パメラ・B・グリーン監督による、映画草創期にフランスやアメリカで活躍した映画監督、アリス・ギイ(アリス・ギイ=ブラシェ)についてのドキュメンタリー映画。2018年作品。

 

ナレーションはジョディ・フォスター。製作をロバート・レッドフォードが担当。

 

リュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスなどと並んで映画の最初期に、映像による“記録”に飽き足らず「物語映画」を撮り、彩色映画を作り、また音声と映像の同期を試みたり、コメディ、トリック撮影を用いたものなどさまざまな技法、ジャンルの1000本以上の作品を残して重要な役割を果たした世界最初の女性監督アリス・ギイ=ブラシェ (1873-1968) は、長らく映画史の中でその名を忘れられてきた。そして、今日でも彼女が成し遂げたことが広く世間や映画界で知られて正当に評価されているとは言い難い。なぜアリス・ギイの名前と功績は忘れられたのか。

 

映画サイトでタイトルを見て、どうやら長年忘れられていた女性映画監督についてのドキュメンタリーらしいのを知って、まず僕が思い浮かべたのはピーター・ジャクソン監督が1996年に撮った『光と影の伝説 コリン・マッケンジー』でした。

 

 

 

『コリン・マッケンジー』はモキュメンタリー、いわゆるフェイク・ドキュメンタリーで、ジャクソン監督の祖国ニュージーランドにハリウッド以前に失われた映画王国があり、そこでは映画史には記されていない画期的な発明が次々とされて多くの映画が作られていた、というホラ話だったんだけど、リュミエール兄弟やジョルジュ・メリエス、エドウィン・ポーターなど、映画史に残る実在の映画監督たちと同じぐらい重要な映画監督──それも女性の監督がいて、でもどういうわけか彼女の名前はほとんど知られていなくて、その作品も観ることは難しい、という話を聞くと、どうしてもあのモキュメンタリーのことが頭をよぎってしまった。

 

つまり、ドキュメンタリーのフリをした、実は「フェイクでした」というオチのある映画なんじゃないかと。

 

「忘れられた女性監督」なんて、今の時代に持って来いの題材だし。

 

だけど、アリス・ギイはWikipediaにも彼女についての項目があるし自伝も出版されていて、今回、現存する彼女の監督作品も何本か上映されるそうなので(アリス・ギイ短編集の感想はこちら)、どうやら作り話ではなくて実在した人物のようだということがわかったのでした。

 

そして、そんな映画監督をどうして今では誰も覚えていないのか、その理由が気になった。

 

 

 

 

 

その理由は、彼女が女性だったから。

 

でも、歴史は僕なんかが想像していたようなことの斜め上を行っていて、映画が作られ始めた頃には女性監督は大勢いて、だから珍しくもないので記憶されなかったのだ、と。

 

女性のスタントパフォーマーたちについてのドキュメンタリー『スタントウーマン』でも、やはり映画の最初期には賃金の安い女性たちが大勢従事していたことが語られていました。

 

 

そして、映画産業が儲かる商売であることがわかると、男性たちが大挙してこの業界に押し寄せてきて女性たちを締め出してしまった。

 

 

 

男性監督たちは映画史家や評論家などによって論じられ、書物にも記されることによって後世にその名を残した。女性監督たちは一部を除いてその業績を語られることはなく、存在自体を忘れられていった。

 

また、後年に映画史家たちが著した年鑑や映画会社の社史などでかつてアリス・ギイが撮った作品が他の男性監督のものとして記載されたために、それが正史として記憶されることになってしまった。

 

アリス・ギイがのちに「この作品は私のものではない」「この映画は私が撮りました」と幾度となく証言しても、現物を観られないことも多く、現存していてもクレジットがされていなくて証明もできないため彼女の主張は認められなかった。

 

「人の作品を横取りする気なんてありません」と彼女は言う。ただ自分がやり遂げた仕事はちゃんとそのように記録されるべきなのだ、と。

 

彼女の没後、70年代以降になってようやく女性監督たちにも日の目が当たるようになり、アリス・ギイの名誉は回復された。それでも、いまだに映画界においてさえも彼女のことを知らない者は多い。

 

このドキュメンタリーの中でアリス・ギイの監督作品が断片的に映し出されるけれど、構図の取り方とか編集などなかなか巧みで退屈させない。

 

『フェミニズムの結果』(1906) という作品は男女がそれぞれ逆の役割をしてみせる内容で、現代にも通じる面白さがある。非常にユーモアのセンスのある人だったんですね。そして、世の中の性差別についても自覚的だった。

 

ある作品の、切手を舐め続けて糊で舌がベタベタになった女性に口髭の男性がキスをするとくっついてしまってとれなくなり、ようやく引き剥がすと女性に口髭がくっついている、という場面もちょっと性的なギャグで今観ても可笑しい。

 

アリス・ギイが忘れられたのは、多くの人々、とりわけ彼女の母国フランスの人々が彼女に関心を持たなかったから、というのもある。

 

エイゼンシュテインやヒッチコックが彼女の作品の影響を受けて、そのことをそれぞれ自分たちの著書の中に記しているにもかかわらず。

 

アリス・ギイの映画自体は公開当時人気を博していたし、彼女もその力を認められてさまざまな賞も受けたのだけれど、彼女の成功を妬む者もいたし、その活動を妨害する者もいた。

 

何か、そういうところも昔も今も変わらないですね。女性への敵対心や無関心が偉業を「なかったこと」にしたり、別の誰かによってその業績が掠め取られてしまう。

 

だからこそ、今この映画を観たり、アリス・ギイという人を知ることが大事なんですよね。

 

「自然に (Be Natural)」というのがアリス・ギイが役者に求めた演技スタイルだった。

 

革新的なものを数多く映画に持ち込んだ人だったんだな。

 

 

 

自身も映画監督であり、このドキュメンタリーでナレーターを務めるジョディ・フォスターはフランス語もペラペラの人だから、フランス人の名前の発音もバッチリでしたね。

 

ドキュメンタリーの中では、『ワンダーウーマン』のパティ・ジェンキンス監督や、ジュリー・デルピー、ジーナ・デイヴィス、アニエス・ヴァルダ監督やマーティン・スコセッシ監督、ピーター・ボグダノヴィッチ監督など多くの人々がアリス・ギイについて語っています。

 

 

 

 

アリス・ギイの名とその業績を記憶し続けていくことはとても大切だし、またなぜ彼女が忘れられてしまったのか考え続けることも必要でしょう。

 

それは、現在に続く問題を考えることでもあるのだから。

 

 

おやすみなさい(最後に加える花飾りのワンポイントが可愛い)

 

 

 

※追記:

後日、2日間だけ限定上映されたアリス・ギイの短編集を鑑賞しました。13作品で計50分。料金は一律1000円。

 

<上映作品> 『催眠術師の家で』『世紀末の外科医』『オペラ通り』『全自動の帽子屋兼肉屋』『カメラマンの家で』『フェリックス・マヨル 失礼な質問』『マダムの欲望』『フェミニズムの結果』『キャスター付きベッド』『ソーセージ競争』『ビュット=ショーモン撮影所でフォノセーヌを撮るアリス・ギイ』『バリケードを挟んで』『銀行券』

 

 

1898年から1907年の作品で、ほとんどが1~2分から数分程度、長くても12分ほどの短篇。

 

お客さんは結構入ってましたが、面白かったかというと、別に特には(^_^;

 

ところどころ屋外でのロケ撮影もあるものの、いかにもな舞台っぽい室内のセットの中で出演者たちが演技をするというものがほとんどで、キャメラは固定だし、カット割りも少しはあるけれど、「昔のサイレント映画」と言われて思い浮かべる作品そのまんまという感じで、『映画はアリスから始まった』の感想では構図や編集がどうとか褒めましたが…なんていうか、もうちょっと斬新な映像を想像してたものだから、思ってた以上に「普通」だったので正直ちょっと肩すかし。

 

90年代に大阪で公共施設だったかの一室を借りて有志のかたたちがルイス・ブニュエル監督、サルバドール・ダリ共同脚本の『アンダルシアの犬』(1929) の上映会をやっていて、「ぴあ」の告知だったかで知って観にいったのでした。サイレント映画だということは知ってたけど、伴奏も何もない、ほんとの「無音」での上映だったんでびっくりした。もちろん、当時はフィルムでの上映。

 

なぜか、お客さん全員にレーズン入りのバターロールを配ってたっけ。

 

今回の『アリス・ギイ短編集』は曲がりなりにも映画館で上映するものだから、さすがに伴奏は入ってましたが。

 

アリス・ギイの作品は『アンダルシアの犬』のようなアヴァンギャルド性は皆無で、つまり商業作品なので表現がわかりやすいんですね。

 

ただ、『映画はアリスから始まった』の中の1950年代だったか60年代だったかのインタヴューでアリス・ギイが「(サイレント映画が公開されていた)当時は短篇ばかりだったので映画にはオチをつけるのが普通だった」みたいなことを言っていたので、今で言うコント集みたいなものを想像していたんだけど、フィルムを逆廻ししただけのものとか、どこにオチがあるんだ?ってのもあって、アマチュアの自主映画観てるみたいで、初めて動画用のキャメラを手にした人が撮りそうなものばかり。

 

マダムの欲望』なんて、おなかの大きな妊婦が幼い女の子の舐めていたキャンディを盗って舐めたり、浮浪者が食べていたニシンを横取りしたりして、それをコメディとして描いているんだけど、全然笑えなくて、この女性のわざとらしい演技が観ていてイライラしてくるほどだった(効果音みたいな変な音もより不快感を煽る)。これのどこが「自然 (Natural)」な演技なんだ。妊婦さんがキャベツ畑(?)に尻もちをつくとキャベツの葉っぱから赤ちゃんが生まれる場面は唐突で、あれはアリス・ギイ自身の『キャベツ畑の妖精』(諸説あるが、アリス・ギイ本人は1896年に撮った初監督作品だと主張している)のアイディアを流用したのでしょうかね。

 

 

 

キャスター付きベッド』は、ベッドが勝手に動いて上に乗ったおっさんと一緒に階段や坂を下っていくんだけど、そこはもっとスピード上げて爆走するべきところをめちゃくちゃゆっくりなんですよね。あんなスローな動きなのに、警官たちが止められずに吹っ飛ばされたりする。面白いというよりも「おっそ!!」とツッコミ入れたくてしょうがなくなる。

 

これ観てたら、もうちょっとあとに出てくるチャップリンのコメディがどれほどよくできてたかわかる。『映画はアリスから始まった』ではアリス・ギイはチャップリンの『キッド』(1921) の撮影現場にいた、と語られていた。

 

患者の手足を切り取ってスペアに付け替える『世紀末の外科医』や、子犬を何匹も入れると次々とソーセージと帽子が出てくる機械を映した『全自動の帽子屋兼肉屋』など、ブラックなユーモアを感じさせるものもあったけど。

 

フェミニズムの結果』も、男性たちがミシンで裁縫をしたり子どもたちの世話をしていたりする一方で、女性たち(多分、男性の俳優が演じている)は煙草を吹かし酒を飲んでくつろいでいる。最後は働きづめの男性たちが反乱を起こして酒場の女性たちを追い出して祝杯を挙げる、というもので、解釈によっては世の中の男性陣を皮肉っている、と取れなくもないんだけど、男女の役割を逆にして描いているために単に女性たちが男たちにやっつけられているだけにも見えるし、ここで「フェミニズム」を一体どのようなものとして捉えているのかも疑問。

 

アリス・ギイという人は外で働く女性だったし映画監督という大勢の人々を動かす立場の人でもあり、いろいろと思うところはあったんだろうけど、表向きには19世紀的なモラルを重んじる人だったようで、だから映画の内容からもとりたてて先鋭的だったり挑発的な要素は感じられない。

 

だけど、考えてみたら、これらの作品が作られたのは1890年代や1900年初頭で、ベル・エポックの時代なんですよね。パリ万博があったり「赤毛のアン」が書かれたりしてた頃。女性が表立って自己主張することはたやすくなかった。そんな時代の人々が動く映像で残ってると思えば、なかなか貴重なものを観ているとは言えるかもしれない。

 

記録映像ではなくてれっきとした劇映画で出てるのもおそらくはプロの俳優たちなので、当時の街や人々の風俗をそのまま撮影したわけじゃないけれど(先ほどの逆廻しの映像に映っているのは正真正銘当時の風景だと思いますが)、でも『ビュット=ショーモン撮影所でフォノセーヌを撮るアリス・ギイ』ではアリス・ギイが映画を撮影している姿を撮っていて(あれが実際の撮影風景を撮ったメイキング映像的なものなのか、それともあえて撮影現場を再現したものなのかは知りませんが)、その時の彼女の格好はコルセットつけてウエストをぎゅんぎゅんに締めた状態のドレス姿なんですね。あんな格好でよく動けたな。それとも、あれは歴史劇用の衣裳だったんだろうか。

 

 

 

13本観続けていると、明らかに初期の頃よりも作品が面白くなってきているのがわかるし、つまり彼女は映画を撮りながらさまざまな手法を発明したり発展させたりしていったんですね。

 

『マダムの欲望』の妊婦の旺盛な食欲はもしかしたら女性には実感としてよくわかることなのかもしれないし、『フェミニズムの結果』での男性たちの反乱は、現実の女性たちの場合と比較してダブルスタンダードを揶揄している(女性たちは反乱を起こして男性たちを酒場から追放したりしない)のだとすれば、実はよく練られた内容なのかもしれない。

 

1896年から1920年までに1000本以上の映画を撮ったアリス・ギイの現存する作品は150本ほどだそうで、今回その中の初期のわずか13本を観られただけなわけですが、機会があればぜひ後期の作品も観てみたいですね。

 

まだまだ僕はアリス・ギイという映画監督のことを知らないのだ。

 

演劇や音楽、絵画、文学といった分野では、女性が第一人者として活躍してきた。これらの芸術が映画に与えた影響の大きさを考えるとき、成功した映画の表現者として名を残している女性がなぜいないのか、不思議に思えてくる。

……映画製作においては、女性が男性に比べて劣っているということはない。女性が映画製作にかかわる技術を存分に習得できないと考えるのは、まったく根拠のないことだ。

演劇においては多くの女性が技術を習得し、男性と同等に活躍している。映画の仕事においても、女性に適正がないはずがない。映画製作の技術は舞台づくりの技術と同じで、女性に向いているといえるだろう。

──アリス・ギイ「映画製作における女性の地位」(『ムーヴィング・ピクチャー・ワールド』1914年7月1日号)

 

 

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