続・続 人間機雷  372 | 酒場人生覚え書き

続・続 人間機雷  372

第七章 蒼穹遙か
一  巨星落つ

1 情縁(8)

 

「おお、大迷惑だ。迷惑ついでに今夜俺と“あいざわ”につきあってくれ。いやとはいわせねえぞ」
白神一家の若頭武井国松の突然の強要が、秀敏のなかに呼び覚ましたのは、六年前に封印したはずの妙子に対する恋慕の情だった。
                                       
東ヶ丘の住宅街にある小料理屋『あいざわ』は、昔日のままの佇まいであった。
昭和20年9月20日、予科練から復員したばかりの秀敏を、実の親のように歓待してくれたのも、その年の12月に実家の疎開先沼津から戻ったとき、待っていてくれるはずの妙子の姿はなく“落ち着いたらこの店で修行したらええがな”と言っていた父親の良三の手のひらを返すような冷ややかな対応に、怒りと悲嘆にくれながら飛び出したのも、この小さな店が舞台だった。


予科練での約2年間、皇国を守らんがために、死ぬことだけをたたき込まれ、明日の出撃で果てる命を心待ちにしていたような大井秀敏17歳の青春は、かって日本が経験したことのない敗戦という一大混乱の中で、考えてもみなかった曲折に巻き込まれ、激流のごとく流れ去る歳月に押し流されながら、数奇ともいえる人生が始まった。
それから10年の歳月が経っていることを、我知らず思わざるを得ない“あいざわ”の暖簾であった。

 

 

それを目にしたとたんに秀敏の胸は、胸を突き破って周りに聞こえるのではないかと言うほどに高鳴り、顔が一気にほてった。
妙子には二度と会うまいと心に決めながらも、二人の縁は途切れることはなかったことに因縁をかんじる。
タクシーから降り立った関東白神一家若頭武井国松は、そんな秀敏の心中も知らぬげに、暖簾をはねのけ引き戸を勢いよく開けると、顔だけを突っ込み“はい、こんばんわ”“国松さんのお出ましだよぉ”と大きな声で言った。


「いらっしゃいまし」
「あら、もうずいぶん飲んできたんですか。ご機嫌ですね」
「顔だけ覗かせていないで、こちらにお掛けください。さあ、どうぞ」
開店したばかりなのか、待ちかねたように国松を迎える弾んだ声が聞こえる。
「こんやは一人じゃねぇんだよ。連れがいるんだ」
「まあ、珍しいじゃないですか。お連れさまがいらっしゃるなんて」

「よお、何をモジモジしてんだよ。はやくへえってきな」といいながら外に出た国松が、秀敏の背を押すようにして入り直すと、後ろ手に引き戸を閉めた。
秀敏を見て亭主の良三も、女将の千恵も、そして妙子も一瞬あっけにられたように表情が固まってしまった。
三人の顔を見回してから、深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。皆さんおかわりもなく・・・・」
「ばかやろう!何が皆さんおかわりもなくだよ。気取ってるんじゃあねえ」
「おい、妙ちゃん。恋しい恋しい秀ちゃんを、約束通り連れてきてやったぜ。あらあら、顔を真っ赤にした鳩が豆鉄砲食らったような顔してねえで“会いたかったわ”とか“待ってたのよ”とか言ったらどうなんだい。全く張り合いがねえよな。秀坊主もそうだよ。妙ちゃんの手を握って“待たせて悪かったな”“いまでも愛してるぜ”ぐらいのことを言えねぇのかよ。俺はねえそんな活動写真のような場面を見たくって、脇役に回ってるんだよ」
と言いながらも国松は楽しげであった。
                                                                   続 

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