風変わりな皇帝
16世紀末、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝となったルドルフ二世は政治には無関心であったが、数ヶ国語を話し、美術・数学・科学に興味を持っていた。神経衰弱に悩まされ、憂鬱に沈んだ皇帝は人目を避けて、城に閉じ篭ることが多かった。体調を崩して生死の危機を通り越した後、彼は隠遁した生活を求めて首都をウイーンからプラハへと移した。そこで錬金術や魔術の研究に労力を注ぎ、芸術品や奇妙な標本を蒐集(しゅうしゅう)し始めた。
プラハ城の一角に築かれたルドルフ二世の博物館は「驚異の部屋」または「珍奇物収蔵室」と呼ばれ、古代美術品や珍しい自然産物のほか、いかがわしい偽造物や素性の知れない博物品が置かれていた。貴重な宝石や黄金で出来た工芸品、優れた彫刻品や油絵(「モナ・リザ」の絵が本物と偽物を含めて何枚もあったと言われている)、古代の天文観測儀、様々な時計や科学的な器具に加えて、ノアの箱舟に使われた二つの釘、不死鳥の羽根、乾燥されたドラゴン(伝説上の竜)、一角獣の角、ガラスに囚われた悪魔などが集められていた。
膨大な財産を趣味のために費やしたルドルフ二世は、王立庭園に無花果(いちじく)・桜・柘榴(ざくろ)・オレンジ・レモン・ライラック・チューリップなどを輸入して植え付け、動物園にはドードー(後に絶滅した鳥)・オウム・象・ラクダ・熊・狼が飼育されていた。オスカーと名付けたアフリカ産のライオンをペットとして飼い慣らしてもいた。
また、彼は錬金術・天文学・数学・光学・機械工学・医学・自然科学など様々な分野に惹かれ、彼の保護下に集まった科学者たちはこの時代のヨーロッパにおいて重要な影響を及ぼした。
有名な天文学者ヨハネス・ケプラーはルドルフ二世の王立庭園内に設立された天文台で観測を行い、その結果を後に「新天文学」(アストロノミア・ノヴァ)と「世界の調和」(ハルモニチェ・ムンディ)という本にまとめた。ケプラーはその頃、コペルニクスの太陽中心説に賛成する有数の科学者であった。また、重力の定説はケプラーによって地場が整えられた。
ルドルフ二世の宮廷で錬金術師と医師として雇われていたミヒャエル・マイアーは暗号法や金属の採鉱技術も研究していた。彼の傑作「アタランタ・フギエンス」はエジプトとギリシャ神話の要素を用いた多次元的な作品で、象徴的な彫版物、ラテン語の警句とドイツ語の韻文、そしてその文と絵に対応するフーガ(遁走曲)で構成されている。ミヒャエル・マイアーは秘密結社「薔薇十字団」の一員だったと言われている。
自称魔術師のジョン・ディーもルドルフ二世に仕えていた。彼は若い頃、ある劇の上演のために機械仕掛けの昆虫を造り、それはあまりにもリアルに飛び回ったので、観客の数人は悪魔の仕業だと信じて恐れた。博学で見聞の広かったディーは稀少な文書や骨董品を収集し、その頃のヨーロッパで最大のコレクションを築き上げた。また、彼はエノキアンという未知の言語で一冊の本を書き、天使から口述筆記したと主張した。
このような奇人才人を周りに集めたルドルフ二世はよっぽど風変わりな皇帝だったのだろう。占星術や魔術など迷信深かった点もあるが、当時において最先端の知識を追求し、宇宙・自然・存在の神秘を解き明かそうと、崇高な意志と想像力を持った人物だった。1612年、弟のマテウスに王座を奪われ、惨めな死を遂げた彼は今でもチェコ人に愛され、彼が皇帝だった頃は「プラハの黄金時代」と呼ばれている。