杏子は足早に黄金町の駅から川沿いに出ると通りのパンと駄菓子の店で、クリームパンと珈琲牛乳を買って足早に日劇の入り口に向かう。

 映画館入り口の壁には、小さな屋根付きの張り板があって、ポスターが三枚並んで貼ってある。下のほうには近日上映の次回作の題名が、紅い塗料で紙に書かれて。
その前に辰吉が紙袋を提げて立っていて。ポスターの端から端までじっくりと眺めている。

 辰さん、と声を掛けるとニット帽の頭を振り向けて。
 えへっ、嬢ちゃん今日は西部劇とアクション、そんでハードボイルドだと。
にいっと歯の一本無い顔で笑った。

 寒くなったから今夜は混むねぇと言うと。
うん、前の方に座るなら早めに入らねぇとな。食べる物仕入れたかぃ。
杏子はパンと牛乳の入った紙の袋を目の前で揺すって見せた。

 若えんだからもうちょっと食わなきゃいけねえよ。

 辰さんは食べ物はいいの?

 おいらのはワンカップと貰ったみかんと、さきいか。映画代稼ごうってダンボール頑張ったからさ。さっき立ち飲み屋で一杯やってさきいか買ったの。

 そう話してるうちに開演ベルがジリジリ鳴った。二人は急いで、もぎりのおばさんに半券をもらい、トイレの匂いのする廊下を小走りで前の扉から中へ入った。

 杏子の好きな前列から六番目の右側に、辰吉は突進して席を確保して手招きする。
場内はほぼ満席になり、後から来るおっさん達は、慣れた手つきで通路に新聞紙を敷き壁にもたれて座る。

 辰吉は、入ってきた見知った顔に、おうっメタルとかウエスタン元気かぃとか、あだ名で呼びかけたりしている。
ウエスタンは色黒で痩せた老人で、西部劇の掛かる時はかならずやってくる。メタルは戦争物が好きな若い子だ。若いといってももう40近いだろうが放出品のカーキのジャンパーで、胸ポケットにはウイスキーの小瓶を差してる。

 杏子にとっても映画が好きというそれだけで、友達のように彼らの顔が親しく思える。

 小さい頃から映画が好きだった。
小遣いは殆ど映画に費やして、自転車をこいで遠くの映画館まで行ったりもした。無料パンフレトは大事に箱に入れて取って置く。

 変ってる子と中学や高校でも友達も少なかったけど杏子は平気だった。洋服も化粧品も関心が薄く、雑誌の立ち読みで次にくる映画を愉しみに待つ。

 近所の噂も、学校での無視も、教師の小言も親の喧嘩も。みんな忘れて。映画館の暗闇に座ると、ふぅーっと落ち着くのだ。浮かび上がる様々の人生。哀切であったり残酷であったりしてもその人の人生に供走する一時は広い世界を感じられる。

 母親は何度も、まともな娘にならないと嘆いた。弟はへんじーんとからかう。それでも父親は学生時代に映写技師のアルバイトをしていたこともあるらしく、好きなものがあるのはいい事さと言ってくれた。

 そんな両親ももういない、母は亡くなり父も再婚して故郷の地に越して行き。弟も仕事で中東に出た。杏子は短大を出て、建築会社の事務員として働き6年。

 会社では地味で真面目に働くが、給湯室での同僚の噂話にも入らず、やはり変わり者のまなざしで見られている。

 給料は家賃とぎりぎりの食費以外は、映画につぎ込んでいいるが、独り暮らしで誰にも何も言われず映画が見れるのは何より嬉しい。

 辰吉はむかし、米軍基地で働いていた事があるらしく英語が多少判るのが自慢だ。この字幕ちがうなぁとかも言う。
 どんな暮らしを送ってきたのか知らないが、一時は羽振りも良かったらしい。そんな過去はどうでも良く、辰さんは映画の友達なのだ。

 昔の俳優にも詳しくて、この女優は姉さんのが可愛いんだよ。バリモア一家はみんないい俳優だねえとか。西部劇はね、インディアンが可哀想でやなの。アメリカもさんざんひどい事したんだよなぁ。横浜では米軍の仕事してるってえとでかい顔出来た時代もあんの。

 時々、幕間にワンカップ飲みながら話してもくれた。終電近くなると帰る客と、泊りの客は朝の始発時間まで暖かいスティームの暗闇で半分まどろんでまた映画を観るのだろう。

 辰吉は泊りの時も、半券見せて橋の辺りまで送ってくれて。また来週なぁ、気をつけてお帰りぃとにいっと笑う。

 ひらひらと雪が舞う夜に手を振って別れたっけ。

 そう、あれはもう25年も前の事。日劇が壊されるとニュースで聞いて、杏子は東京の外れから電車で横浜にやって来た。

 結婚して、夫の転勤で函館に長く住み東京へ戻った。子供二人も成長して穏やかに暮しているが。時々、テレビやビデオで古い映画を観ると、あの横浜の映画館の匂いを懐かしく思い出す。

 家事、子育てやパートと忙しく日を送り。映画への渇望はあっても時々TVで観るか子供とそれ向きの映画に出かける程度だ。ビデオの普及で映画館が次々閉館する時代なのだ。

 それでも・・日劇は故郷のようにあった。

 見上げる冬空の中で、日劇は白いテントで覆われ。工事の騒音と工事車両だけが行き交っている。

 辰さんやウエスタンやメタルや皆、もういないのかも知れない・・
ここにあったあの生暖かい暗闇と安心できるシネマの友達はもう薄い想い出でしかない。

 杏子は川沿いに駅に戻りながら、ぽろり泪を零した。

 えへっ、嬢ちゃん泣いちゃいけねえ。
哀しい映画で杏子が泪をみせると、辰吉が汚れたタオルを渡してくれたっけ。

ひらりと雪欠片が舞い降りて川に溶けて消える。

 シネマの友達だったみんな。
杏子はしばらくその雪の欠片を眺め時の流れのなかに佇んだ・・





映画館も減って値上がりして1900円になるとか・・
その頃の日劇は350円で週末は泊まりの人も通路に座るも自由で、ワンカップの人もいたり。不思議と痴漢に遭ったこともない。後に濱マイクの映画のロケにも使われて懐かしく観たのです。