読んだ本
日本の核開発 1939-1955 原爆から原子力へ
山﨑正勝
績文堂
2011年12月

一言コメント
当事者への直接的な問い合わせや綿密な文献考証に基づいて、日本における核エネルギーの研究開発の軌跡をたどりなおしている。物理学者と軍もしくは政治とのやりとりに関心が集まっており、国策としてどのように核は扱われてきたのかを知るには絶好の書である。



本書は、とても重要な内容を含んでいる。

なんといっても、ウランの核分裂がドイツで発見された1939年から日本で原子力政策がはじまる1955年までの国内における「核開発」の変遷を科学技術史的にたどっており、他書に追随を許さない緻密な文献検証、実際の証言の確認などを経た書物である。

本書は、福島の原発事故の後に刊行されているが、内容的には、それ以前に論文発表されたものを中心に再構成されたためか、「核開発」を問うまなざしは、若干2012年現在生きている私たちとは多少異なっているように感じられた。

当ブログで何度も書いているが、今の私たちにとってもっとも重要なのは、なぜ私たちは、原爆被害に遭いながら、原爆を拒絶しながらも、原発を積極的に、もしくは無批判的に受容してきたのか、という問いである。本書にも、この問いに対して多くを語ってほしかった。

しかし、それでも類書中、群を抜いて力作であることは言うまでもない。

まず、内容の全貌を伝えるために、目次を書きだしておく。

第1部    戦前・戦中編
 発端――陸軍と仁科芳雄
 基礎科学を追求する仁科芳雄――真珠湾攻撃後、「基礎研究に邁進」
 「物理懇談会」海軍技術研究所からの依頼
 仁科芳雄、「お国のために役立つ研究」へ
 核の研究開発開始と陸軍への報告書
 二号研究の開始
 海軍の京都帝大荒勝文策への研究依頼とF研究
 ウラン資源のドイツへの依頼と国内探査
 拡散塔の焼失と理研における二号研究の中止
 原爆投下とその調査
 戦後研究の開始とサイクロトロン破壊

第2部 戦後編
 米国による原爆投下の正当化論
 科学者たちの戦後――原爆から学んだこと
 学術研究会議の原爆被害調査と原爆傷害調査委員会(ABCC)の発足
 占領軍による原爆報道検閲と原子爆弾に関する一般国民の意識
 学術会議における原子力に関する議論――国内法による規制
 アイゼンハワー国連演説と東西原子力外交
 原子力予算計上と伏見の原子力憲章案
 ビキニ事件の衝撃と原子力三原則
 ビキニ事件に対する米国の反応
 学術会議の原子力基本法定の動き
 原水爆禁止運動の発展
 読売新聞社の「原子力平和使節団」招待と「原子力平和博覧会」
 日米原子力協定
 原水爆禁止運動の高揚――ラッセル・アインシュタイン宣言と原水爆禁止世界大会
 ジュネーヴ原子力平和利用国際会議と原子力基本法
 原子力基本法の国会審議
 原子力基本法と原子力の1995年
 周辺諸国から見た日本の核問題

まとめ 原爆被災から原子力計画の開始へ


第一部もしくは前半は、理研で多くの研究者を束ねていた仁科芳雄をキーパソンにして展開している。おそらく戦前から戦中にかけての「核開発」については、仁科芳雄が中心人物であることに異を唱える人はいないであろう。

この、仁科を中心とするグループ、そして京大の荒勝文策を中心とするグループ、この二つのグループが、どういった発端で原爆の研究開発を開始し、どのように進めていたのか、そしてどの程度まで進捗したのかについて、綿密に検証している。

結論としては、まず、日本における原爆の研究開発の進捗は、米国と比べると、まるで規模が小さく、ほとんど実用に至っていなかったことを強調する。これは、高田純や五島勉など一部の論者が、日本では戦中に原爆を開発していたが天皇がこうした非人間的な兵器を使うべきではないと考えたため開発を中止したと主張する者がいるが、ここでは彼らの珍説が否定されているに等しい。

また、これは断言していないが、科学者たちは、極力軍に協力するようなそぶりをみせつつ、実現可能性の薄いものであろうと、それに従事することによって、兵役を回避できるということに対して、仁科をはじめ、誰もが暗黙の了解で取り組んでいたことが、本書を読むと浮き上がってくる。

戦後に、「アカ」といって蔑まれた共産党をはじめ、戦争や天皇制、軍の意向などに積極的にかかわらなかった者たちは、基本的に、蔑視されていたと思われる。もしくは後ろめたい気持ちを抱いていたと思われる。

こうした件に対して本書はていねいに精緻に歴史検証を行っていると言える。

事実として説明しているものは、以下の事柄である。

・国内でもウラニウム爆弾の研究開発は行われていた。
・しかし実用化には程遠く頓挫した。
・福島県石川町でウラン採掘が行われたが、微量で頓挫した。
・ドイツからUボートでウラン鉱を持ち込もうとしたが失敗に終わった。

・GHQは当初仁科のサイクロトロンを軍事目的とみなさず、研究利用を許可した。しかし、その後本国の意向で、「怪しい」ものも廃棄すべきという通達があり、その意を汲んでGHQは破壊した。
・仁科は、明言はしていないが、サイクロトロンを用いた基礎研究を継続することに対しては、ひいては国家のためにもなる、と意義を見出していた。

しかしここで気になるのは、本書が、仁科の言動については、かなり詳細に追いかけている一方で、荒勝に関してはほとんどふれられていない点である。

また、後にふれるが、本書では、広島に原爆投下後、仁科が調査に行った際、病院のレントゲンフィルムが感光していたことを根拠に、ウラニウム爆弾と断定した、とされているが、これはいわゆるマスコミ向けの文句であり、本来の調査状況はかなり異なっている点も、掘り下げが足りない。

まず、広島における被害調査については、仁科のみならず、荒勝のグループも現地に入っている。

本書での言い方では、仁科はどうもガイガーカウンターも使わずに、原爆であると断定しているようにみえる。

それに対して荒勝は、かなり綿密に調査データを出している。

広島県(編)「広島県史 原爆資料編」(1972年)には、「原爆調査団の活動」の「参考資料8」に朝日新聞(大阪)1945年9月14~17日に発表された荒勝の「原子爆弾報告書」が掲載されている。

これをみると、荒勝は9名の調査隊を組んで8月10日に現地入りしている。

十数カ所の土砂を採集し翌日に京大にて放射能測定を開始する。

もっとも爆心地に近いと思われる場所の土砂では、「比較的強いβ」放射能が示されたという。また、この土砂の放射能の半減期を調べると「約20時間」だったという。また、ウラニウムによる比較測定を行った結果、「この土のβ放射能はウラニウムによるものでない」と確かめられたという。

素人判断だが、半減期が20時間ということは、おそらく「21時間」の半減期をもつI133を検出したということではないかと思う。また、ウラニウムとの比較というのが、今一つ分からない。今ならば、ヨウ素、セシウム、プルトニム、ストロンチウムあたりを調べるような気がするが、この頃にはまだ、ウラニウムの核分裂後にどういった物質が拡散するのか、あまり知られていなかったようである。

荒勝はこの第一班に続いて8月12日夜に第二班の調査隊を現地入りさせている。第二班は土壌ではなく、さまざまな金属に付着した放射能を調べるもので、翌日から2日にかけて採集した。その結果は、「とに角原子爆弾の一つ」とされたものの、「ウラニウム原子爆弾」とは特定していない。

「この原子爆弾は爆発に際し多量の高エネルギー速中性子を放出したことが明瞭で、緩速度中性子は殆ど放出されなかったものと思われる。このことはこの爆弾がウラニウム爆弾であろうと想像することに妥当性を与えるものである。」(517ページ)

残念ながら本書ではこうした内容については検証されていない。仁科が現地に赴いた際のやや詳しい記述は、何のためにあるのかと言えば、結局は、科学者たちが、どのように政治的に軍や政府の「核エネルギー」政策にかかわっていたのか、その事例としてにすぎないように見えてしまう。

もちろんそれが著者の最大の関心なのであろうけれども、同時に、こうしたプロセスの正確な検証は、私たちが「核」とどう向き合ってきたのかを考えるうえで、とても大事だ。

たとえば今中哲二は「広島原爆直後に行われた放射能調査活動」において(『広島原爆“黒い雨”にともなう放射性降下物に関する研究の現状』広島“黒い雨”放射能研究会、2010 年5月、所収)、この仁科、荒川以外の二つのグループすなわち、大阪大の浅田ら、それから広島大の藤原らをあわせて、四つのグループの調査結果があることを示している、

ここでの仁科グループの調査結果については、次のように説明されている。

まず、8月8日最初の広島入りの際には放射能測定器を持参しておらず、翌日に金属と土砂のサンプルを採集し10日に理研に運ばれて、ローリッツェン検電器を使った検査で銅線から放射能が認められたという(14ページ。なおこれは、村地孝一他「放射能の測定原子爆弾(広島)調査・中間報告」(仁科記念財団編「原子爆弾 広島・長崎の写真と記録」光風社書店、1973、59-62ページ、による)。

ローリッツェン検電器とは、電極に所定の電圧を加えて電荷を与えると、「静電気の反発でファイバーが開き、放射線が電離作用を起こすと、空気中に生じたイオンで電荷が中和されてファイバーがしだいに閉じていく」というもので、「この時間変化を測定して放射能を測る。金属の箱に顕微鏡をとりつけたような構造で、アルミのステージ上に放射性の試料を置き、シャッターを開いて測定を開始する」(以上の説明は、ここから引用)。

つまり、仁科のグループは、8月10日の時点で、調査の結果に基づきほぼウラニウム原子爆弾と推定したことになる。

本書が語るような、レントゲンフィルムの感光については、実は2005年8月に60年ぶりにこのフィルムが発見されていることが当時(8月4日付)の毎日新聞の記事に遺されている。それによれば、
爆心からそれぞれ2.5キロ、3.5キロ離れた陸軍三滝分院と共済病院のフィルムは感光していなかったが、爆心から1.5キロ離れた広島赤十字病院のフィルムは感光していたという。実際には広島赤十字病院全部で7枚あり、地下室の倉庫にあったもの、亜鉛製の箱に入っていたものは感光していなかったが、2階のレントゲン撮影室の保管庫にあった1枚だけが真っ黒になっていたという。そしてこれを8月10日に開いた陸海軍合同の研究会議で示したところ、「本爆弾は原子爆弾ナリト認ム」と結論を出す根拠となったのだから、あながち、本書で述べていることは誤りでないことが分かる。つまり、おそらくこの会議では他の証拠も述べられたのであろうけれども、政治言説の次元においては、この感光フィルムは決定的な証拠として認められたということである。

このように一部の内容について、他の資料を参照して確認してみると、本書がある事柄について深く掘り下げられていることがあるからといって、すべてがていねいに検証されているわけではないことがわかる。このことに注意しながら本書は読まれるべきであるだろう。

紙幅が尽きてしまいほんの少しの感想で終わらせるが、本書の後半である戦後篇は、今一つ、掘り下げが甘いように思う。

まず、原爆投下の「理由」もしくは「正当性」に関して解き明かそうとする。米国では、多くの人命を救うためにやむを得なかったという論が広まっていた。しかし実際にその人命の数については根拠がなく、要するに、何ら論理的ではない説明であることを暴露する。そんななかで興味深いのは、スミソニアン航空宇宙博物館が1995年に原爆投下50周年にエノラ・ゲイ展示を企画し、ニュートラルに歴史的な出来事を紹介しようとしたが、圧力がかかったという記述である。これについては、当時の館長が書いた「拒絶された原爆展」が翻訳されているので、いずれ読んでみよう。

ここで言われる、日本軍を叩くための「原爆必要悪」説は、武谷三男や佐藤文隆なども援用しており、問題を複雑にしている。私たちはどうして、自然科学にも妙な道徳を持ち込むことがあるのであろうか。これは「東日本大震災=天罰」説と同じで、思慮や判断を止めた愚かしい思考様式である。

後半で扱われているテーマは、そのあと、戦後の科学者たちの態度、特に仁科と湯川に焦点があてられているが、やや大雑把である。湯川については、以前、朝永との対比で、検討したように、評者たちにノーベル賞学者に対する過剰な期待がありすぎて、素朴な湯川の考え方に焦点があっていないが、ここでも似たような問題が生じている。

そのあと、日本学術会議とABCCの経緯。また、原爆報道の検閲と人々の原爆に対する意識(これはなんとわずか3ページで終わっている!)、アイゼンハウアー国連演説と米ソ対立、原子力予算の計上と伏見による原子力検証案の提起、第五福竜丸事件と原子力三原則の確立と米の反応、原水禁運動、読売による原子力平和利用のPR、日米原子力協定、ラッセル、アインシュタイン宣言、ジュネーヴ原子力平和利用国際会議、原子力基本法、韓国や中国からみた日本の核問題、などが展開される。

いろいろと言いたいことを書いてしまったが、基本的には良書であり、一読どころか三度くらいは読み返すに値すると思う。


日本の核開発:1939‐1955―原爆から原子力へ/山崎 正勝
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