えて、高くひき上げます。ものごとを考えるすべての人間が、共通の問題と熱望とに全力を注ぐなら、畢竟、あらゆる国々の学者、芸術家を結びつけることになる友情の意識を、創造することになります。」(47ページ)

大半の科学者たちが政治的発言を避けるなかで、アインシュタインのこうした率直な言動は、突出しており、良くも悪くも世界的に知られることとなった。その結果、彼の人生は、純粋な物理学研究のみならず、各国の知識人や活動家とのやりとりにもかなりの労力が割かれることとなった。

1920年に入ると、非難や中傷、恐喝、迫害、生命への危害のおそれなどが増し、ドイツでは安心して暮らせなくなってゆく。

彼の協力者とともに模索したのは、米国への移住であった。実際の移住は1933年になるが、当時、ヨーロッパが国家間の醜い争いをしているのを目撃したアインシュタインにとっては、米国は、希望の国と映ったようだ。

「国際主義については、アメリカは諸国のうちで、最も進歩しています。国際的「精神」とよばれるべきものを持っています。」(51ページ)

上記の文章は米国の夕刊紙とのインタビューであり、若干の社交辞令が含まれているとしても、その当時においては、半分以上は偽らざる気持ちだったに違いない。

ただ、そうした米国でさえも「言語」の壁によって、同じような問題が生じうることも、もちろん認識はしていた。コレージュ・ド・フランスの招きでパリを訪問した際(1922年3月*)の講演緑では、アインシュタインはこう語った。


「機会がありさえすれば、異なった言語を話し、異なった政治的、文化的見解を持っている人々は、お互いに国境を越えて意志の伝達を計ることが重要だと、私は考えます。」(59ページ)

*大江健三郎「治療塔」に「100年前の出来事」として、このアインシュタインの話が出てくる。つまり、治療塔は2022年頃の話という設定なのである。

国際的であるということは、必然的に、平和的になりうるというのが、彼の信念であったようだ。

こうした言動が、特にドイツ国内の国粋主義者たちに反感を抱かせた。しかし彼は、ひるむことなく積極的に政治的文書に署名し、政治集会などにも参加していたようである。

しかしアインシュタインのこうした平和主義、国際主義とは、一体どういった思いから生まれたものなのだろうか。あまり参照できるものがないのだが、たとえば1922年に平和運動便覧には次のように書かれている。

「自然科学者は、平和主義者の目的を受け容れ易い。それは彼が扱っている対象が、普遍的性格のものであること、したがって国際協力に依存していることに理由がある。」(63ページ)

逆に読めば、人間は、言語や習慣、文化など、国よって異なるものをつくりあげてきたが、自然科学はそういったものに煩わされることのないものである、それゆえ、自然科学を愛するということは、必然的に国際主義、平和主義に至る、ということになるだろうか。

つまり、アインシュタインの場合、自然科学を純粋に追求することが、そのまま、平和の希求とつながっているということである。

また、1922年に国際連盟が知的協力委員会(後のユネスコ)を設立し、キュリー夫人、ベルクソンとともにアインシュタインを招聘する。一度は辞退したものの1924年には委員となる。ここでも彼は、国境をこえた科学者間の相互交流を主張した。しかし残念ながら本書では、
自然科学にも深い造詣のあったベルクソンや、事務次長を務めていた新渡戸稲造とのやりとりについては、ふれられていない。

なお、彼の平和運動は、一つの明確な「行動」を伴っていた。兵役の拒否である。1928年にこう書いている。

「戦争参加一切拒否の国際運動は、この時代の最も希望にみちた進歩の一つだと、私は信じます。思慮深い、善意で良心的な人間は誰しも、理由のいかんをとわず一切の戦争に参加せず、また直接間接のいかなる支持も与えないという、おごそかにして無条件の義務を、平和時には自らに課すべきであります。」(100ページ)

さらに、
1929年に、科学と戦争との関係について、少し、感情ではなく、ロジックのようなものを次のように述べている。

「科学の発展を阻止するという考え方はあり得ないから、残る唯一のものは戦争それ自体をなくすということである。」(103ページ)

戦争が悲惨になってゆくのは近代科学兵器が用いられるようになったからだが、かといって科学の進歩を止めることはできない。だから、戦争をしないようにできる道を探る、というのが、アインシュタインのとった選択肢だった。

しかし、科学の進展を止めることができない、と断言しておきながら、なぜ、戦争はなくすことができる、と考えたのか、私にはよく理解できない。

この二つの行いは、いずれも、阻止するのは困難なのではないだろうか。

「唯一の有効な行動は、戦争の防止のために働くことである。武装による安全を求めることの無益さを、公然と非難すること、国際正義の早期定立は、人類死活の問題であるという確信を、全身全霊をもって声明することである。」(104ページ)

いずれにせよ、アインシュタインは、素朴に、兵役を拒否することを訴え続けることになる。

これはこれで、一貫した考え方なのかもしれない。しかし、彼の物理学において達成された「高み」と、この単純な反戦への「思い」は、あまりうまく接合しない。つまり、力を持ちにくい。

「私の平和主義は一種本能的な感情です。私を占有している一つの感情なのです。他の人間を殺害することを考えるのは、私にとって忌まわしいことです。私の態度は知的な理論の結果ではなくて、あらゆる種類の残酷さと憎しみに対する、深い反感に由来するものです。」(108ページ)

このように、アインシュタインが署名した数多くの文書が引用されているのだが、実際のアインシュタインの「思想」というものが、最後まで(1933年に至るまで)見出しにくかった。

とりわけこれが顕著なのが、フロイトとのやりとりである。

フロイトは1929年に手紙の中でアインシュタインに会ったときの印象を書いている。

「私の著作の内容に対する理解を欠いているため、やっと私の文体を誉めるということになるのです。」(207ページ)

明らかにフロイトはアインシュタインの知性を疑っている。実際、おそらくこの時点では十分にアインシュタインはフロイトの思想を読み込んでいなかったのではなかろうか。一歩、理解を示したような文章は、
1932年になってからである。

「あなたは否定の余地なきほど明確に、戦闘的にして破壊的な本能が、愛情及び生命欲といかに不可分に、人間の心の中で結びついているかを、示されました。」(208ページ)

しかし、それでも、フロイトには不満で、長い説明を行った手紙を送っている。フロイトからみれば、「戦争」のない社会、というのは想像困難であるが、強いて言えば「文化」によってそういった「本能的衝動」を抑圧することは可能であろう、しかし、こうした人間の本能に関する分析はあなたの反戦の考え方には、あまり役に立たないのではないか、と
言っているようである。アインシュタインは何を思ったのであろうか。その返事は、再び、社交辞令の域を出るものではなかった。

しかもこのやりとりは、ドイツ語と英語で刊行されるが、わずか2000部しか刷られず、反響もそれほど大きなものではなかった。

すでにヒトラーが政権をとっているさなかであったこともあろうが、あまりかみ合っていないこの交換書簡が、大きな役割を果たせなかった根本的な理由は、むしろアインシュタインの、決定的な人文社会科学に対する無理解にあったように思える。

原爆や原発もそうだが、戦争の問題についても、ある一部の専門的な知識だけでは全体像が見えるものではない。あの、アインシュタインをもってしても、総合的な知性というのか、他領域の知識人との対話が十分になしえなかったことは、痛恨の極みである。

なお、アインシュタインの日本観について、最後にふれておこう。訪日の思いを手紙に1923年、こう書いている。

「日本は不思議な所です。優雅な生活様式、すべてに対する生き生きとした興味、芸術心、良識をともなった知的な純朴さ――絵のような国に住む美しい国民です。」(65ページ)

これは明らかにお世辞fであろう。そのような言及はさておき、もう一点、1925年、国際情勢について米新聞のインタビューでは次のように述べている。

「日本は今、安全弁を欠いたボイラーみたいなものです。」(85ページ)

当時の日本の軍拡路線をふまえて危惧を述べているのであるが、同時に、
何やら、原発事故を想起させるような発言でもある。もっとも「安全弁」はなかったわけではなく、むしろ、実際に効果的に使うことができなかった、と言うべきかもしれない。

***

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