続・続 人間機雷  376 | 酒場人生覚え書き

続・続 人間機雷  376

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(12)


 4月も終わろうとしているが、咲き残った桜の花びらが、妙子の髪に舞い落ちてきた。
フト我に返ったように「妙ちゃん、中にはいろうか」と秀敏が言った。
「待って、もう少しこうしていたいの」
妙子はそう言うと、秀敏の首に巻いた手に力を込め、唇をもとめてきた。
柔らかく湿った唇に言葉を奪われながら、秀敏は遠い昔に忘れてきたような懐かしく切ない想い出に包まれたが、それがいつのことだったかさえ思い出せなかった。
この夜更けに水面を覆い隠すほどの夜霧の中を、出航する外国航路の船があるのだろうか、遠くに霧笛が意外なほど大きく、数度にわたって聞こえてきた。


その音にうながされるように、二人が店に戻ると良三と母親の千惠は後片付けに大わらわだった。
「お母さんごめんなさい。父ちゃんもご苦労様でした。後は私がやるからもう休んでください」                                       
 「突然お伺いしご迷惑お掛けしました。お父さんにもご造作お掛けしました。自分も手伝って片付けますから、どうぞお休みになってください」
「いいのよ。そんなことより妙子は、秀敏さんとつもる話があるんじゃないの」
「ほんまにそうやって。 片付けなんてどうでもええから、二階に上がって一服したらどないどすか。国松さんのお付き合いで気疲れしたやろう。ええ人やけどくどいさかい」
「とんでもない。あのお方たのおかげで、こうして皆さんにもお目にかかれました。ご亭主やお女将さんにこそ、ご迷惑お掛けして申し訳ありません」
「そないな他人行儀なことは言わへんどぉくれやす。大事な息子やとほんまに思てるんどすさかい」
その言葉は昭和20年、突然の敗戦という混乱のなか、横須賀伏龍特別攻撃隊から復員した17歳で秀敏を、実の親のように迎えてくれたときと同じだった。
それから10年、世間の荒波にもまれた秀敏にとっては、心にしみこむような暖かさを感じたのは、沼津に疎開したままの両親や、幼い姉弟とはいまだに絶縁状態のままであるさみしさも手伝ってのことだろう。
店の片付けがすべておわったのは夜半過ぎだった。
「今夜は泊まっていっとぉくれやす」
「そうよ秀敏さん。妙子からもお願いしなさい。わたしたち先に休むわね」
良三夫婦はそう言うと、一階の居間に続いた寝間に引きあげていった。


「秀ちゃん、泊まっていくでしょう」
二人だけになった店の客卓で、肩を並べて座った妙子が、すがるようなまなざしで秀敏を見つめながら言った。

 

 

「それではあまりにも無遠慮過ぎるだろ。今夜は帰るよ。山梨に帰るのは少し先に延ばすから、明日にでもゆっくりと逢おうよ」
「じゃ今夜はどこに泊まるつもりなの」
「俺が横浜にいるときは至誠館という道場を、根城にしていることは知っているんだろう。その近くに寄宿舎のような宿泊施設があって、内弟子の何人かはそこに寝泊まりしているんだ。俺の仮住まいもその中の一室さ。それもこれも至誠館の創設者、妙ちゃんにも話したことのある菅井欽一さんの好意によるものなのだよ」
「思い出したわ、菅井さんて港湾荷役業の菅井組の社長さんでしょ」
「そうだよ」
「こんなこと言っていいのかどうか分からないけど、その人がらみの事件で秀ちゃんが大変なことになっているってことも知ってるのよ」
「えっ、なんで、なんで妙ちゃんがそんなことまで知ってるんだ」
「私の一番大事な人のことだから、なんでも知ってるのよ」
「誰がそんなことを妙ちゃんに言うんだ」
「それは明かせないわ。でもねその人に言われたの。秀ちゃんを追いかけると苦労するって」
「そうかもしれない。今日ねここに来て妙ちゃんの働いている姿を見たら、妙ちゃんの本当の幸せは、ご両親に育まれながらなんでもない平穏な暮らしの中にあるんじゃないかってね。国松さんが言っていたように、これからの自分は大半の人には理解されない生き方だと思う。どなたの助言か分からないけど、この大井秀敏に安寧な幸せをもとめても、叶えられないかもしれない。妙ちゃんのことは大好きだし、最愛の人だと思っている。だからこそ・・・・好きだからこそこれ以上の深みにはまってはいけないのかもしれないという迷いがあるんだ」
そう言いながらも心のどこかで言葉が虚ろうのを感じた。
それがなぜなのかは分からなかった。
                                                                  続 

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