FUJITA'S BAR

酒場は、人と人の架け橋のような気がしながらカウンターに立ち続け、もう少しで

半世紀

その歳月の中で出会い、そして去っていった人々の面影も今は定かではない。

歩み続けた足跡の上に歳月が降り積み、全てが茫洋とする前に、せめて書き留

めておこう思ったのがこのブログである。

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2017-03-22 10:05:02

こころ絵 『愛』

テーマ:アート

「フラれちゃったア~」

「好きだったのかい?」

「好きだったよ・・・・すごく」

「どんなところが?」

「全部」

「いちばん好きだったところは?」

「顔」

「二番目に好きだったトコは?」

「ダーツがすごく上手かったトコ・・・・だって格好いいんだもん」

「三番目は?」

「背が高くてスタイルが良いんですよ」

 

優しかった”ところも好きだったというけど、ほんとうの優しさを持った彼だったら、付き合って二ヶ月足らずで“ほかに好きな子がきたからゴメンね”なんて別れが言えるのだろうか・・・・。

 

「愛してくれていたのかい」

「そう感じてたけど・・・・いまは判らない」

「愛していたの?」

「だから付き合ったんだもん」

「辛い?」

「辛いよ・・・・ご飯も食べられない」

 

ヤセこけた彼女の頬にポロリポロリとこぼれ落ちる涙を見ていたら愛という字をみてごらん。こころを受け取ると書いて愛だろ・・・・なんてこと言えなくなってしまった。

 

             
 

もう少し時間がたって、こころの痛みが薄らいだ頃にそんな話をしてあげようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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2017-03-20 09:20:00

続・続 人間機雷 255

テーマ:ブログ

第三章 夢幻泡影


二 孤 旅
 2 権六の彷徨(6)
このように日本の敗戦は、さまざまな人間をさまざまの運命の坩堝(るつぼ)においやった。
馬賊“尚旭東”と名乗っていた関東軍軍属“日向東崇”は中国青島にて日本人戦犯として連行、戦犯とされ青島拘留所、上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告を受けた。のちに上海監獄に送られ、1948年(昭和23年)9月9日銃殺刑に処せられた。
軍人でもない彼がこのような運命に身をゆだねざるをえなかった経緯については不明ではあるが、戦犯として刑場の露と消えていった多くの日本人のなかには、戦争犯罪人である確証さえ不明なものが多かった。

一方、最後まで馬賊“馬酔哥”と名乗っていた岩崎権六は、どういう手立てであったか動乱の中を生き抜いて1946年(昭和21年)引揚げ船・興安丸に釜山から乗り込み、仙崎漁港に上陸している。
関門海峡には沈没船や米軍が投下した機雷が残っていて危険なため、これに代わる仙崎港が引き揚げ者上陸港に選ばれた。
敗戦の翌月の9月2日、第一次の引揚者7千人が仙崎港に上陸したのだが権六はその中にいた。仙崎港は外地で悲惨な終戦をむかえた復員の軍人や一般の人々でごった返し、寺や学校が、引揚援護の事務所や救護所、宿泊所に当てられ、応急のバラック住宅も建てらたが対応しきれず、仙崎や正明市駅付近の民家にも多くの引揚者を泊めた。
昭和21年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約41万人、ここから朝鮮に帰った人々が約34万人である。                                         
敗戦の混乱の中で故国日本の土を踏んだ喜びに沸き返るなかで、権六は日本に帰ってきたことを悔やみこそすれ、喜びなど何にも感じなかった。                              
17年間の逃避行にも似た権六の生き様は、本人のみが知るところだが、馬賊仲間にまぎれて、生き抜いてきたと言うことだろう。

塩山の裂石村にたどり着いた当時の権六は何処で手に入れたかものか、将校服を仕立て直した上等ななりで誇らしげだったという。
大正9年に軟禁状態の雲峰寺から逃れるように満州に渡ったのが17歳だったから、故郷の裂石村に戻ってくるまでに24年が経っていた。
すでに父親は亡くなり、93歳の母親キネと65歳になる跡継ぎの長男がいるだけで、次兄の為造は召集兵として渡った中国戦線で戦死している。奇しき運命とでも言うのだろうか、ある一時期には兄は関東軍兵士として、権六は馬賊としてその地にいたことになる。

 
権六が突然失踪した当時は、数年後に迫った徴兵検査を逃れるためだったと村人から言われ、権六の家は村八分のような扱いを受け、親族が肩身の狭い思いをしながら暮らしていたが、父親はその心痛のなかで病死したのである。
権六が失踪した翌年に次兄の為造が徴兵検査で名誉の甲種合格を果たすと、そこでやって厳しい官憲の監視もとけた。
キネが村人の目を盗むようにして、墓地の片隅に石を置き権六の墓としたのはその頃である。
死んだものとばかり思っていた権六が、ふた抱えもあるリュックサックふたつを背と腹に抱えて「おっかあ、いま帰えったぞ・・・・」と戸口に立った時には、と戸口に立った時には、死んだ夫が生き返ってきたのではないかと思ったらしい。

                                    続

                                             次回3月27日
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2017-03-17 09:20:24

表六玉の独り言 163

テーマ:追憶 酒 

哀愁のハイボール 3

 

 モダンジャズで思い出すのは、その頃ヤクザ見習いしている根津と言う男と、甲府に始めて出来たモダンジャズ喫茶に行った時のことである。
「だけどよぉ、矢っ張りダンモはクールが良いじゃんねぇ」
ストローハットをあみだにかむり、派手なアロハシャツにサラシを巻いた彼が感慨ぶかけに言ったのは良いが、学生との取り合わせもチンピラとモダンジャズの取り合わせも、インテリらしさを気取るジャズファン等には奇妙に映るのか、ジロジロと観られるばかりか嘲笑めいた笑い声が聞こえてきた。
突然立ち上がった根津は、止めるのも聞かず笑い声のした二人連れのボックスに行くと、雪駄を脱ぎ二人の頭をパシパシと殴りながら「テメェら!何が可笑しいんだよぉ!ヤクザがダンモ聴きにきちゃあイケんのけぇ!」とわめきだした。
「根津よぉ、雪駄で頭を殴るようなオメエにはダンモは似合わねぇな」
そそくさとその店を後にしてから笑いながら言うと、雪駄で殴られた奴等の顔が面白かったと、彼等の真似をするものだから、通りがかりの人達が振り返るほど腹を抱えて笑ったものである。
その彼も数年後ヤクザ同士の抗争事件に巻き込まれ死んだと聞く。

 

 

話がそれてしまったが、気を利かせてジャズのLPを引っぱり出してBGMとして流してくれた、背の高いバーテンダーもジャズファンだったのかも知れない。
「あたしゃアこんな訳の分からないミュージックより、広沢虎蔵のほうがいいねぇ」
しかめ面でボヤく小太りママにしても、兄と彼女の雰囲気は察していたらしく好意的なものに思えた。
その後二・三度兄のお供でその店に行ったのだが、兄と彼女の恋がどうなったのか知る由もない。
ただその後は誘われるのが間遠くなり、焼鳥屋が多くなったことを思えクリちゃんとは実を結ぶことはなかったに違いない。
こうして女性の働く酒場で酒を飲むという初体験は、あっけなく終わったのだが、時折クリちゃんの面影が浮かんだり消えたりしていたのは、人知れず片思いの恋に陥っていたのかも知れない。
・・・・兄には申し訳ない様な気がしたのだが。

やがて兄は転勤してゆき、ふたりで飲むことは無くなったが、大学四年になり、空手部の幹部として部費が使えるようになると、キャバレー遊びがはじまった。
怪しげなダンスパーティ券を売った割戻金が数万円にもなったこともあったが、翌年新任教員としての初任給が二万円に満たなかったことを考えればリッチな学生ではあった。
ゴミとかクソとか言われていた一年生部員の頃はもっぱら駅前屋台で一杯三十五円のラーメンを肴に一杯四十円の「ウメ割り焼酎」で我慢するしかなかったものである。
あそこの屋台は受け皿にこぼれる酒の量が多い・・・・等と聞けば、さっそく河岸を代えたりもした。
その“ウメ割り焼酎”も三杯も飲もうものなら間違いなくダウンする。
・・・・ときには酒豪を吹聴する先輩が居て「バアーロ!梅酒なんぞで割るうちは本当の酒飲みじゃあねぇ!こうやってな焼酎の中に唐辛子をたっぷりと入れ・・・・こうゆう風に一息で飲む!それでも酔わなきゃあ駅前を全速力で走り回るんだ」
とばかり本当に屋台を飛び出し、そのままもどってこなかった先輩の分の飲み代まで払わせられたりしたこともあった。
「お前等じつに不幸な時代に生まれてきたものだ、なんせ大学に入ってサァ女の味でも憶え様って時に“売春禁止法”だろ。
俺達ゃあジョロ屋から通学したこともある。チョイの間五百円、泊まり七百円、奨学金三千円、チョイト遊ぶぐらいはどうにでもなったものだ」

 

酔うとそんな話を面白おかしく話してくれ、時には立ち上がってジョロ屋のやり手ババアの真似をやって見せてくれたりもしたものだから、例の手を使っては飲み逃げされても皆が好きだった。

唐辛子入り焼酎の飲み過ぎか、慢性胃潰瘍で空手の方は一向に強くならず、万年白帯で卒業していった様に記憶する。                                                                                               

                                              次回3月24 日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017-03-15 10:00:00

こころ絵 『言霊』

テーマ:アート

古くからわが国では「良き言の葉は良きものを招き、悪き言の葉は災いを招く」といった観念があり、言葉には“神秘の力”が宿ると信じられてきたが、それが『言霊』(ことだま)だ。

 

『高野聖』『夜叉ヶ池』の作者“泉鏡花”は、文学談義をしていた友人が“こんな字だったよ”と指で空間に文字を書いたところ、“何をするんだ”と怒り出し、慌ててそれを消す真似をしたといわれている。

それほどに“言葉に宿る霊”を信じ怖れた彼は、終生、原稿のひと文字づつを筆で書きつづけた。

 

それに比べて“酒飲みの言霊”はいかがなものだろう。

何年もの間、狭い酒場で飛び交った無数の“言葉の霊”は、天井や壁にへばりつき、毎夜そこで繰り広げられる人生の縮図を、ながめているのだろうか。


              

               
そんな思いで描いた「言霊」である。

 

 

 

 

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2017-03-13 09:15:00

続・続 人間機雷 254

テーマ:ブログ
 第三章 夢幻泡影
 
二 孤 旅
 2 権六の彷徨(5)
東北軍を率いる張学良は、拠点の満州を日本軍に奪われ、国民党と共に戦う決意で易幟を行ったが、蔣介石が共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。1936年、延安の紅軍(共産党軍)と対峙する西安の国民党軍を督励に来た蔣介石を、十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蔣介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目を要求した。
 蔣介石は当初拒絶したが、張学良の要請で西安に来た共産党の周恩来(黄埔軍官学校で蔣介石の部下だった)らが説得、蔣介石夫人の宋美齢も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得し、8項目に合意し釈放された。張学良は「兵諌」(兵を勝手に動かし、上官に諌言したこと)の責任を負って軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行し、以後国民党の監視下に置かれる。この張学良が身を挺して蔣介石に内戦停止を迫ったことが、中国を統一した抗日に向かわせることとなり、勝利に導くことになる大きな転換点であった。

 
この西安事件の時は蒋介石の生殺与奪を握った張学良であったが、蒋介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。
しかし、蒋介石がここで本心を公言すれば、それは、中国が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、その結果、日本の対中強硬派の本格的な中国侵略の開始を早める結果を招くのは明らかであるため、張学良にも教えられていなかった。

翌年、張学良は反逆罪により逮捕された。
彼が引き起こした西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張を軍法会議にかける事に異議はなく、幹部の多くは張を極刑に処すべしと主張するものが多かった。幹部のひとり“胡適”は張にあてて電報を発している。胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難である事、もし蒋介石に不幸があれば中国は20年あと戻りする事になるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蒋介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張は“国家と民族の罪人”である。胡適は厳しい語気で張に警告している。
しかし張は極刑もしくは国民党から永久除名にされず軍法会議により懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蒋介石の寛大さと張は述べている。しかし、同じく監禁された西北軍司令官の楊虎城将軍は銃殺された。
1938年(昭和13年)に特赦を受けたがそのまま軟禁状態に置かれた。その後日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた。
東北方面軍の主力である奉天軍閥は弱体化し、主力部隊であった、張作霖時代からの馬賊部隊も屋台骨が揺らぎ、逃亡するものが多くなった。
権六もこの時脱走しているが、捕まれば脱走兵として銃殺は免れない。
関東軍軍属として暗躍しているだろう日向東崇を頼ろうと思い、奉天から新京(現在の長春市)まで逃避行した。
しかし、日中戦争勃発直前の慌ただしさのなかで会うこともできず、馬賊の風体に戻った権六は関東軍憲兵によって捕縛されそうになった。
なんとか権六の釈明を聞き入れたものの、不逞の輩として追い返されてしまった。

1945年(昭和20年)に第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年(昭和24年)に台湾島に逃れたが、この際に張学良も台湾に移され50年以上も軟禁され続け、終の棲家としてアメリカのハワイ州ホノルル市へ移住し2001年に100歳で死去している。 
                                  続
                                               次回3月20日

 
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2017-03-10 09:10:00

表六玉の独り言 162

テーマ:追憶 酒 

哀愁のハイボール 2

 

 ジャズの話を切り上げると、給料日の後で懐が暖かいのか、おい!次ぎに行くぞ、と、何時までも都会人を演じている弟に声を掛けさっさと立ちあがっていった。
ハイボール一杯が百円程だったのだろうレジで支払った金額は六百円に満たないものだった様に記憶している。
つぎに行ったのは紅いシェードのペンダント照明だけがやたらと目立つ仄の暗い「バー」で、カウンターに長身のバーテンダーが一人、それを取り囲むように客待ちのホステスが数人、又しても鼓動が激しくなってきた。
これが女性が酒の相手をしてくれる飲み屋なのだと察したからだ。
「アーラ、石さんお久しぶりじゃんけぇ」と、迎え立ったのは派手な化粧をした和服の小太りのおばさんで、その人がここのママであることを後で知った。
「こちら弟さん?どこと無く似てるわぁ、いい男じゃんけぇ、梨大の学生さんずらぁ、可愛がってやるじゃん。こっちぃ座れしぃ」とガラガラ声でまくしたてる。
学生服のお客が珍しいのか、主賓の兄をさておいてチヤホヤされっぱなしで、恥ずかしいやら兄に申し訳ないような気持ちで楽しくもなんとも無かった。
そのうち、取り囲むホステスの中で目立って綺麗な女性(ひと)が一人居ることに気づいた。
派手なドレスを着飾った他のホステスと違い、白のブラウスに黒のプリーツスカートという服装もさることながら、微笑を浮かべながら話す人の顔を見つめ頷きながらも、饒舌ではない控えめな態度、そして黒目がちな大きな瞳と色白なゆったりとした顔には化粧も必要なく、充分に美しかった。
白のブラウスを内から盛り上げる豊かな胸線には、胸の鼓動が高鳴るほど魅せられもした。

 

 

兄のこの酒場(バー)に来る理由(わけ)がこの「クリちゃん」というホステスに有ることは容易に理解できた。
そんな視点で見ていると彼女のほうにも満更ではない雰囲気も感じられる。
兄は「クリちゃん」相手に酒場にはおよそ似合わない“ゲーテ”や“トルストイ”を熱っぽく語り、“アニタ・オディ”や“エラ・フイッツジェラルド”のスイングする歌い方がいいなどと夢中に話し続けていた。
クリちゃんもまたそれ相応に受け答えし、時に控えめながら反論もするのに驚いたものだ。
同じ席に着いていた白けた他のホステス達が腹を抱えて笑い転げたのは、いささか酩酊した兄が丁度流れたサッチモの曲に合わせて演奏の真似を熱演した時だけだったようなきがする。
前述のように進駐軍放送を窓口にしたアメリカ音楽を、敵性音楽などと言って排除する時代ではなくなっていたから、それを素地にして昭和34~5年になると「モダンジャズ」のブームとなり、甲府のような地方都市にまで及んでいた。
駐留軍兵士は、様々のアメリカを持ち込んできたわけだが、廃墟の中に流れたスイングジャズもそのひとつで、底抜けに明るく軽快なメロディは軍事国家の奴隷だった人々の共感をかい、燎原(りょうげん)の炎のごとく拡がっていった。
やがて時代の変遷と共にアートブレイキーに代表されるハード・バップやチコ・ハミルトンやアート・ペッパー等のウエストコースト・ジャズ、チャーリー・パーカーのビ・パップ、ハード・バップに対してコニッツのクール・ジャズ等様々のスタイルを生み出し、ジャズファンを喜ばせ、かつ、ますますファンは増えた。
いっぽう忘れていけないのは日本人のジャズプレイヤーなんだよと、兄の話が飛躍する。
・・・・終戦までは野球からだって、敵性語として英語が閉め出されていたんだ。ストライクを「良し」ボールを「ダメ」なんだぞ・・・・だがな、そんな時代でもジャズを演奏していた人間がいたんだ。
それも軍部の要請だった。
つまりアメリカ向けの謀略放送のなかでジャズが使われていたってわけさ。
米軍兵士相手の謀略放送と言えば「東京ローズ」が有名だけど、その番組のなかで、日本人の演奏によるジャズが使われていたと言うんだよ。
彼らによって戦後最初の音楽シーンは担われた・・・・それくらいは知っおかないとジャズは語っちゃいけないよ。多少インテリを気取るなら『春日八郎』『三橋三智也』『岡晴夫』ではダメなんだよ。 

          

                                    続 

                                                次回3月17日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017-03-08 09:26:31

こころ絵 『泡沫の夢』

テーマ:アート

泡沫(うたかた)の夢』。

 

うたかた”とは水面に浮かぶ泡のことで、はかなく消えやすいものの例えに使われたりする言葉だから、それはもう夢のような“儚さが感じられる作品にしなければと挑戦したがこれがなかなかに難しかったナ・・・・。

少し間違うと泥のそこから湧き上がるメタンガスのようになってしまったり、空気が漏れているかどうかを水に沈めて調べる自転車のチューブのようになってしまう。
 

そして辿り着いたのがこれ。 

 

             


人の一生が『うたかたの夢』であったとしても、夢は楽しくなければと彩色をしたが、すこし蛇足ぎみだったろうか(苦笑)。


それで思い出したが、七色に輝く虹の夢は、良いことが起こる予感を表しているのだとかいうけど・・・・・でもなア、近ごろはモノトーンの夢ばっかりなんだな。

 

 

 

 

 

 

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2017-03-06 09:18:00

  続・続 人間機雷 253    

テーマ:ブログ
第三章 夢幻泡影

二 孤 旅
2 権六の彷徨(4)
日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった。この時期、蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したため、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、張は「不抵抗将軍」と内外で蔑まれる事になった。
その後、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。
関東軍の本庄繁は張学良と親交があった。事変後、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けた。しかし、張は「この荷物は受け取れません。本庄さんと私は親友でしたが、今では敵同士になってしまいました。こんな風にしてもらうのは、侮辱されているようなものです」と受け取りを断った。しかし、関東軍参謀だった片倉衷によると、張の送り返した荷物は関東軍の元にも戻らず、行方不明になったという。

 
張学良は以下のような抗日演説を行っていた。
:「日本は元々中国の統一と経済発展に反対しており、其の為対外宣伝では『東三省は中国の一部ではない』と言っていますが、東三省は本来中国の一部です。歴史的に見てもそうです。ニューイングランドがアメリカの一部であるのと同じ事です。現在三千万の人民がおりますが、東三省は彼らの故郷です。彼ら三千万人民は99%中国人です。彼らも故郷のために奮闘する事を望んでおります。一人残らず全ての人々がそれを望んでおります。現在日本はこれらの暴力を用いて、全満州の領土を占領しております。これらの暴力の下で、数千万の財産と数千万の平民が犠牲となっております。現在これらの暴力の下で国際条約を破壊され、とりわけ三千万人民の生命が努力してきた国際連盟が破壊されているのです。そこで私は日本が独断専行を辞めることを心より望みます。世界をして重大な犠牲を止めるべきなのです」
1934年(昭和9年)、張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。
翌年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。
11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。

 
1936年(昭和11年)、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蒋介石は「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蒋介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳緘・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蒋介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。
西安事件の前年の1935年、張学良は「中共は山賊にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団となってあちこちに散らばっているだけの事だ」と吐き捨てるように語っていたが、私恨のために西安事件を起こした。
共産党員はこれまで非常に長い間、蒋に追われ、最高指導者の周恩来の首は高額の賞金がかけられていたが、共産党員すべてが皆殺しの対象であった。
                                      続 
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2017-03-03 09:30:00

表六玉の独り言 161

テーマ:追憶 酒 

哀愁のハイボール 1

 

 「おい、いま帰りか」
間近に迫った空手の昇級試合のために、独り道場に残って稽古を続け、外のに迫る夕闇に驚いて校門を飛び出した時だった。
声を掛けてきたのは、山梨大学に隣接する甲府営林署に転勤してきたばかりの次兄である。
「これから下町に飲みに行くけど一緒に来るか」
現代詩の同人雑誌にせっせと投稿し、モダンジャズを聴き、無類の酒好きで酔うほどに楽しくなるこの兄が好きだった。
いまこの様に拙文を書いたり、教員時代に児童詩を発行したりしていたのは、この兄の影響がもたらしたものだったろう。
兄が目指したのは甲府の繁華街のひとつオリオン通りにある『バンビ』と言う喫茶店だった。
赤煉瓦の瀟洒なビルで、オレンジ色の分厚いアクリル製ドアが珍しかった。
とてつもない異次元の空間に入り込むような、緊張とトキメキが全身を包んだが、それをさとられまいと殊更に平静を装ってみたりした。
「ハイボールふたつ」
慣れた感じで注文を出す兄が頼もしく思えた。
綺麗なウエイトレスが運んできた琥珀色に輝くグラスは、放り込まれた氷をつたわるように小さな気泡が上り続けている。
「これがなぁハイボールってやつだ、ウイスキーをソーダで割って、レモンを絞り込むんだ、まぁ、飲んでみろ」
仄かにレモンの香りがするグラスを口に運んでグイと飲んでみた。
 シュワシュワと表面にはじける気泡と一緒に芳香がたちのぼり、口の中に甘くほろ苦い未知の感動が拡がった・・・・それは途轍もなく都会的な飲み物に思えた。
小皿にのせられた塩ピーナツをつまんでは、ゆっくりと惜しむように飲み酔いと共に饒舌になる兄の話に耳を傾けた。
「アートブレーキーのドラムは最高だよ。よくナイアガラ瀑布なんて言われるがナ、マイルス・ディビィスのペットも良い・・・・実に良い。秋の夜長に独り聞いていると涙が出そうになるぞ」
ジャズの話とハイボールはよく合う。
ハイボールも3杯目になると兄は饒舌になった。

 

 

・・・・日本が戦争に負けて占領軍のアメリカ兵がわんさかと押し寄せてきた頃、兵士のためにラジオ放送が始まったが、これが進駐軍放送(いまのFEN)だった。
その電波によって最初にオン・エアされたポピュラーソングは「スモーク・ゲット・イン・ユア・アイズ」邦題で「煙が目にしみる」だったんだな。
その頃は「眼に入った煙」なんて色気も素っ気もない題がついていたんだけど、進駐軍放送にダイヤルを合わせて聞いた日本人は、その明るさと甘美なメロディや歌に新鮮な驚きと感動を感じたものだ。
そりゃあそうだろ、つい数週間前までは戦意を高揚させるような軍歌か日本軍の敗北を知らせるニュースの前に流される「海ゆかば」だったんだからな。
「海行かば 水漬くかばね・・・・」ってあれだよ。
俺のアメリカ音楽好きはその頃から始まったんだな。
毎週土曜日に放送されている「ヒットパレード」はそのバイブルみたいなものさ・・・・あれで新しい曲や歌を知るんだ
これまで安日本酒のドンブリ酒や、一升数百円の葡萄酒のコップ酒しか知らなかっただけに、徐々に充ちてくる酔いと共に洗練された都会人に変身しいく様な感じが充ちてき「うんだぁが」(甲州弁で“俺達が”のこと)は、いつの間にか「僕たち」に変わり、「ズラ」は「だろ」に変わってしまっていた。
                                                                                                                              続

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2017-03-01 09:58:20

こころ絵  『木鶏』

テーマ:アート

昔々の中国でのはなしである。

紀省子という闘鶏を飼育する名人が、王サマのために一羽のすぐれた鶏を育てていた。 

十日ばかりして王サマは「もう、ぼつぼつ蹴合わせてもいいのではないか」と催促した。

すると、紀省子は「まだ、いけません。ちょうど“カラ元気”の最中です」と冷たく断った。

また十日ばかして王がせっつくと「まだ、相手を見ると興奮するからいけません」 

さらに十日、待ちあぐねた王が「もういいだろう」というと「まだだめです、相手にたいして“何こやつ!”というようにカサにかかるところがあります」

それから十日、すっかりしびれをきらした王に紀省子がやっとOKを出した。

「ぼつぼつ宜しいでしょう。もうどんな相手が挑戦してきても、いっこうに平気でございます。多分、いかなる鶏が現れてきても、応戦せずに皆、退散することでしょう」

王が蹴合わせてみたら、まさにその通りだった。
     
これが「望之似木鶏」(之ヲ望ム二木鶏ノ似シ)の由来だが、この寓話には
四つの教訓が含まれている。

第一に 「競わず」むやみに余計な競争心をかりたてないこと。

第二に 「てらわず」自分を自分以上に見せないこと

第三に 「瞳を動かさず」絶えずあたりを氣にしてキョロキョロ見回さない。

   落ち着きがなく,詐欺師に多い。

第四に 「静かなること木鶏の如し」、木彫の鶏のごとく静かに自己を見つ

   めること。氣が充実し,自信がみちあふれ、徳が具わっている。
                           「十八史略の人物学」伊藤肇著より


荘子は、この木鶏の寓話で、人間が“虚心無我”になったときに、最も強くなるということを語っている。

虚心とか無我というのは、金ほしさも名誉ほしさも勝ち負けも、愛憎も、生死さえも、一切の“我執”を捨てきったときに、自分でも氣づかなかったような巨大な力がほとばしり出てくるというのだ。

 

             酒場人生覚え書き         


間違っても“ボーッ”としていることが“虚心無我”ではない。

 

相撲ファンならずも待ちに待った日本人横綱「稀勢の里」にはこの木鶏の心境で大横綱になってほしいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

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