わたしが 一気に エドガーケーシーに惹かれてしまった

理由は この動画に詰まっているような気がします。

 

ケーシーの リーディングの80%は

病気の治療法だったということで

自分は 病気ではなかったので

関心がなかったのだろうか?と振り返ったり。

 

まず人の病気を治療したり

健康を維持する方法を 教えたあとで

初めて 魂について語ることができたのでは

ないかという話も 納得できるものでした。

 

いきなりそこを 語り始めても

誰も関心を持たなかったりね。

 

不思議な力があって 信じて間違いないという 

信頼の上に初めて 

魂の事を語り始めたというのも納得します。

 

 

なので 人生の後半 魂に関する 

リーディングが 始まり

それをまとめたのが 神の探求の本になる

ということです。

 

 

特に この動画で

13分辺りから 出てくる

最初のステップの体験談に すごく興味を抱いたのです。

 

 

おお主よ あなたの御心が 私のうちに

わたしを通して 行われますように。

 

多分 これが 一番最初の練習項目に

なるのでしょう。

 

 

正直 このキリスト教的 言い回しにも

拒否反応が出てきて

一体 わたしは 本が読めるのだろうか?という

一抹の不安もあるのですが

でも それは 過去の傷を引きずっているからであって

考えようによれば 

一般の人よりは はるかに キリスト教的解釈にも

付いていけるのかもしれないと 考えることにしました。

 

 

その 最初の最初にすることが

自分の欲を捨てることからだという

お話がありました。

 

なるほど。

統一教会でも 最初の最初からは

そういう風には言われなかったけど

メシアを受け入れた辺りから

自己否定 自分を無くすということが

段々といわれ始めました。

 

いよいよ 信じて 覚悟を決めてくれたから

神の訓練が始まった・・・・

 

という意味では どちらも 同じです。

 

 

ただし・・・

次の瞬間 もう 違う方向に 引っ張られていたのではと

なんとも 情けない気分になりました。

 

 

主の御心は

本当の主の御心ではなくて

ある人たちの 意図を 御心と 刷りかえられて

植え付けられていただけだった。

 

そういう風に感じたのです。

 

ただし・・・

やはり 初期の初期は

欲を捨て 人に奉仕したり 相手を理解しようとしたり

協力したりと

 

魂を向上させるためには

誰もが通らないといけない 基本の型みたいなものが

ありそうで・・・・。

 

多分 それを 統一教会の中でも 

最初に 取り組ませられていたのだと思います。

 

そうでないと 団体生活もできないし。

 

だから 最初は みんな

自分が 生まれ変わったような

新鮮な 自分を感じて 感動していたに違いないのです。

 

そこまでは 確かに 間違ってはいなかったのかもしれません。

 

 

 

今 考えてみても

主の御心は 人によって さまざまなはずで

わたしに 何を望まれるか?

何をすべきか?

 

などと 考えると

はて?となってしまいますから

主の御心を 感じて行うのが難しいのです。

 

まず 主の御心を 受け取るというか

感知するのが難しい。

だからこそ

主の御心を 感知する方法の 訓練も必要

だと思うのですが・・・・

 

そこが 抜けていて

 

すぐに メシアや メシアに近い人が言うのだから

間違いないと それを 植えつけられてしまったのでは

ないかと 感じます。

 

まあ 簡単なほうに流されて 思考停止して

しまった自分にも 否がありそうですが。

 

主の御心を感知したけど

それを 更に 自分の欲だと

勘違いして それさえも 否定してしまうという

変なことを 虐げられてきた人も

多いでしょうね。

 

だから 当然 苦しくなるはずです。

 

メシア(幹部)の目的にそぐうものだけ

御心で それ以外は 自分の我欲としてね。

 

 

でも この動画を見ているうちに

わたしたちは

かなり 練習をつまされてきたから

今 ただしく 練習をしなおせば

きっと 軽く ぽんぽんと クリヤーできる

部分もたくさんあるのではないか?

 

そんな 希望を抱いてしまったのです。

 

過去のすべてを 否定してしまったら

それこそ 勿体無い。

 

 

わたしは よく ダンシャリ ダンシャリと

言ってますけどね。

 

ダンシャリというか

整理整頓 片付けは

まず 自分にとって

必要なモノと 不要なモノを

分けるところから 始まります。

 

過去の信仰生活の中で

やってきたこと。

 

不要だったことと 必要だったこと

これを もう一度 分別作業して

生かすべきものは しっかり

これからの 人生に 生かすべきだと

思うのです。

 

 

ゴミだと思ってきたものの中に 宝物を

もう一度 見つけにいくような感覚です。