なんか面白い草紙本はあるかい。

 そう声を掛けられて茂次は読んでいた黄草紙から顔を上げた。貸し本の箱荷を降ろして川沿いの土手で一息入れながら、つい草紙を読みふけっていた茂次はあわてた。

 土手の奥の松林から蝉の声が賑やかな暑い昼下がりの八つ時。

 はいはいっ、曽我兄弟、源平物など史記物から季節柄のあやかし話、心中物から落とし噺まで色々とございやす。

 ふぅん、おめがえが読んでるのはなんでぇ。

 これは、天文所のお役が書かれた空の話を子供向けに誂えたもんでやす。

 空にゃ何があるんでえぃ。

 ええっと、昼の空には雲がありやすね。その雲の形で節季の前触れがわかるとかぁ、夜の星で暦を作るとか、えーっとぉ。

 ふふ、貸し本屋は学もつくんだねぇ。門前の小僧ってもんだ。

 二十歳を少しでた年頃の着流しの若い男は、隣にしゃがんで茂次を眺めると。

 おいらぁ、そこの豊洲屋の寮のもんで文七ってぇんだ。おまえさんはこの辺りを廻っているのかぃ。

 へぇ、両国辺りはもう割り振りがあって。この辺りは寮も多いんで無聊の慰めにと声を掛けてもらえることもありやす。

 そうかぃ。佃の方に寄ると大店の暑気払いの寮も多いが、この辺りは囲い者が多いから大した稼ぎにゃならねえだろに。

 茂次は懐から手拭を出して額の汗を拭うと、丁寧に畳んで懐に戻した。稼ぎを思うと疲れが重い。

 手前は、気が利かない不器用者でやすからご贔屓も少ないんで。足で廻るしかありやせん。

 ふうむ、おいらのとこは下働きの爺さんと二人だけだからよっ。くたびれた時ぁ足休めに寄りなよっ。冷えた麦湯くれえあるしな、本も借りるからさ。

 へえっ、ありがとうございます。

 数冊無造作に草紙を掴んで、きょうはこんだけ借りるぜっ。と笑った。
貸し出し帳に矢立で豊洲屋文七さまと書き付け、ありがとうございます。また何日かでお伺いしやす。
茂次はへこへこと頭を下げ、若者の背を見送ってから、重い木箱を背負って立ち上がった。

 深川六間掘りと横川に挟まれた湿った路地奥の地蔵長屋に茂次は姉のおたきと住んでいる。早くに親を亡くして年の離れた姉に育てられたが、その姉も無理がたたって寝たり起きたりで縫い仕事も多くはできぬ。

 十で呉服屋の丁稚にでたが、届け物の反物を転んで汚したと家に帰され。手伝い仕事をあれこれしても愛想もなくてきぱきともできずに、度々雇い止めにされる。やっと差配の知り合いの貸本屋から荷を借りて廻り貸本の荷担ぎになった。

 愉しみは一息つく時に、汚さぬように草紙本を読むことで、おかげで寺子屋にも通わず何とか文字も読み書きできる。

 そんなことがあって。豊洲屋の寮に暮らす若旦那の文七を、廻り仕事の帰りに尋ねるようになった。

 茂、ちょいと外に出ようか、二日も草紙ばかり読んでごろごろしてたらさすがに飽いたわ。

 二人は隅田川沿いを午後の土手風に吹かれて歩き、茶屋の外の床机に座って麦湯と葛餅を食べる。

 おいらなぁ、旅に出てえな。
文七は川向こうを眺めるようにぽつりと言った。

 若旦那なら、お好きな所にいけるんでやしょうよ。

 ふん、おいらの家ぁ知ってのとおり銀座裏の豊洲屋で、まぁ大店の酒問屋よっ。
しっかりもんの兄に働きもんの弟もいて古番頭も雁首並べてる。しっかりときっちりが飛び交う店だ。おいらね。性に合わねぇのよ。

 おっかさんが死んで若い後添えが来て、あんなに嘆いていたおとっつぁんもすっかり張り切っちまってよ。弟も生まれてこれができがいいと大喜びさ。できがいいって茄子かよっ。

 世間じゃ豊洲屋は磐石らしいからもういいじゃねえか。おいらがいなくなればさっぱりしてしっかり固まる。おいらぁいらねぇのさ。

 でも若旦那、そりゃ贅沢ってもんでございますよ。年若の手前が言うのもなんでやすが。立派なご実家があって、喰うに困らねえからそう仰られるんでやすよ。
手前などお先真っ暗ってありさまで、姉が寝付いてしまったら薬代も鼻血もでねえでやすから。どぶ板踏んで長屋巡って、足を棒にしても枡で米が買えません。

 ふむ、そうかもしれねえな。贅沢だってね。
でもさ、生きてるって何だろねぇ。おいらぁ身体が弱いってことでぶらついてるが、博打も女遊びもしねえ。おまんま食べて息してるだけだ。茂と何が違うんでえ。気鬱病だって言いてえんだろ。

 だけどよ、物指しで計ったような道筋から外れると野たれ死ぬってことかぃ。おいら世間って四角い枡が合わねえの。はぐれたら世間のいらねーもんかい。こんなおいらだからてえした覚悟なんてねえんだけど。草紙読みながら考えた。

 旅に出てそのありさまを書いてみようかってさ。大山参りやお伊勢さんばかりが旅じゃぁねえだろ。あそこの茶店の蕎麦がうめえとかさ。この宿は飯がいいとかね。

 ほむ若旦那、そりゃあいいでやんすね。湿った長屋からしょうげえ出られねえようなもんには。身動きままならずぱったり倒れちまうようなもんにも、そりゃ夢だもの。

 そりゃぁいいでやすよ。もう一度、小さな声で茂次は言って。
 そうなんでやす。人にはやれることとやれねえことがあるけれどね。やれるもんがやらねえといけねえんでやすよ。若旦那が旅に出て、旅の話を綴ったら。おいらその草紙本を一生懸命貸して廻るでやんすよぉ。

 ふふ、茂そんなみみちいこと言わず、版元になって売り出しておくれな。おいらも愉しみが増すってえもんだ。なぁに金は天下の回りもんよ。

 またぁ若旦那。そんなこたぁ金に困らないお人が言うことですってば。

 あれっ、茂ありゃ鰯雲じゃねえか。文七は大川の海に溶けるあたりの空を指差した。

 あーっそうでやすね鰯が泳いでやす。もう秋も近いんでやんすねえ。旅に出るにやいい節季ですねえ。

 二人の若者は、松林の上にかすかに泳ぐ鰯雲を珍しい物を眺めるように。並んでながめやったのだ。