今さらではあるが、核に対する人間の態度について、再検討(=再整理)してみる。

「態度」というのは、すなわち、「政治的選択」ということである。政治的選択とは、個人の思惑ではなく、共同体の意志として、いかなる方向に舵をとってゆこうとするのかを表明するとともに実際にその実現に力を注ごうというものである。

ここで言う「核」とは、基本的には、原爆と原発という、兵器利用としての核と、平和利用としての核を指すが、「平和利用」の場合、医療において用いられる場合、工業用に用いられる場合も、ここに含む(本当は「利用」だけではなく、自然放射線などの研究もあることも忘れてはならない)。

大きく分類すると、以下のようになる

0 核に関する科学、技術に賛成
1 核に関する科学、技術に反対
2 核に関する技術に反対
3 核兵器の科学、技術に反対
4 米国の核(兵器)に反対
5 核兵器と原発に反対
6 放射能汚染に反対
7 核全般への不安

戦後の国内における議論は、おおよそ、「3 核兵器に反対」ではじまり、途中で、「反米」の一環として「4 米国の核(兵器)に反対」が加わり、さらに、ソ連の核(兵器)については賛成もしくは反対という政治的な分裂を生み、その後、1980年代以降、次第に「5 核兵器と原発に反対」へと移行していったが、その心情としては「6 放射能汚染に反対」もしくは「7 核全般への不安」が中心にあったとみなすことができる。

一部の科学者においては、「0 核に関する科学、技術に賛成」という全面的な肯定もなくはなかったが、主流ではなかった。また、一部の評論家や思想家のなかには、「1 核に関する科学、技術に反対」を主張する声もなくはなかったが、これもまた非現実的であり少数派であった。

さて、問題である。

まず。、核に関する科学的な解明を進める物理学者のことを非難する人は、きわめて少ないであろう。

キュリー夫人や湯川秀樹、アインシュタインの研究を全面的に否定することは、常識的にみて、ありえない。

次に、核に関する技術的発明として、原爆をつくった技術者のことを非難する人も、実は、それほど多くないであろう。

彼らに命令した人間たちが悪いのであって、技術者には選択の余地がない、と考えるはずである。

そして、核に関する技術的発明として、原発をつくった技術者のことを非難する人も、同様に、それほど多くないのではないだろうか。

多重防御の装置をはじめ、それは、確率論的に事故が起こりにくくつくられていることは、間違いない。

冷静にみて、これらのことは、核というものに関する科学ならびに技術に対する態度としては、誰もが、全面的に否定できるものではない、といえないだろうか。

つまり、これは、核に関する科学、技術そのものに、政治的判断や道徳的善悪が存在しない、ということである。

むしろ大事なのはその利用、実用である。

核に関する科学、技術の利用、実用において、私たちがいかなる形で、それらを適切に扱うことができるのか、それが政治的選択であり、倫理的な課題である。

これまで「核兵器廃絶」や「脱原発」といった言動が、一体何を意味していたのか、というと、それらの科学、技術的な達成点に関する是非ではなく、それらの「適用」における是非なのでは、あるまいか。

これまで使われてきた「反核」「反原発」が、「反戦」と同じように用いられてきたことからも分かるとおり、それは、政治的な意見表明であり、倫理的な立場表明であって、科学や技術そのものとは、厳密にいうと、切り離しうる。

このことは、最低限の、大前提としておこう。

そのうえで、ただし、
事故や被害が生じたとき、こういった機械的な分割、客観的な物言いで済まない部分があることをも、強調しよう。当事者として、加害者がいて、被害者がいるからである。

しかしここで問題にしたいのは、直接的な当事者ではない。

たとえば原発事故の場合、避難をしている方は、直接的な被害者である。関東圏に住む人間は、直接的な被害者ではない。

では無関係なのかというと、そうではない。

間接的、もしくは、広義における被害者である。

これを「汎-被害者」もしくは「準-被害者」と呼んでみる。

思うに、とりわけ核兵器と原発においては、明確な直接的被害者だけではなく、「汎-被害者」もしくは「準-被害者」が数多く存在する。

実際に、被爆者や被曝者と呼ばれる人よりも、低線量による被曝をしているか、もしくは被曝しているかもしれないと恐れおののいている人の方が多いのだ。

であるならば、問題は、複雑になる。

私たちは、どうやら、「核エネルギーの解放」をめぐる科学、技術に対して、根源的で圧倒的な「恐怖感」を抱いている。

実被害、決定的な被害ではなく、それらがこの世に存在し、活用され、戦争に用いられたり、原発事故を起こしたりしたときに、その実際の影響のみならず、その「存在」ともたらしうる「効果」(の可能性)に恐れおののいている。

これを、時代をさかのぼって、近代科学の黎明期における、たとえば、人体を切り刻み外科的処置を行う医者というものをはじめてみた江戸の町民を想像してみよう。

当時は、きっと驚いたに違いない、と誰もが思うことだろう。そんなことをする人を正常な人間とみなせなかったかもしれないし、そういった手術は人間のやることとは思えなかったかもしれない。

そういった、とりわけ近代以降の科学と技術による従来の日常感覚との軋轢は、たえず生じてきた。

科学や技術を擁護する立場の場合、こうした違和感や不安感は、「迷妄」であると一蹴されてしまう。

これらと、原爆、原発がもたらしている効果をいっしょにしてしまえるのか、否か。

最初の問いに戻るが、一部の科学者、技術者、政治家、実業家、思想家などは、吉本隆明に代表するように、おそらく根底では、いっしょだと考えていると思う。

しかし私は、違う、と思う。

両者には、大きな「断絶」がある。

科学技術は、物質(核)や生命(DNA)の根源を操作する次元に入ったとき、これまでの科学技術とは異なるものになっている。

遺伝子操作のような科学、技術もそうであるが、私たちは、それらがあまりに高度になりすぎて、不可視の領域に入り込んでいるため、人間自身が統御しきれるのかどうか、不安なのである。

一言でいえばそれは、統御しがたさ、と、不可視性、ということになる。

解明する、という「科学」的探究も慎重さを要するし、ましてやその技術的「利用」ともなれば、従来の安全基準や防災基準などでは済まされるはずがない。

かつてフランスの思想家のボードリヤールが1970年代くらいからさんざん言い続けていたように、エイズや原爆、原発、株式市場の暴落、コンピュータウイルスなどの「透き通った悪」が、今の社会には蔓延している。この「透き通った悪」に共通な特性こそが、「不可視性」と「拡散性」なのである。

核の科学、技術が私たちにもたらしたのは、もう、主体、客体、自分、他者、といった、明確な線引きのできる一つ一つの「個体」としての被害や責任の感覚ではなく、ある社会やある総体に、不可視に拡散するものへの拒絶なのである。

最初の問いに戻るが、当初、「核」をこれまでの科学的発見と技術的応用(実用)の延長線上で考えようとしたが、このこと自体が、誤った思考の枠組みなのだ。

もしくは、その両者にはっきりとした線を引くことが、今、大事なのことなのではないだろうか。



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