暑い夏

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 昨日エルパイス紙を見たら、スペインのコルドヴァでは49℃あって、さすがのスペインでも近年最高気温だったそうな。

 まぁそれでも、日影や夜は湿気がないから涼しいしシェスタでもして、この季節は夜の10時頃まで明るいから散歩したりバルで冷えたカーニャ(筒型コップのビール)の生でガーリック塩焼きのエビでも食べているんだろうなぁと懐かしく思う。

 先日突然、ツイッターにアクセスできなくなって焦ったんだけど。数百人そういう現象が起きてリベラル系や政権批判の方が多かった為、いよいよだって不気味さが飛び交った。アカウント凍結もあったりで、予想はしていたものの締め付けは強くなるんだろうなぁ。

 日本は空気が重たいね世間の風は冷たいけどね;それでついでに重たい話だけど。しどろもどろ法務大臣が死刑の執行に許可を出して二人の死刑囚の執行があった。息子はそれは法務大臣の仕事だから法事上仕方が無いだろうという意見なんだけど。一人は再審申請中だったのでネットでも批判があったのね。

 前に死刑制度についてブログに書いた。私は死刑制度に反対なんだけど。ちょっと驚いたのは、リベラルな考えの方だと思っていた人も意外な方からも死刑は必要だという批判だったのね。

 ブログでも触れない方がいいことってあるので、天皇制とか死刑制度とか大麻問題とか慰安婦問題とか必ず反論があることは予想がつくんだけど。遺族の思いを考えろとか、一生刑務所で税金使って過ごさせるのかとかね。

 そりゃ自分の娘が惨たらしくレイプされ殺されたら、相手を殺してやりたいと思うだろうよね。近頃ではパチンコに負けてむしゃくしゃしたとかで通りすがりの人を刺しちゃうとか余りに理不尽な理由で人を殺してしまう事件も目につくしね。

 けれど、それなりの理由さえあれば人を殺してもいいっていう発想は殺人者の思想であって、死刑もまたその点で同じなのだ。という死刑には反対だという意見もあった。

 ネットの友人は、遺族の気持ちを言うなら、殺さないでという遺族の気持ちにもきっちり応えなければならないでしょう。現実に減刑嘆願を出す遺族もいますしね。人が生きるとは即ち変わるということです。死刑囚も遺族も生きている。考え方や気持ちは時間の経過とともに変わり得ます。そして冤罪の可能性。死刑はあらゆる可能性を殺します。という意見もあった。

 勿論、ツイッターでも反論はかなりあったけどね。フランス大使館がHPで死刑制度への反対意見を表明した記事に、あまりに酷いリブが山ほどぶらさがっているし。いきなり貴女は日本人か?なんてコメきてもムシムシ。

 考えるに、取調べ可視化、国選でも弁護士同席とかの冤罪不正の防止策は必要だと思うし、人材不足の化学鑑定法や証拠保全も必要だろうとは思う。やむをえないとしても、絞首刑は執行官のPTSDも高く、だれが踏み板を落とすボタンを押すか判らぬよう5つのボタンと執行官は5人用意されても。電気椅子が廃止されたように、米国の幾つかの死刑制度が残る州でも薬の注射で執行されるように、方法は考慮されるといいと思う。

 それでやはり以前書いた「プリズンドッグ」の話を呟いたら多く反応があった。これは米国150ヶ所で行なわれている再犯防止プログラム。

 飼育放棄されシェルターで殺処分される犬を、受刑者が訓練して介護犬施設や里親に届ける制度なのね。これで再犯率が激減した成果もある。スラムや困窮家庭で育って、犬猫を飼うこともなかった囚人達が犬を訓練し世話をするなかで愛を抱く。訓練が終わり、里親にい引き取られていく犬を見送り泪を流す若い受刑者。ドキュメンタリーを見ながらつい泣けます。本にも詳しく描かれています。



 隣で行き倒れのように寝ている猫でも、少しは癒やされるってもんです。

 何やら戸籍問題の事も話題になっていて、21cの現代にもなって旧弊な家父長制の戸籍制度や二重国籍に固執するのも日本だなぁと。長くなるからそれはまたね。ガスパチョでも飲んで夏を乗り切らねば。

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こんな人の午後

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 九州の豪雨災害も、不気味な地震も心配な夏です。ご無沙汰しておりますが変わらずへぼへぼと生きてます。

 今日から共謀罪も施行され、相変わらず戦後最大の疑獄事件も、大したこたぁないわ民草などすぐ忘れると、お上の方々は思い上がっているようですが。それでも、こんな人達もさすがに「問題なーい」「一点の曇りも無い」とは思えず潮目も変わりつつあるね。

 それでも一度通った政策は政権がどう変わっても修復するのは大変で。原発収束も見えないままの次世代の苦労を思うと気も暗くなるというもの。

 「パレードにようこそ」原題prideという英国映画があって。毎日、海外ドラマや映画を3本位は観ているんだけど。最近一番感動した。普段映画を観ない方にも、挫けたり弱ったりしている方にも、ぜひ観ていただきたいなぁと思う。


募金バケツを持つLGSMの若者達

 サッチャー時代の英国。炭鉱閉鎖政策に炭鉱組合が各地でストライキを打っていた頃。日々警察の弾圧が激しくなり、炭鉱の村はガスを止められたり座り込みの炭鉱労働者が逮捕されている。

 それをTVで見たLGSM(ゲイとレズビアンの活動家たち)の若者が仲間に呼びかけて炭鉱労働者の支援募金を始める。
 なんで炭鉱労働者なんだって尋ねる仲間に、彼らも俺らもサッチャーや警察に殴られ虐げられてるじゃないか、誇りと自由を求めるのは同じだろって。そうして彼らは集った募金を持ってウエールズの小さな炭鉱町にバスで出かけていく。

 保守的で頑固な小さな村の炭鉱夫、村の人達とゲイとレズの若者達は、やがておずおずと交流しつつ信頼を深めていく。女として男社会の村で暮らしている気のいいおばちゃん達が頑張るのも素敵。


好きなシーン。詩人で組合書記のおっさんがサンドイッチ作りながらぽつんと、実は私はゲイなんだと言う。妻はちょっと前から知っていたわ。何時からだ。1965年からよ・・沈黙。

 けれどそれを気に入らない偏屈ばばあの密告もあって、結局は炭鉱組合の議決でストは終わる。ロンドンに戻った若者達は、エイズの政府広告によって、偏見からツバを吐かれたり襲われたりしている。

 それから数年後。ロンドンでプライドパレードが催され、LGSMの若者達も参加する。パレードを祭りと考える主催者からLGSMは人数が少ないから最後尾だと言われていると。

 そこにあの炭鉱の村の人達がミニバスで駆けつける。さらに次々と炭鉱組合の大型バスが到着して。手と手を握り合った組合旗が掲げられ、我々炭鉱労働者はLGSMを支援する、の横断幕が翻る。

 これは実話で、彼らのその後も流れるエンディングに思わず温かい涙が零れる。いい映画です。ファッキンサッチャーって言葉が何度も出てくるこの映画が賞を取ったのもいいよなぁ。
 2017ロンドン、プライドパレードの報告記事も眺めて。21歳までのゲイは逮捕される時代から、街の人の意識も変わったんだよね。


今年のロンドンプライドパレード。警備の警察官も顔に虹色のペイントをして共感を示していて。ステキ。

 思うに、今の安倍政権が壊したのは言葉だけでなく、目に見えない倫理観というか。人としてしてはいけないことの境界を壊したんだと。
 人を騙さないとか貶めないとか弱い人を労わるとかのまっとうな感覚で。それは長く日本の庶民の中でも受けつながれてきたモラルだったと思うんだが。私利私欲がのさばる時代、排除が横行するのでは、美しい国とは言えないよね。

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独裁者の夜

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 独裁者とという言葉で思い浮かぶのは誰だろう。ヒトラーか、今なら北の将軍様とかだろうか。

 昨夜は10時ごろに寝てしまって夜中の2時に目が覚めてしまった。それでヒストリーチャンネルで「独裁者の日常」って番組をぼんやり観たんだけど。ウガンダのアミンとリビアのカダフイ、ソ連のスターリンを取上げていて。その恐怖政治の実態が生存者のインタヴューと映像で語られていた。

 勿論、このドキュメンタリーが西側の製作であり、その視点にバイヤスを掛けて観たんだけれど。

 例えば中米ではカストロもチャベスもアジェンデさえ米国から見れば独裁者であるし。日本の江戸幕府も独裁であったとも云えるのだからね。
 スペインのフランコも独裁者であって、その伝記や養子だっホアン・カルロス王の自伝も読んで。決して支持はしないが、彼なりの王党派の愛国心というのがあって、生涯質素で子も持たなかったのは事実だ。

 独裁と虐殺は密接であって、アミンは30万人虐殺しスターリンは200万人の人々を粛清銃殺しシベリア収容所で殺したとか。カダフイの黄金宮殿の地下には核シェルターや手を付けた女性たちの中絶病院まであり、行方不明者は跡を断たなかった。

 興味深かったのは、アミンも辺境カウク族の貧しい出自で、カダフイもベドウインのテント暮らしの貧しい羊飼いであって、スターリンも貧困底辺労働者だったんだね。それが帝国支配、植民地支配への抵抗として英雄になっていった。頼れる力強いリーダーを庶民が求めたってこともあるんだよね。

 心理学者がアミンは呪術型サイコパスで、カダフイは妄想型サイコパスであり、スターリンはソシオパスだったとか述べていたけど。自己愛が異常に強く共感性に欠け猜疑心が強い、というサイコパスの面があるようだ。アレ、思い浮かぶ人もいるが。

 アミンは亡命先のサウジで69歳で病で死に訴追される事は無かった。スターリンは脳卒中で執務室で数日発見されず死に、カダフイはご存知のように捉えられ惨殺され。その動画を観ながら手を叩き喜んだクリントン女史の姿は衝撃でもあった。

 一方米国は独裁では無い民主主義の国であって。日本も戦後民主主義の国として先進大国を追い上げるように発展してきた。はずであるよね。

 自分が中米滞在でその歴史を読んだり話しを見聞きして、「サンチィアゴに雨は降る」などの映画も観たりで思ったのは、米国は表に出ない植民地政策、独裁支配をしてきたってことなの。つまり経済や制度を使って実際的独裁を傀儡政権という形で行なってきた。

 かって西部開拓史で悪いインディアンを一掃して領土を拡大し、南北戦争で北軍の勝利によって奴隷を解放したという輝かしい歴史は果たして正義なんだろうか。現実に今の米国で黒人差別や異教徒差別が無いと思う人はいないだろう。

 歴史を振り返って眺めれば、人の愚かさが多くの誤りを生むことは自明のことで。だからこそ社会的生物である人間は、規律や規制や法という歯止めを作ってきたんだろうし憲法もそうだよね。議会や司法もそれを助けて機能してきた。

 ネットでは安倍総理を独裁者と呼ぶ人もいるけれど、虐殺も強権支配も無いと反論も多いだろう。平和だし大袈裟だよってね。けれど時代や形態は変化しても、独裁という怖ろしさは人の我欲のある限りは存在するのだろうと。普段は呑気な楽天家の自分も思うんだよね。

 独裁者の共通の一つがネポティズムで。縁故主義(仏 népotisme)っていうのは「親族の縁、地縁、血縁などの縁がある縁故者のほうを重用し、正しさよりも縁故を優先してしまう考え。 社会学分野では、同族・同郷者に限らず同じ共同体に属する人間の意見ばかりを尊重し排他的に偏よること。のようだけど。

 縁故主義とかいわずとも、日常にもあって悪い事ばかりでは無いよね。先輩が後輩を引き上げたり、親類の紹介で就職したりもあることだろう。日本だけでなく、そういう関係が良い面でも悪い面でも長くあるんだよね。学閥とか閨閥とかもある。

 今の日本の政権に於いては、地盤看板金庫番を引き継いだ政治家があまりに多すぎて。まさにネポティズム政権なんだよね。同族会社に例えたことがあるけど、ワンマン同族会社だね。

 そこでの問題は何かと云えば。優れた能力のある人より、無能な縁故者が優先され権力を振るう立場につくことで。

 生まれや血筋は選べないから、そこから外れた人には希望が限られてしまう。それでなくともいまや親の経済力が学力になっていて、貧困家庭に生まれたら針の穴を通るような道しか可能性が無い。そういう人に自己責任なんて言えないよね。

 希望や可能性の豊かさが無い現実は暗雲のように世相を覆って。短絡的で殺伐とした事件も毎日のようにニュースにあがる。ましてや見えない爆弾のような放射能問題は解決も見通せない。

 昨日イエメンのコレラ蔓延の記事を読んで。かってのウガンダのコレラ発生難民キャンプの悪夢が蘇ったんだけど。人が餓死したり感染で亡くなる原因の一つは、極度の不安によって免疫力が落ち心が希望を失うことだと思う。そういう情況に陥るのは短時間だけど、その回復にはかなりの時が必要になるんだよね。

 それでもまだ、人は愚かであると同時に生存への判断も知恵も持ち合わせている。憂いつつも日々の中に愉しみを見出す底力もあるはずだと。

 英国も米国も大国の落日を見るような時代で日本もね。隣国を蔑視しているうちに技術も物作りも経済も社会制度も追い抜かれているような側面もあって。変革の時代に、何処へ舵を切るのかを迫られているんだと思うよね。

できうれば、次の世代やその子供達にとって生きやすい風通しの良い環境になってほしいと願うばかりだが・・

ネットにあった他家の可愛い猫でも眺めて、気を取り直す朝。勝手にお借りしてごめんね。



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言葉を失う

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 あっという間に梅雨の季節で、短い春も車窓の景色のようですが皆様お元気でしょうか。
ヶ月の冬と3ヶ月の夏って言われるスペインのようだけど。この湿気は堪らないなぁ。ベランダの我が家のハーブガーデンには必要なのかもしれないが。



 アメバも10年ブログ続けているが。なんかどんどんケバくなっていくようで気分が悪い。引越しも何度か考えたが面倒が先にたって、そのままメモとして残して於こうと思っているの。物語は他で書こうと。

 かなり今の政治や社会に、危機感を持っているんだけど、アメバでそういう発信を続けいる方はそう多くない。そういう場ではないからだろうね。旅や絵画や音楽の話をまったりしたいと思って始めたブログだけれど。3・11以後は時事の記事が増えていって、いまや国の崩壊を眺めているような。毎日ブログやってるヒマ人って親しかった方に言われたけど、別に日銭稼いでいるわけでもないからね。

 ボリビアの水戦争も米国のパイプライン反対も、中南米蜂起でも先住の民が主体になっていた。日頃の生活の中で立ち上がる強さで。自分達の小さくても平穏な暮らしを守る意識があるんだと。日本の虚飾の経済繁栄と一党支配とメディアの影響は大きいんだろうが。危機感を持たない方があまりにも多いような気がする。

 独裁政権が必ずしも悪い面ばかりではないと思ってはいるが、ファシスト政権には弁護の余地もない。国家の私物化がこれほどあからさまになり、批判を治安維持法なみの共謀罪で締め上げようとする。官僚や警察は対象にあたらないって乱暴さで。力なき正義は無力で正義なき力は暴力であるって言葉も浮かぶが。

 安倍内閣って新自由主義でもない同族会社みたいなもので。親類縁者と友達で固めて威張りくさって社員の搾取ばかりしてるワンマン社長とか。組合なんかしょせんオレの部下、セクハラ、パワハラやりまくりとか。それで外では日本企業を代表してますと得意になる。仕事したくない最悪会社みたいだが。それが政権にとなると勝手にいい気になってろとも言えないよね。

 国会中継もしない公共放送など、先進国で見たこともないが。丹念に国会答弁を文字起ししている方や国連の勧告応答を翻訳していいる方もネットにはいてくれて。ほんとにありがたい。国会質疑でも。

 「総理に伺いたい。前川喜平前事務次官のことを、嘘つきだと、こういう風に思ってらっしゃるということで、よろしいですか」

 安倍「ただ今ですね、えー先ほど官房長官が申し上げたのは、事実、でありまして。前川さん、いわゆる引責辞任ではなくて、実際にあまくだり隠蔽に、そのものにですね、関わっていた、わけでありまして・・」

 夫人がFBにあげた安倍と加計関係者の写真について聞かれ。
「あーフェイスブックことですかね。あれはね、常識は、持とうじゃありませんか・・云々」

 委員長「安倍総理、もう、質問にお答えください」 安倍「それでは、お尋ねの件で、へっ、ございますが、これはですね、えー、相当昔のことであってですね、えー、これは、ま、記録も、残して、いない、こと、でありますから・・云々」

 「いわば、私は総理大臣なのでありまして、私が総理大臣である中に於いて、その中に於いてですね、私が総理大臣であることは、事実、であると同時に、大切なことは、この、私が総理大臣であることであって、これは、まさに、私は間違いなく、総理大臣なんだろう、と、このように思う次第でございます」

 「野次を飛ばすのは、止めて頂きたいと思いますそこでですね、いや、あなたにとってですね、都合の悪い答弁をされると止めさせようとするのはですね、それは、おかしいと思いますよ冷静な、議論を、れ、冷静な・・云々」

 加計学園者をミャンマー訪問時に総理公用機で伴ったことについて質問され。
「大切なことなんですから、言わして下さいよで、ちょっと聞いてください、で、ここ、この学校において、学校においては、まさにこれ、日本語のカリキュラムが、あります。これ、ワシントンにおいてですね、日本語のカリキュラムを維持するということは、大変重要なことでありまして」

 書類持ってる手は震えるしキレて冷静でないのは誰なんだろう。この日本語が彼が言ってる丁寧な説明なんだろうか。それ以前に日本語がもう壊れてるよね。3秒の質問に延々とこれだもの。

 フィりバスターっていうのは、安保法制の時に野党が行なって。ずっと聞いていたがそれは見事な内容で、こういう真摯な発言がなぜ通常の国会で聞けないのかと思ったんだけど。今の国会は安倍のフイリバスターで延々と時間引き延ばしのための内容も無い戯言のようで。フイリバスターはオランダ語で略奪者の意味もあるらしいが、納得するね。

モリ・カケは蕎麦屋のメニューでもなく、レイプ問題もやらせだハニトラの問題ではないんだよね。これで数の力と強行採決で乗り切ったとしても、30代の自殺者がG7で一位の国にこの先希望はあるのかってことなんだよね。

今言わないでどーするって、取りあえず、まだぼやける程には元気です。
 

お蓮と惣六 江戸囃子のニ


 御厨河岸の札差、野口屋の帳場の裏部屋は、四畳半の狭さで、中庭からの陽射しが柔らかく障子に差し込む。

 廊下の両脇には交渉用の小部屋が並び、客が互いに顔を会わせないで済むように、廊下の片側だけに部屋が並んでいる。
二階は大名旗本の御側用人や、勘定方の役付きの為で、調度も下よりは凝っていれば、出される茶の葉も違うのだ。

 惣一郎が裏部屋の壁に凭れて、京伝の草紙本を読んでいると、がらりと唐紙を開けてお蓮がずかずかと入ってきた。

 おい惣六、今日もひまそうだなぁ。

 お蓮さんか、何も無い事は良き事でござるよ。惣一郎は本を置くと大きく伸びをした。

 おまえ、おとっつぁんが婿の話をしたら、考えさせてくれって言ったそうだなっ。

 はぁ、拙者にも思うところがございましてな。

 何が思うところなのか、言ってごらん。

 ぐふふっ、それは内緒にてござる。

 なんとずるい奴じゃな、ずるいずるい。
お蓮は地団太を踏んで、袖で惣一郎の肩をぶった。

 わっちが、おちゃっぴいのげんのしょうこの、跳ね返りのへちゃむくれだから、嫌なのか。

 ふむ、前のほうは当たってるが、お蓮さんはへちゃむくれではござらぬよ。

 なんと、生意気な奴だ。おまえは雇われ人なのに、主人の娘を嫁にする気はないんだな。

 ほむ、一つには野口屋さんは雇い主ではござるが、主人と言い切れるかどうか。一応拙者は武士で御家人といえどお上の家来のようなもので。ここでの仕事は用が済んだらお払い箱で、また口入屋にまいらねばならんでな。

 ふん、侍の身分がそんなにえらいか。店に来る、お大名の御留守居役やらお偉いお武家も、みんなへこへこ頭を下げてるではないか。大体、武士など戦も無いこの頃では、いらんじゃろが。

 ふうむ、手強いなぁお蓮さんは。
惣一郎は腕組みして反論しようと考え込んだ。

 まぁいい、わっちが嫌だというなら無理はいわぬ。ぷうっとふくれた横顔は、ちかごろ妙に色っぽい。

 嫌だとは、申しておりませぬ。武士を捨てて商人になるというのは、それ程には簡単でござらぬのだよ。

 嫌じゃないんだな。じゃあ婿にはなるな。

 ふうむ、色々と都合もある故に、一年位は待つ事になるやも。それでは野口屋さんも心配だろうしお蓮さんも落ち着かぬだろうし申し訳ないからのぉ。良い話があるなら、釣合う商家から婿を迎えた方が、お店にもお蓮さんにも良いのではと思うのでござるよ。

 一年がなんだ。あたしが決めたのだからなっ。婿になるって約束するなら、待ってやろうぞ。

 浅黄色に白い小花の散った友禅、青竹色の帯が似合う娘は、やっと機嫌を直して微笑むと。

 今から、根来寺の観音様に行く用事があるのだ、惣六行くぞ。

 そうして二人は、番頭達に見送られて根来寺に向かった。父親の平治郎も店の奥からそっと眺めて吐息をついた。言い出したらきかぬ娘は承知で、跡継ぎを設けてくれたら文句も言えぬのだが。

 惣一郎の実家、岡部の家は僅か二十表一人扶持の、無役の御家人であった。
 小普請役の父親が亡くなってからは役料も無く、嫡男の惣一郎を引き立ててくれる親類も無く、母親と四人の兄弟姉妹の内所は火の車だった。

 尾関道場も、師範代をしては道場費もまかない。口入屋の依頼も、寺子屋の手伝いから用心棒から人足仕事まで断らずにやっている。母親と妹二人に末の弟と、暮らしは惣一郎の肩に重い。

 数日前、平治郎は切り出した。
あんな娘だが、どうしてもお前様がいいと申しましてな、もう言い出したら聞かない娘で何をするかと気が気でありませぬ。

 お武家様に申し訳ない申し出ですが、商いは私や番頭が支えます、ゆっくり覚えて頂けは結構ですし、いっそ婿に来てはいただけぬか。

 平治郎は、どこまでも一人娘には甘く、並みの男は婿に来たがらない。婿に来たがる奴は野口屋の身代目当てときてる。それに、惣一郎の飾らぬおっとりとした性格も平治郎は気に入っていたのだ。

 しかし、惣一郎の末の弟が来年元服して岡部を名乗るまでは、何としても自分が家を守るしかないと、それが惣一郎の返事だったのだ。

 平治郎も尤もと思うし、一年の間に娘の心も変るやも知れぬと考えた。その事情も知らぬげなおちゃっぴいであった。

 お蓮と惣一郎が、根来寺の門前の人込みを抜けて、石段下の水茶屋紅葉屋に入ると、奥の床机にお店者(おたなもの)風の若い男が座って茶を飲んでいた。

 直次、待たせたな。

 あんお蓮ちゃん、あらっ、そちらさんは噂のお方ねっ。
 つるりとした色白の顔立ちで、小紋あられの着物に黒い羽織、大店の若旦那らしく細い髷も斜めに決めて洒落ている。

 こいつは直次といってな、裏の宝洞院小路の上州屋の息子だ。年は二つばっか上だが、小さい頃からわっちの子分だ。

 直次でございます、お見知りおきを。色男は斜めにしなっと頭を下げる。

 お蓮ちゃんは小さい頃からね、わたしが苛められてると走ってきては助けてくれたの、もう弁天様か観音さんのようでね。ちゃらりと話し出す直次をさえぎって。

 それで相談事はなんだ。

 それがね。

 その前に蕎麦でもくうか、お前の辛気臭い顔見てたら腹がへった。お蓮はさっさと茶店を出ると新明町の方へ戻り、両国橋脇の清七蕎麦に上がった。

 二階の障子を開くと、大川と両国橋の小船や人の行き交いが眺められる。この店は、正月店明けには真田蕎麦という真っ黒な蕎麦をだす。これが滅法旨いと蕎麦通は年の瀬にあらかじめ予約を入れる。柚子切り蕎麦、胡麻蕎麦と変りそばも人気であった。

 注文をすませると、上がってきたちろりと盃に、
突き出しの櫨(はぜ)の天ぷらで夕暮れ時の一杯。



 直次、おとっつぁんの具合はどうなんだぃ。
お蓮はまずは惣一郎に注ぎ、直次の盃にも酌をして尋ねた。

 とにかく倒れてからは寝たきりでね。口は少しは利けるし粥も少しだけは摂るのよ。

 ほう、それは兆重だなぁ。
お蓮は盃を持って、惣一郎に酌を促した。
 全く、十七の小娘とは思えぬなぁと、惣一郎は感嘆しつつ盃に酒を注いでやる。

 話によると、直次のてて親の治助は、いきなり倒れて中風との診断で。右手半身が小刻みに揺れて口も良く廻らない。その上、借金がかなりあると判って、小間物卸問屋の上州屋は引っくり返るような騒ぎになった。

  母親も思い悩んで寝付くは、道楽息子を決め込んで、ふわふわりと岡場所通いをしていた直次に、身代は圧し掛かる。そこで急遽の一作、直次に持参金の付く嫁を迎える話が持ち上がった。

 それがね、あたしもこうなったらお店を潰すかどうかでしょっ、覚悟を決めたのよ。
 でも、でもねっ、我慢辛抱だって限界があるってもんじゃない。相手が菱倉屋のおたねだって聞いたら、あぁもう死んでしまいたい。

 直次は袖から襦袢を引き出して泪を拭った。

 菱倉屋なのかぁ。
お蓮も小さく吐息をついた。

 菱倉屋のおたねさんに何かあるのか。
惣一郎は呑気に尋ねた。

 おまえは知らぬだろうが、御厨河岸では評判のへちゃむくれだ。荷揚げ人足までも噂をするような娘でな嫁の貰い手が無い。だから菱倉屋は持参金を積む。それでも中々貰い手が無いしろものだ。

 ほほう、それじゃ一つ拙者が。
言ったとたん、お蓮の平手が飛んだ。

 いてぇ、何をする。
惣一郎も言っては見たものの、お蓮が悔しそうに泪を浮かべて怒っているのを見ると。いやいや戯言でござるよっ、すまぬすまんと笑って誤魔化した。

 直次もお蓮の剣幕に一瞬のけぞったが。

 それがね、向こうはえらく乗り気なの。どこかでおたねがあちしを見かけてね、あの方ならと頬を染めたとか。持参金は二百両は下らないって、お店の為には仕方ないっておっかさんまでが。

 直次はまたも、よよと泣き崩れるように身を捩る。

 ふうむ、御家のために気に染まぬ妻を娶るのは、武家も同じでござるよ。聞いた所では、拝領妻ってのもあってな、主家の殿様がさんざん弄んで、飽きたからって家臣に下げ渡すって話だ。

 んまぁ、何ていけずうずうしい殿様もいるんだねぇ。侍でも男ってのはけだもんみたいなもんさ。お蓮はじろりと二人の男をねめつけた。

 近所の娘でも、親の勝手やお店の為って泣く泣く嫁にいった娘もいる。わっちはね、女を玩具みてぇにやったり貰ったりってのがすこぶる腹がたつのさ。

 それでも、そのおたねさんを嫁にすればお店は立て治るし、寝たきりのお父上も母上も、安気で問題解決でござろうが。

 じゃ、じゃぁっ、あちきはどうなるの。毎晩あの平家蟹みたいなおたねと臥所に入れって、あぁっ、思っただけで吐き気がする眩暈がするぅ。わちきは、吉原に先を言い交わした振袖新造がいるのにさ。

 おまえは、そっちだけは達者なんだなぁ。その能力をおとっつぁんを助けて商売に打ち込んだら、少しは上州屋屋のうだつも上がっただろうに。

 お蓮ちゃん。それはいいっこなしよ。お蓮ちゃんだって野口屋のおちゃっぴぃで、婿のなり手が無いって噂もあるじゃないのぉ。

 口を尖がらして直次が言う間もなく。お蓮は、横に置いてた信玄袋で直次の頭を、ぶんっと殴った。

 うるせぇ、わっちにはこの惣六がいるんだよ。大きなお世話だぁな。人は見かけじゃねぇのよっ。

 そのおたねさんだって、お蓮さんのように、見かけはともかく情の深い優しい人柄かも知れぬのぉ。惣一郎はぼっつり呟いた。

 そうそう、惣六の言うとおりだ。顔や見かけじゃ判らねぇさ。って、あたしの見かけが悪いような言い方はやめろっ。

 そこに蕎麦がやってきて、三人はずるずると蕎麦を手繰った。

 旨いなぁ清七蕎麦は、よしっ、わっちがちょっとばかりおたねの気立てを見てきてやろう。

 お蓮ちゃん、さすがにげんのしょうこだわぁ。効き目が早いわぁ。

 直次は手をぱちぱちと小さく打って喜んだ。

 うっ、てめぇそういう目論見でわっちを呼んだんだね。ここは直次に奢らせようぜ。

 惣一郎は巻き込まれそうで、お蓮と目を合わせぬよう、下を向いて蕎麦をひたすら啜ったのだが。
<続く>


今日は暑かったですねぇ。急激な気温変化みなさも体調を崩さぬようにね。




 御厨河岸の札差・野口屋平治郎の一人娘の蓮には、町内でのあざながある。
跳ね返りやおちゃっぴい、げんのしょうこやら御輿草娘(みこしぐさむすめ)とも、陰では呼ばれている。

 げんのしょうこは薬草で、腹下しなどには速い薬効があるところから、現の証拠とも呼ばれたのだが、実が弾けて花弁が外に巻き、御輿の屋根のようだから御輿草とも呼ばれる。

 お蓮は小さい時からお転婆な元気な娘で、母親は幼い時に病で亡くなったが、父の平治郎はその分可愛がって溺愛していた。

 近所の悪童も泣かせる上に口も悪く、奉公人や客までずっぱり悪態を吐くから、側にいる者ははらはらする。けれどそれが言いえて妙なので、思わずくすりと笑ってもしまうのだ。

 平治郎は、四十には間がある男盛りだったから、札差組合の世話で後添えを貰った。後添えのおしずは同業の上総屋の、いかず後家と云われた妹で長唄の師匠をしていた。

 ふん、ちまちました顔の姐さんだこと。お連は父の平治郎とおしずの婚礼を眺めて呟いたが。特別苛められる事も可愛がられる事も無く、おしずとは不可侵の堺を探り合って落ち着いた。

 札差商いは、客は殆ど武家方だが、扶持米を金に換えるだけでなく、来年再来年の扶持をかたに、金を借りに来る者が多く、証文貸や株の売り買いと金貸しのような仕事も多い。
 
 だから時には揉め事もあり、用心棒を雇い入れてるお店(たな)もある。野口屋はあこぎでもなく手堅いお店で信用もあったが、ある午後、御家人の男が無理難題を言って刀を抜いた事件があって。口入屋の相模屋から用心棒を雇うことにあいなった。

 そうしてやって来たのが御家人の岡部惣一郎。惣一郎は尾関道場で皆伝の腕だというが、見た目は痩せてひょろりと手足が長く、ぼんやりりした顔立ち。実際に惣一郎の仕事はそれ程無く、店の帳場の裏部屋で茶を飲んで、昼寝してるだけのようなものだった。ある昼下がりの八つ時。

 おまえ、ひまそうだなぁ。それで飯が喰えるとはいいご身分だ。
お蓮は、唐紙をガラっと開けて無遠慮に言った。

 おやおやっ、お嬢様ですな。拙者もありがたく思っておりますが、これで中々暮らしは難儀でござります。お嬢様こそ、べんしゃら高価なお召し物で、そうやって奉公人や隣近所に悪態ついていられるとは、なんとも羨ましいご身分で。

 惣一郎はゆっくり起き上がると、お蓮を見上げて言った。

 ふん、お前に何が判る。本音を言わずにいじいじして、人の顔色や浮世の様子におどおどしてる奴が嫌いなんだよっ。

 これはこれは、さすがにげんのしょうこ様ですな。惣一郎は可笑しそうに笑った。

 お前、あたしはこれから神田の明神様にお参りいくんだ。用心棒として供をしておくれ。

 雇い主は野口屋の主(あるじ)殿故、ご許可があればいかようにも。

 おとっつぁんは、あたしの言う事なら聞くよっ。だから黙って供をするんだよっ。

 岡部さん、どうぞよろしく御願い申しますよっ。
平治郎は頭を下げて丁稚番頭と共に、出かけるお蓮と惣一郎を見送った。煩い娘が出かけてくれるのは一同ほっとしてる気配も伺える。

 他に供はいらないとお蓮は言い張って、惣一郎と通り町の賑やかな道筋を歩んでいった。

 お前は幾つになる。

 二十と一になりまする。

 そうか家族もいるのか妻とか。

 母と四人の弟妹がおります。お嬢様は兄弟がいなくてお淋しいのお。

 そんなもんいらんわ。ぴいぴいする餓鬼は好きじゃない。鬱陶しいこと言う兄姉もいらんわ。そうろく、あのなっ。

 拙者は惣一郎と申しますが。

 あたしが惣六と呼んだら、おまえは惣六なんだよっ。あたしに縁談があるのを知ってるかぃ。

 お店の方がそんな事を話していましたな。喜ばしい事ではござりませんか。

 何が喜ばしいだよっ。おとっつぁんとおしずに子が出来ねぇから、あたしに婿を迎えようって腹づもりさ。そういえば何だか腹が減った、お前は何が好きだ。

 腹はそろそろ減りましたなぁ、拙者日頃は、腹六分目で粗食を良く噛んでの家訓ですが。こういう機会も滅多に無き事で、鰻の蒲焼とか、いやちょっと張り込みすぎましたかな。

 惣一郎は、少し恥ずかしげに首に手をやった。

 そうか、蒲焼なら翁町のうな政がいいだろう。こっちじゃ、付いて参れ惣六。

 神田川の川端のうな政は、この辺りでは評判の店で、一げんはとらない格式だが、札差野口屋は得意客の接客に使っているお得意さまだ。



 柳の風に紺の暖簾も涼しげに、店先には香ばしい匂いが流れている。二階の小座敷に上がると、鰻が焼けるまで所在も無い、酒と突き出しをと。お蓮は手馴れた年増のように小女に頼んだ。

 お嬢様はさすがに馴れたものですなぁ。我が家は貧しくて、弟妹は鰻など生まれてから見た事もありませぬ。
惣一郎は刀を刀賭けに預けて胡坐をかいた。

 お譲様はやめろっ。お蓮でいい。ほんとは跳ねっ返りと呼びたいんだろうが。

 ははっ、お蓮さんはそういう所が可愛いですのぉ。

 可愛いってぇ、馬鹿にしちゃいけねぇよっ。わっちはね、おっかさんがわっちを産んで亡くなったって聞いても、じゃ産まなきゃよかったのにって思う娘さ。

 お蓮さんはお幾つにおなりか。

 十七になった、鬱陶しい年頃だよ。おとっつぁんは同業の近江屋の三男坊を婿にって、あんなひょうろくだぁはまともに札差は継げねぇさ。

 ほむっ、婿殿はひょうろく玉なんでござるか。

 あいなっ、十九にもなって往来で絡まれても、啖呵も切れねぇひょうろく玉よっ。

 ははっ、ちゃんと陰から確かめなさったのか。

 当たりきしゃりきだぁな。てめぇの婿の顔も見ぬで黙ってもらえるもんか。

 そこに酒と胡瓜と鰻皮の和え物が運ばれてきて、お蓮は銚子を取り上げて酒を注いだ。

 まだ前髪にぼんぼん簪で、ひわ色の友禅に鹿の子の帯、あどけないような小さな唇からは悪態が零れるが、その瞳はどことなく淋しげな色だ。

 惣一郎は不思議な色の珠を見るように、お蓮を眺めた。獏蓮女でも脂ぎった年増でもなく、たおやで無垢な姫御でもない。

 盃を口に運びながら、町場の娘とは彩りがあるものだなぁと思った。惣一郎が知ってる女とは、貧乏御家人の妻を努めた我慢強い母であり、ごくたまに、稼いだ口入稼業の金で買う夜鷹でしか無い。

 それでもお蓮さんは、何時かは婿を取って野口屋を継ぐ。そういうのを定めと言うのでしょう。

 おまえはどうなるんだっ。

 拙者ですかぁ。多分、口入屋の仕事をこなして、辛うじて母や弟妹を養い役目を果たす。そうして骸になるまで生きるのでしょう。

 お蓮は手酌で盃を口に運んだ。そうしてふいと泪を浮かべた。

 おまえはそれでいいのか。惣六はそれで満足するのか。わっちはいやだ。人のいうなりの一生も、さだめなど蹴飛ばしてやりたいのだよっ。お蓮は潤んだ目のままに惣一郎を見た。

 惣一郎はちょっと胸を突かれた。おかしな娘なのに、妙にいぢらしいようで、思わずまじまじと見つめた。

 お蓮は眉根にしわを寄せて気難しい面立ちになりながら、少し身を引いて思い切ったように目を上げて。

 そうだ惣六、おまえわっちの婿になれっ。わっちは思うようにはならん、それでいいなら婿になれっ。

 惣一郎は思わず仰け反りながら。とんでもないおちゃっぴいよの、と思いつつ。
 お蓮さんはなかなか手強い相手だなぁ、真剣勝負なら挑まれて引くは武士の恥でござるゆえ。受けて立とうと申したいがの。

 お待たせしましたぁ。小女が間延びした声で障子を開けた。
 気が利かぬやつだわ、半時たってから焼き直してお持ち。お蓮はそうぴやりと言って小女を追い払う。

 どうじゃ、喰いっぱぐれることもないし、うちのおとっつぁんも喜ぶ、そなたの家にも不自由はかけぬぞ。鰻など毎日と届けさせるぞ。わっちはおまけじゃ。どうじゃどうしゃ。

 やれやれ、先の思い遣られる女房殿だなぁと、惣一郎は思いつつも、まぁ退屈はしなさそうな気風の娘にちょっとばかり心が揺れたのだ。続く。


※政治や社会の事を書くとどっと疲労するんで、息抜きに昔の江戸物に手を入れて再掲。冷えた麦湯でも飲みながら愉しんでいただけたら幸い也。

遠くない近代史 70年安保

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 前述した60年安保闘争は終わりそれから10年。

 間にベトナム戦争反対のベ平連運動とかあって。米国でも平和を求める若者達のフラワーチルドレンやロック&ピースの動きもあったけれど。日本では経済成長の右肩上がりもあって、反政府的な運動にまではならなかった。デモも多少の軋轢はあっても穏やかだったと記憶している。

 年安保闘争のきっかけは何だったのか。これについてはかなり一般的に誤解もあようで整理しながら。

 S39年から41年にかけて、慶応大学・中央大学・早稲田大学で、まず学費値上げ反対闘争があったんだよね。
 ほぼ同時期に、東大初め幾つかの大学で、医学部の登録医制度やインターン制度について、旧態依然とした規制に対して、学生の自由選択を求めて改革を求める声があがった。

 大学の制度改革の高まりが前提にあったんだよね。それがやがて、各大学の枠を超えて全大学に広がっていく。43年のピーク時には全国の大学の8割にあたる165校が紛争状態になって、70校の大学が、バリケード封鎖されることになる。

 代表的な東大闘争と日大について見てみると。43年に東大医学部の自治会と、41青年医連(その年に卒業した研修医)が、登録医療制に反対して無期限ストを打った。
   この時の交渉で、医局長に暴行したとして大学側が17名の学生を処分し。停学、退学勧告が出されたんだね。これも無茶な話しで苦労して入学してインターンまでいっていきなり一枚の紙で即、退学とはね。

 処分された研修医の中には、その時東京にいなかった学生までいて問題が激化した。大学も慌てて見せしめ処分に走ったんだろうけど、その処分に抗議する学生数十人が安田講堂で集会を開いた。ところが大学側が即日、機動隊を導入してこれを排除したんだね。当然、政権と大学上層部に暗黙の了解があったんだろうと思われる。即、機動隊導入が普通であるはずもない。

 これをきっかけに、7学部が無期限ストに突入して、全学部に波及していった。安田講堂前で1万人集会が開かれたが。大河内東大学長との交渉は決裂して再び学生達は安田講堂を占拠。

 全学共闘会議の代表は山本義隆で、不当処分撤回と機動隊導入批判を大学側に求めた。
山本は1941年大阪生まれ。東京大学理学部物理学科を卒業、大学院博士課程在籍の将来を嘱望される若き院生だったんだよね。

 「量子力学の誕生」「知性の反乱」など著作も多く、現在は(この記事を書いた2010年は予備校の講師。

 安田講堂の攻防はS44年1月18日、機動隊8500人が導入され立て籠もった500人の学生が投石・火炎ビンで抵抗し35時間の攻防の果てに、300人以上の逮捕者、76人の重傷者を出して終わった。放水の嵐の中、屋上に最後まで翻ったアナキストの黒い旗は印象的だった。



 一方、自分が知ってる日大闘争の切っ掛けは、理工学部の裏口不正入学に絡む脱税事件で。国税局調査により発覚した22億の使途不明金だった。これが当時の吉田会長から政権に裏献金されていたとか私腹になっているとか。直後に経済学部会計課長が失踪して、理工学部会計主任の自殺と疑わしい事件も相次いだ。

 利潤優先のマスプロ教育や裏口水増し入学、学費値上げの上に使途不明金、抗議する学生達の自治活動の制約、集会・ビラ掲示の禁止などが立て続けにあって、大学側の右翼・体育会系学生の集会への妨害や暴行に学生達の反発が強まっていった。

 ゲリラ的な集会があちこちで開かれて。神田の日大経済学部前に2000人以上の学生が集まって初めてのデモを行なわれた。
 これに対して大学側がいち早く校舎をロックアウトし学内立ち入りを禁止したり、体育会系の学生に校門で検閲、守備をさせたりで。抗議運動がいっきに広がっていった。

 やがて約5000人の学生によって三崎町の白山通りは埋め尽くされ、全学部総決起集会によって全理事の総退陣、経理の全公開、検問制度撤廃等の要求を突きつけて日大全共闘が結成されていった。

 日大全共闘議長は秋田明大(あきひろ)1941年広島生まれ。演説は上手くなかったけれど茫洋とした包容力があって学生達の信頼も厚かった。現在は故郷広島の呉市で自動や工場を営むとか。

 やがて経済学部の学生集会に、大学側の雇った右翼などが襲撃をして300人以上の学生が負傷した事から、全学部無期限ストを打ち構内をバリケード封鎖で校舎を占拠した。

 それでも一度は吉田会頭と全理事が出席して両国講堂で、35000人の学生と交渉が持たれ、12時間の交渉の末に大学側が全面的に要求を呑んで確認書が交わされたの。

 多くの学生は、これで争議は収束して学業に戻れると安堵したと聞いた。日大・東大闘争団はじめ、全国学生総決起集会が安田講堂前で開かれて学生側も勝利を信じた。

 ーところが。
当時の佐藤栄作首相が閣僚懇談会で「この大衆団交は集団暴力であって許せない」と発言したことから、大学側は確認書を白紙撤回したんだよね。学生達も驚いたと思う。実際に秋田に近い友人は怒りをぶちまけて言っていた。卑怯だろっと。

 これ以降、政権は全面的に第4・9機動隊を導入して徹底的に各大学のバリケード解体を命じて、学生闘争は路上へ広がって行った。

 秋田明大以下8名の学生に逮捕状が出て、S44年3月渋谷で秋田は逮捕される。この間、ゴールデン街のむささびってスナックの二階に、彼が潜んでいたのを知っている。知っている人は結構いたと思うが、むささびのおみっちゃんは人望があったしね。

 まぁ、細部の資料を読むと、かなり酷い状況がある。個人的な意見はあまり挟まなかったんだけど。芸術学部は芸闘委って呼ばれてかなり戦闘的でもあって。前線には参加しなかったが友人達からは刻々と情報は入ってきた。

 仲の良かった男子学生が失明したり、放水車の水に硫酸が入っていて、女子学生が全身火傷で運ばれたり、右翼が日本刀持って襲ってきて、外に逃げた学生が交番に逃げこみ、警官は外へいってしまい、腰から足まで切られた人とかもう騒然とした雰囲気だった。

 デモに参加していただけでも、アパートに公安が来て大家に追い出されたりバイト先にまで来てクビになったり、親に泣かれたりで学生達も疲弊して行ったんだよね。

 こういう背景があっての70年安保だった。それはやがて、日米安保条約の自動延長を阻止して、日本から条約破棄を通告させようとする自立運動にも発展していった。

 1967年(S43年)ー1969年にかけて全共闘や、新左翼諸派の学生運動が全国的に広がっていき、「70年安保粉砕」を共通スローガンとして大規模なデモが全国で継続的に展開された。

 1967年10、11月の羽田闘争。68年1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争。これは非核三原則を破る密約があったとか後に判る。4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)69年4月の沖縄デー闘争、10月の国際反戦デー闘争。

 11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争」と位置づけて展開した.

 国会前へのデモは1970年6月14日に行われたんだけど新左翼の学生達や組織は、その2年前からの路上実力闘争ですでに疲弊しきっていて。
 「威力闘争」あるいは「政治戦」と位置づけて、実力闘争よりも大衆動員に力を入れたのだが。

 メディア戦略もあって大衆性を保てず、組合も60年の頃より弱っていた。山谷、釜ヶ崎などの自由労働者の連帯もあったのだが。
 安保条約は自動継続が決定され、安保条約そのものに対する一般的な運動としては盛り上がらずに、少数の新左翼各派の運動として終始してしまった。

 社会党や共産党などの既成左翼勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの国民運動として位置づけて、安保自動延長そのものには、60年安保時ほどの力を入れなかったこともある。「安保条約延長反対」への世論と運動への国民の支持も薄く、幅広い市民の参加もそれ程見られなかったんだね。

 1969年(S44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣、自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗して、佐藤長期政権は1972年(S47年)まで7年継続して。ノーベル平和賞さえ貰ったりした。

 この後は、あきらめ感からシラケ世代と呼ばれる世代に移っていき、残った新左翼派は先鋭化して過激になって行く。それが日航ハイジャック事件、赤軍派の浅間山荘事件に繋がってしまう。

 評価は様々でも、ついこの間の事件であり、改めて眺めてみると安保条約は今もあって、それが普天間の問題にも深く係わってるんだよね。岸、佐藤と続いた政権は三角大福時代をへて中曽根に代わり、学生達の締め上げは厳しくなったが、人々の関心は政治から離れていった。

 個人的には最悪の自民党政権時代と感じていたけれど、今の有り様を眺めるとさらに最悪な政権だと感じてる。共謀罪が強行採決されれば、まずあのような争議は起きないだろうね。

だが、また「横浜事件」は再現され、花見の相談だって恣意的に罪状になりかねない。政権批判など口に出来ない不自由な未来など、見たくはないものだよね。これを書き直した翌日の今日、強行採決かぁ。

記憶の誤りはともかく、自分のメモ的記事で、ご批判はご容赦です。

遠くない近代史・安保の時代

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 昔に、60年・70年安保闘争ってのがあって。80年以降は条約は自動更新されている。

 多分若い方は何の事やらで、学生運動だってゲバ棒とか過激派とか、チラッと聞いたことある程度かもしれない。

 まだ当時の記憶がある人間が書いておいてもいいだろうと思った。はっきり言ってあたしゃノンポリでした。無思想で学生運動には参加しなかった。何もしなかった人間が何ほざくと、ご批判もあるんだろうけどね。多くの友人や学友を失ったのに、黙っている事で争議から逃げた。踏み絵を踏んでころんだ伴天連みたいなもんだ。

30過ぎて、何で8400円の罰金を払わず、警察と交通裁判を四年もやったかの理由は、今思えば、この悔しさにあったのかも知れない。

 実は60年安保闘争と70年代の学生運動は、かなり異なるんだけど。日米安全保障条約は今も生きてるんだよね。その内容を知る人も少ないが。

 60年安保闘争とは何だったのか。町の婆ぁさん目線だから、史家や学者の見解とは異なるとは思うが。まだ中学生頃、すぐ上の兄が国会前デモにいった。泥だらけになって戻ってきた兄が、女子大生が死んだらしいと震えるように言った。そんな兄を見た事なかったからかなり衝撃だったなぁ。

 その背景を改めてちょっと調べてみた。知らなかった事も多いんだよね。

 1958年岸信介内閣が、改定新条約のもとに、日米安保条約の調印をはかった。この条約を今読めば、いい面も無いではないが、これによって日本が戦争に巻き込まれるんじゃないかと、当時戦後の記憶が残っていた庶民に、反対する風潮が巻き起こったんだね。

 5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で、新条約案が強行採決されて。5月20日に衆議院本会議を通過した。

 委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などの屈強な青年達を公設秘書って形で動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての強硬採決だった。6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに成立させようと採決を急いだんだね。

 おやおや、人間かまくら作っての強行採決はここから来たのか。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として、石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らが欠席、あるいは棄権した。

 その結果、「民主主義の破壊である」と一般市民の間にも反対の運動が高まってね。国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどった。

 反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いが濃くなっていったんだよね。これに対して岸信介は、警察と右翼の支援団体だけでは、デモ隊を抑えられないと判断する。

 児玉誉士夫を頼って、暗黒街の親分衆の会合に派遣して。松葉会会長・藤田卯一郎、錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助らを説得した結果。彼らはデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。

 ここでびっくりしたのは、うちのおっかさんを姐さんと呼んで、「新宿から光を」を掲げてた尾津さんが手を貸したんだなぁと云うこと。;

 さらに、三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請がされ。一つは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼とヤクザで構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会であった。

 当時の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」には「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、来日するアイゼンハワーの安全を守るため『即戦的な反対勢力』を組織した。と書かれてる。

 最終計画によると1万8000人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。岸は創価学会にも協力を依頼したがこれは断られたという。まだ学会にも気骨があったんだろうか。

 彼らは政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、
さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていたとも書かれている。

 岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語ったんだけど。しかし、東久邇、片山、石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をして、事態は更に深刻化する。当時の自民党には軽挙を諌める長老もいたんだよね。

 6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した、大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェイムズ・ハガティが、空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助される、という事件が発生してたんだね。(ハガティ事件)

 6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出した。機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突して、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子さんが圧死して。中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警官に警棒で殴られ重症を負った。

 国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がったのよね。激しい抗議運動が続く中、岸は15日と18日に防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。



 
 東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたんだけど、国家公安委員長石原幹市郎が反対し、防衛庁の赤城も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。自国の市民の鎮圧に自衛隊は出せないと述べたんだね。

 追い詰められた岸は、実弟佐藤栄作と共に一時は自決まで覚悟したとも云われる。
 
 15日の惨事を議会政治の危機とみた広告代理店の電通の吉田秀雄、朝日新聞社の笠信太郎らが主導となり、在京新聞社7社は、6月17日に共通で「議会政治を守れ」とした、スローガンを掲げた社告を掲載した。国会デモ隊の暴力、社会党の国会ボイコット、民社党との過度の対立を批判した(七社共同宣言)だ。

 この七社共同宣言は、「流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。いかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」って書かれたんだけどね。

 岸政権が批判を受けた「理由」を不問にして、安保闘争に冷や水を浴びせる、政府にとって有利な内容だったと云える。今のマスメディアの凋落振りはここからと私は思っているのだが。

 警察側の暴力を不問にして議論の本質を、「暴力反対」にすり替えた、といった批判がなされて、
「新聞が死んだ日」とも評された。まさにジャーナリズムの死んだ日。

 条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。

 岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。岸は辞任直前に暴漢に襲撃され重傷を負った事件もあった。

 「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたんだけど、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者だった岸とその政治手法に対する反感、に支えられた倒閣運動という面が強くなっていった。

 こないだネトウヨが韓国の大統領候補は前科者だらけと揶揄していたが、日本の近代史もしらぬ痴れ者であろう。

 安保条約そのものへの反対運動という性格は、薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮していった。

 池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影はどんどん薄くなっていき。さらに、7、8月に行われた各知事選で社会党推薦候補は惨敗。総選挙でも自民党圧勝の空気さえ出てきた。

 10月12日、社会党の淺沼委員長暗殺事件で、再び政権は揺らぎかけたが、池田首相は動揺を鎮めることに成功。争うより飯が大事という風潮が景気高揚と重なった。

 浅沼委員長の娘さんとは同じ女子高で、刺殺事件の時は、校長が朝礼で黙祷を捧げたのが記憶にある。

 そうして安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在(2010年)まで約半世紀にわたり安保条約の再改定や破棄が、現実の政治日程に上ることはなくなっている。

 じゃ60年安保と70年安保闘争はどこが違ってるのか、それはまた長くなるから別に。人は忘れるし忘れたいこともある。けれどほんの数十年前の事すらも、今に活かせないのは、残念なことだよね。

*ファイル整理していて古い記事だけど、昭和の近代史を調べていた頃で。今と重なる事もあるからちょっと手直しして再掲してみた。実は息抜き的江戸物を再掲しようと思っていたんだけどね。

走りやの夏

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 思い返すと23種位の仕事してきたけど、現場仕事が好きなのは自由な裁料があるからかなぁ。

 自分の回想を書いておこうかと夜中に思ったりで、今の閉塞的な空気の政治や社会の話しから離れたい気分になるんだろうね。


 ある夏、銀座の会社の秘書を辞めて相方との軋轢もかなりあって辛かった頃。新聞募集でみた陸送のバイトに行ってみた。横浜の埠頭の端っこにある陸送会社だった。

 採用の担当はちょっと足をひきづってる男の人で、履歴書にチラっと目をやって女の人は前に一人いただけなのよ。まぁちょっと運転してみせてよ。と広大な駐車場に連れて行き2トンのトラックに乗せた。

 それでやたら広い構内を走って、そこ曲がってとか、直進してコンテナ横を右とか指示に従ってかなり飛ばして走った。降りると、午後便から走りなって面接終了、採用されたの。

 埠頭に着いた大型の船から新車が次々降ろされて広いスペースに二台縦列で駐車される。プレハブの事務所脇に喫煙所とベンチがあって、乗り手の男の人達がたむろしている。

 なんかドヤの日雇い待ちの人達みたいに数十人が立ってるのよね。ぐふ、なんか自分の選択が間違ってたんじゃねぇだろか。みんなやたらジロジロみるし。

 チャイムが鳴ると一斉に事務所のカウンターに並んで書類とナンバーを受け取る。工具は黙って渡してくれ、こいつに引っ張ってもらってな、とだけ。

 えーっやだなぁって表情のTシャツの男の人。ついてきてと言われていきなり走る。駐車場から自分の運ぶ車を番号でみつけて素早くナンバーを取り付け出口のガソリンスタンドへ。目的地によって2リットルとかだけガソリンを入れてもらってGO!

 目的の場所知らねえですがな。とにかく前の引っ張りについて産業道路を走る。もう必死よね。はぐれたら一人で事務所に帰らないとならないし。クビだろうからね。

 Tシャツ兄さんは飛ばすとばす。がんがん大型トラック追い越す。殺す気だわぁ。女だと思っているだろナメるなよーとちょっとアドレナリンが出ちまう。それでも、追い越しかけて速度落として後続車を抑えて私を割り込ませてくれ、窓から腕を出して親指立ててくれる。悪い人じゃなさそう。

 そんな感じで毎朝、ワーゲン転がして埠頭に通勤。一日2往復か3往復する。なんで飛ばすかってことだけど。
 目的地に数十台のクルマが到着すると事務所で受領印貰ってナンバー外して待っている。迎えの小型バスが来るのね。全員が到着していないと帰れない。だから遅い人がいると、帰って次の仕事もらえないんだよね。迷子になって着かない人がいる時もあって、みんなぶーぶー言いながら時間が過ぎるとバスで帰る。次の配車がつぶれるからね。

 一度だけ埼玉の上尾に走った時迷子になった。前の車のおっさんは、仲間内で葉山の後家殺しとか呼ばれていた年配だけどいい男で。とにかく畑道にはいってしまい。仕方なく公衆電話で会社に連絡して道を聞いて遅れて車を届け、バスは無いからおっさんと二人で電車で戻ったのよね。

 仲間とは立ち入った話しはした事がなかったけど。おっさんは前歴不明だけど、葉山に裕福な未亡人とその娘と住んでいるらしい。もう5年もこの仕事しているらしい。センターの配車担当の足の悪い人は元レーサーで事故でやめたらしい。引っ張ってくれたTシャツさんはニートで引き篭もりだったらしいとか初めて知った。

 たまには事故もあって、会社に電話すると事故係りの車が飛んできて対応するんだけど。産業道路はプロが多いから、自分がいた頃はガードレール接触の自損が二件だけだったね。

 最初は女だしノロマだろうとみんな言ってたみたいだけど、結構走りやだぜとか、運転が上手いって認めてくれるようになったようなの。短パンにタンクトップで帽子にサングラス、靴だけは運転しやすいスニーカーで仕事とできるっていいよね。一日多いときは8000円ほどもらえたし。

 何より鬱陶しい人間関係も上下も無く、無骨で愛想もないむくつけき仲間は、おかしい人ばかりだけどレディと呼んでからかいつつも親切で。
家の気まずい日常から離れ、湾岸道路を仲間と飛ばしてる時間は無心で愉しい。暴走族の気持も解るってもんだね。

 正規の仕事がみつかって辞める時はほんと残念だった。何時も私をからかっていた大男の仲間が、あんたなら何やってもイケルよ頑張れなって言ってくれた時は、ちょっとウルッとしてしまった。


 先日、ついに免許証を返納してきて。あぁ、もう車もバイクも乗れないんだなぁと。19で免許取ってから車やバイクでかっ飛んだ想い出が、バスの車窓の外をゆっくり流れていくのを。ちょっと哀しく思ったのだ・・



かっての愛車、旧型ランクル、オープントップ。

かたつむりの季節

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 桜便りかと思えば、もうすっかり初夏の気配です。日々は、め巡るしく遷ろっていくのよね。

 すっかりご無沙汰で、書きかけの江戸物もメモとして幾つか手つかずのまま。いきなり足が麻痺したり、右目のまぶたが開かなくなったりしながら。相変わらずツイッターでぼやいたり、海外ドラマを観たりゲームしたり生き延びております。目の手術とか血管の手術とかあるんだけど。臆病なんでなるべくしたくないなぁと思っているの。

 でんでん総理の狂態ぶりも法務大臣のしどろもどろも、眺めているとやりきれない悪夢のようだけど。ここまで国の私物化があからさまになるのは、過去の自民党政権でも見た事がない。

 政権への疑問は民主政権の時も批判はしたけど、それは大人の市民の義務のようなもんで、子や孫や次世代のことを考えるからなんだけど。ここまで酷いとね。もう国会も議論の場でないかのようで、日本語の意味も不明になりつつあるものね。

 ネットの女友達と話していたんだけど。からんでくる若いと思われるネトウヨさん達って、覗いてみると生活感がないっていうか。自分の主張ってより他人を罵る言葉と、冷笑揶揄の言葉ばかりでなんだかなぁって。

 自分の生活スタイルや、自分の思考を肉付けしてくれる音楽や映画や本や絵画を無理してでも変わらず取り入れ続ける事は、どんな情況にも絶対忖度しないいい免疫力になるってね。

 小さき物、愛らしいもの、大好きな音楽、愛する人。それを懐に抱えていることは人生を豊かにするし、物事の見方にも深く響くものよね。どんな情況になってもそういうことや記憶は支えになってくれると思うんだけど。

 今日は「蝸牛の殻」っていいブログを読んだので、紫陽花にはかたつむりが良く似合うなぁって思いながらひと呟き。


 関係ないけど、原宿の大田美術館でやってる「浮世絵動物園」から歌川国芳の「屋根の上の猫の喧嘩を止めようとする猫好きの小僧。愛らしい。