数珠とロザリオ
木・布・陶土で出来た中国産の仏教の念珠。イスラエルで銅とラクダの骨から作られたキリスト教のロザリオ。乾いた植物の種を繋いだヒンドゥー教のマラ。木製の数珠を糸に通したイスラム教のスブハ。これらの数珠状の宗教用具は、世界中の3分の2の人々によって使用されています。
数珠を使って念仏や祈りの回数を数える習慣は、紀元前8世紀頃、インドのバラモン教またはヒンドゥー教の信者達が始めたとされています。マラと呼ばれるヒンドゥー教の数珠は、32個から108個の木の実から作られます。数珠が輪の形であるのは、輪廻転生の概念と関連しています。
この習慣が仏教に取り入れられて、チベット・中国・韓国・日本に伝わりました。
数珠に関する経典は「陀羅尼集経」や「金剛頂瑜伽念珠経」といった密教経典に見られるため、ヒンドゥー教で用いられていた数珠が、密教に伝わり、仏具の一つになったと考えられています。
言い伝えによると、ある国の王は釈迦にこう質問しました。
「わたしは仏の道を修行しつつ、国を治めたいと願っていますが、わが国は常に戦乱があるため国中が荒れており、国内には疫病が流行しています。お釈迦様の力でなんとかしていただけないでしょうか?」
釈迦は次のように答えられました。
「無楼子(むくろじ)の実、百八個を糸に通して環をつくり、これを常に身からはなさず、真心からみほとけの御名を唱えなさい。一つづつ数珠をつまぐって、これを百回、千回と繰り返していけば、おのずから心は静まり、正しきに向い、間違いのない政治をすることが出来るでしょう。二十万回に至るときには、心身に乱れがなくなり、人々の心も安楽になり国家も安泰になるでしょう。さらに百万回に至るときには、百八の煩悩業苦を断ち切ることができます」
このことを聞いた王は無楼子の念珠を沢山つくり、親戚や家来どもに持たせました。自身もいつも数珠を手から離さず、隙さえあれば熱心に念仏を唱えられたそうです。
珠の数が108個なのは、人間の心が百八にも動き変わり、乱れるということからで、これを「百八の煩悩」と呼ぶそうです。ある説によると、一本の糸によってつながれた数珠の形は、信者の乱れやすい心が、仏の教えによって統一されることを意味しています。
仏教の数珠の多くは伝統的に菩提樹の木材または木の実から出来ています。これは釈迦が悟りを得たのが菩提樹の下だったとの伝説に基づいています。仏教がアジア各国に広まっていくにつれて、骨・琥珀・宝石といった材料が使われるようになりました。
イスラム教の信者が使う数珠には、スブハ、タスビ、ミスバハといった数々の呼称があります。この数珠は通常、99個の丸い数珠玉と、一つの長いビーズで出来ています。神が持つ99の属性を繰り返して唱えるために数珠玉を使い、最後のビーズはアラーの名前を讃えるためにあります。
キリスト教のロザリオは初めに中世ヨーロッパの僧院で使われ始めました。1520年、カトリック教においてのロザリオの使用がローマ教皇によって正式に認められました。
ロザリオという名は「バラの園」という意味を持つラテン語の「ロザリウム」から由来しています。カトリック教において、薔薇の花は「理想的に完全なるもの」を象徴しており、信者がロザリオを用いて常に祈りで満ちた花園にいるように、といった願いがこもっています。
キリストと彼の母の人生を黙想しつつ、聖母マリアに捧げる祈りを数えるためにロザリオは使われています。これは毎日3回、繰り返されます。
多くのロザリオは合計59個の数珠玉で出来ています。大きな数珠玉が6個、小さな数珠玉が53個あり、祈りの復唱に区切りをつける用途を果たしています。10個のビーズで出来た小さいものや、十字架、キリストの像、守護のメダルなどがついたロザリオもあります。
世界中で使われる数珠は、各地の文化や土地の違いによって、さまざまな材料で作られてきました。香木・草の実・琥珀など、植物から採られる数珠玉。象牙・珊瑚・骨といった動物界から得た素材を使ったもの。水晶・メノウ・ヒスイなどの宝石で出来た豪華な数珠。ガラスやセルロイドといった安価な数珠もあると学びました。
これほど普及している数珠には、どういった不思議な効果があるのでしょうか。決して、ただの迷信としては片付けられないと思います。数珠を日常的に使用する信者は、自身にとって深い意味を持つ祈りや念仏を繰り返し暗唱することによって、身体と脳内をある一定のリズムを持った音振動に同調させているのではないかと思います。
音楽によって及ぼされる催眠状態や、夢を見ているときの脳波とも関連がありそうです。このような変性意識状態では、恍惚や先見の明、存在や生命についての悟りといった現象も少なくないと考えられます。
数珠を数えつつ、愛情を込めて祈り続けたり、念仏を唱えることは、心を落ち着かせる訓練の一つなのは確かです。それだけではなく、世界各国の人々によって使われている理由を探れば、心理学の視野を越えた深い意味があるのでないかと思います。こうした献身的な態度で行われる宗教的儀式は、自我心身の全てをより大きな存在にゆだねて、精神の自由と究極の安心を求める道の一つなのかもしれません。