九助が、束ねた薪を竈横に運び店の内外を雑巾で拭き上げて、軒下に赤提灯を吊るしてると。西の空が急に渦巻いて、ピカと雲間が光るとゴロゴロと雷鳴が鳴り轟いた。

 おいおいっ、月の晦日に夕立かぃ、雷神様も意地が悪いぜ。独りごちながら店に入ると。ばらりと落ちてきた雨粒が、夕暮れの風に煽られるように広がった。

 南掘割下水の向こう岸を尻端折りで走っていく男やら。裏の長屋の女房達が、あめだよぉ、あめだぁと叫ぶ声があがり、あわただしく人も声も行き交う。

 首に掛けた手拭を取ると、九助は店の樽椅子に腰をかけ、腰の古ぼけた煙草入れを抜き出して、ゆっくり一服つけた。これで少しは蒸した暑さも柔らぐかぃ、止むまで待とう不如帰だぁな。

 夜の遅くには荷船の船頭が。葛西や品川に荷を運び終わり、帰りに一杯やりに寄るかもしれない。
まぁそれまで、仕込める味噌漬けの魚や豆の鞘(さや)取りやら,ゆっくりと仕事をやっつけるかと思った。

 どおぉんと音がして、びりびりとあたりが震え。どこかに雷神様が降り立ったなぁと、九助が店の油障子を開くと。激しい本降りの雨煙の中から、悲鳴を上げて一人の女が飛び込んできた。

見ると四十は越えるかどうか、鶴小紋の銀鼠の縮緬だ。大店のお内儀風の女が、店の飯机の下に蹲っている。

 でぇじょうぶですよ、おかみさん。向こう裏の、お不動さんの榎あたりに落ちやしたよ。少ぉし時を稼いでお帰りなせぇな。

九助は笑って女に手を差し伸べて立ち上がらせると、樽椅子を勧め厨房に回って、鉄瓶の湯で番茶を淹れた。

 お恥ずかしい。どうも、すみませんねぇ。あたしゃ雷が大の苦手で、もう怖ろしくて足がすくんぢまうんですの。
女はまだ怖ろしそうに障子の陰から空をみやった。

 雷神様の機嫌が悪いだけでやんしょ。近頃は、何でも派手はいけねぇと松平さまのお達しで。芝居はいけねぇ派手な簪はいけねぇと、締め上げてやすからね。雷神様もたまには派手にやりたいんでしょうやっ、茶でも飲んでる間に夕立も過ぎやしょう。

 九助は大振りの湯飲みに湯気を立てる番茶を淹れて、自分も飯台の端に腰を掛けた。

 ありがとうございます。申しおくれましたが、私は川向うの両国端に店を構える、油問屋伊豆屋のおさんと申します。

 ほう、伊豆屋さんといえば大店でござんすねぇ。

 いえ、表見(おもてみ)はそう伺えるかも知れませんが。五年前に主の利兵衛がみまかりまして。看板を張り続けるのは、それは人に言えない苦労もございます。

 ほうっ知りやせんでしたが、ご苦労はいかばかりかと思うでやすよ。こんな萎びた店一軒でもやりくりはあるもんで。
九助は微笑んで、自分も湯飲みから茶を啜った。

 それで、お店はお女将さんが切り盛りしなすってるんですかぃ。

 跡取りは一人息子の利吉がおりまして。

 そりゃ何よりでやんすね。

 それが・・
言い淀むと、おさんはふっと息を吐いた。

 みつくろって小鉢でもおくんなさいな。久しくゆっくり茶も飲んでなかったし。雷さんが過ぎるまでごやっかいかけます。

 実は・・昨年、嫁を同業の奈良屋さんから迎えましてね。
 おさんは濡れた肩口を手拭で拭うと深く吐息をついた。

 益々、お店安泰というわけでやすねぇ。

 あたしも、元締めの佐野屋さんの口利きで、いい縁だと思って添わせましたが。この嫁が油屋の娘とも思えぬ物しらずで。菜種油と魚油の区別もつかない娘なんですの。

 それじゃ店に出せないと奥に回せば、煮物ひとつも作れないんですの。昼間っから息子にしなだれかかるありさまで、店の内にも恥ずかしいやら腹がたつやら。

 溜まったものを吐き出すように、おさんは一気に話した。

 九助は、酒粕に漬けた瓜と漬物を小鉢で出すと、煙草盆を小机の上から運んで煙草を煙管(きせる)に詰めた。

 お女将さんはさぞ苦労して、油のことも奥向きも、踏ん張ってこられたんでしょうねぇ。

 あたしは、貧乏長屋に生まれましたの。
手習いに通うにも、おっかさんが夜なべして、縫い物をして通わせてくれたんです。おとっつぁんは働き者の桶職人でしたが、あたしが物心ついたた頃は、病でろくに働けなかったから。

 それで、姉とあたしは近所のお使いやら頼まれごとをやっては、小銭を稼ぎ、弟二人も蜆取りやら貸し本屋の届け本を運んだりと、働きました。十六になってすぐ、あたしが水茶屋に働きに出て、そこで主の利兵衛に見初められて所帯を持ちました。

 年は離れていても利兵衛は優しい主で、あたしも油の種類も一生懸命習い覚え、利兵衛を助けて働きぬきましたの。

 ご身内もそりゃ喜ばれたでしょうや。

 おとっつぁんはなくなってしまいましたが、姉も弟達も、主のおかげで其々に落ち着き、おっかさんも年の初めに、下の弟の所に引き取られて小田原に隠居できました。

 ほうほう目出てえ事で、お女将さんも安気でやすね。

 それなのに・・
嫁は商も奥向き仕事も好きじゃないと、毎日、縁日やら芝居小屋に出かけては、きゃぁきゃぁと騒ぎ立て、息子が茶を飲みに奥に来ても昼間っから甘い声をだすんです。とうとう嫁に、里に帰れと言ってやったんですの。もう一度親からきっちり躾けてもらえってねっ。

 そりゃお嫁さまの親御さんも、さぞびっくりでやんしょうねぇ。

 当たり前ですわ、甘やかして躾もせずに育てて、琴や書は学ばせましたなんて、よくのうのうと言えますもの。

 商人の娘なら、商人に嫁がせて恥じないように、お武家ならお武家のお内儀にふさわしいよう躾けるのが親の勤めですわ。のんしゃらと姫御前では商家の嫁は勤まりゃしやせん。

 ところが、息子の利吉が三日前から行方知らずになって、あたしは寿命の縮まる思いで、町の鳶やら町役人、ついには定町のお役人にまで願って捜したんですの。

 ほむ、見つかりなすったのかぃ。

 昨晩、鳶の頭が来て言うには、嫁の実家の離れに嫁といるっていうじゃありませんか。

 奈良屋さんも奈良屋さんなら、息子もだらしが無い、なんて情けないと悔しくってくやしくて。
 
 さっき奈良屋さんに怒鳴り込んでやりましたの。そしたら、若い夫婦がお気に要らぬなら、奈良屋で引き受けましょうって。あちら様より伊豆屋は大店ですのにずうずうしいったら。

 おさんは悔しそうに箸を噛んだ。雨が油障子を打つ音がばらばらと弾ける。

 それで息子さん夫婦を諦めなさるんですかぃ。

 そんな・・利吉は伊豆屋の跡取りですもの。

 お女将さん。
九助は煙を長く吐いてぽつりと言った。

苦労はした方がいいんでしょうかねぇ。
確かにした苦労の分だけ、いい暮らしや商いをまっとうできるのぁ、運が良かったんでやしょうがね。

 自分の苦労を息子や嫁にさせようってのぁ、あっしは違うように思いやすよっ。苦労自慢なんて、所詮自分に言い聞かせるもんで。人におっつけていいもんじゃねぇ。

 お女将さんは、えれぇお人だよっ。苦労して一生懸命にやってこられたでやしょうや。それでもね・・
若い夫婦に同じような辛い思いをしろ、はねぇでしょうや。

 そうやって、後家の頑張りでお店を張っているのは、何の為かってことでやすよ。
伊豆屋を立派に残して継がせていく為でやしょう。
若い夫婦をね、もう少し寛い心で受け止めてあげてくだせぇよっ。

 それが、お女将さんの老後の安気でもありやすよ。昔は出来なかった好きな事をおやんなせぇ。書画でも俳諧でもいいや。琴三味線でもかまやしません。

息子夫婦で、もしも店が立ち行かねぇ時は、お女将さんの知恵の出番だなぁ。隠居ってのぁいいもんでやす。隠居して、渡す身代があるって事でやんすよ。

 おさんは、すこし項垂れて九助の言葉を聞いていた。その肩はいきり立ってるようだったのが、気の抜けたように落ちている。

 そう長い行く末でないことは、おさんも解っている。物分りの良い隠居として息子夫婦と仲良く暮らし、可愛い孫が産まれれば、孫に甘い老婆となって過ごすのは、おさんも思い描いていたのに。

 苛立つのは、自分の苦労を褒めてもらいたい、どんなに辛抱して今を築いたか見て欲しい。あたしを認めておくれってことなんだ・・

 おさんは、我に帰ったように顔を上げて九助を見た。

 お前様、ありがとうございます。何だか憑き物が落ちてしまったような気が致します。主がみまかってより、あたしを諌める人もなしで、ちょいと苦労自慢がすぎたようです。

 命より大事と育てた息子に、あたしは要らぬ焼餅をやいた。生まれ付いてのお嬢である嫁を妬ましく思った。なんてことだろ・・人の思い上がりとは怖ろしいもんですわ。

 おやっ、夕立はいっちまったようでやすよっ。

 外は静かで障子を少し開くと、夕暮れの雲は重いながら、雨はあがって、穏やかな夕べの風が優しく店に滑り込む。

 おさんは小机に代金を置くと、ほんに夕立のなせること、静かな宵ですねぇ。
お前様ありがとうございました。明日は、もう一度奈良屋さんに伺って、頭を下げて息子夫婦に帰ってもらえるよう御願いしましょ。

 へぇっ、そうなさいまし。お女将さんのご苦労が実を結ぶといいでやすよっ。

 おさんは微笑んで、開いた油障子から夕立の過ぎた南割り下水の道に出た。

 あたしは、長いことゆっくり漬物で茶も飲まずに、夕立の後の匂いも味合わなかった。人とも話をしたのやら。

 お気をつけてお女将さん。

 九助はおさんの後姿に声を掛けながら、苦労というのは人を活かし人を殺す、やっかいなもんだなぁと思った。

 ご苦労無しとは、おいらの事だぁ。苦労って思ったことは何一つねぇからねっ。
九助は夕暮れの路地で腰を伸ばすと、思わずにやりと笑った。