目が覚めたら・・・・・

長い【宗教】という夢から 覚めました。  コーヒーでも飲んで すっきりと・・・・


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ふと 最近 意識に上ってきたことがあり

そこから 考えてみた。

「なまけ者のさとり方」という本の中にあった

あるくだりなんだけど。



明確には 思い出せないが

意識の広がりの程度で スペースとか ゼロポイントとかいう 

表現があった。


私なりに 説明すると 

意識(バイブレーション)をどんどん 広げて軽くしていくと 

スペースと言われる 次元に到達するのだけど

それが どんどん反対に 縮こまると塊になってしまうのだとか。

その塊になるまで バイブレーション(波動)を下げてしまうと

意識の中で 恐れていたものが 塊となって つまりは

物質化して 目の前に現れてしまうようにもなるよと。


その塊と スペースの間に ゼロポイントがあって

そこは 自分のエゴが 0になる点だと 説明があった。


自分を考えてみると

日常の中では エゴが消える瞬間ってのは あると思う。

だから その0ポイントの周辺を 上がったり 下がったりしているの

だろうかと 想像した。

もちろん 0以下の状態に 身を置いている時間のほうが

断然 長いのだろうが。


本の中で スペースに居る人たちは 決して

あなたのことを コントロールしようとか 抑えようとかしないのに

そうされていると 感じることがある。

表現は少し 違うはずだが

そのようなことを 書かれている部分があった。


そのとき 私は そのスペースに居る人として

ゴフボサマを想像したのだ。

私にとっては ゴフボサマは はるか スペースの存在にいる人だと

思っていたから・・・。

そこで え!? そうなんだ・・・・と 私は いぶかしげに思った。


本の内容を信じ また 教会を信じているからこそ

ゴフボサマは 私たちを 押さえつけようとはしていない???

でも そう感じるのはなぜ??

そんな 疑問を 抱いた。

というか その答えを 知りたくなった。




思えば ゴフボサマは 金と名誉など 欲にまみれた

いわゆる 私たちよりも むしろ塊の状態の人だったに違いないだろうと

いうこと。

つまりは 下から 足を 引っ張られていた状態だったので

私たちは とても 抑圧されて 苦しく感じていたのかもしれない。

当然の感覚だったのかもしれないと思うようになったのだ。



しかし 今もって よくよく 考えてみると

その方たちだって 結局は 私には 何一つ影響を 及ぼすことが

できない存在なのだ。

それは スペースの人であれ 塊の人であれ 同じことだろう。

では 誰が・・・?


結局は それは 自分で選んだことだったのだろうという

結論に行き着いた。


そういう塊の人たちの バイブレーションに触れて

それが なぜか 心地よいと感じて 自分で選んで 呼応してしまったの

だろうと思う。同調したのだ。


そうやっていくうちに 自分では 望みもしないようなところまで

押し下げられ 凝り固まるように 引っ張られていくようになったので

自分の中でも さすがに これはと 感じたのだろう・・・

なにかしら 窮屈で 押さえつけられているみたいで

その状態は 嫌だよ・・・・・と 魂が 叫び始めて

その波動の鎖を切って スペースに再び 向かうことを

決めたのではないかと。



今現在も 私の意識は 上がったり 下がったり・・・・

でも 教会に居たときのように

自分達だけが 神に愛されていて

自分たちだけが 救いの道にあって

かわいそうな人たちを 救う 救い主の立場にあって

自分たちだけが 天国に行けるんだと思っていながらも

心は いつも み言葉と 摂理(活動)と 献金で がんじがらめ

そんな 世界には 居たくない。




もし スペースなる存在の前に 凝り固まった感覚を感じたなら

それは 自分が あなたよりも まだ塊の存在で居て

私の魂は あたなのように 広い意識になりたいと 願っているという

願望の現われであり


もし 自分よりも 塊の人から 抑圧される嫌な感覚を受けたのなら

私は そうなりたくないですよ・・・という サインに他ならないのかも?

などと 今は 感じている。











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天外さんの 動画を 紹介されているのを見て

おお!っと 思った私は 他の動画も見まくって

メモしまくって・・・


本も欲しくなったので 日本に帰ったとき書店に

寄ってみたけど うまく本が探せなくて

とりあえず 見つけた1冊を 手に取ったけど

結構難しくてね・・・・ 未だに 読み込めてないと思う。

でも いつか 分る日が来るかもということで

寝かせている。


その天外さんの メッセージが 毎日 届くように設定

して 早1年 1周したらしく。

メッセージも 2回目に 突入しているけど

流して目にしているくらいなのかな?

じっくり読んでも 腑に落ちないこともあるので

気楽に流している。




さて そんな 今日

「和多志」という言葉に 焦点が当たった。


昔ね

頑張りますを やめましょう~という メッセージを

たくさん 目にすることがあって

そうだ 私も 頑張りますを やめてみようと

本当に 使わないようにした。


思わず 「がんば・・・・」と出そうになって 慌てて 引っ込めて

違う言葉を捜したり・・・・(現役時代)

仕方なく 使うときには 「顔晴ります!」と 言ってたことがある。


もちろん 言葉の響きにしては 同じだけど

私の中での イメージでは 「頑張る」ではなくて「顔晴る」。

にこにこ 顔も 晴れ晴れ がんばります!って 感じかな。

まあ 教会内での がんばらないといけないことが 多すぎて

重すぎて 本当に 癌張りますに なっちゃうな~って。

一生懸命 頭のイメージの中では 漢字変換してたな。

それで 本当に 癌になるんだろうか???


今は ほとんど がんばるって言葉自体を 使わないし

子供にも がんばれって あまり使わないかな。

子供は 日本語で がんばれじゃないから 違う意味では

がんばれって 押し付けていることもあるかもしれないか。

韓国の がんばれって 熱心にねって 感じだから 私も

時々 使ってるね・・・。

あとは ファイティング!という感じも あるか・・・・

日本の ファイト!って 言うのと同じだね。

でも これは 戦え~!って感じがして 私も 嫌なんだ。

本当に 試合とかするときは 使ってもね。





まあ こんな 言葉遊びにみたいなのに 少し似て居るんだけど

天外さんは 「私」と 書くことろを 「和多志」と 常に 表現

されている。

これは 意味が深いと思う。

天外さん流の 解釈の仕方も どこかに 書いてあったと思うけど

今 私は この文字を見て

多くの 意思が 集まって 1つに和している存在が わたし?

そんな 感覚で 自分自身を 見つめ始めたのだ。

ちょっと 違った わたし。

今まで 1年以上 この言葉を 眺めてきたけど

今日ほど ぴんときたことはなかった。



だけど 書くには めんどくさいんで 私って 書くと思うけど

これからは 自分の中では わたし と言う時は

和多志と イメージ 変換することにしよう・・・・。









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yongさんところの ブログに


とっても 頷けることが 書いてあって・・・


http://ameblo.jp/reikaonma/entry-11894443905.html


コメント入れようと思ったら ちょっと長くなるなあ


なんて思ってたら


あ、そうだ 今日は 母の命日だったこともあって


これは 少し しっかり 自分のことばで 書いておこうと


思いました。



【統一教会と縁を切ることで、守護霊の力が強くなって


運勢がよくなってきているはず。】


これは わたしも 思うことです。





わたしの場合は 教会に導かれた 原因があるとしたら


自分に自信がなかったこともありますが


亡くなった母のことを ずっと 気にしていたので


母を楽にしてあげたいという気持ちからでした。



母が浮かばれているか 心配だったのです。


ですから ビデオセンターに 不思議な縁でとうとう


たどり着きましたが そのとき 初めて見せられたビデオが


霊界の話しでした。


自殺者も 救われる道が ここにある。


その一言で 私は 心奪われてしまったのかもしれません。



どこかで 書きましたが


母をはじめとして 私の周りの 霊的な存在も わたしをそこに


いくように 後押ししていたように感じるんです。


ですから 統一教会に関わったことは わたしの人生では


意味あることだったと思います。



しかし 問題は 学んだあとです。



私が この統一教会の世界から 目覚めつつあるときに


いろいろな方面から メッセージの アプローチがありましたが


ガツンと来たことがあるとしたら


先祖は 清平では 救われてはいない!?という


ことからでした。


面白いですね 入り口と 出口が 同じ感じです。




下手をすると 縛られて 手出しができないように


されているのかもしれないと感じました。


これは 霊的には 事実なのか どうなのか


わたしには わかりませんが


霊的なことは 除いても 教会に居る限り


時間は縛られますし 行動範囲も限られてきます。


それに 献金として お金は 奪われるし


出せなかったら できなかったら 負債感がついて回ります。


いいことないのです。



あるとしたら 神さまという 存在を 意識して


過ごせることくらいでしょうか?


しかし それも どの神さまかというくらい ともすると


危なっかしいことだと思います。



わたしは 教会を 傍から 客観的に見たときに


嘘つき 詐欺くらいだったら まだ良いほうで


本当に 霊的にやばいことになっているのではないかと


それを 心配しました。



なので すっぱりと 関係を切りたかったのです。


なあなあに 適当に逃れて 献金を免れようかとか


そういう次元ではなかったのです。



ですから わたしは 多くの元しっくさんにも


すっぱりと 関係を切ったところで 生活して欲しいなと


思っていたのです。


しかし わたしも 10年近く妄信していたし


うすうす気付きながらも 更に 10年間かけて


出てきました。


それを 思えば それぞれの 道 学びがあるはずですから


わたしが どういうことは できないのだなと思いましたが。



すっきり 生きたいと思ったら


波動の低いものには 相対しないと 心を決めることも


大切なことだろうと思います。















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意識を変えると


違うものが見えてくる・・・・そうなんでしょうか?



ここ数日 「スローな生活」と言って


特に 「スロー スロー」なんて 心の中で つぶやいていますが


「スロー」というのは 「ゆっくり」 とは 違うなと思います。


一種の アフォーメーションなのでしょうか


スローという言葉の中に 【心を込めて 穏やかに・・・】という


意識を込めています。



それは 今ここに 意識を 集中することになります。


やってみて 気付きました。


歯を磨きながら 次に顔を 洗うことを考えていて


顔を洗うときに 洗い終わって 即座に部屋に戻り


顔が乾燥する前に ローションをつけなきゃ!と 


いつも 先々のことを考えながら 焦るような気持ちがあった


ことに気付きました。


時間に追われてなくても そうですから


時間に追われていたら もうパニック状態にも近くなるでしょう。



それを スローの掛け声で 歯を磨いている 手元に


意識が集中しますし


鏡を見ても 歯に意識が行きます。


年を取ると 歯のことも いろいろ心配になってきますが


歯を磨くときに 歯の心配をせずに 違う時間に 


歯の心配をしていることがあるんですよね?


食べ物を食べているときかと言いますと 違います。


関係ないときに 思い出しては 心配をするのです。



「今日もありがとうね。 いつまでも 健康で 


しっかり食べられるように助けてね・・・・」


スローな生活を 心がけるとそんな心の 余裕が生じます。


だからってのろのろ 歯を磨いているわけでもありません。


やることは 一緒です。


でも 歯磨き1つが なんだか 違ってくるんです。


それは 本当に 気持ちの良いものです。



ああ なるほど こつを 掴んだような 気がします。


この 感覚を いつも 適用させて 生活の中で


このような 感覚で やるべきことを こなしていったら


一体 どんな世界の 住人になれるのだろう?などと


わくわくします。



もちろん わたしは この家の 住人であり


この家に 住み続けるのですが


パラレルワールド 違う世界に 移行するという言葉がありますが


その 違う世界に 住むことになるのでは・・・と


わくわくしてくるという意味です。



この感覚を 維持したいなと思ったら


出勤するときも 少しだけ 早く出る必要があります。



10分前になって 慌てて 飛び出すと


5分強で 着くはずですが 園の時計は 少し早いので


見ると きっかり 1時だったりして 別に遅れてきたわけでも


ないですが 気分 微妙です。


退勤は 4時10分発の スクールバスに 


子供たちを乗せてからですので バスの着く時間が


まちまちで いつも 4時を越えてしまいます。


勤務時間以上 奉仕をしているわけです。


そのことが 意識に上ってきて


わたしは 別に 仕事を少なくしているわけでもないぞ!と


言い訳ガマシイ 気持ちまで 出てきます。


誰も なにも言って 責めはしないのにね。



でも なかなか 余裕を持って 出発ができないのです。


家で することがなくても 少し早く着いてしまえば


園の子供達に 歯磨きをさせる場面に 出くわしてしまい


昨年までは 勤務時間が長かったので 


それも わたしの仕事でしたが


なにせ 逃げ回る子供 ハブラシを口にくわえて 廊下に出ては


走り回る子を 注意するのも ストレスでした。


ハーモニー先生は N03の 先生で 言うこと聞かなくても・・・と


どこかで 子供達も 先生のパワーの差を 感じているのでしょう。


先生の言うことは 聞かないと


そのうち シールをはがされてしまうとか なにか 危機感を持って


仕方なく 対応してるようにも見えます。


(集めたシールを 減らされては おもちゃをもらえるのが


遠のいてしまいますから。)



先生としての 力量の差もあるでしょうが 子供達は


その辺の 力関係のこと 良く把握してます。


家でも お母さんのいうことは 絶対聞かないといけないけど


おばあちゃんの言うことは 無視しても平気・・・みたいな


感覚ですね。



わたしの中にある たいしたことないけど


微妙な計算と 言いましょうか?


無駄な 思考といいましょうか?


そういうものに 左右されて


結局は 時間ぎりぎりに出かけ


走るまではいきませんが 早足で 時間に追われるように


歩き 教室に着いたときは 汗だくというか


止まった後からも 汗が だらだらという なんとも


気持ちの悪いスタートです。



それを スローな生活にしたいという 心で


ほんの数分前に 出かけると


余裕で 歩く道が 楽しめます。


つい 姿勢を正して見たり・・・・


いいこと尽くめです。


園の時計も 電池が切れたということで 


時間も修正され 今では 5分前には 到着していますし。


子供達にも なにかしら 余裕で 笑顔が向けられます。



ほんの小さなことですが


小さな意識の差で 大きな差が生まれてくるようです。



ご飯をいただくときも


心を込めて いただきます~と また 言えるようになって


きたと思います。


手を合わせて いただきますは


小さな頃からの 習慣でしたが


この家に来てから ちょっと 両親から 驚かれた目で見られました。


もちろん 何も言われませんが・・・・




あるとき 親戚が集まって食事をしたので


お膳が狭く感じたので 少し 後ろに身を引いて


茶碗を手元に持って来て 食べていたのです。


茶碗を持って食べるのは 日本なら 普通ですね。


でも ここでは 持たないということも 聞いていたので


いつもは 置いて食べるのですが


そのときに 叔母が私に こういったのです。


茶碗を持って食べてはいけないと


もし 食べる場合は 茶碗のふちに 指を掛けるようにと。


指を指摘されたのです。



まあ 習慣の違いと言えば そうだろうけど


日本もある意味 そういうのに うるさいですし


仕方ないなと 思いながらも


言われるままにしましたが


じゃ わたしの手を合わせて いただきますってやつも


きっと 何か こっちの 風習に 引っかかることがあるのかな?


それで 驚かれたのかな?とか


勝手に そこまで 解釈してしまったものですから


自然と 手を合わせることを やめてしまい



主婦ということもありますから


家族の ご飯を盛って 食べさせるのを 確認して


わたしは 慌しく あとから 座って そのまま 食べ始めるという


スタイルに 変わってしまったようにおもいます。




これからは 今一度 意識的に 感謝の心を 表してから


いただきたいと思いました。


きっと 消化吸収も違うような気がします。





いただきますや ただいま などのあいさつは


幼い頃からの 習慣でした。


家には 母や祖母がいる事が多く


返事を返してくれましたが 居ないと 分っていても


言ってましたし 1人暮らしをするようになっても


言ってました。


ただの 習慣の延長だったのだろうか?と考えてみましたが


わたしは また 誰かに向かって 確かに


その意識を 向けていました。人ではない 誰かに・・・。



神さま?


家に居られる神さま


天の神さま?


もしくは わたしの傍にいる 神さまに 向かって


挨拶をしていたのではないかと 感じました。






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昨日書き上げた 記事についてです。


神さまの話しで ごちゃごちゃになりましたが


とどのつまり わたしの言いたいこと

 

まとめてみました。



統一教会のシックは 神さま~~と 祈っているときは


大概 原理で習った 創造の神に向かって祈っていると


思うのです。


中には おもむろに 神さまじゃくて オトウサマに向かって


祈っている?と聞こえる人もいたのですが


統一シックは 神さまというと 大抵 創造の神だと思うのです。



しかし 頭では そう思いながら


実は 最低でも 3種類の神さまを 無意識に使い分けて


祈っていたのではないかと感じてきたのです。



その1つ目は 


原理の勉強をしているときに意識している神様 


または 代表祈祷とか 広い意識で祈らなきゃと思っているときは 


大概 この神さまに祈りを捧げていると思います。


この神さまは 創造原理の神さまですが


ただし 親なる創造の神が 果たして存在するのか?という


ところですが これは 限りなく 高次元に居られる神さまを


対象に祈っている状態だと思います。



その2


なにか 摂理に関与してくる神さまを 祈っているとき


献金を勝利しなけらばならないとか 動員しないといけないとか


その大会を成功させなければならないとき・・・


伝道の出発式とかの 祈りもそうかもしれませんが


そういう祈りをしているときは


どうも 創造の神 高次の神とは 言いがたい神に


祈っているように感じていました。


つまりは 教祖さまの 背後で 教祖さまに お告げをする


ような神さまがいたとしたら その教祖の神


統一教の神とでも いいましょうか。




まあ さきほども 書きましたけど


神さまに祈っているの? メシアに祈っているの?というような


祈祷をしている方もいましたから


神さま=メシアで 人間 文鮮明に 祈っていた人もいたでしょうが。


これは 祈祷学を きちんと学ばなかった人。


最後の方は 7男さんは 神さま=メシア=文鮮明という


図式を 作り上げようとしている風にも 感じましたけど?





その3


これが その人に 一番関わっている 神様。


実際に その人を 導くことができる神様。


だから 守護霊というよりも 指導霊と言われるような


ある霊的な導き サインを 送ることのできる神さま。


当然 各個人で 違っている。



その4というのに 自分自身 つまり 自分の深い魂とか


ハイヤーセルフとか 言われるもの。


これが 内在神と言われるものに相当するのか


これは よく分りませんが。


他の誰でもない 自己対話を 実は 祈祷でしていたというのも


これは 意外と よくあったかもしれません。



その3と その4の違いが わたしにも はっきりと言えませんから


その人に関わる神さまと 言っておきましょう。



わたしは この1、2,3の 神さまを 時によって


とっかえ ひっかえ 祈っていたような気がします。



それで 教会に来て 良かったことがあるとするならば


大いなる神のような 存在が やはり居るということを


自分が意識し始め 認めたこと。



そして 自分を取り巻く 神さまに


「神さま~」と 祈りながら 自分から 意識を 神さまに


向け始めたこと。



この2つは 無駄ではなかったと思います。


統一教の神に祈り 神の言うがままに動いて


献金しようとしたことは ちょっと 残念なことですが。



みなさんは 当時の祈祷を 思い出して


どう感じられますか?


実際 誰に祈っていたのでしょうね。



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どちらにしようかな?というのは ブログに書く内容ですが


先に わたしの頭の中に 浮かんできたやつを 書かずに


神さまの方でいきます。


でも あまり タイトルに神さまは つけたくないので。


宗教みたいで 嫌だから。




実は 神さまって わかんないや~~の 次元にまで


下がってしまいまして こんがらがっていました。



最近は 死ねばみんな 神さま?みたいに 思っているところもあり


まさか みんなが みんな そうとは 行かないと思いますが


神さまと 言っても 私たちから見て 良い方 都合のよい


存在ばかりではなく ちょっと 恐ろしい 悪神のような 存在も


居られるのではと 思うからです。



古来の 八百万の神観に また 戻ってきています。



その中でも 私が気にしているのが ある特定の 神さま


なのですが・・・・・


今日ふとしたことから 思い出したのですが


みなさんも そうではないかと思うのですが


現役時代には やはり それなりに 祈祷をしてきたと思います。


聞いてみれば その対象は みんな微妙に違っていたのでは


ないかなと思います。



わたしの 神観を あるお姉さんに 話したとき


(かなり 目覚めに近づいてました)


ご自分のそれと 違ってたんだとは 思いますが


わたしを否定しないで こう言われました。


それは 神さまの多様な側面の また 一面であると。


だから わたしの神さまと キラリさんの神さまは 違うように


見えるけど 実は 同じなのだと・・・・。



そのとき 私は そうかなあ~~ そうかもしれないけど・・・・


と 多様な側面の一面という言葉で どうも はぐらかされて


いるようだと 気に入らなかったことがあります。



もちろん 宇宙には わたししか 実は 存在しない論を


持ちだしてくれば あなたも わたしも そして 多様な神さまだと


思っているかたも 実は1つの 存在なんてことにもなるのかも


しれませんが それは 置いといての話しです。




教会時代 祈っていると 確かに 即答ではありませんが


祈りに答えてくれる 神さまが居ました。


みなさんも そんな 経験 必ずありますよね?


それに対して 人が いちゃもんつけてきても


わたしにとっては かなりの 実感ある体験で 否定されても


否定しきれないものが あったはずです。



本の中に あるいは 兄弟姉妹の言葉の中に


あるいは考えているうちに 自分の中から 湧いてきた答え


それは 神さまからの 答えなのだと思うことができました。


わたしの 問いの答えになっていたので


わたしの問いを 聞いた 神さまからの 答えだと 実感できたのです。



思い出せば 声らしきものを 聞いたことも 2度ばかりありましたっけ。


1回は わたしに質問を されました。


自分が 自分に問いかけるのではなく そのときは 男性らしい声が


どこからともなく(自分の中かな?)湧いていて


思わず その答えを 自分で導き出したとき なんだ~と


安堵する気持ちになれたことがあります。



もう一度は 誰もいない家を 訪問したときですか


「誰もいないや・・・・」と 心の中で つぶやいたとき


別の声で 「それでも わたしは居る・・・」と 聞こえました。


怖いというよりも そのときも とても 安堵した気持ちになれた


ことを 今でも思い出せます。



その神さまを 思い出していました。



現役時代は 統一教の 創造原理の神さまを 想像していました。


天宙を想像し そして アダムとエバの堕落で 悲しむ親なる神


復帰の路程を見守ってきた神


メシアを迎えて 喜んでいる神


そんな 神観を 原理から頭の中で 想像しながら 祈っていました。



でも ごく自然に 祈っていたときは


そんな神さまでは なかったような気がします。


第一 そんな 創造の唯一神みたいな 存在が居たら


いくら神さまでも わたしの祈りなんか いちいち 聞いてないのでは


ないだろうか?そんなことを 思っていたからです。


でも 神さまは 全知全能 疑っちゃあいけないと 思っていました。



わたしは 教会を辞めてからは 特に その神さまには


祈ることを 辞めてきました。


わたしは 辞める前には 創造神とは また違う


ある神さまが 教会の背後に居ると 感じたからです。


それは 教祖を支配していた ある種の神


どうも 神とは言いがたい 神というなら悪神


教会式で言えば サタン


そういう存在が むしろ 教会の周りを うごめいていたような


感じを受けて わたしは 統一の神には 祈らないことにしました。




創造神と 教会で言っている神(摂理の神)は 明らかに


違っていると思うようになりました。




また 創造神はいないけど 便宜上その方が分りやすいので


そういう風に言っているという メッセージをみたときに


そちらを 信じてしまったこともあるし


やはり 大いなる存在は 善人も悪人も 区別することは


ないし 集団の祈りも 個人の祈りも 一切 受け付けない


ただある存在。そういう メッセージも 見ました。



つまり 創造の神のように 思っていた存在は


実は =ただ存在すること=愛 なのではないかと思い


そこに意識を向けて 祈ることはなくなりました。



でも でも 教会に居たときに 祈っていた神さまとは


なんとなく 通じていたという 実感が 残っているのです。


あれは ただの妄想とは 言いがたい。



自分が 信仰的な人間であると 見せかける必要があるときの


代表祈祷とか みんなで 集まってやる 条件祈祷のときは


どことなく 教会の神(文鮮明の背後の神)に 祈っていたような


気がします。



そして 


ごくリラックスした気持ちで 自然な気持ちで


神さま・・・・と 語りかけたとき


それは まさしく わたしの神さまに 意識を送っていたのでは


ないだろうかと思います。



みんなが 話してくれた


神体験ではありませんが それを 聞くと


神さまは ほんとうに その人を愛して 導いているようでしたが


どうも いろいろなカラーがあって 違って聞こえました。


それは 多様な神さまの側面ではなく


やはり その人の 神さまが その人を導いていたので


個性も メッセージも 違っていたのだと思うし


その人の神さまには 間違いなかったのだろうということに


気付きました。


でないと 本人は 神体験だと 感動しているのに


原理的に考えたら そっちには 導かないだろうにと 聞こえることも


多々あったからです。






わたしは 教会を辞める前くらいから 神さまに祈ることが 


むしろ 気持ち悪くなって やめてしまいました。



・・・・が あの頃 祈って わたしの祈りを聞いてくれたのは


他ならぬ わたしの神さまだったのだろういう気がしてきて


もう一度 その神さまに 祈ってみたいという


気持ちになってきました。










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NARUTOにはまって 次に 掃除にはまってという話を


少ししていたと思います。


ざあっと 4,5週間は それだけ?に神経を注いできたというような


なんとも 自分でも 驚くような生活でした。


その中で ちらり ちらりと 頭をよぎったのが


全然 スピリチュアルなこと やってないな・・・・と いうこと。



スピリチュアルなことというのは どういうことなのかと


考えてみると。


神さまのことを 考えてみること?(少し違うか)


自分のことを 内省してみること・・・とか


これから先の 何か 目標を決めるとか? 


あるいは ネットで いろいろな 記事を読んでみるとか


まあ そういうことになるのかな。


先祖様に 線香を手向けてみるとか・・・




なにせ 時間があれば 動画を見るという生活。


その次は 時間があれば 食事の時間も惜しんで 掃除をするという


熱中ぶりでしたから


スピリチュアルなことも できないくらい 忙しくしてたんですから


できなくて 仕方ないよと 今はいいと 自分でも つぶやいてました。


でも それだけ 集中できたということの方が 不思議で


これこそ スピリチュアルの 究極の実践だったかもしれないなと


思います。(言い訳かも~~)



だから 一段落した今は 次が気になるわけですね。



スピリチュアルというと 


繋がるべきは まず 自分自身


なんだと思っているのですが・・・


ある 男性の神さま(誰だ? 守護霊か ガイドか?)が


居られるというのを聞いてまして


わたしが 繋がれないものですから 待たせているという状態


らしく 待たせるのは 悪いな~と わたしも 思い出しては


焦ったりしているのです。(思い出したときだけ・・・)




今までも ネットなんかで ふとしたことから


新しいメッセージを見つけ


それを 真険に受け止め やっているうちに


次のステージへと 移動することができたというような


経験は たくさんしていて


そのメッセージを ネットから 送ってくれたというか


わたしが見つけるように仕向けてくれた 存在が居て


それは わたしだけの神さまだなと 現役時代から思っていたので


それが その神さまなのかもしれませんが・・・




「こちら キラリです 神さま 応答願います!」


「はいはい こちら 神さまです 何でしょうか?」


みたいな 関係には ならないので もどかしいのです。




それで 仕方なく わたしは ネットを徘徊するか


なにかを 書き始めるという 行為をするわけです。


今のわたしに 考えてできる方法が それしかないわけです。


だから 今日は そんな具合です。


何を書くか 分らずに 自分でも書いています。






とりあえず 新しいブログを見つけて 暫く読んでみました。


その影響かは わかりませんが


(ブログには そんなことは 1つも書いてなかったけど)


スローライフという言葉が 浮かんできました。



ゆっくり 楽しむという 意味でもありますが


1つ 1つの 行動を 心を込めて 大切にしていきたい


というイメージです。


早さには 実際は 関係ないかもしれません。


てきぱき 動けて なおかつ そこに 心を込めることが


できたら それは 一番ですが


やはり ゆっくりとすることで 心を込めやすいのかなと思いました。


まずは そういう意識を 忘れずに いる時間を 増やしたいと思いました。



気付いてみれば 不安だらけの 毎日を 送っていた私が


穏やかな日々を 過ごせるようになりました。


でも それは 不安のない生活であって


どれだけ 穏やかで 感謝に満ちた生活だろうかと 考えると


プラスマイナス ちょっとプラス寄りの状態で 


まだ プラスには あまり傾いていないようです。


それを これから どんどん プラスの方に 引っ張っていくという


イメージです。



「おかげさまで・・・・


そんな言葉が 次に出てきました。





朝起きて 「おかげさまで 今日も1日が 過ごせます。


「おかげさまで ご飯が食べれます おいしく いただきます。」


洗濯をしながら 洗濯物に向かっても


「いつもありがとう・・・・」


そんな 心を込めた 生活をしたいなと 思ったのです。



そこまで 考えると まるで ババアだな~~と 思いました。


昔の お年よりは こんな感じの方が 多かったような気がしますが


今は どうなんでしょうか?



人間は あの世が 近くなると


自然と この世での 締めくくりというか 人生を振り返って


省みるとか そういう風になってしまうのだろうか


などと 思ってしまいますが


これは 新しい スピリチュアルな世界への 挑戦なのか


ただ 年を取ってきただけなのか!?


ちょっと 悩ましくもなってしまいました。




でも 年には 関係ありません。


全てのことに 感謝しながら じっくりと 味わいながら


日々を生活する そんな 自分になってみたいなと 漠然と


感じてしまったのです。



すぐに 忘れて今までの世界に 舞い戻ってしまっても


気付いたら また この感謝と喜びの世界に戻って 生活するように


心がけて やがては この世界の住人になれればいいなあ~


そんなことを 感じましたです。



その世界に 住むようになれば


必死で 存在を 確認したいと思っている 神様も


(今でも 夫と わたしは 空気のような 関係で 過ごしてますが)


神さまと わたしも 空気のような関係で


何を 話さずとも 一緒にいることが 分り


不必要に 話す必要もなく


必要なときに どちらかとなく 話しかけて 答える


そんな 自然な関係であることを 感じれるようになるかな?


などと 期待しています。





世の中には ごく自然に 神さまと 会話する方も 居られるんですね。


それも 自分の神さまではなくて 神社仏閣に 居られる神さま。


時には遠くの 神社の神さまから 呼ばれたり・・・


実際に 神さまは 呼ばれるみたいですから


ぽこさんなんかは 呼ばれまくっている 最中なのかも!?と


思ってしまいました。



わたしの意識する 神様は そんな(みんなの)神さまではなく


ごく身近で わたしを守って下さっている 神さまのはずなんですが。


神さまネットワークもあるみたいですから


繋がりやすいところから


心の赴くままに 行動するのが よろしいんでしょう。



その記事には なににせよ お願いしないことには 始らないという


ことも 書いてありまして。


(えええ!?ホント?)


お願いは あるには あるけど 苦手だなと 感じます。


苦手なのではなく


何か 「恐れ」を持っているような 気がします。



ついでだから その恐れも これから 少し 考えてみることにします。




ということで


赴くまま 始めて


この辺で 今日は 締めくくります。


ありがとうございました。








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テーマ:

数日まえ 子供たちに PCと スマホをとられ


仕方なくでもないけど テレビを見ることにした。



話しのいきさつを 話せば 随分長くなるので やめておいたほうが


よさそうだけど ナルトを日本語で 最初から見るという


2年ぶりの 大仕事に入ってしまっていたので できたら


韓国語では見たくなかったのだが まあ 仕方ない。


テレビで 見られるし 話を 数話進めておこうと思ったのだ。



ところが 話の展開があまりない部分だったこともあり


いつしか すぐに 眠りについてしまった。


そして 眠りから覚めたときから 頭痛を感じたのである。


寝すぎか?なんて思ったけど 頭痛は取れなかった。


これも 更年期の作用か?なんて 思ったりした。


結構 体が だるかったり いろいろ来るという話だから。


こんなのが 続いたら嫌だななんて 思ったりしていた。


そして 昨日 髪を洗ってというよりも 白髪を染めて 仕事に


出かけた。お日様が照って 暖かそうだと思って 七部の袖のものに


したけど 園では 窓を開け放って 風がスースー 


私には 少し寒く感じられた。


帰る道すがらは 体が 重かった。ああ だるい・・・・・。


こんなのが 続くと嫌だな。また そんなことを 思っていた。


咳が 前から 少しでているのも 気になっていた。



家に帰ってしばらくすると 体が 温かくなってきた。


あ・・・・熱だ。


高熱ではないが 微熱があるのだ。


もうだるくて だるくて 動けない。



夕食は 適当にみんなに任せてというか


私は 寝込んでしまった。



それでも どこかで ほっとしていた


なんだ 風邪か~~と。


でも 本当に 風邪なのかな?


変な病気で 微熱が続いたりしたら 嫌だなと まだ どこかで思ったりも


していた。



まあ のどが痛くて 咳がでるのが 一番の証拠だろう。


そういえば こういうときは まず 喜べ?と


僕アニの神さまは 言っていたような気がする。


そんなことを思い出して。




やったー !!


と 私は 布団の中で 叫んでみたりした。


春先は デトックスの時期。


1年間溜めた 毒素が 咳 鼻水 熱となって 出てくるという


話しも聞いたことがある。


毒素が出てきて ありがとうというところだろうか。



ここで 自分を責めたところで 治りが 早くなるわけではないし


その記事を 見つけてみたので


紹介しておきたいと思います。


http://ameblo.jp/dragonest/entry-10181883274.html




私も もうちょっと 喜んで 早く 完治したいところです。



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テーマ:

今日の テーマは スピリチュアル


ちょっと 飛んでるかもしれないので 馬鹿にしないでね。



最近は ブログを訪問することはあっても


メールボックスに届く スピリチュアル系のメルマガを


開いて読むことの方が すくなくなってきているのですが


たまたま 開いてみたら 面白いことが書いてありました。




これからちょっと信じられないことを書きます。


天使、ガイド、高次元の光の存在、

ハイヤーセルフ、アカシックレコード

他界した人の魂、etc..


それら、すべてに私達はだれでもアクセスできて、

そのやり方をこれから書きます。

一行でかけます。


その答えは、あまりにシンプルなので、

普通は信じられないと思います。


あまり 信じられないことに 興味を持つ


私の癖が 出てきて


どんどん 読み進めてみました。



それが、腹の底から腑に落ちると、非物質世界の住民も

宇宙のどこかにあると思われるアカシックレコードも、

アクセスするというよりは、

自分自身の一部に問いかけるという感じになるからです。


つまり答えは、

「○○して、心を○○し、対象となるものを○○する。」

これだけです。


(ごめんなさいね、○○の部分は、

 直接お会いした人にお伝えしますね。

 直接お伝えしないと信じられないと思うからです。)






なんだ 教えてくれないんだ・・・・・。残念。



安心して 心を解放し 対象となるものを 直視する」


なんて どうかな?


今の 私の 精一杯の アイデア。





そう 思って 傍の電話を 直視していたら


電話掛かってくるかな?と 思っただけで どきどきしてきちゃって


どうせ 今時 電話してくる人は いないわさ・・・なんて



全然 安心してないし 解放してないね 疑ってるもん。


絶対に 電話は 掛かってはこないなあ。



言うは易し 行うは難しだなあ~~




>自分自身の一部に問いかけるという感じになるからです。



でも これは かなりのヒントだよね。


それだったら できそうって 思うもの。


瞑想して 心を・・・・かな?



できたら みなさんの 意見も 聞いてみたいなあ。






あ それで 今日は なにかしら メルマガ ブログと


スピリチュアル系を 読んでいて


なにかしら 冴えているっていうか なにか 新しいヒントが


得られそうな 雰囲気がしてたの。




そんなとき 別のところで


宇宙って 言葉を 見つけたのね。


宇宙って どこにあるんだ?って 考えたときに


浮かんできたのだけど。



宇宙って 本当は 私の中にあって


そっちの 宇宙が本物で 


私達が 宇宙だと認識して 科学的に 証明したり


しようとしている 宇宙って 私の中から 投影された


ホログラムのような 存在じゃないかな~~~~って。



すごい 爆弾宣言。



前にも 私の胸の奥に 深くて 暗い ブラックホールのような


存在がある~~って 覗いてみたら そこは 1つの


宇宙だったって 話をしたことあるけど


そのときに この中の宇宙と


人間が 実際に 認識している 宇宙と どちらが


本物なんだろう?って 思ったことがあってね。



同じものなのかな?とか


私だけの 宇宙なのかな?とか。



その答え


私の中の 宇宙が 本物です!!


そんな 声が聞こえてきたんだよね。



どうせ 宇宙って言っても


ロケットや UFOに 乗って 旅するわけじゃないから


私の中の 宇宙を 本物ってことにしておいたほうが


私にとっては 都合がいいかもしれないから。



今日から 宇宙は 私の中にあるってことに 定義付けておきます。





○○を 埋める言葉


なにか 思いついたら コメントくださいね。









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テーマ:

ドロシー・ロー・ノルトは 


「子供が育つ 魔法の言葉」で こういう言葉を 残している。


ほんとうに 大切なことは とても シンプルです。



たしかにそう。


人間に必要なものは たくさんあるけど


空気 水 光 は 基本中の基本だよね。



時々 思うけど


7日間断食したことあるから 分るけど


7日間食べなくても 生きれたけど 7日間 水を飲まなかったら?


ちょっと 危ないよね・・・・。


(何も口にしなくて 生きてる人もいるって 話しだけど。)



だけど 空気(酸素)の場合は 5分と 供給を 妨げられたら


確実に あの世に戻っていかないと 行けなくなる・・・・・。


空気を お金で買う 世界でなくて ああよかったと思う。



でも 本当に 大切だから みんなに等しく 分け与えられるようになって


いるのかな?そう 思うようになったのだ。


本当に大切なものは すぐ そこにあって


等しく 与えられている・・・・。



それを 思うと 愛って 空気よりも 大切なものかも?しれないと


思うときがある。


だから もっと もっと シンプルに すぐそこにあるんだけど・・・・



分らないんだわ。


分らないのよ!



多分 それだけが 問題で


愛って 本当は 難しいものでもないみたい。



そう 思うことにした。






でも やっぱり 分んない~~~


(それで いいんだけどね)






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