リストカットについての私見 | kyupinの日記 気が向けば更新

リストカットについての私見

過去ログでは、リストカットについていくつか記事をアップしている(参考1参考2)。これらの参考エントリでは、リストカットの意味や治癒のあり方について、オーソドックスな内容とややオカルト的な考え方も紹介している。

最近、そのリストカットの治癒のあり方を観察していて、おそらくリストカットすることは、その人にとって「セルフ・コーピング」的なものだろうと思うようになった。だからこそ、ある日、突然消失するのである。つまり精神症状の全般的な改善(つまり生物学的不調の改善)がないなら、消失はやや難しい。

見方を変えると、1回ごとのリストカットにはあまり意味がない。

どういう時にリストカットしたくなるとか、個々にその背景となる精神症状や心理的なものをあれこれ聞き出するより、平凡に精神症状の全般的な改善を目指す方がずっと効率が良いということになる。

そういう風に考えないと、なぜリストカットするのか全く聞くことすらない患者さんたちが、悉く治ってしまう理由の説明がつかない。

この考え方だが、統合失調症の人や境界例や発達障害の人もそうであるが、身体的に大きな侵襲を及ぼすような内科、外科疾患に罹患した時、精神症状が大きく改善することがあることと関係がある。これは過去ログにいくつも出てくるので参照してほしい。(例>参考

たぶん大きな骨折をしていてかなり痛がっている人が、同時にリストカットするようなことは稀だと思う。これは痛いからリストカットしないわけではない。もう十分だからである。

リストカットの衝動をつかさどる脳の部分は、たぶん扁桃体とかあの辺りだと思うが(自信なし。文脈的にどこでも大きな問題はない)、何か他の急性の外傷ないし、重い内科的疾患(例えば感染症などの高熱)が併発すると、脳の神経伝達や興奮のあり方が変化する。その結果、興奮、焦燥、不安、衝動、希死念慮などの精神症状が軽減するのである。

これを経験的に気付いた患者さんは、リストカットするようになる。

その意味では、リストカットはセルフ・コーピング的であるし、死ぬためにリストカットするのではなく、実は生きるためにリストカットしているとも言える。

それに対し統合失調症の人の腱まですべて切れてしまうほどのリストカットは本当に死ぬためにリストカットしているので意味が違う。根本的に由来が異なるのである。(Delicate cutterとCoarse cutterの相違)

時々、リストカットはガス抜きだとか言われるが、これはちょっと考え方が間違っていると思う。その理由は上に書いたとおりだ。(ガス抜きなんていうと後ろ向きだと思う。実はリストカットは前向きの所見なのである。)

リストカットする人にその理由を問い、あれこれアドバイスするのはどちらかといえば不毛だ。たいして精神症状が良くなっていないのに、リストカットを止めさせるのは少し間違ったアプローチだと思われる。(患者さんからすれば、大きなお世話だと思う人もいるであろう。)

結局、その人をあまりにもわかろうとする治療姿勢は、たいして功を奏さない上に治療的でもないということになる。

ここで1つ問題点がある。そのように現代人が容易に気付くようなセルフ・コーピングになぜ50年前の人が気付かなかったのだろうか?ということ。Delicate cutterは50年前には流行っていなかった。

これはおそらく、そのタイプの興奮、焦燥、不安、衝動がなかったんだと思う。脳のあの部分?の不調を来たす物質はこの半世紀くらいに出現し、現代人の脳に浸透したのであろう。

また脳の成熟が遅れがちになる現代の社会環境も無関係ではない。たぶん文明、文化の進歩の差によりリストカットの出現率も国、地域により異なっていると思われる。(日本でも当初はリストカットの出現が遅れた地方もあったはずだ)

その物質はすべての人をリストカットに導くわけではないが、脆弱性のある人たちの人生を変えたのである。

参考
リストカット
リストカットはどのように治るのか?
突然副作用が出てくるという謎
古典的ヒステリーは器質性疾患なのか?
統合失調症は減少しているのか?
ADHD的所見はいろいろな疾患で見られる
ベンゾジアゼピンを止めないとリストカットは治らないのか?