意識を変えると


違うものが見えてくる・・・・そうなんでしょうか?



ここ数日 「スローな生活」と言って


特に 「スロー スロー」なんて 心の中で つぶやいていますが


「スロー」というのは 「ゆっくり」 とは 違うなと思います。


一種の アフォーメーションなのでしょうか


スローという言葉の中に 【心を込めて 穏やかに・・・】という


意識を込めています。



それは 今ここに 意識を 集中することになります。


やってみて 気付きました。


歯を磨きながら 次に顔を 洗うことを考えていて


顔を洗うときに 洗い終わって 即座に部屋に戻り


顔が乾燥する前に ローションをつけなきゃ!と 


いつも 先々のことを考えながら 焦るような気持ちがあった


ことに気付きました。


時間に追われてなくても そうですから


時間に追われていたら もうパニック状態にも近くなるでしょう。



それを スローの掛け声で 歯を磨いている 手元に


意識が集中しますし


鏡を見ても 歯に意識が行きます。


年を取ると 歯のことも いろいろ心配になってきますが


歯を磨くときに 歯の心配をせずに 違う時間に 


歯の心配をしていることがあるんですよね?


食べ物を食べているときかと言いますと 違います。


関係ないときに 思い出しては 心配をするのです。



「今日もありがとうね。 いつまでも 健康で 


しっかり食べられるように助けてね・・・・」


スローな生活を 心がけるとそんな心の 余裕が生じます。


だからってのろのろ 歯を磨いているわけでもありません。


やることは 一緒です。


でも 歯磨き1つが なんだか 違ってくるんです。


それは 本当に 気持ちの良いものです。



ああ なるほど こつを 掴んだような 気がします。


この 感覚を いつも 適用させて 生活の中で


このような 感覚で やるべきことを こなしていったら


一体 どんな世界の 住人になれるのだろう?などと


わくわくします。



もちろん わたしは この家の 住人であり


この家に 住み続けるのですが


パラレルワールド 違う世界に 移行するという言葉がありますが


その 違う世界に 住むことになるのでは・・・と


わくわくしてくるという意味です。



この感覚を 維持したいなと思ったら


出勤するときも 少しだけ 早く出る必要があります。



10分前になって 慌てて 飛び出すと


5分強で 着くはずですが 園の時計は 少し早いので


見ると きっかり 1時だったりして 別に遅れてきたわけでも


ないですが 気分 微妙です。


退勤は 4時10分発の スクールバスに 


子供たちを乗せてからですので バスの着く時間が


まちまちで いつも 4時を越えてしまいます。


勤務時間以上 奉仕をしているわけです。


そのことが 意識に上ってきて


わたしは 別に 仕事を少なくしているわけでもないぞ!と


言い訳ガマシイ 気持ちまで 出てきます。


誰も なにも言って 責めはしないのにね。



でも なかなか 余裕を持って 出発ができないのです。


家で することがなくても 少し早く着いてしまえば


園の子供達に 歯磨きをさせる場面に 出くわしてしまい


昨年までは 勤務時間が長かったので 


それも わたしの仕事でしたが


なにせ 逃げ回る子供 ハブラシを口にくわえて 廊下に出ては


走り回る子を 注意するのも ストレスでした。


ハーモニー先生は N03の 先生で 言うこと聞かなくても・・・と


どこかで 子供達も 先生のパワーの差を 感じているのでしょう。


先生の言うことは 聞かないと


そのうち シールをはがされてしまうとか なにか 危機感を持って


仕方なく 対応してるようにも見えます。


(集めたシールを 減らされては おもちゃをもらえるのが


遠のいてしまいますから。)



先生としての 力量の差もあるでしょうが 子供達は


その辺の 力関係のこと 良く把握してます。


家でも お母さんのいうことは 絶対聞かないといけないけど


おばあちゃんの言うことは 無視しても平気・・・みたいな


感覚ですね。



わたしの中にある たいしたことないけど


微妙な計算と 言いましょうか?


無駄な 思考といいましょうか?


そういうものに 左右されて


結局は 時間ぎりぎりに出かけ


走るまではいきませんが 早足で 時間に追われるように


歩き 教室に着いたときは 汗だくというか


止まった後からも 汗が だらだらという なんとも


気持ちの悪いスタートです。



それを スローな生活にしたいという 心で


ほんの数分前に 出かけると


余裕で 歩く道が 楽しめます。


つい 姿勢を正して見たり・・・・


いいこと尽くめです。


園の時計も 電池が切れたということで 


時間も修正され 今では 5分前には 到着していますし。


子供達にも なにかしら 余裕で 笑顔が向けられます。



ほんの小さなことですが


小さな意識の差で 大きな差が生まれてくるようです。



ご飯をいただくときも


心を込めて いただきます~と また 言えるようになって


きたと思います。


手を合わせて いただきますは


小さな頃からの 習慣でしたが


この家に来てから ちょっと 両親から 驚かれた目で見られました。


もちろん 何も言われませんが・・・・




あるとき 親戚が集まって食事をしたので


お膳が狭く感じたので 少し 後ろに身を引いて


茶碗を手元に持って来て 食べていたのです。


茶碗を持って食べるのは 日本なら 普通ですね。


でも ここでは 持たないということも 聞いていたので


いつもは 置いて食べるのですが


そのときに 叔母が私に こういったのです。


茶碗を持って食べてはいけないと


もし 食べる場合は 茶碗のふちに 指を掛けるようにと。


指を指摘されたのです。



まあ 習慣の違いと言えば そうだろうけど


日本もある意味 そういうのに うるさいですし


仕方ないなと 思いながらも


言われるままにしましたが


じゃ わたしの手を合わせて いただきますってやつも


きっと 何か こっちの 風習に 引っかかることがあるのかな?


それで 驚かれたのかな?とか


勝手に そこまで 解釈してしまったものですから


自然と 手を合わせることを やめてしまい



主婦ということもありますから


家族の ご飯を盛って 食べさせるのを 確認して


わたしは 慌しく あとから 座って そのまま 食べ始めるという


スタイルに 変わってしまったようにおもいます。




これからは 今一度 意識的に 感謝の心を 表してから


いただきたいと思いました。


きっと 消化吸収も違うような気がします。





いただきますや ただいま などのあいさつは


幼い頃からの 習慣でした。


家には 母や祖母がいる事が多く


返事を返してくれましたが 居ないと 分っていても


言ってましたし 1人暮らしをするようになっても


言ってました。


ただの 習慣の延長だったのだろうか?と考えてみましたが


わたしは また 誰かに向かって 確かに


その意識を 向けていました。人ではない 誰かに・・・。



神さま?


家に居られる神さま


天の神さま?


もしくは わたしの傍にいる 神さまに 向かって


挨拶をしていたのではないかと 感じました。