読んだ小説
屍の街
大田洋子

所収
日本の原爆文学 第二巻 大田洋子
「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名者:企画
ほるぷ出版
1983年8月

ひとこと感想
広島での被爆体験をもとにした小説を書き続けた大田の最初の「原爆文学」(彼女はこう言われるのをとても嫌がった)。最初に手をとったのは1年前。なぜか読む気が起こらなかった。今回読んでみると、むしろ引きつけられすぎて「呪い」をかけられたような気分になった。おもしろい作品ではない。おそろしい作品である。



「屍の街」に次のような記述がある。

「私は、母や妹たちの住んでいる、白島九軒町の家にいた。白島は北東の町のはずれにあたっていて、昔から古めかしい住宅地である。いかにも中流社会らしく、軍人や勤人がたくさん住んでいたから、昼間は玄関を閉じて、婦人ばかりひっそりとしているような町であった。」(39-40ページ)

今、はたと気づいたのだが、阿川弘之の「年年歳歳」にも、この地名は登場する。彼の実家のあった場所である。

阿川の住んでいた場所は、どうやら
白島九軒町土手通りというようだが、ここと大田洋子が被害を受けた場所はかなり近接していたのではないか。

また、どうでもよいことであるが、芸人の島田洋七は1950年に
白島九軒町(といっても基町だが)から、1キロくらい離れたところで生まれている。ウィキペディアによると「父親は原爆によって被爆して洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七2歳のとき原爆症で亡くなる」とのこと。

大田は東京で暮らしていたが、疎開で妹の家にいた際に、8月6日、原爆被害に遭われた。その1年後、ほぼ同じ場所に、復員して実家に帰還した阿川が見た光景は、すでに、「同じ場所」ではなかった。

さて、それは余談であるが、大田洋子については、数多くの評論があり、いまさら私ごときが何か付け加えられることなど、ありはしない。

ちなみに、「核エネルギーの戦後史」において山本昭宏は、この二人の違いについて、次のように述べている(この本のレビューは「図書新聞」に書いた)。

「語ることへの戸惑いやもどかしさが、語り手の口から表明されない」(236ページ)

これは、阿川に対して指摘したものである。

確かに、「被爆体験」を小説にする、ということは、これまで誰もしたことのない経験であったわけだから、当然、困難がつきまとったに違いない。

「小説を書く者の文字の既成概念をもっては、描くことの不可能な、その驚愕や恐怖や、鬼気迫る惨状や、遭難死体の量や原子爆弾症の慄然たる有様など、ペンによって人に伝えることは困難に思えた。」(13ページ)

言葉にも、文章にも、作品にも、するのが困難なことは、誰でも想像がつく。

そのなかで、もがき苦しみ「作品」として社会に提起する段階で、はじめて、「作品」は自立することになるが、その際に、大きく分けると、二つの位置づけができると思う。

1 完成度の高い作品としての評価
2 実験的試みを果たした作品としての評価

おそらくこの二つは両立しまい。

この二つの評価に基づけば、阿川は前者において評価され、大田は後者によって評価されている、それだけのことであるように思われる。

しかし、大田は抗う。

「広島の不幸が、歴史的な意味を避けては考えられないことを思うとき、小説と云えども、虚構や怠惰はゆるされない。原型をみだりに壊さず、真実の裏づけを保って小説に移植されるべきであろう。」(14ページ)

今ならさしずめ、ノンフィクション、記録文学などと呼んで、小説とは分けて考えるところであるが、彼女は、「小説」であるということにこだわりつつ、「虚構」「怠惰」を盛り込まないという姿勢を貫こうとする。

この場合、「虚構を盛り込まないh」とは何を指すのだろうか。

一般的には「ありのままを書く」ということになるのだろうけれども、実際に、「ありのまま」など描くことができないのは、何も小説だけではなく、映像であっても同様だ。

極力「脚色」を廃して、自分が体験したことを文字化する。自分がそのとき何を見て、何を感じたのかを、言葉にする。伝聞は伝聞として、記事は記事として、自分が受け取った状態を維持して記す。

フッサールの現象学においてすでに試みられた手法であるが、実際には成功したわけではない。結局、ハイデガーのように、語の歴史的変遷を追いかけるか、サルトルのように「状況」にコミットするか、メルロ=ポンティのように「知覚」と「思考」との隙間に着目するのか、いずれにせよ、そのままの記述というものは、まだこの世に登場していないし、今後もすることはないであろう。

こうしたことを指すのであれば、それは、確かに一つの手法かもしれない。

「怠惰」という言葉がならなんでいるのも、おそらく、「脚色」が意図的な改変であるとすれば「怠惰」とは、こうした描写を心がける努力をしないで、適当に書くことを指すのであろう。

これはようやく完全版として刊行された「屍の街」の「序」として
1950年5月に書かれたものである。最後に、こう結ばれている。

「いずれの日か私は、不完全な私の手記を償うべく、かならず小説作品を書きたいと思っている。」(15ページ)

ここでいう「小説作品」とは、一体何を示しているのだろうか。もちろんその後大田はいくつかの作品を書いているが、それらは、この「手記」を「償う」ものだったのだろうか。

1947年には「眞晝の情熱」という単行本も出しているが、これは今では入手困難であるが、この本のことだろうか。

この本を読んでみたい。あまり評論もされていない。

話は戻すが、作家自身がどういう思いで、どういう意図で作品を書いたのかは、最終的には、読み手にとってはどうでもいいことである。

それを「虚構」として楽しむ場合もあれば、むしろ「虚構を排したもの」として楽しむ場合もあるだろう。

しかし「読む」のは必ずしも作品そのものだけとはかぎらない。

私たちは、しばしば、作品だけを自立したものとして読まず、作者とのかかわりにおいて読むこともある。

つまり、作者のこだわりや嗜好、苦しみ、葛藤、さまざまな情念をむしろ作品を通じて知ろうとする場合もあるだろう。

大田洋子がすぐれているのは、読者にそういった読み方を強いるところであるだろう。

彼女の人生、彼女の表現に少しでもふれてしまうと、その世界に吸い込まれて、逃げることができなくなる。そういった、怖さと悦楽がある。




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