どちらにしようかな?というのは ブログに書く内容ですが


先に わたしの頭の中に 浮かんできたやつを 書かずに


神さまの方でいきます。


でも あまり タイトルに神さまは つけたくないので。


宗教みたいで 嫌だから。




実は 神さまって わかんないや~~の 次元にまで


下がってしまいまして こんがらがっていました。



最近は 死ねばみんな 神さま?みたいに 思っているところもあり


まさか みんなが みんな そうとは 行かないと思いますが


神さまと 言っても 私たちから見て 良い方 都合のよい


存在ばかりではなく ちょっと 恐ろしい 悪神のような 存在も


居られるのではと 思うからです。



古来の 八百万の神観に また 戻ってきています。



その中でも 私が気にしているのが ある特定の 神さま


なのですが・・・・・


今日ふとしたことから 思い出したのですが


みなさんも そうではないかと思うのですが


現役時代には やはり それなりに 祈祷をしてきたと思います。


聞いてみれば その対象は みんな微妙に違っていたのでは


ないかなと思います。



わたしの 神観を あるお姉さんに 話したとき


(かなり 目覚めに近づいてました)


ご自分のそれと 違ってたんだとは 思いますが


わたしを否定しないで こう言われました。


それは 神さまの多様な側面の また 一面であると。


だから わたしの神さまと キラリさんの神さまは 違うように


見えるけど 実は 同じなのだと・・・・。



そのとき 私は そうかなあ~~ そうかもしれないけど・・・・


と 多様な側面の一面という言葉で どうも はぐらかされて


いるようだと 気に入らなかったことがあります。



もちろん 宇宙には わたししか 実は 存在しない論を


持ちだしてくれば あなたも わたしも そして 多様な神さまだと


思っているかたも 実は1つの 存在なんてことにもなるのかも


しれませんが それは 置いといての話しです。




教会時代 祈っていると 確かに 即答ではありませんが


祈りに答えてくれる 神さまが居ました。


みなさんも そんな 経験 必ずありますよね?


それに対して 人が いちゃもんつけてきても


わたしにとっては かなりの 実感ある体験で 否定されても


否定しきれないものが あったはずです。



本の中に あるいは 兄弟姉妹の言葉の中に


あるいは考えているうちに 自分の中から 湧いてきた答え


それは 神さまからの 答えなのだと思うことができました。


わたしの 問いの答えになっていたので


わたしの問いを 聞いた 神さまからの 答えだと 実感できたのです。



思い出せば 声らしきものを 聞いたことも 2度ばかりありましたっけ。


1回は わたしに質問を されました。


自分が 自分に問いかけるのではなく そのときは 男性らしい声が


どこからともなく(自分の中かな?)湧いていて


思わず その答えを 自分で導き出したとき なんだ~と


安堵する気持ちになれたことがあります。



もう一度は 誰もいない家を 訪問したときですか


「誰もいないや・・・・」と 心の中で つぶやいたとき


別の声で 「それでも わたしは居る・・・」と 聞こえました。


怖いというよりも そのときも とても 安堵した気持ちになれた


ことを 今でも思い出せます。



その神さまを 思い出していました。



現役時代は 統一教の 創造原理の神さまを 想像していました。


天宙を想像し そして アダムとエバの堕落で 悲しむ親なる神


復帰の路程を見守ってきた神


メシアを迎えて 喜んでいる神


そんな 神観を 原理から頭の中で 想像しながら 祈っていました。



でも ごく自然に 祈っていたときは


そんな神さまでは なかったような気がします。


第一 そんな 創造の唯一神みたいな 存在が居たら


いくら神さまでも わたしの祈りなんか いちいち 聞いてないのでは


ないだろうか?そんなことを 思っていたからです。


でも 神さまは 全知全能 疑っちゃあいけないと 思っていました。



わたしは 教会を辞めてからは 特に その神さまには


祈ることを 辞めてきました。


わたしは 辞める前には 創造神とは また違う


ある神さまが 教会の背後に居ると 感じたからです。


それは 教祖を支配していた ある種の神


どうも 神とは言いがたい 神というなら悪神


教会式で言えば サタン


そういう存在が むしろ 教会の周りを うごめいていたような


感じを受けて わたしは 統一の神には 祈らないことにしました。




創造神と 教会で言っている神(摂理の神)は 明らかに


違っていると思うようになりました。




また 創造神はいないけど 便宜上その方が分りやすいので


そういう風に言っているという メッセージをみたときに


そちらを 信じてしまったこともあるし


やはり 大いなる存在は 善人も悪人も 区別することは


ないし 集団の祈りも 個人の祈りも 一切 受け付けない


ただある存在。そういう メッセージも 見ました。



つまり 創造の神のように 思っていた存在は


実は =ただ存在すること=愛 なのではないかと思い


そこに意識を向けて 祈ることはなくなりました。



でも でも 教会に居たときに 祈っていた神さまとは


なんとなく 通じていたという 実感が 残っているのです。


あれは ただの妄想とは 言いがたい。



自分が 信仰的な人間であると 見せかける必要があるときの


代表祈祷とか みんなで 集まってやる 条件祈祷のときは


どことなく 教会の神(文鮮明の背後の神)に 祈っていたような


気がします。



そして 


ごくリラックスした気持ちで 自然な気持ちで


神さま・・・・と 語りかけたとき


それは まさしく わたしの神さまに 意識を送っていたのでは


ないだろうかと思います。



みんなが 話してくれた


神体験ではありませんが それを 聞くと


神さまは ほんとうに その人を愛して 導いているようでしたが


どうも いろいろなカラーがあって 違って聞こえました。


それは 多様な神さまの側面ではなく


やはり その人の 神さまが その人を導いていたので


個性も メッセージも 違っていたのだと思うし


その人の神さまには 間違いなかったのだろうということに


気付きました。


でないと 本人は 神体験だと 感動しているのに


原理的に考えたら そっちには 導かないだろうにと 聞こえることも


多々あったからです。






わたしは 教会を辞める前くらいから 神さまに祈ることが 


むしろ 気持ち悪くなって やめてしまいました。



・・・・が あの頃 祈って わたしの祈りを聞いてくれたのは


他ならぬ わたしの神さまだったのだろういう気がしてきて


もう一度 その神さまに 祈ってみたいという


気持ちになってきました。