昼下がりの八つ時、江戸深川は氷雨が立ち込めて、お蝶は、白い幕のような冷たい滴りの中を蛇の目の中に身をすぼめて歩いていった。

 小さな小間物商いの三沢屋は、小僧一人の小商いで、天気の良い日には、お蝶も担ぎ売りにでるような店。
亭主の才介は、口喧しい吝嗇な男で、小僧も良く変った。それでも、堅い商いで暮していけるのは幸いとお蝶は思っている。

 雨で荷担ぎ仕事も無く、馬喰町に安価な紅問屋が出来たと聞き及んで、様子をみに出かけたのだ。菊川橋を下駄を鳴らして渡っていると、いきなり向うから来た男とぶつかった。

 あ、ごめんなさいよっ。お蝶は傘の陰から詫びた。

 すまねぇ、すっかり濡れちまったんで、どっかの店に飛び込もうと急いでいたんだ、ごめんよっ。

 お蝶は顔を出して男を見る。
唐残の棒縞袷を片端折り(かたはしょり)に、雪駄の素足も雨に濡れている。

 あれっ、お前さまは。

男も不審気にお蝶を見つめた。
 お、おめぇっ。

 お蝶ですよ、辰吉さんだよね、辰つぁんだね。
 お蝶、おちょうかぁ。懐かしぃぜぇ。

 お江戸は広いのに、ばったりとはなんとも嬉しいねぇ。
 まったくだぁ、すっかり色っぽい姐さんになったじゃねぇか。あのぴぃぴぃ泣いてたお蝶がよぉ。

 いやだよ、辰つぁんこそ、粋な若衆におなりだね。昔っから威勢はよかったけどねぇ。

 へっ、威勢だけでからっきしだがまあ何とかな。

 まぁまぁ、傘にお入りなっ。
 おう、その辺で蕎麦でも手繰ろうか。
 あいよっ、川端に信濃屋があるから、そこへね。



 ここはね、真田蕎麦がおいしいのさ。
 そうかぃ、それと熱いの一本やろうぜ。

 二人は蕎麦屋の小机に向かい合って、しげしげと見詰め合った。

 長屋のおみつちゃんは下谷の水茶屋にいるのよ。六ちゃんは上方に出て呉服屋の商い覚えてね、今じゃ芝で古着商いしてるんだよ。

 ほほう、新吉はどうしてる。

 新ちゃんはね・・池田屋に奉公に行ったけど、流行り病で死んじまった。

 でも、ご浪人の真崎さまの大吾ちゃんは、御養子に出てね、黒田様下屋敷のご用人勤めなのよ。聖天長屋とびっきりのご出世だねぇ。

 ふうむ、それでおまえぇはどうなんでぇ。

 あたしっ、あたしは。
茶屋つとめが長かったけど、小間物問屋に嫁いでね、使用人も二十といるから、ご苦労無しに暮させて貰ってるの。

 そりゃたいしたもんだぁ。いっ時は岡場所に売られそうになったおめぇが、ご新造さまとは嬉しいやなぁ。
 辰つぁんは何してるんだい。

 おいらかぃ、お、おれぁ。
番隋院の親方のとこで、陸棒担ぎを仕切ってるんでぇ。

 まぁ、そりゃいいねぇ。あそこはお大名筋の籠かきだもの、そこらの町駕篭とは格が違うってものさぁ。

 二人は長屋の想い出をあれこれ語りながら、熱燗を注ぎあい蕎麦をたぐった。

 貧乏長屋の子供達はそれぞれに、楽な育ちはしていない。かっぱらいや置き引きさえみんなでやって、団子一本が何よりの豪勢さで、それさえも分け合ったものだ。

 ぼろな肩継ぎを笑われて、お蝶が泣いていると、
辰吉が顔を真っ赤にして飛んできては、悪童達を追っ払ってくれた。

 お蝶、おいらがえらくなったら、おめぇに金襴の着物買ってやる。だから泣くなっ。

 ほんとうかぃ、お蝶も金襴の着物を思って、涙の筋を袖で拭って笑ったものだった。

 辰吉が父親に薪でぶったたかれて家を飛び出していったのは、お蝶が十で、辰吉が十二の時だった。

 すきっ腹に耐えかねて、饅頭を盗んで捕まった。辰吉は殴られながらも、泪をみせずに歯を食いしばって耐えながら、叫んだ。

 へっつ、餓鬼に飯もろくに喰わせねぇで、酒ばかり飲んでいやがって、殴る威勢はあるってんだな。好きで貧乏長屋に生まれたんじゃねぇやっ。

 お蝶とおみつが泣きながら父親の腕にぶら下がり、おじさん止めて辰ちゃんが死んぢまうよ。辰ちゃんは新ちゃんが腹がすいたって泣くからやったんだよぉ。

 必死に止めたが、よけいに煽り立てられて、父親は辰吉が気を失うまで殴り続けた。

 そして辰吉はいなくなった。

 今思えばね、親も辛かったんだろねぇ。どこの親も、まっとうに働いても子に充分食わせられない。やるせないから酒に逃げたり、女房子にもあたるのさ。

 へっつ、自分もそうやって育ったからって、餓鬼を殴ってうさばらしするなぁ親じゃねぇよ。

 おいらぁ、お前が岡場所に売られるって佐助に聞いた。あん時は腹が煮えてにえて、金を掻き集めて佐助に頼んだ。

 そうだったわ。家を出るあたしの所に佐助が走ってきて、おとっつぁんに金の包みを投げつけたんだんだった。

 お蝶売ったら生かしちゃおかねぇって、親分がそういってるよっ。ねえちゃん売ったらおとっつぁん殺されちまうよっ。って、そう叫んだんだっけ。

 どこの親分かしらねえが、お蝶はてめぇの子だぁ、生かすも殺すもおいら次第よっ、目腐れ金で恩を売うったってそうはいかねぇやっ。

 そう言っても、おとっつぁんも娘を売りたかなかったんだろうね。その金で塩屋の借りを払ってしのいでさ、あたしも茶屋つとめに出れたんだ。

 あれは辰つぁんのお金だったんだねぇ。知らなかった・・借りができちまったね。
お蝶は思わず袖口で目の縁をぬぐった。

 いいってことよぉ。
お、おいらも金に困っちゃいねぇし、昔のことだぁ。

辰吉は額を手でつるりと撫で、白い歯を見せて笑った。

 辰つぁんがどこかで見ていてくれると、あたしも働きぬいたよ、佐吉はおとっつぁんが亡くなると、家を飛び出てしまったしね。

 そうかぃ、おいらもお蝶に金襴きせてえと、危ない橋も怖くなかっぜっ。夢中でやってきたもんだ。

 何時か、辰つぁんが迎えに来てくれると、聖天長屋も出やしなかったのさ。訪ねてくれれば・・

 どこかですれ違って、別の道をいくってやつさ。

 それも縁ってもんなんだろかね。無事でいてくれろと願っていてもね。
 それで、辰つぁんにはどこでまた会えるのかぃ。

辰吉は下を向いて手酌で酒を注いだ。

 ・・いや、会わねぇほうがいいのさっ。
おめぇは無事に大店のお内儀だぁ。おいらは荒くれの中で日がなを送ってる。幼馴染みが達者でこの江戸で生きてる。それだけで、おいらぁ嬉しいのさ。

 そうだね。もう、毎日一緒に走り回ってる時は過ぎちまったんだねぇ。

 氷雨は冷たく降り止むようすもなかった。勘定を済ますと二人は蕎麦屋の軒下で並んでそれを見つめた。

 辰つぁん傘を持っていってな、あたしゃその先に取引先があるから傘も借りられるんだ。

 そうかぃ、おめぇの傘だ有難く受けようぜっ。
それじゃ達者でなっ、また会うことがあったらな。

 あいよっ、金襴の着物だよっ辰つぁん。
お蝶は淋しく微笑んだ。

 辰吉は、おうよっ帯もつけてやるぜっ。
そう威勢良く言うと、傘を開いて白い幕を切り裂くように、道へ飛び出していく。


 辰つぁん。嘘ついてごめんよ。

小間物屋の女房は、櫛笄(くしこうがい)はいい物を身につける。それも商いの知恵でもあったが。
良かった、みすぼらしくない姿で。お蝶は辰吉が見えなくなるまでその痩せた背中を見つめつづける。

 ばっきやろう。
博打の金に追われてるおいらが、おめぇに金襴なんぞ買えやしねぇや。それでも、それでもよっ。たまにゃ、夢でも言いてぇのさ。お蝶、堅気で達者にすごしてくれぃ。命があったらまた会える。逃げて逃げて、逃げ切ってみせるさっ。

 辰吉は、傘の柄の温もりをしっかりと握り締めながら、冷たい雨の中を走っていった。