牧田翔之介は奥州の小藩の生まれだった。
藩が隣藩と山争いで刃傷沙汰があり、咎は藩にありとお取り潰しになって隣藩に統合されるに至った時。

 父親の跡を継いで馬廻り役の下級武士だった翔之介は。両親も既に無く独り身の気楽さと、敵対していた隣藩に仕えるのを嫌い、下男の吉蔵に家と田畑を任せて江戸に出たのだ。剣術修行と云う名目で。
かっての上役もその気持ちは判ると、一年たったら落ち着くだろうから戻って来いと言う。

 江戸は深川浅蜊河岸の梅ノ木長屋は、風雅な名前にはおよそ縁の無いどぶ板長屋だったが。翔之介は「何でも引き受け候」と看板を出し、長屋の人の代書やら荷運びまで手伝う暮らしをはじめた。

 故郷の吉蔵は翔之介の生まれる前から使えていた忠実な老爺で、家を守り裏の畑で野菜を作ったり、屋敷の離れを貸したりして僅かな金を便りにつけて送ってくれている。

 浪人髪ではあるが丸顔で愛嬌があり、気さくな人柄は長屋の連中にも親しまれて。大家の自身番の書き役当番の代役を頼まれたり、向かいの常磐津の師匠の用心棒代わりに遅い出稽古に付き添ったりと。結構長屋の人に重宝がれていった。

 翔之介は、すっかり江戸の町場の暮らしが気に入ったのだ。

 堅苦しいござ候は何だったんでぇい。食べて何とかやっていければ、こんなに呑気で気楽な暮らしはありゃしねぇ。
身一つの気楽さで、武家の面子お家大事もなけりゃ、米味噌貸し借りしても仕事に励めば、ありがとよっの笑顔が嬉しい。

 とりわけ、今までしたこともない料理は面白く。青物売りから大根を買って井戸端で近所の女房達と世間話をしながら、大根や牛蒡を洗ったり調理の仕方を教わっては水屋で拵えてみるのだった。

 そうか、根深汁の葱は大振りに切ったが旨いのだな。胡瓜は塩を打ってから転がすといいのか。

 ぼて振りの魚屋の政吉が井戸脇で注文のあなごや小鯵を捌くのを、横に座ってじぃっと眺める。

 まったくお武家さんなのに、翔さんはへんなお人だねぇ。

 政吉は、ほうほうと感心しながら、横にしゃがんで興味深けに見ている大柄で丸顔の翔之介を見て笑った。

 そのうちに政吉に教わって、魚も上手く捌くようになると包丁にも拘って、砥石も三種類ばかり買い揃え、包丁を並べて井戸端できれいに研ぎあげる。

 刀も包丁も道具は道具でぇい。手入れと切れ味だな。
ついでに頼まれては、近所の家の菜っきり包丁まで研いでやる。

段々と嵌りこんで煮炊きも腕を上げ、長屋の宴会やら大家の祝い事の手伝いもする。

 翔さんの煮付けは上品な味だぁね。そうそう、やっぱりお武家は舌が肥えてるんだねぇ。ほんとなんだかほっとするような味だわねぇ。
すこぶる長屋のおかみさんにも評判が良いのだった。

 そんな日に政吉が盤台からこはだを出しながら。
 翔さん、もうおいらがおせえる事はねえや。おいらの仕入れ先によっ、相葉屋って小泊の料理茶屋があってね。はじいた小魚とか安く分けてもらっているんだが。

 そこでね。大きな祝い事の宴会があって、三日ばかり水屋の手伝いがいるらしい。良かったら様子を覗きがてら手伝いにいってみるかぃ。
多分洗い場か鍋磨き仕事だろうが、料理屋のまかない所を見るのおもしれえだろっ。

 おつっ、そりゃいいなぁっ。同じ物ばかり誂えてても代わり映えもせんからなぁ。板前の仕事も見たいものよ。

 でもなぁ、その髪形と二本刺しはちいとまずいよなぁ。お武家さんが皿洗いってんじゃ向こうも気がひけるってもんでぇ。

 ふうむ、たしかになぁ。

 翌日の朝、政吉が長屋に迎えに行くと、さっぱりした町人頭で縞の着流しの翔之介がにこにこと表れた。

 うへぇ、怖れ入谷の鬼子母神だぁねっ。だんな思い切りなすったぁねぇ。政吉もたまげたようすで言った。

二人はつれだって小泊町まで歩いていった。

 なんだか腰が軽くて妙に足早になるのぉ。

 おいらがぼて振り盥下ろした時と、同じ気分ってわけですかぃ。へへっ、何だか翔さんが仲間にみえるぜぃ。
政吉は嬉しそうに笑う。

 それから三日、料理茶屋の下働きは目の廻るような忙しさだったが。隙を見ては花板や料理人の手元を覗いては、家に戻ると真似て拵えたりする。
出来た料理は、隣の大工の女房おさきに持って行き、おさきは目を丸くして。

 こりゃ灘万の料理だねぇ。もったいないような味だわぁ。

 心底感心して、自分だけではもったいないと、また隣の小間物荷担ぎの信助の女房おくまや、大家の六蔵のとこにまで持っていく。

 大家の六蔵もたまげて、こりゃお武家にしとくには惜しい腕だわい、と箸を置いた。

 料理茶屋の仕事が終わっても、働き振りを気に入られて時々手伝いにいったり。表通りの煮炊き屋が行楽弁当を二十頼まれたと、手伝いに行ったりもする。

そんな時、吉蔵から便りが届いた。

 ご健勝にてお過ごしの御様子嬉しく御座候。先来、御徒歩組み頭の坂東様がお見えになりまして候。

 そこには翔之介の亡き父親の友人で、今や隣藩の馬廻り頭についている坂東左馬ノ介が。
そろそろ出仕して、藩のお役に付いたらどうだろうか、ついては自分の四女たまきを嫁に迎えないかと、心遣いで勧めてきたというのだ。

 江戸に剣の修行に出ている事になってる翔之介を案じ、かって敵対した隣藩で役職についた自分を恥じている風もあったと。

翔之介は、腕組みして考え込んだ。

 馴染んだ今の暮らしを捨てるのも淋しいが、何時までも家を放って牧田の家を潰すのは、親に申し訳がたた無い。
しかし、また日々出仕して上役に頭を下げ、何かあれば武士の面目だ、お家大事と堅苦しい暮らしもいまや気に染まぬ。

 夕暮れに長屋の宿六連中と、蕎麦屋で一杯もやれず、朝に女房達と井戸端で大笑いすることもなく、茶屋の手伝いで新しい料理も覚えられぬ。

どうしたもんだろうか。
翔之介は頭を振って思い悩んだ。

 答えの見出せぬままひと月もたった頃。表の煮炊き屋の手伝いで煮卵を大鍋で煮ていると。長屋のおさきが下駄を鳴らして走ってきた。

 翔さん翔さん、た、たいへんだよぉっ。なんだかね、お武家の格好の旅姿したお嬢様が家に来てるよぉ。ふぅっ、大変だわぁな。

 へたり込むおさきを横目に、前垂れと襷を外し、店に断りを入れて長屋に走って戻ってみると。狭い上がり待ちに腰掛けていた若い娘があわてて立ち上がって一礼した。

 近所の女房達も、勢ぞろいで興味津々と中を伺っている。開いた油障子を抑えて閉めることも出来ない。

 突然のお邪魔大変無礼ながら、坂東左馬ノ介の四女、たまきと申しまする。

翔之介の町人姿を一瞬呆れたように眺めたが、無言でもう一度深々と礼をした。

 翔之介はどぎまぎとうろたえたが、とにかく腰高障子を閉めて水甕から盥にすすぎを汲む。

 まぁ足をすすがれてお上がりなされ。遠路をはるばるお越し頂き、僭越至極で御座る。

 町人髪に武家言葉のちぐはぐさで、うろたえて大柄な身の置き所に困ったように、手拭を出したりすすぎ盥を取り落としたりする。

 父上から命ぜられて遠路参ったのですかな。
火鉢に鉄瓶をかけて湯を沸かしながら尋ねると。

 いいえ、自分で申し出て参りましたの。越し入れる前にもう一度ご尊顔を拝したいと、我儘を言って出て参りました。

ふ、ふうむ。越しいれのぉ。

 翔之介様は、覚えていらっしゃらないかも知れませぬが。わたくし幼い時に姉様達と翔之介様と遊んだことがございます。御尊父が貴方様を連れて、父の所へ囲碁をうちに参られてその折に庭で御一緒に遊びましたのよ。

 ううむ。覚えていず、す、すまぬ。

 何時までも嫁に行かぬと責められて、わたくし咄嗟に翔之介様のお名前を。申し訳御座りませぬ。
たまきは畳に手を付くと、しとやかに一礼する。

 まぁ、と、ともかくこんな所だがゆっくりなされよ。
その夜は翔之介が夕餉を拵えて、二人で箱膳に向かい合って食べた。
手伝いたがるたまきを制して、翔之介は、器用に菜を刻み魚を捌いて、浅蜊汁もこさえた。

 おさきが薄べりを運んで来てくれたり、おくまが良い茶の葉があるからと持ってきたり。女房達はそわそわと成り行きに耳をそばだて。戻ってきた亭主達も、用もないのに障子を開けて挨拶したり、一杯やりにいくかぃと、承知の上で誘いに来たりと鬱陶しいのだ。

 たまきは夕餉の美味に驚き、長屋の連中の騒々しさに目を丸くしていたが。

おかしそうに笑って。
まぁ、なんとご親切な方々でしょうね。わたくし翔之介様がお帰りにならぬ訳が、判るような気が致しますわ。そう言った。

 それから三日、たまきは翔之介に連れられて、回向院見物に行ったり、両国橋や富岡八幡宮の縁日にでかけ、すっかり江戸を楽しんだ。

蕎麦屋や屋台の天ぷら、蒲焼屋から寿司まで食べる物もすべてに。
まぁ珍しい。まぁ美味しゆうございます。とたまきは大層喜んで。翔之介も無邪気に喜ぶたまきに、嫁を貰うつもり無ければ国許に帰らぬ、とも言い出せないでいた。

 ある日戻ると、大家の六蔵が玄関に座っている。
おかえりなさぃよ、翔さんたまきさま。

 六蔵は何やら、にまにまと笑うと。
実はね、話があるんでやすよっ。家賃の催促じゃありゃしませんよ。

 その話とは、二丁先の裏店に煮売り屋の店があったが、主人が年老いて娘夫婦の所に隠居に行くことになった。

 店を家主に返すっていうんだがね、翔さんの腕なら、旨い煮売り屋が開けるって皆も言ってるし。どうですかぃ、そこを借りておやりなすったら。
家主は顔見知りで、いい人がいないかと相談を受けてね。

 余計なおせっかいでやすが、お武家に戻られて、たまきさまと国許へお帰りなるなら仕方がない話でやすがね。その腕は惜しいやね、翔さんが居なくなるのはどうにも淋しくっていけねぇや。

二人は思わず顔を見合わせた。

 翔之介は、たまきが来た以上このままでは居られない。江戸をたまきに見せたら、国許に送りがてら戻るのは仕方ないかと半ば諦めていたのだ。
翔之介は、腕組みして黙ってしばらく考え込んだ。

 良いお話では御座いませんか、おやりなさいませ。
たまきがふいに顔を上げてきっぱりと言った。

 六蔵も翔之介も、ちょっとびっくりしてたまきを見つめた。

 わたくし国に戻って父に許しを頂き、吉蔵さんと一緒に戻ってまいりますわ。煮売り屋の翔さんのおかみさんになって、一緒に店をやりとう御座りまする。

 たまきの顔は輝いて赤らみ、目は生き生きと微笑んでいる。

 翔之介は、ふっ、女房とはいいもんだぜぇ。
思わずそう思った自分に驚いた。なんだぃなんだぃ。

 おうっ、そりゃいやっ。目出てぇの重ね箱だぁね。二階付きだから、上に住まえばいいでやす。大工の佐吉や長屋の皆で手を入れれば上等なもんになりやすよ。六蔵は膝を叩いて喜んだ。

 まぁ嬉しいですわ、早速、国許へ旅仕度をいたします。元手のつごうもつけてまいりますから。大屋殿、なにとぞお手配よろしく御願いもうしあげまする。

 女ってぇのは、どうにも大したもんだぁな。

 翔之介は苦笑いしながらもいっそ決心が付いて。やっかいかけてすまぬが何卒よろしくと。六蔵に深々と頭を下げた。

 こっそり覗いてた長屋の女房達が、手を叩き頷き合って、安堵の胸をさする。

ほころんだ梅ノ花がかすかに薫る春であった。