広島に落とされた原爆は、
その大半(一説によれば丸ごとそのまま)が
ナチス製のものだったらしい。
アメリカでは、
ウランを使った原爆とプルトニウムを使った原爆の
両方が同時進行で開発が進んでいた。
ウランを使った原爆は、
ウラン238からウラン235を抽出して
このウラン235を使って作るもので、
ロックフェラー財閥とメロン財閥が
バックアップした。
プルトニウムを使った原爆は、
ウラン238から原子炉を使って
プルトニウムを抽出して作ったものだ。
モルガン財閥と化学関連メーカー、
デュポンがバックアップした。
長崎に落とされた原爆は、
後者で完全にアメリカ製だったが、
製造と実験に遅れが生じ、
実戦で使えるかどうかギリギリの
タイムリミットが1945年8月だった。
軍のトップは、今でもそうだが、
新開発の兵器を実戦で使って、
その威力を確認したいという誘惑に
逆らえないのが普通だ。
それと同様に、科学者も
自分の発明品、開発品の効果を
確認してみたいという誘惑に
抗えないのも事実だ。
このため、
100%自国製の原爆を日本に投下させるまで、
日本との終戦条約を締結させたくはなかった。
しかし、実際には日米での終戦交渉は、
終戦の前年から既に始まっていた。
海軍と外務省は、駐スイス大使を通じて
アメリカと交渉しようとしていた。
それに反して、陸軍は
「日ソ不可侵条約」を締結しているソ連に
仲介してもらって、連合軍経由でアメリカと
交渉すべきだとした。
(もちろん、そんな紙切れが
何の役にも立たなかったのは、
歴史が証明している。)
日本側の終戦条件は、
「天皇制の維持」と「領土の自治権」。
それに加えて、戦犯として誰が
有罪となるのかということを、
事前に知りたがった。
(分かれば、罪を軽くするために
証拠隠滅や口裏合わせが出来たからだ。)
広島や長崎に投下された新兵器の
高性能爆弾が、「原爆」だということは
陸軍、海軍双方の幹部は知っていた。
それどころか、
投下の数時間前には無線の傍受で
そのことを把握していながら、
末端の兵士や一般国民には
一切の空襲警報も出そうとはしなかった!
実は、日本でも原爆の開発が進行していたのだ。
話は原爆投下の2年前にさかのぼる。
東条英機は、昭和18年(1943年)に
川嶋虎之輔大佐に次のように言って
ハッパをかけている。
「アメリカとドイツで原爆製造計画が
相当進んでいる。
もし我々が遅れたら、戦争に負ける」
東条英機に原爆情報を教えてたのは、
スペイン人ベラスコで、彼が組織し、
諜報活動をしていた在米スペイン人から
もたらされた情報を、スペイン駐在日本公使に
リークしていたのだ。
この情報は、「東(とう)情報」と呼ばれ、
この情報が暗号電文で東京の陸軍軍令部に
知らされていたのだ。
(但し、終戦の際にこれらの記録は全て焼却
されてしまった)
陸軍は、そのさらに3年前(昭和15年)4月に
原爆の開発に着手しており、
内外(ドイツとアメリカ)の原爆開発についても
情報収集させることにしたのだ。
この陸軍の原爆開発命令は、
当時の陸軍航空技術研究所所長の
安田武雄中将が鈴木辰三郎中佐に命じたもので、
理研(理化学研究所)の仁科芳雄博士が
開発の指揮を執ることとなり、
そこから「二号研究」と呼ばれることになった。
仁科博士は、ヨーロッパ各地(ドイツ、イギリス、
デンマークなど)に留学していた経験があり、
デンマークでは、あのニールス・ボーアの下で
5年間も研究していたのだ。
このボーアが、後のマンハッタン計画の
チームの一員としてアメリカ製原爆の完成に
大きな貢献を果たした。
陸軍に遅れること1年。
昭和16年には、海軍も原爆開発に着手した。
但し、当初は理論研究のみで、
東京帝大、理研、大阪帝大などの
物理学者や東芝の研究者を交えて、
「核物理応用研究委員会」なる会合を
主催していたに過ぎなかった。
ところが、海軍がミッドウェー海戦で完敗してから
この研究が実戦向けの開発へと昇格した。
理論研究がスタートして約一年後の
昭和17年10月のことだ。
海軍の艦政本部第一部の、
火薬部門が原爆の研究を京都帝国大学の
理学博士、荒勝文策(あらかつぶんさく)教授に
委託した。
こちらの研究は、
「分裂」を意味する”Fission"から
「F研究」という暗号名で呼ばれることになった。
海軍がこの荒勝研究室に与えた研究費は
1500ドルだったが、
1941年12月6日(真珠湾攻撃の前日!)、
ルーズベルト大統領が議会を通過させた
最初の原爆開発予算は6000ドルで、
最終的には、アメリカのマンハッタン計画には
20億ドル以上の資金が投入された。
研究費からいって、
日本で原爆が製造されるのは
「夢の夢」だったのだ。
しかし、理論研究では
いいところまでいっていたとされている。
この京大の研究チームから、
原爆開発の情報、そして
広島への原爆投下情報も漏れたのだ。
京大工学部冶金(やきん)教室の
主任教授の西村英雄は、
1945年5月、アメリカの学会から
アメリカで原爆実験(実際の爆発実験は
7月に入ってからとギリギリだった)が成功し、
その実施投下実験を広島で行うことが
決定したとスイス経由で秘密に知らせてくれたと
一部の広島出身の学生に教えていたのだ。
このリークのおかげで、京大生で
何人かの広島出身の学生は
このことを実家に知らせて疎開させ、
被曝から救われたという事実が残っている。
このとき、西村教授と一緒に荒勝研究室のしたで
理論の研究をしていたのが
物理学者の湯川秀樹博士だ。
湯川秀樹は、仁科芳雄に対して
猛烈にライバル心を燃やしており、
仁科教授らが既に研究室の弟子たちと
一緒に研究した成果を「中間子理論」を
発表したことを知ると、
それを読み、自分の研究としていち早く
英文でイギリスの科学雑誌に発表した。
その結果、アメリカの学会は
仁科教授ではなく、湯川秀樹教授を
招聘したのだ。
湯川秀樹は、1939年にアメリカに行き、
シカゴ大学のコンプトン研究所で
後のマンハッタン計画に参加することになる
研究者と情報交流をした。
(ぶっちゃけ、湯川秀樹は、
当時の日本での原子物理学の最先端の
研究成果を惜しげもなくアメリカに与えたのだ)
このことから、
終戦後、「中間子理論」の研究に関して
仁科教授ではなく、湯川秀樹教授に
ノーベル物理学賞を与えられることになった。
1939年の滞米時に構築した人脈から
原爆の実験成功の知らせを京大の
西村英雄教授に知らせたのは
湯川秀樹だったのだ。
そして、同時にこのことは
海軍艦政本部に極秘情報として
報告された。
このような、京大の湯川秀樹ルートで
入手されたアメリカでの原爆実験成功の
情報以外にも、
陸軍と海軍は短波無線の傍受で
把握していた。
さらにトップの多くがイギリスやアメリカで
研修した経験を持つ海軍では、
戦前に知り得たアメリカの海軍のトップとの
人脈から、終戦をどうソフトランディングさせるか
という課題について、スイスなどを経由して
暗号無線などでやりとりしており、
お互いが自国のトップの腹の探り合いを
していたのが、1945年の
5月~8月上旬だったのだ。
その上、昭和天皇すらも知っていたという
情報もある。
お気に入りの畑俊六陸軍第二総軍元帥から
逐一情報を得ていたというものだ。
もし、昭和天皇がもっと早く終戦を決意し、
それを世界に向けて発信していれば
日本に原爆が落とされなかった可能性も
あるが、逆にその決意がもう少し遅かったら
日本に三発目の原爆(二発目の
プルトニウム原爆)が落とされていた
可能性もあった。
では、こうやって知り得た原爆投下情報が
一部の人たちだけが非公式に知りながら
なぜ一般国民に
公式に知らされなかったのだろうか?
(つづく)