映★画太郎の映画の揺りかご


マーティン・スコセッシ監督、エイサ・バターフィールドクロエ・グレース・モレッツサシャ・バロン・コーエンベン・キングズレー出演の『ヒューゴの不思議な発明』。

第84回アカデミー賞最多11部門ノミネート、5部門受賞作品。

原作はブライアン・セルズニックの小説「ユゴーの不思議な発明」。




Audiomachine - Breath and Life
映画の本篇では流れないけど、アメリカ版の予告篇で使われていた曲。


1930年代のパリ。父を亡くして駅の時計台のなかで暮らすヒューゴ(エイサ・バターフィールド)は、駅の売店で万引きしようとして老店主(ベン・キングズレー)に父の形見のノートを取り上げられてしまう。それにはかつて父が修理した“機械人形”の図面が描かれていた。

Zaz - Coeur Volant エンディング曲



3D吹替版での鑑賞。

まだこの映画が制作中のときからその公開を心待ちにしてました。

キック・アス』の爆裂天使ヒット・ガール、そして昨年も『モールス』でミステリアスな少女を演じていたクロエ・グレース・モレッツが出演しているということで、大袈裟でなく今年一番観たかった映画。

このファンタスティックな題材を監督するのが『タクシードライバー』や『グッドフェローズ』などヴァイオレンスやギャング映画で有名なマーティン・スコセッシというのが意外だったけど、昨年11月のアメリカでの公開後は評論家の評価は上々ということで期待していました。

ところがいざ日本で公開されてみると、「期待していたものとぜんぜん違った」「山場がない」「面白くなかった」などとけっこうさんざんな感想が見受けられる。

いろいろ不安になりつつも、もともとアカデミー賞にノミネートされようがされまいが関係なく観るつもりだったんだから、ともかく無心になって楽しもう、と劇場へ。

すでにさまざまな人が指摘しているが、これは邦題や予告篇からイメージされるような「少年と少女の冒険ファンタジー映画」、ではない。

空想的な魔法やモンスターなどは登場しない。

これは「映画」の草創期にまつわるお話である。

家族連れで観にきている人たちもいたけれど、もしかしたら小さな子どもさんたちには退屈かもしれないので、これから観るお父さんお母さんたちは要注意。

以下、ネタバレありです。



さて、どこから語りはじめようか。

しつこいけど1年ぐらい前からときおり断片的な情報を目にしながらずっと首を長くして待っていた映画である。

すでに観た何人もの人たちから「冒険ファンタジー映画ではない」と念を押されたわけだが、ではなんなのか。僕が興味がある「映画史」についての物語なのだろうか。

いうまでもなくこの作品はフィクションで主人公の少年ヒューゴ(フランス語読みだとユゴー)・カブレも架空のキャラクターだが、彼が出会うジョルジュ・メリエスはサイレント(無声)映画時代に活躍した実在の映画制作者で、史実では1938年に亡くなっている。

また彼の孫娘であるマドレーヌ・マルテット=メリエス(映画では養女のイザベル)は現在も存命で、祖父ジョルジュ・メリエスの作品の保存・上映活動を行なっており、ジョルジュの評伝も書いている。

昨年、フランスでのこの映画のプレミア上映でクロエ・グレース・モレッツはマドレーヌに会って、古い映画の着色されたフィルムの断片をもらったという。

『月世界旅行』&『メリエスの素晴らしき映画魔術』予告編



OCTOPUSさんというかたのブログにメリエスについてのくわしい解説があるので、紹介させていただきます。


20世紀の魔術師~ジョルジュ・メリエスの魔法映画~

メリエスはもともと奇術師で、やがてトリック撮影を駆使した映画作りをはじめ、いまでは“SFXの父”とも呼ばれている。

いってみれば現代のスティーヴン・スピルバーグピーター・ジャクソンのような映画監督たちの大先輩、遠い師匠にあたる人。

特撮に興味がある人なら名前ぐらい知っておいても損はないです。

その実在の人物と架空のキャラクターであるヒューゴがストーリーのなかでからむということ。

ちょっと昔の「まんがはじめて物語」なんかを思い出したりして(古いですが)。

映画の最初期についての物語、というだけで僕はワクワクしてしまうのだが、結論からいうとなんだか肩すかしを食わされたような気分に。

いや、この映画を観たことは後悔してないし、作品を口汚く罵るつもりもないのだけれど、よくいわれる「『ニュー・シネマ・パラダイス』のような作品」でもなかったし、かといって映画についてのトリビアにあふれた作品というわけでもなかった。

『ニュー・シネマ・パラダイス』は、イタリアの片田舎で映画を上映する者、そしてそれを楽しむ観客たちを描いた映画だったが、この『ヒューゴ』にはさらに映画を「作る人」が出てくる。

スタジオで大勢のスタッフやキャストたちを使って作品を作りつづける20世紀初頭の映画監督ジョルジュ・メリエスの姿は、まさしくマーティン・スコセッシ自身だ(この映画でスコセッシはジョルジュと妻のジャンヌをカメラで撮影する技師を演じている)。

メリエスのトリック映画やハロルド・ロイドの喜劇映画に胸を躍らせるヒューゴは僕たち観客のことでもあり、また機械の修理が得意な彼は、過去にさまざまな映画のレストア(修復)にも手を貸してきたスコセッシの分身ともいえる。

これは「映画についての映画」「映画を作る人についての映画」「映画を愛する人たちのための映画」なのだ。

3Dについては、お金に余裕があるなら3Dで観た方がいいとは思います。

冒頭の導入部分や古いサイレント映画が立体に見える、というのはやはり面白いし。

ただその使用方法はあくまでこの映画の世界観を補完するためのものであって、『アバター』並みの“驚異のイリュージョン”が待っているわけではないので、そのへんはあらかじめご了承のほどを。

しかしそういった個人的に大好物であるはずのこの映画に、僕はノれなかった。

どのあたりが不満だったのか、思い出せる範囲で指摘していきます。

ストーリーについてこまかく書くので、まだ映画を観ていない人はご注意ください。


父を火災でうしなったヒューゴは、おじのクロードに駅の大時計の操作を教わりそこに居つくが、おじはやがて姿を消してもどってこない(のちに酒に酔って川で溺死体で発見される)。

ヒューゴの父親をジュード・ロウが演じている。

もっとも父親はすぐ死んでしまうのでジュード・ロウの出番はごくわずか。

『シャーロック・ホームズ2』の撮影で忙しかったんでしょうか。

万引きをみつかって老店主に機械人形の図面が描かれたノートを取り上げられたヒューゴは、なんとかそれを取りもどそうとするが偏屈な老店主は返してくれない。

老店主の養女である少女イザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合ったヒューゴは彼女にノートを見張ってもらうが、老店主は「ノートは燃やした」といってその灰をヒューゴに渡す。

父の残した機械人形の謎を解くための大切なノートをうしなって涙を流すヒューゴだったが、イザベルは自分の養父“パパ・ジョルジュ”はほんとうはノートを燃やしていない、あれはトリックだと告げる。

う~んと、僕が観逃したんだったらマヌケですが、あのノートってけっきょくどうなったんだっけ?

ヒューゴの手もとにもどったんだったかな?

なんかいつのまにかヒューゴはノートなしで機械人形を直してたような気がしたんだけど。

勘違いだったらゴメンナサイ。

ヒューゴの手で修理された機械人形は、イザベルが首にかけていた鍵によって動き出して絵を描きはじめる。

それは人間のような顔をした月に巨大な弾丸が突き刺さっている、あの有名な映画『月世界旅行』の絵だった。

$映★画太郎の MOVIE CRADLE

その絵の下には「ジョルジュ・メリエス」というサイン。

その機械人形というのは、じつは老店主“パパ・ジョルジュ”ことジョルジュ・メリエスがかつて手放したものだった。

さて、この機械人形とジョルジュとの関係について映画のなかではあまり触れられていなくて、それがヒューゴの父親の手に渡ったいきさつも台詞で説明されるだけである。

だからそもそもなぜジョルジュがヒューゴから無理矢理うばいとってまでこの機械人形の図面が描かれたノートを焼こうとしたのかよくわからないのだ。

無論、この機械人形はジョルジュの輝かしい過去にかかわる物だからだが、具体的に機械人形とジョルジュがからむ場面はほとんどない。

物語のかなめとなるはずのこの機械人形は、けっきょくのところそれがまだ処分されずに修理されて現存していることがジョルジュに示されるためだけに登場したようなものだ。

この機械仕掛けの自動人形はパリの町並みとかさなってヒューゴの「ひとつひとつの歯車とおなじですべてに意味がある。世のなかにはムダな存在なんかないんだ」という台詞につながるのだが、それが台詞だけにとどまってしまっていて、映画のストーリーのなかでその「歯車」の意味するところがなんなのかよくつかめず、物語的に適切な機能を果たしていないように思えた。

もちろん、理屈としてはこの「歯車」というのがヒューゴをはじめ世のなかのすべての人たちのことだというのはわかる。台詞でもいってるし。

ただ、漠然と人々を「歯車」にたとえられてもそれがエモーショナルなところで胸に響かないのだ。

じつはジョルジュ・メリエスはもともと靴工場で働いていたが、機械人形の修理などから奇術の道へ入った人である。

つまりヒューゴは若い頃のジョルジュなのだ。

しかしそういったジョルジュの生い立ちは映画ではちゃんと描かれていないので、ヒューゴとジョルジュの物語上の関連性がわかりづらくなってしまっている。

そしてなによりこの作品のもっとも重要な要素である「映画」。

“機械人形”というのは撮影用のキャメラや映写機につながっていく「映画」には不可欠なテクノロジーの象徴でもあるはずなのだが、これまたこの作品を観ているだけではそのあたりがまったくもって不明瞭。

だから先ほどのヒューゴの、この映画のキモでもある「歯車」を例にとった感動的な台詞が生きてこない。

ヒューゴが映画のキャメラか映写機を修理する描写があってもよかったのではないか。

また、ヒューゴの父親はかつてジョルジュが撮った映画『月世界旅行』を観ていて、そんな父にときどき劇場に連れていってもらったヒューゴも映画が好きになった。

こうして「映画」が登場人物たちをむすびつけているのだが、父親のエピソードがあまりにささやかすぎるので、やはりそのあたりの感動が伝わってこないのだ。

いつも伸ばしていた髪を切ってうら若きパリジェンヌのイザベルを演じるクロエはたしかに可愛らしかったけど、ヒット・ガールみたいに主役を食う勢いで驀進するようなことはなくて、最後までお行儀のよい女の子にとどまっている。

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イザベルは本を読むのが好きでヒューゴを駅の本屋に連れていくんだけど(本屋の店主はクリストファー・リー)、あれにどんな意味があったのかもよくわからなかった。

この本屋の店主はその後ふたりに映画についての資料のありかをおしえてくれるんだけど。

たとえばジュール・ヴェルヌの名前が何度か出てくる。

ジョルジュの撮った『月世界旅行』はヴェルヌの小説が原作だが、これもそれ以上ストーリーにはかかわってこない。

好奇心旺盛で読書好きの聡明なイザベルも、その趣味や知識が物語のなかで特に活かされることはない。

せっかく「物語」を生み出しそうな素材が並べられているのに、それらがどれも断片的で有機的にからみ合わないので印象に残らず、結果的に起伏のない「山場がない」場面がず~っとつづくことになる。

映画通ならばニヤリとする場面がいくつもあるのかもしれないが、悪いがこの映画は普通のお客さんにわからなければ意味がない。

イザベルはヒューゴに「冒険がしたい」といっていたが、はたして映画館に忍び込んでこっそり映画を観ることが彼女が望んでいた「冒険」なんだろうか。

そうじゃないでしょう。

観客もまたおなじようにフラストレーションが溜まることになる。

ロイドの要心無用』(1923) 監督:フレッド・C・ニューメイヤー サム・テイラー
出演:ハロルド・ロイド ミルドレッド・デイヴィス 【抜粋】




ヒューゴを追いかけまわす鉄道公安官を演じるサシャ・バロン・コーエンのドタバタ演技に笑える人は少ないと思うが、これも彼の演技力のせいというよりも監督のスコセッシの「笑い」のセンスによるものだろう。

サシャ・バロン・コーエンが腹筋崩壊するほどのコメディアンであることは、彼自身の主演映画で証明されている。

マーティン・スコセッシはコメディには向いていないことがハッキリとわかる。

この映画が原作小説にどれぐらい忠実なのかは知らないし、映画なんだから別に原作と違っててもぜんぜんかまわないと思うんですが、多くの観客が不満をもったように、これはもっともっと現実離れしたファンタスティックな世界をおもいっきり描いてみせるべきだったんじゃないだろうか。

だって、ジョルジュ・メリエスは人間が大砲で月世界に飛んでいったり、人の首がとれて音符になったり、頭が風船みたいにふくらむ男とか、現実にはありえない空想の世界をフィルムのなかに焼き付けて観客を楽しませてくれたエンターテイナーだったんだから。

まさに3Dの飛び出す映像で楽しませるならこれほどうってつけの素材はないだろう。

たとえばジョルジュの過去についての描写をもっと前半で切り上げて、後半ではいよいよヒューゴとイザベルがかつてジョルジュが映画のなかで描いためくるめく「夢の世界」で冒険する、といった展開にしたらよかったんじゃないかなぁ。

そうやって全篇ヒューゴたちとともに空想的な大冒険ファンタジーを堪能させてくれてこそ、映画の終盤に老ジョルジュが寂しそうにつぶやく「現実は映画のように“ハッピーエンド”とはいかないのだ」という言葉が僕たち観客の胸に刺さるんじゃないですか?

この題材、設定、キャラクターたちなら、もっとこんなふうに、もっとあんなふうに物語を描けたはず、と僕以外にも多くの観客があれこれと想像をめぐらせたに違いない。

最初の言葉にもどるけど、この映画をマーティン・スコセッシが監督したことがとても不思議です。

3D映画もファンタジー映画ですら初体験だったスコセッシ監督にとってはおおいなるチャレンジだったんだろうし、いまさらいってもせんないことなんだけど、これを先ほどから名前をあげているメリエス直系の弟子たちであるスピルバーグやピーター・ジャクソンといった人たちが監督してたらどうだったんだろう、と夢想せずにはいられない。

あるいはご当地フランス出身のジャン=ピエール・ジュネとかね。

まぁこのイマイチな脚本では誰が撮っても厳しかっただろうけど。

シナリオの出来が良くないのはたしかだと思う。

モールス』につづいて大好きなクロエちゃんの出演作品を毎回ケナしてるようでほんとにツラいんだけど、でも劇場で観て感じたことを正直に綴っておきたいので。

ただし、この映画の存在そのものを否定する気はないし、この映画を「好きだ」という人のことをとやかくいうつもりもないです。

実際にスタジオに作った広大なセット、出演者たちの演技もけっして悪くはない。

マーティン・スコセッシがちょうど黒澤明を尊敬するように、あのフランスの“SFXの父”にリスペクトとオマージュ(おなじ意味です)をささげてこの映画を作ったのはよくわかりました。

だからこそ惜しい、もったいないと思ったのです。

イザベルが最後に日記に書き記していた「ヒューゴ」という名前の少年は、この映画を観ている僕たち観客であり、マーティン・スコセッシのようなメリエスにつづく“映画を作る人”たちのメタファー(比喩)だったはずなのだ。

どう見たってそうでしょう。

これは偉大な先人たちが残してくれたもの、それを受け継ぐ者たち、そんなスクリーンのなかの「まぼろし」をこよなく愛する者たちについての映画になったはずなんだよね。

だからこそ、きっとそういうことをねらってたんだろうスコセッシ監督の意図が映画のなかで巧く観客に伝わらなかったことが僕は悔しく歯がゆい。

残念ながら僕はこの『ヒューゴの不思議な発明』に感激して涙することも、知的好奇心を揺さぶられることもなく、どこかお祭り騒ぎのあとの寂しさのみを味わったのでした。

ともあれ、メリエスがつむいだ夢を継ぐ者たちによって今日も世界中で何百という数の映画が作られている。

ジョルジュ・メリエスがかつて観客たちを楽しませたあの精神が宿った、いつかどこかで出会えるかもしれないその「映画」を求めて、僕は今日も映画館に足を運ぶのだ。



クロエ・グレース・モレッツ出演作品感想:
『リピート 許されざる者』
『(500)日のサマー』
『クロエ・グレース・モレッツ ジャックと天空の巨人』(2010)
『キック・アス』
【爆音映画祭】『キック・アス』
『グレッグのダメ日記』
『モールス』
『キリング・フィールズ 失踪地帯』
『ダーク・シャドウ』
『HICK ルリ13歳の旅』
『キャリー』
『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』
『イフ・アイ・ステイ 愛が還る場所』
『イコライザー』
『ネイバーズ2』
『彼女が目覚めるその日まで』
『トムとジェリー』
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