フィルビーは、廻りを30年間も騙し続け、裏切った。妻も友達も、母国も。彼が直接間接にもたらした被害や損害は、甚大で測り知れない。
1946年に結婚した2度目の妻アイリーンは、特にワシントン時代以降、精神的に極度に不安定になってゆく。秘密の多い夫の仕事のことをよく理解できなかったし、ワシントンでは、大酒飲みの問題児で、当時非合法だった同性愛者でもあったガイ・バージェスを自宅に居候させたことも大きなストレスになった。
加えて、夫のスパイ容疑が世間に知られ、1951年には夫は辞職し、再就職探しに追われ、生活の苦労もあった。ジャーナリストでノン・フィクション作家のベン・マッキンタイアーが2014年に上梓した「A
Spy Among
Friends」によると、アイリーンは、遅くとも1952年には夫がソ連のスパイであり、自分に長らく嘘をついていたと気づいていた由。
一方、フィルビーは、1955年10月ハロルド・マクミラン外相の議会答弁で無罪とされたお陰で、翌年オブザーバー紙の在ベイルート特派員となり、単身赴任した。同時に、英政府からは、良い情報があれば報酬を得るとの仕事も得た。
しかし、英国に残った妻アイリーンの精神状態は、悪化の一途をたどり、夫が赴任した翌年1957年の暮れ、自宅で自殺した姿で発見された。なお、他殺説もある。
また、アイリーンの死後フィルビーは、米紙ベイルート特派員ブルワーの夫人エレナーと親しくなり、1959年3度目の結婚をする。同地には、1960から1962年まで、親友で後輩であり、フィルビーの弁護に奔走したニコラス・エリオットも支局長として赴任して来たし、外相答弁のお陰で、米英の情報筋をも含め、広く人脈を再構築できた。
エレナーの回想によると、その頃が「一番幸せな時期だった」。しかし、そこから事態は突然悪化する。
前述のマッキンタイアーによると、その主因は、「二つの死と、一つの亡命と、ソ連スパイ、ジョージ・ブレイクの正体発覚」であった。
まず、心から尊敬していた父とフィルビーが可愛がっていた狐の死である。特に父親のセントジョン・フィルビーは、サウジアラビアのイブン・サウド国王顧問をしていて、1960年夏息子に会いに来たが、パーティのあと、発作で突然亡くなった。エレナーによると、その後フィルビーは、暗闇の中で1人で号泣し続けていたという。
フィイルビーは、新たにMI6内に見つかったモグラ(潜り込んだ敵側スパイ)のジョージ・ブレイクが禁固42年という英国法制史上最高の判決を下されたことにも大層動揺していたという。また、1962年末英国に亡命したソ連諜報機関員アナトリー・ゴリツィンの動向にも神経質になっていた。
その頃ロンドンでは、ベイルートから帰国したニコラス・エリオットがアフリカ局長に昇進し、かつてのフィルビー同様、将来のMI6長官候補と見られていた。
エリオットは、長官から、ゴリツィンの証言により、フィルビーの二重スパイ疑惑が決定的になったことを知った。しかし、最終的には、フィルビー本人の自白が必要だった。
そこで、エリオットは、フィルビー訊問を申し出、長官もこれを承諾し、1963年1月10日ベイルートに向かった。前述の「A
Spy Among Friends」には、エリオットの訊問の様子がかなり詳しく紹介されている。
この時点で、フィルビーは、精神的に極めて不安定になっていた。そこへ訊問官としてベイルートにやって来たのが、自分が騙し続けた親友エリオットである。
フィルビーは、また騙せると思ったであろうか?いや、恐らく腹をくくるべき時が来たと観念したのではないかと思う。
フィルビーは、また騙せると思ったであろうか?いや、恐らく腹をくくるべき時が来たと観念したのではないかと思う。
エリオットは、訊問の中で、すべてを白状すれば、訴追免除するとの交換条件を
フィルビーに伝えたが、フィルビーは、最後までしぶとく、1934年からソ連諜報機関のために働いたことまでは認めたが、大戦後直ぐにそれは間違った行為であると気づいたという主張を繰り返し、それを文書にして渡しもした。しかし、最後までそれに署名はしなかった。何が「すべて」かは不分明であり、訴追免除は、いつでも取り消され得る性質のものだとみて、極めて慎重に対処したということであろう。
4日後、エリオットは、アフリカで仕事があるので、MI6のベイルート支局長ピーター・ランが訊問を引き継ぐと伝えて別れた。フィルビーがソ連に亡命したのは、その9日後のことである。
実は、フィルビーに関する本を読めば読むほど謎が深まる。例えば、英国版FBIに相当するMI5は、MI6と長らく対立関係にあり、MI5の上層部には、フィルビーは黒と信じる幹部がかなりいたことを考えると、MI6は、フィルビーのソ連亡命を最善策と思っていた可能性もあるのではないだろうか?
また、フィルビー宅周辺に逃亡阻止のための監視保安体制も敷かれず、訊問を引き継ぐラン支局長は、暫くスキー旅行に出掛けるとの噂も流れ、あたかも逃げるなら今ですよと示唆するような状況でもあった。
何しろフィルビーは、特派員の仕事に加え、情報内容に応じ、MI6から、即ち英国政府から報酬をもらっていたから、これも表沙汰になれば、更に政府は恥をかくことになったかも知れないのだ。
その上、英国内で裁判となれば、多くの秘密情報が公になるだけでなく、英米関係という両者にとって最も重要な絆に深刻な亀裂が生じ得るが、それは、東西冷戦下ではソ連を利するだけであり、そのような事態を回避しようと考えたかも知れない。
あるいは、フィルビーは、間違いなく貴重な逸材だから、いずれ彼もソ連共産体制の実態に落胆して、西側の軍門に戻ってくれれば、使い道は多々あるとの希望的観測もあったかも知れない。
確かに、フィルビーは、亡命して初めてソ連を自分の目で見たわけだが、モスクワで4人目の妻となったポーランド系ロシア人Rufina
Pukhovaによれば、彼は、ソ連にかなり失望した模様だ。表面的には、「理想は良いが、やり方を間違えたのだ」と思い込むことで、ソ連のスパイとなったことを正当化しようとしていたように見える。その意味では、「希望的観測」にもチャンスがあったかも知れない。
いずれにせよ、フィルビーは、1988年5月モスクワで心臓麻痺で死亡した。76歳だった。