数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

 

亡きお父様が画を描いていらして子供の頃から絵画が身近にあったKeikoさんがレポートに選ばれたのは、死後その才能を世に認められ「日本のゴーギャン」と呼ばれた孤高の画家、田中一村氏でした。

思い入れのある一村氏をリーディングする中で深く彼女に切り込むものがあったことが窺える、1つの小説を読んでいるかのようなリーディングです。

彼女の感じた感動が読み手にも必ず伝わるものと思います。

(2019年10月のものです)

 

はじめに

毎週日曜日の朝に在宅していれば必ず見ていた『日曜美術館』という番組で私は『田中一村』という画家の存在を初めて知りました。一目見ただけで作品の美しさと不思議な雰囲気に魅了されました。作品を知って田中一村という人がどういう人なのか知りたくなり、知るうちにますます引き込まれていきました。その後、展覧会が開催されると知り、待ち焦がれて足を運びました。

初めて原画を目の前にしたときの衝撃は今も覚えています。清々しいほどの美しさを感じると同時に思わず身が縮む思いがしたのです。

それは見ているこちらの心の奥を見透かされているような、姿勢を正さなければその画を前にしてはいけないような金縛りにも似た、その画の前から動けない・・・といった感覚でした。

そう思わせる田中一村の紹介から始めます。

 

本名、田中 孝は、明治41年(1908)7月22日、栃木県に彫刻家の父・母と6人兄弟の長男として生を得ます。

幼い頃から水墨画に才能を発揮し『神童』と呼ばれていました。

7歳の時に児童画展で天皇賞(または文部大臣賞)を受賞し、当時の中学卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学します。

同期には東山魁夷らがいました。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で三か月で退学。その後、画を描いて一家の生計を立てますが両親と3人の弟を病気で相次いで失います。

残った祖母と姉・妹とともに、母方の親類を頼り千葉に移り住み、そこで農業や板金工として働きながら画を描きます。その間、戦争がありました。

 

39歳の時絵画展で入選し、これより雅号を『一村』と改め名乗るようになります。翌年40歳の時、再び絵画展に出品。

2点のうち1点は入選しますが自信作の落選に納得できず、入選自体を辞退してしまいます。これを境にかつての師と決別。

その後、日展や院展に出展しますが落選が相次ぎ、画壇への絶望を深め50歳の時に単身奄美行きを決意します。

一押しすれば倒壊しそうな粗末な一軒家に一人住み、大島紬工場で染色工として働き、『5年働いて3年描き、2年働いて費用をつくり、個展を開く』という画業10年計画を立てます。

しかし、57歳の時に最大の協力者の姉・喜美子を失います。

一村は独り遺骨を抱いて奄美に戻ります。

その後も紬工場で染色工として働きながら画を描き続けますが、結局個展の開催は実現せず、昭和52年(1977)9月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じます。最後まで中央画壇に認められないままでした。

 

誰に媚びることなく、自分の良心に忠実に。ただ、ただ、魂で作品を作り続けました。その作品群は画壇の間で永きに渡り封印され続けました。

時が流れ、南日本新聞やNHKテレビ日曜美術館が取り上げた事により庶民の間で評価が広がり全国区の反響と人気を得て行きます。

各地で展覧会が開かれ美術館が作られました。

無名の画家が辿った、その経緯は他に類を見ないほど劇的なものでした。

当時日本に返還された南の島、奄美を目指したことから『日本のゴーギャン』とも言われています。その画風は日本画にして独創的で見る者の心に迫って来ます。

孤高の画家、田中一村とはどのような人物だったのでしょうか。

 

 

 

田中一村(本名:田中 孝)1908年7月22日生まれ 日本画家

 

Birth   【2-11】誕 生 数:人生の使命、生まれ持った資質、生きる姿勢、才能

Realization【2-11】実現可能数:何を実現しようとしているか

 

BirthとRealizationともに【2-11】です。

【2】は<調和・協調・受容・境界・平和・バランス>のナンバーです。

仕事においては芸術があげられ<イメージの世界で価値ある創造物を現実社会で具体化する・完成予定図を描く>とあり、<依存・共依存>がテーマでもあります。

一村は、教育熱心な両親の元、恵まれた教養を身に着け幼少期から画才を発揮しますが、相次いで家族を病気で失い、若くして一家の大黒柱となります。

画業で生計を立てようとしますが、生活と画業の両立は想像以上に困難を極めます。しかし、困難を受容し決して弱音は吐かず黙々と目の前のやるべきことをこなしていた一村には、いつの時も強力な支援者が現れます。

家族や親族や支援者を得ながらその場その時に順応し周囲と調和していたと言えます。

一番の協力者は姉でした。姉は生涯弟一村に尽くします。

姉との関係では依存関係があったと考えられます。

a-matureに<実行力にかける・一貫性がない・環境に流される・優柔不断・対立>とありますが、生涯を画に注ぎ、貧困の中、『5年働いて3年描き、2年働いて個展を開く』という画業10年計画を立てます。

画に対する一貫した思いや情熱は生涯変わることはありませんでした。

ただし唯一対立はありました。画壇という権威に対しての頑なまでの対立。

しかし、これは画壇からの一方的なものだったのではないかと考えます。この理由は後にも述べます。

 

【11】は、<神秘・霊的感受性・直観>のナンバーで<理想主義・鋭い直観力・天才的な能力と高い芸術性・バイタリティー・神秘的能力>という点もあげられます。

一村は、『画を描くために生まれ、生涯を画に捧げた人』といっても過言ではありません。

また、『神を描いた男』とも言われています。幼少期から画才を発揮し、名誉ある賞を受賞し、今の東京藝術大学に入学するものの早くに退学してしまいますが、教授群から「既に何も教えることがない」と言わしめています。

これらのことから一村の並外れた天才的な芸術性がうかがい知れます。

 

奄美へ渡ってからの一村は、自然を愛し自然の中で自然と同化するように画を描いていました。魂の籠る画面からは樹の精霊が宿っているかのような不思議な生命感が漂っています。

自ら「樹が話しかけてくるようだ」と友人に話しています。

画業を人生の中心に置き、画を描くという使命を全身全霊で全うした生き方はバイタリティーにあふれていました。芸術により精神性を昇華させ、一村は自らの理想に向かってゆるぎない意志を貫いていたと言えます。

だからこそ、純粋な精神で作品を生み出していた彼とその作品群は、権威にものを言わせていた当時の画壇とは対立せざるを得なかったのではないでしょうか。

 

一村が展覧会に作品を出展した時に、審査委員を務めていたかつての恩師が、群を抜いて圧倒的な存在感を発揮している一村の画力に観いっていたにもかかわらず、彼の画と知ると踵を返すように落選とした模様が映画『アダン』の中に描かれています。理由は「画壇の傾向とはちょっと違う」と言うものでした。

真の芸術性・精神性と決して媚びない一村に、当時の画壇は脅威をも感じ、あえてその存在を遠ざけたのではないかと思われます。

いつまでも認められないということは、どんなにか悔しく悲しく苦しい思いだったことでしょう。

しかし、その悔しさはある意味で一村の絵画における精神性を高める原動力となっていたように思います。自ら身体と精神を研ぎ澄まし、そぎ落とし、命を注ぎ込んだその生きざまは、彼の死後人々の心に響き届きます。

【11】においてのPersonalityに「激しい側面」という点について、それを思わせるエピソードがあります。奄美時代の一村を知る人物から『画を描いているときの一村は飢餓状態で一心に画面に向かい額に青筋を立てて、まるで戦っているようであり、画について語るときは激しく別人のようだった』と語られています。

 

 

Destiny【9】

運命数:才能・個性をどう生かすか、人生の使命、実現する事、仕事に反映

 

【9】は、<完結・完璧完成心理・苦>を表し<芸術・曖昧な事象の焦点を絞る仕事、本物を見抜く智慧の探求>のナンバーです。

画業を本業とし、人生の全てを画に注いでいました。画を描くことが使命とわかっていたのでしょう。自身の心が納得できる仕事を生涯続けます。

自己の名声や生活のために描く画や、そういった行為は一村にとっては無意味で無用でした。

両親を亡くして家族を養うことになった一村は、画業で生計を担いますが『パンのために画は描きたくない』という信念で画は描いても売らず、経済的安定は得られず、あくまで生活を支える手段は板金工や染色工として誰よりも真面目に懸命に働きました。

仕事の正確さや色のセンスなどはずば抜けていましたのですぐに頭角を現します。

終始集中している姿に「折った膝を崩さず微動だしない姿勢に声をかけることを躊躇した」と同僚たちは言っています。画も仕事も、1か100かの姿勢で臨んでいたようです。

a- matureの<強情・マイペース・刹那的>といったところは一村の生き方の一部であったと言えます。

 

 

Soul【5-14】

魂の欲求:魂の本質、心の中の欲求、根源的な価値観、強い内的願望

 

【5】は、<変化・革新・多才・自由・破壊・冒険・不安定>のナンバーです。

南画(水墨画)で賞を取り、支援者もいて周囲に認められた画風をガラッと変えて独自の画風を求めました。

まさに破壊と創造です。しかし、それまでの支援者からは賛同を得られず画壇からは認められず家族と離れ独り南の奄美を目指しました。

旅立ちに際し膨大なスケッチと院展出品作品を焼却してしまいます。

一村は今までの一切のことと決別し、二度と戻らぬ覚悟だったのでしょう。しかし、一村の心は誰にも縛れず全身が画に向かっていると自ら語っています。

『なんと批判されても私は満足です。それは見せるために描いたのではなく私の良心を納得させるためにやったことなのです』と。そして生前は認められなかった作品群が彼の死後、世に出たとたんにドラマティックな変容が訪れます。

【14】は、<過生における自由を理解するためのナンバー>と言われています。

独り奄美で画業に励み得たものは、一村にとって今生での真の自由だったのではないでしょうか。

 

Personality【4-22】

人格数:親や環境からの表面的人格、ペルソナ、社会的な仮面・他者に映る表面的人格

 

【4】は、<安定>のナンバーです。<規律・秩序・信頼・堅実・真面目・勤勉・忍耐力・責任感・几帳面・終始一貫・倹約家・物静か>とあります。

彫刻家の父の元、大学へ進学するなど恵まれた教育を受けていました。

姉弟で歌舞伎を鑑賞するといったこともあり、どことなく育ちの良い真面目で誠実なきちんとした印象を持っています。

忍耐強くコツコツ地道に内に情熱を秘めながら計画をこなす人でした。

また、人の世話になることを極端に嫌い、独立独歩で友人のアドバイスや援助を受け付けない頑固さ・強情さは終始一貫しています。

 

【22】は、<創造性・偉業・理想主義・絶対的方向・インスピレーション・卓越した才能・強い感受性・爆発的なパワー・完璧主義・>のナンバーであり、世の中を変えるくらいの大変革をもたらすとも言われます。

10代にして大黒柱となり、経済的な困窮は生涯ついて回りますが、それを感じさせない面がありました。

穏やかで誰とでもしっかりと正面から瞳を合わせて会話する人でした。

写真に残る黒目がちな澄んだまっすぐな瞳が物語っています。

『真面目だけど話すと楽しい、人を笑わせることが大好きで、少年のような人だった』と、友人が語っています。

奄美時代は『夏はパンツ一枚。冬も肌着に地下足袋といういでたちで(ちょっと変わった人)』という印象を周囲に与えていました。

気性が激しく人を寄せ付けないところもありましたが、一村に出会った人は熱烈なファンになってしまう人が多いと言われています。

作品を観た人々の心を動かした反響の大きさに社会が動かされ、展覧会が相次いで開かれ、美術館が創建され、画集が発刊・増刷され今日に至っています。

 

Stage【8】

ステージ:活躍の場

 

【8】は、<秩序・自信・大胆・実行力・信頼・パワフル・ど根性・情熱・革命的・向上心>といった特性を持ち、一村にとっての活躍の場はまさに絵画の世界でした。

また<富や名声・成功を目指す>とありますが一村は全くこれらと逆方向というか、縁がありませんでした。

しかし、野望はありました。ひそかに奄美で描きためた作品で展覧会を催した際には『日本画壇に風穴を開けてやろう』『勝負をかける』というものでした。

自己信頼と能力育成の為、地道に情熱的に努力を続けていました。

謙虚に人の意見に耳を傾けることよりも自らの心のままに、より高い所を目指し開拓していくことは、精神性の向上のための手段であり、内面の豊かさを経験することでした。しかし活躍の場を、画壇との確執により失う事になります。

a-matureな彼の反権威的な精神が一村の心の耳をふさいでしまったのかもしれません。

 

Challenge【6】

チャレンジ:生涯をかけて挑戦していくこと、人生の選択

 

【6】は、<調和>のナンバーです。<愛・美・平和・責任・家庭・真実・献身・美的センス・出会いと別れ・内面の成長>とあります。

一村の絵画に対する愛ともいえる高潔なまでの<美意識、在り様、堅実さ、忍耐強く真の美を追求した審美眼・芸術的才能>は常に挑戦的であったと言えます。

 

当時珍しかった写真をも我がものにし、独自の画法を見出し自身の作品に取り入れています。写真の腕前はプロをもうならせました。

a-matureに<極端な完璧主義・頑固で利己的・自己破壊的・執着>とありますが、一村の芸術への意識はむしろa-matureもmatureに内包されたものと考えられます。

出逢った人や自ら築いた作品との出会いと別れ。自己破壊的にも映る一村の生き方・やり方は、相当な痛みを伴ったものではなかったでしょうか。

そうまでして成し得たいものがあったのだと言えます。

生涯をかけるという事は、ある意味執着なくしては成り立たないと言ったメッセージが込められているようにも思えます。

 

一方、<恋愛や家族問題・自立性・精神性の向上>も【6】の学びのテーマです。

生涯を独身で通した一村に結婚のチャンスがなかったわけではありません。

生涯未婚で常に一村を支えてくれた姉・喜美子に対しての想いで、自ら縁談を破談にしたと言うエピソードがあります。

一村も自身の家族を支えました。そして独りになった時、親身になって援助し支えてくれた人々の存在も行く先々で出会います。

孤独と戦っていたようですが、実は愛にあふれていたのかもしれません。

家族にも絵画に対しても無条件の愛を注いでいたからこそ、一村にも愛が注がれ愛を受け取っていたのではないでしょうか。

特に自身の芸術に対しての高潔なまでの美意識、極端な完全主義や身体的貧しさと引き換えにした忍耐強さや精神性は魂の叫びであり、全ては絵画に向けられていました。

 

 

続いて、TypeⅡ(魅力・特質)を見ていきます。それぞれ次の特性が見られます。

 

Creation:創造する力・生み出す力【3】

<感情をストレートに表現する創造性、人に何かを伝えていく、ヴァイブレーションを合わせる>

自身の精神と自然のヴァイブレーションを合わせて独特な画風を作り出していました。画を描くことは生きることであり喜びでした。

自然の豊かさや人の温かさに歓喜の涙をこぼし、怒りは目標へと向かう爆発的なエネルギーとなり画面へ表出させています。

 

Growth:魂の成長・何かを成長させる力【3】

<自己の感情と感受性を淘汰し表現を行い人を喚起する/楽しく人生を歩む 修行に弱い>

一村の画には魂が感じられます。全てをそぎ落とし、全力で画面に向かっていました。彼の画業・生き方には修行にも似たものがあったと思います。

Growth【3】は、修行に弱いとありますが、一村の場合は絵を描くことが生きることであり、生きることが修行とでも言えるような厳しさがありましたが、その厳しさをいとわないほど、魂の成長と自己の感情を表現することを熱望していたのでしょうか。

 

Maturity:完成度・完熟度・集合意識へのシンパス【3】

<集合意識のキャッチ、歓び 怒り 葛藤 哀しみなど コミュニケーション能力の発揮>

時代の流れを感じ取り、退学したり、画風を変えたりしています。奄美に移ってからは自然の様々な集合意識をキャッチし、コミュニケーションを取っていたようです。日課のようにして山々を歩いていました。一村にとって山歩きは喜びであり楽しみでした。後に『樹が語りかけてくるようだ』と言っています。

 

Lerd:リーダーシップ・牽引する力・人をどう導くか【0】

<リーダー資質皆無又はリーダーを超えたリーダーへの君臨>

彼の人生においてのリーダーは彼自身でした。

精神的にどこへ属することなく自身の魂に忠実に従っていたと言えます。

一村の生き方から、『自分はどう在りたいか』を問われているように思います。

圧倒的な生きざまで、静かに人々を牽引しているように思えます。

 

Support:サポート力・支援する力【6】

<理想という概念を外した受容性と支援、救済を超えた救済/人のために生きる枯渇した人生>

サービス精神が旺盛で、人のために全精力を使い向き合う人でした。

その為、人と会うことで消耗してしまうこともあったようです。家族を支え、家族や周囲に支えられました。

奄美に移ってから和光園(ハンセン病官舎)に身を寄せていた時代に、患者家族や職員の依頼により似顔絵を描き、とても喜ばれていました。

医学的にも喜びは免疫力向上につながり医師からも治療に効果ありと定評だったと言います。一村は自分のできることで、喜んで周囲へのサポートを行っていました。

一方、他人の世話になることを非常に嫌いました。受け取り下手だったと言えるかもしれません。

 

Make Mood:ムードメーカー・雰囲気をつくる力【3】

<協力的姿勢、楽しい雰囲気つくり>

楽しいことや人を喜ばすことが大好きでした。

時におどけて見せることもありました。

一方筋の通らないことにおいては相手が誰であれ、しっかりと意見を言うのが一村流でした。

 

Body:身体・身体の持つ創造的ヴァイブレーション【3】

<セラピスト、相手の波動を感じ取りそれに対し適切な処置を施す/エネルギー鬱積時には躁鬱と悪癖>

脳卒中や腰痛に悩まされ、幾度か寝たきりになり、不自由になった身体を抱えていました。酢を中心とした独自の食生活や早朝からの山歩きで染色工と画業を両立していました。

一村は自然を巧みに取り入れて困難を乗り切っていました。自然が彼を癒していたのです。画業において妥協を許さなかった一村は、ぎりぎりの精神力で、ぎりぎりの体力で、画を描いていました。

自身を飢餓状態にすることで『見えてくるものがある』と言っています。

 

 

Emotion:情緒・感情の現れ【4】

<理性のある/冷静さとパニックの間を揺れる、過剰分析による思考の混乱、責任感と過度な又は無責任感>

27歳にして家長となり一家を支える責任を負い、コツコツ働きながら制作にも励みますが、画壇との決裂に、受賞作品も、含め何もかも全てを捨てて、家族さえも置いて、独り奄美へ渡ります。

無責任とは言いたくありません。それまで弱音もはかず独り家族を支えつつ自身の制作にも全勢力を向けていた一村でしたが、糸が切れたように、感情の揺れや表出のし方が多少両極端なところがあったようです。

知人が次のようなエピソードを語っています。『「とりわけゆったりした大物ぶりがあるかと思いうと、子供みたいなところがある。知らない人には合わない。秩序正しい彼の生活ペースを狂わせると激高するが、すぐに冷静になる」などの性格の激しさ、落差を見せる面もありました。』

 

Intelligence:知性・知的才能とそれをどう役立てるのか【4】

<優秀でロジカルな思考と理解、批判家的センス、聡明さ>

誰を前にしても物怖じしない。人を虜にするカリスマ性を持っていました。

『美術関係は命を懸ける覚悟がなければ大成しません』ときっぱり言っています。

説得力のある一言です。

 

Balance 【-6】

マイナスナンバーは生後の経験を通じて自身の才能を積み上げていくタイプであり、辛いことを乗り超えてきた証です。

一村は生まれ持った能力を生かしつつ、なお、並々ならぬ経験をいくつも乗り越え、才能をさらに開花させたと言えます。

 

 

次に、Year Cycie及びHistoryを見ていきましょう。

人生の周期Cycle(個人数:人生の9つのサイクル):流動的な方向性・課題

 

1 0~34歳

Cy【7】  テーマ:飛躍・内省・調整・霊性・叡智・直観

P 【2-11】  状 況:相対・受領・境界・感受性・バランス・霊性・神秘霊的感受性

Ch【3】  課 題:発展・生産・真実・解放・成長・知性

 

0歳【20】明治41年(1908)

7月22日父弥吉(彫刻家)、母セイ(教育熱心で賢母)の長男として誕生。本名孝。幼少から頭脳明晰、父弥吉の影響を受けて画才・芸才に秀で神童と言われる。

(Birth 【2】、誕生日【22日】、Year Cycle【20】、卓越した才能を持ち、偉業を成し遂げ、霊性を生きるナンバーであり、ドラマティックな人生を予想させます。)

 

6歳【17】大正3年(1914)

画才・芸才に秀でた一村の教育のため、東京市麹町に一家揃って移住。

(家族の決断は一村のためにありました。発揮された神聖さは家族をも動かしたのでしょう。)

 

7歳【18-9】大正4年(1915)

既に南画(水墨画)に才能を発揮し児童画展で天皇賞(文部大臣賞)を受賞。

父から米邨の号を与えられる。

(南画において一定の域に達したことを示し、受賞や号を得るという客観的な形により、ある種の完結を意味したと言えます。)

 

13歳【15】大正10年(1921)

東京市芝区芝公園の私立芝中学校入学。頃栃木県親類宅で何度か画会を開く。

(環境の変化が外向きに活発化し、更なる活躍の場が与えられました。)

 

15歳【17-6】大正12年(1923)

9月1日関東大震災で家が罹災したことにより南画家小室翠雲邸に身を寄せ、南画の指導を受けることになる。

(震災により新生せざるを得なかった始まりでした。南画は一村にとって飛躍の種となり家族を支える糧となります。)

 

17歳【19】大正14年(1925)

東京市四谷区へ引っ越し、家主の四谷区長の重藤悦造に漢詩文の手ほどきを受けることになり新しい知識と深い学びを得る。

全国美術家名鑑「超然並びに余枝」の項に『田中米邨』の名が掲載される。

(新たな環境と学びが用意されました。若くして美術家名鑑に名を遺すほどの実力を成就させます。)

 

18歳【20】大正15年(1926)

抜群の学業成績で芝中学校卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷らがいた。

しかし、学校の指導方針への不満や父の病気、自身の体調不良などが原因で同年6月4日、入学後わずか2ヶ月で退学。

当時南画を得意としていた一村にとって日本画壇や美術界の動向から南画の時代の衰退を察知し、然るべき師の存在が無く学ぶべきものがない学校と判断したのかもしれないとも言われている。

退学後、一村の南画は相当のレベルにあり南画を描いて父に代わり一家の生計を支えることになる。小泉又治郎(小泉元総理の祖父)や元衆議院議員など有力な発起人主催の絵画展「田中米邨画伯参奨会」が開催される。

(境界線の学び、家族の病気や依存関係の問題を孕みつつ、直観力で目的達成のため次なる手段を判断し霊的素質を発揮したと言えます。大物との出会いにより援助者を得、才能を発揮する場を与えられました。)

 

19歳【21】昭和2年(1927)

弟芳雄(16歳)逝去。

(初めての肉親(弟)の死をもって自己の成長を改めて学ぶ時期でした。)

 

20歳【22】昭和3年(1928)

弟実(14歳)、母セイ(43歳)逝去。

(創造と破壊の22、相次ぐ家族の死を否応なしに受け入れざるを得なく、変化を強いられた時でした。新たなステージへと向かうためのプロセスだったのでしょうか。

それは近い将来に訪れる固い意志につながります。)

 

23歳【16】昭和6年(1931)

それまで描いていた南画と訣別。将来進むべき画風を支援者に示すが賛同を得られず以後絶縁状態となる。

本人の後日談に「私は23歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなくその当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養ふことになりました」とある。

(相次ぐ肉親の死と現実のはざまに否が応でも現状打破し価値観を変えざるを得なかったとも言えます。同時に一人の賛同者も無く新たな道へ進んだのは頑固さというより、真理の探究の為、霊性を深め誘われるように神秘的な方向へ向かったのではないでしょうか。)

 

27歳【20】昭和10年(1935)

父彌吉(52歳)、弟明(19歳)逝去。

(才能の生みの親でもある父の死と、弟の死。一家の大黒柱になり生活を支えることになります。それらを受け入れざるを得ませんでした。)

 

29歳【22】昭和12年(1937)

大東亜戦争勃発。

(再び創造と破壊の時でした。)

 

30歳【23】昭和13年(1938)

母方の親戚川村幾三氏を頼って姉・貴美子、妹・房子、祖母スエとともに千葉県に移り家を新築。農業に取り組み家族を支える。

川村幾三氏家族は一村にとって終生の理解者・支援者であった。川村氏宅で月に一回行われた坐禅会に一村も加わる。

この会はやがて、一村の生活や画業支援の人脈になった。

(農業で家族を支えつつ、理解者・支援者との交流を通して視野の拡大がされています。農業や坐禅会に参加することで、もともと備わっていた表現力や感性の豊かさを発展させるとともに自己探求への扉が開かれ強化されたのではないかと思います。

その後の一村の生き方や画業を貫く在りようが、そう思わせます。)

 

31歳【24】昭和14年(1939)

第2次世界大戦始まる。

(時は戦争へと突入していますが、2は平和やバランスといったことも学びのテーマです。この時期の一村は家族を支えるために環境に流され自分を無くすほど尽くしすぎて自己犠牲的になっていたことが懸念されますが、私が知るうえで一村が家族の大黒柱になったからと言って、自己犠牲的であったという発言がないことがあげられます。一村はどんな時であれ、目の前のことに必死に取り組む人でした。

むしろ極端なほどだったようです。相次いで家族を失った一村に残された家族を思う気持ちは、必死にならざるを得ず、受け入れるしかなかったともいうべきかもしれません。家族で唯一の男子であった一村は、姉や祖母や妹からも愛情を注がれ互いに助け合っていました。

依存関係とも言えるかもしれませんが。そんな田中家を周囲の人々も支えました。一村の画業は家族や周囲に人々の支えがあってこそ成り立っていました。

コツコツ真面目に目の前のことに取り組む彼らの生活は貧しいけれど、家族愛にあふれ、心の安定は得られていたと思います。一村の作品画面に注がれる対象には、深い愛情が感じられます。その基盤は家族関係からもうかがい知れるような気がします)

 

32歳【25】昭和15年(1940)

妹、房子が結婚。

(家族が示す変化は一村を保護する立場から保護される立場に将来変わり、彼の作品群を世に出す役割を果たします。)

 

2 35~43歳

Cy【4-22】 テーマ:創造・偉業・絶対的方向性・理想の現実化

P 【4-13】  状 況:修練・創造と破壊を繰り返し学びを喚起

Ch【5】  課 題:変化・刺激・破壊

 

35歳【19-7】昭和18年(1943)

船橋市の日本建鉄工場で板金工として働くが体調を崩し闘病生活が続く。

(生活のため現実社会を生きていました。)

 

37歳【21】昭和20年(1945)

戦勝祈願・身上安全を祈るためか観音菩薩像を多く描く。その後終戦。

(平和という理想の現実化を一村のやり方で表したと言えます。)

 

39歳【23】昭和22年(1947)

「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。雅号を『柳一村』と改める。

(表現が認められ、発展しました。)

 

40歳【24】昭和23年(1948)

第20回青龍社展に「秋晴」「波」を出品。

このうち「波」は入選するが「秋晴」の落選に納得できず「波」の入選自体を辞退。

これを境に川端龍子と絶縁することになる。

(人間関係と協調性の開発や、二者択一を避け対立を注意し穏やかさと妥協を学び、発芽・収穫や基盤つくりの時期でもありました。また、理想の現実化を模索するがゆえに自説にとらわれ執着した結果、2の逆相、7のa-matureが出てしまったとも言えます。視野が狭くなっていたのでしょう。)

 

44~52歳

Cy 【4-22】テーマ:偉業・絶対的方向性・理想の現実化

P 【6】   状 況:調和・完全・義務・献身・奉仕・理想・友愛・美・教育

Ch【2】   課 題:相対・結合・協力・女性性・受領・境界・感受性・バランス

 

44歳【19】昭和27年(1952)

カメラを使い、風景を逆光で捉えるなどレベルの高い制作をしていた。

(当時では珍しい新たな試みを模索し取り入れていました。すぐにカメラの技術を習得します。)

 

45歳【20】昭和28年(1953)

第9回日展に「秋林」を出品するも落選。

(落選という結果を受け入れることになります。)

 

46歳【21】昭和29年(1954)

第10回日展に「杉」を出品するが落選。

(またもや厳しい現実を突きつけられます。)

 

47歳【22】昭和30年(1955)

「聖徳太子殿天井画」依頼され描き、その後九州、四国、紀州を旅する。

(22は、これでもか!これでもか!という、凄まじい創造と破壊の時期でした。

そのような時、人々の心の救済目的で制作活動を行ったことで、宇宙的なエネルギーを感じ、自然と新しいステージへ動きだしたと言えます。旅行はその後の一村に大きく影響しました。)

 

49歳【24】昭和32年(1957)

院展への出品を目指し制作を開始するが出品記録なし。

(受け入れられないと知りつつ、諦められないという揺れ惑いを感じます。傷つきながらも自己信頼のために、あえて提出しなかったのか、諦めや頑固さで提出しなかったのか。どちらにしても真面目に取り組んできた一村には、今何が起こっているのかを自身が納得できる全体像を把握できる理由を探していたのではないでしょうか。)

 

50歳【25】昭和33年(1958)

院展に「岩戸村」「竹」を出品するが落選。

自分の絵と院展の理想主義は合わないことはわかっていての出品だった。

中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意。家を売る。

12月13日奄美大島に到着する。

(揺れまどう自己との決別を強いられたのだと思います。『今までの生き方では、もう生きられない』と。最愛の姉を置いていくという身を切られるような想いで自ら決別・破壊をおこします。変化せざるを得ないといった決意だったのかもしれません。当時は未開の地であった奄美を目指したことは、誘われるような変化が待っていたとも言えます。内省・精神性の表れと捉えられます。)

 

51歳【26】昭和34年(1959)

国立療養所奄美和光園の官舎に移り住み小笠原医師との共同生活を始める。

(別れがあり、精神性へと誘われ、新たな援助者の出現がありました。

そこ(療養所)では家庭的な雰囲気を味わったとされています。療養所の人々の似顔絵を描いて喜ばれました。)

 

52歳【27】昭和35年(1960)

千葉に一時帰郷し国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。

(家のない一村を助ける存在がここにも表れ、内省と自己探求を満足させる制作に励みます。)

 

家族を支えつつ仕事と画業とを両立させながらの生活は、どれほど困難であったろうと容易に想像はできません。しかも相次いで落選が続き認められないという事実は心身ともに辛く厳しい時期でした。

落胆、諦め、複雑な気持ちを抱え、独り奄美行きを決断しました。

この時期の奄美行きは一村にとって絶対的な方向性へと誘われた結果と推察します。依存や境界線を学ぶことを誕生数やこの時期の課題に持っていたからこそ、その課題に挑んだというよりは、自然な流れだったのではないでしょうか。

独り自然のなかに身を置くことで一村は自然と同化する(内側に入る)感覚を悟ったのではないかと言われています。『大自然というモチーフのなかに自らが入り内側からその本質(美)を描くのである。』と、自ら語っています。

家族や環境との決別と霊性への目覚めをバランスさせた、この時期のテーマが表れていました。

 

53~69歳

Cy【9】  テーマ:完結・変容・官僚・寛大・宇宙・浄化・共感・自然

P 【7-16】状 況:飛躍・内省・観察・分析・調整・霊性・叡智・直観過去で他者に与えた苦しみや痛みの生産を強いられる

Ch【2】  課 題:相対・結合・協力・女性性・受領・境界・感受性・バランス

 

53歳【9-19】昭和36年(1961)

知人の勧めで見合いをし、一時は結婚を決意するが自分の為に生涯を捧げてき姉・貴美子の気持ちを想い自ら破談とした。4月奄美に戻り借家に移り農業を始める。

(複雑な二極性、揺れ惑いが出ています。現実社会の中での本当の意味で自立や普遍的真理の確立もテーマでした。実際に独自の画風を作り上げていきます。)

 

54歳【2-20】昭和37年(1962) 

名瀬市大熊の大島紬工場で染色工として働き始める。「5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」という画業10年計画を立てる。

(生活と真の本当にやりたいことのバランスを図った計画だったと言えます。)

 

57歳【23】昭和40年(1965)

3月末、姉喜美子の危篤を知らされ千葉に帰省。5月16日喜美子逝去(60歳)

遺骨を抱いて独り奄美に戻る。12月5日、協力者の川村幾三逝去。

(最愛の姉を失ったことは、どんなにか辛い痛みだったことでしょう。協力者の死と相次いで大切な人を失いました。)

 

59歳【25】昭和42年(1967)

5年間働いた紬工場を辞め絵画制作専念。

以降3年間に奄美時代の主要な作品が制作された。

(『イメージの世界で価値ある創造物を現実社会で具現化すること』を、まさしくやりました。それまでに備わった才能を発揮していきます。)

 

61歳【27-9】昭和44年(1969)

代表作『アダンの海辺』(中央)を制作。生涯手元に置き、自ら『閻魔大王への土産』と称している。

(やっと納得できる画が描けたのではないかと思います。気の遠くなるほどの精密な描写が精神性への深い探求を表しているようです。誰も見たことのない一村だけが表現できる世界がそこにあります。)

 

 

62歳【28】昭和45年(1970)

再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現できなかった。

(実行力の欠如ではなくお金の問題でした。思ったよりも当時の物資の高騰が原因だったと言われています。)

 

63歳【2】昭和47年(1972)

2月紬工場を辞職。画業に励む予定も4月腰を痛め、7月2日山道でめまいを起こし失神し崖彼から転落。10月10日炊事中にめまい失神、火傷を負う。

12月31日バスの階段で昏倒するなど体調不良に見舞われ、思うように制作できなかった。

(健康問題に悩まされます。)

 

64歳【3】昭和48年(1973)

『蘇鉄残照図』『岩上の赤翡翠』等の制作。秋、再び紬工場で働き始める。

(表現へのエネルギーは高く情熱を保ったまま、集中して純粋に目的達成のために邁進しました。代表作品が生まれています。)

 

64歳【4】昭和50年(1975)

7月または8月、紬工場を辞める。

(画業のため、コツコツ着実に物事を計画的に進めていました。)

 

68歳【7】昭和51年(1976)

6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ一週間入院。

その後名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリに励む。

姉・房子と甥・宏が来訪。身体が利かなくなった一村の家の中には奄美で描かれた画が散乱している状況だった。二人は一村の作品を預かり千葉に持ち帰る。

(バランスを崩しやすく注意が必要でした。)

 

69歳【8】昭和52年(1977)

春、体調やや回復する。3月、5月奄美在住だった友人の紹介で写真家・田年辺周一と会う。田辺は散逸しそうだった一村の遺品を預かり保管する。

9月1日それまで住んでいた借家を引き払い和光園近くの畑の中の一軒家に移り「御殿」と称し暮らし始める。何物にもとらわれず、いよいよこれから画業に専念しようと一村は意欲に燃えていた。

 

11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、独り旅立つ。

69歳の生涯だった。夢見るような美しい死に顔だった。

葬儀は島で親しくしていた人の手で行われ、親族は間に合わなかった。

遺骨は後日親族に引き取られ満福寺の田中家墓所に埋葬された。

法名:真照孝道信士

大自然の生命の営みや躍動といった真実の美(真)に日本画の画法の光をあて(照)、それをモチーフとしてその真実世界を画家の良心にかけて描く、そうした嘘のない画業の道(道)に忠実に愚直に生き(孝)、虚飾のない作品で中央画壇に勝負をかけた、画心一如の画家、男らしい気概に満ちた信念の士、絵を画くなかでにニライカナイ(海上他界)に心を遊ばせていた(仏の心境にあった)人(信士)、という意味。

 

(Year Cycie【8】は、永遠・無限を表し現世と永遠の死を示しパワフルでバイタリティーにあふれたナンバーです。

秩序・情熱・権威・支配・野心・活力・制限・現実性・繁栄といったことも代表的な内容ですが、一村はまさに自己信頼や開拓精神と精神性の向上に常に務め、地道な努力と目標意識を高く持ち続けていました。

22日に生まれて11日に旅立った一村。

【22】は、精神性の目覚め、2つの世界をつなげる役割を持っています。破壊と創造を繰り返し痛みを伴いながら魂の成長を目指しました。

【11】は、エネルギーが強く自分の持っている霊性を世のために使うナンバー。

漠然とした直観を活かして自立独立・バランスをとる、真の理想を追求し魂の成長を遂げる。高潔さを選ぶこともテーマでした。

一村は与えられた時間の中で、見事に生き切ったといっても過言ではないと感じます。)

 

 

ここからは、一村没後の経緯

 

76歳【6】昭和59年(1984)

12月16日、没後にNHKの『日曜美術館』「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」放映や『南日本新聞』に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催、一躍脚光を浴びる。

南を目指したことから「日本のゴーギャン」などと呼ばれる。

評伝や画集も複数が刊行され、記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになった。

 

77歳【7】昭和60年(1985)

8月旧版 『田中一村作品集 NHK日曜美術館「黒潮の画譜」』 日本放送出版協会出版

 

93歳【5】平成13(2001)

変化・自由・革新・多才・機知・冒険・刺激・破壊

美術館開館  鹿児島県奄美大島(現・奄美市)の旧空港跡地に「田中一村記念美術館」がオープン

『田中一村作品集 新板』 日本放送出版協会、出版

 

98歳【10】平成18年(2006)

田中一村の生涯を描く映画『アダン』が企画・公開。監督:五十嵐匠、出演 :榎木孝明、木村文乃、田中喜美子、古手川祐子、村田雄浩、加藤剛、中村嘉葎雄

 

 

100歳【12】平成20年(2008)  

生誕100年にあたり、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展-原初へのまなざし-」が開催。入場者25,000人。

ここからはチャートから読み取れない(載っていない)

 

102歳【 】平成22年(2010)    

千葉市美術館で、「田中一村 新たなる全貌」を開催。

一村ゆかりの地(栃木、千葉、石川、鹿児島)にある美術館が共同で取り組む初めての回顧展で近年新たに発見された資料を多数含む約250点の出品作による最大規模の展覧会となった。入場者は61,166人。

その後、鹿児島市立美術館、田中一村記念美術館に巡回。

『もっと知りたい田中一村 生涯と作品』東京美術出版

 

104歳【 】平成24年(2012)

沖縄県立博物館・美術館で、本土復帰40周年記念「田中一村展~琉球弧で開花した美の世界」を開催。

石川県立美術館で「孤高の画家・田中一村展」を開催。

 

105歳【 】平成25年(2013)

田中一村作品集 「増補改訂版」』 NHK出版。

 

107歳【 】平成27年(2015)     

一村の写真集『海神の首飾り』(リーブル出版)刊行。

 

110歳【 】平成30年(2018)

岡田美術館で「田中一村の絵画-奄美を愛した孤高の画家」開催。

佐川美術館で「生誕110年 田中一村展」開催。

 

111歳【 】平成31年(2019)

『田中一村“南の琳派”への軌跡』、平凡社「別冊太陽 日本のこころ」出版。

その他:毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。

一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

 

 

[まとめ]

あらためて一村の激しく高潔な厳しい生きざまと人生を知ることになりました。

修行僧のように生き、制作を続けた一村に、尊敬の念を抱かずにいられません。

同時に恐ろしさも感じます。

そして、田中一村という人を想うとき、何故だか涙が溢れてきます。未だ作品を前にして思わず我が身が縮み、申し訳ないような気持ちがするのです。

今の私には、まだこの画を見るに値しない存在なのではないかと。この画を見る準備ができているのか?と、問われているような気がするのです。

 

数秘を通じて思うのは、一村という人は驚くほどにそれぞれのナンバーのマチュアで生きていたのではないかということです。アマチュアさえマチュアと思うほどに、どん欲に誠実に自分の心と向きあっていたと思えるのです。

貧しさや悲しみと悔しさの中で、もがいていたようにも思われますが、なんと自然体であったことでしょう。本来自身が行くべき道を、ただただ歩んでいたのではないかと。そしてそれは他人が思うよりも、一村自身は満足と幸福の中にいたのではないでしょうか。

自分の心に忠実に生きるということは、なんとも美しく尊く潔いものなのでしょう。彼の作品からは痛いほどの真心と平和と愛が満ちあふれています。

その独自の画業・生きざまから、今、時空を超え、私たちに発信し続けているように思います。

 

田中一村殿

あなたの残したものは作品だけではありませんでした。心に静かな情熱を燃やして、命を使い切り、『生きる』ということを教えてくれたように思います。

どう在るべきか。どう在りたいのか。

自分の中にあるものを探っていきたいと痛感しています。

 

追記)一村の言葉や生き方が、我が父と重なる事柄があることに気付いた。

『パンの為に絵は描きたくない。画は売らない。』と言っていたことや、画が気に入って欲しい人にはあげてしまうことや、『数年働いて学費をつくり美術学校に通い、また働き、画材購入するために極限まで生活を切り詰めていたこと』等があげられる。どこか、人の群れを嫌い孤独を愛していたように思う父だった。

サラリーマンをしながら画を描いていた。

父に『お前は、命を懸けるものがあるか』と、問われたことがある。

その時は、(今はまだ無い。わからない。)というような返事をした私に、父は『命を懸けるものがない奴は、生きる資格がない』と、言い放った。

呆然とした。未だに答えが見つかっていない。

今回、一村が同じことを言っていたことに身震いした。

『絵(画)を描くと言うことは、命を懸けると言うことだ。』と、改めて2人から言われた気がした。『生半可な気持ちで手を出すな!』と。

また、『画家たるものは絵筆1本を携えて、飄然と漂泊できるようでなくてはならぬ』これが一村の口癖だったそうだ。

一村が遺した遊印に「自吾作古 空群雄」(吾より古を作り、群雄を空しうす)と刻まれている。中国の篆刻書画壇で活躍した人物:呉昌碩の詩の一句「自我作古空群雄」に由来しており「古今の優れた人々の業績にとらわれずに自ら道を切り拓く」という意味だそう。

・・・二人からのメッセージをかみしめて、これからの人生を進めていきたいと思う。

 

first-year student by Keiko・D

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

ヒロミさんをリーディングされたShokoさんは読み取ったものを文章に現すという作業がなかなか進まない自分と向き合いながらも最後まで頑張って課題を提出できました。途中で弱気になりながらも最後までやり終えることが出来たことがこれからのご自身の自信に繋がってくれるものと思います。

(2019年10月のものです)


〈ヒロミ〉
本名     小園   浩巳    こぞの  ひろみ
生年月日    1965.   2. 13
職業   お笑いタレント、司会者
ラジオパーソナリティー
実業家、レーサー
トライアスロン競技者

 



・誕生数   #9-18
生まれ持った資質、性格、個性

 

#9のナンバーは、正義感あり、深い慈悲心で、包容力があると言われています。

ヒロミさんは相手に対して、冗談をまじえながら毒舌口調で話すこともありますが、実はとてもまじめで人に対してとても気遣いをされる方だと思います。

これは、学生の頃不良の仲間に入り師弟関係がとても厳しかった中で、人との関わり方を学んだことも影響しているのだと思います。

老若男女問わず、誰にでも真剣に向き合うことが出来るのは、9番をもつヒロミさんが生まれ持った愛があるからだと思います。

少し頑固な一面もありますが、他人に積極的に向き合う性格は、社交的で協調性が高く、また柔軟性が高い9の性質だと言えます。

周囲の人にも人気があるのは、博愛精神で相手に向き合えるからこそ慕われやいタイプだと言えます。

 

 

・運命数#6-15

人生における使命や目的、何を実現していくべきか


#6をもつヒロミさんは器用で美的センスがあり、愛を喜びとして表現してゆく人です。

そして、平和で穏やかで究極の愛を求めてゆく人です。

芸術や芸能のナンバーでもあるので、それを生かした職業についていらっしゃると思います。

又、教育ナンバーでもあるので、何かしらの形で自分の得意分野を教えたり、人を育てていくと言うことも才能としてもっているのではないかと思います。

社会や芸能界というところにいた彼が事故をしたことにより、自分を見つめ直して色々と考えたと思います。

 

ヒロミさんは、社会人の時と芸能人に入ってからも大きな事故に合いました。

芸能界に入ってからの大やけどの事故で長期に仕事を休んだ時に

「自分の人生は、これでいいのか、いや違う…もっと自分の人生を大きく、幅広くやって行きたい、進んで行きたいと」と今後のことを考えたとのことでした。

芸能界という沢山のお金が入ってくる仕事をする中で、その仕事が出来ない時に本当に大切なもの、自分の目指していくものということを深く考えたのだと思います。

 

ヒロミさんは事故を経験したことで、6のテーマである欲や執着心を断ち切ることの学びに向き合うきっかけになったのだと思います。

 

 

・ソウル数  #6

「魂の欲求」
一番大切な価値観、優先したいこと

#6をもつ人は、究極の愛を求めるナンバーとも言われています。

妻と子供を愛し、家族愛が強い方です。

家庭では愛妻家で有名です。妻の伊代さんのことは、ダメなんだよ〜と言いながらも、愛情深く彼女を見守っている様子が伺えます。

相手を批判するのではなく、向き合ってダメな部分をお互いにカバーしながら、家族をもつことにより無条件の愛を築いていきます。

ヒロミさんにとって、究極の学びである「愛」を家族を通して学びながら、充実した人生を送っていると思います。



・人格数  #9
その人が気がつかないうちに身につけてしまった第一印象、他者の目に映るその人の表面的人格

誕生数でも同じ数字の#9を持っており、生まれ持った性質と個性も一緒のヒロミさん。

大笑いタレントとしてデビューした当時は、毒舌キャラでアピールしていましたが、無理して作り上げていたキャラでは本来の自分が出せておらず、次第に仕事も激減して行くことになりました。

そして他人の評価を気にする様になっていきます。

芸能界から離れ一時的に自暴自棄になり、海外に逃げようと現実逃避しようと考えたこともあったようです。

混沌やニ極性で悩むことも、9のナンバーの特徴です。

 

10年経ってから芸能界へ復帰されましたが、周囲からは穏和になり平和的になった姿に驚かれた様です。

9のもつ変容と取ることもできます。

 

 

・実現可能数  #6-15

今回の人生での可能性や実現性

運命数、ソウル数と同じく#6をもっています。
人生における使命や目的も一番大切な価値観も一緒のことから、#6のナンバーは愛と歓びと美がテーマです。

 

ヒロミさんは、タレントとして芸能界にみごとに復帰を成し遂げました。

以前はゲストとしての仕事だけでしたが、今では数多くの番組をもち、レギュラーとしてMCなどされて数多くの番組を持ち活躍されています。

運命数でも#15を持っていましたが、ここでも15の数があり共通のことから、マルチな才能が更に発揮されて行かれると思います。

一例としてリフォームを手がけるなどその才能が生かされているのではないでしょうか。

今では番組になくてはならない存在になっていると思われます。

#6は教育ナンバーでもあるので、誰かと一緒に何か取り組む事があるかもしれません。その時は自分が中心となって愛情をもってサポートし、本当の美とは何か、自然の美とは何かなど楽しみながら探求されていかれると思います



・ステージ#6
活躍する場所

#6をもつ人ヒロミさんは、著書にも書いてありましたが「沢山の人との出会いが、自分の財産、宝であります。」と言ってます。

ヒロミさんはこれまで色々な出来事があり、波瀾万丈の人生経験をされてきました。

ヒロミさんにとって精神的に救われたのは「遊びを中心に好きなことをして、楽しむこと」だったようです。

そして人間関係、人との関わりを大切にされていています。

ヒロミさんの周りには沢山の人が集まってくるので、TVでもプライベートでも愛の交流が出来る場所を作り、そこで

活躍されていくのではないでしょうか。

 

 

・チャレンジ#6

チャレンジする課題

 

#6、コアナンバー5個も持っています。

調和ナンバーとも言われています。

コアナンバーが一緒のことから、ヒロミさんのテーマはとても愛が深く、家族を愛し、周りの人を愛し、愛に満ち溢れる究極の愛を求め、自分一人ではなく常に周りと一緒に何かを共にやって行きたいと考えていると思います。

Natureでは、#3のナンバーをもっていることから、新たな企画を考えて周囲の人をサポートし、この世界で様々な事に挑戦して実現されていくと思います。
 

〈T ype II  〉
才能、特質、資質はどんなものを持っているか

Creation   #2

創造する力   何かを生み出す力
受容的創造性
人からのアイデアや周りからアドバイスを受けることが出来るので、ヒロミさんは誰かに依頼ことなどから、自分のアイディアも使って、クリエィションしていく才能があるのだと思います。

Growth   #5 

魂の成長〜何かを成長させる力
経験する歓びに目覚める。家族や友人など人間関係を通して癒しを受ける人です。

ヒロミさんは、事故や芸能界の人間関係を通して、沢山の気づきがあり、成長されていったと思います。

maturithy #2  

完成度   成熟度 そして集合意識のシンパス
集合意識に共感しやすい特徴があります。

矛盾の波動も受け取りやすいので、疲れやすかったりするかもしれません。

 

Lead   #4  

リーダシップ 牽引する力  人をどう導くか

ヒロミさんは人を支援することや、物事を形成する能力でリードしていく才能があります。

Support   #2

サポートする力   何かを支援する力

偉大な奉仕のエネルギーと言われているナンバーです。
自分より相手のことを思う事があり、やりすぎには注意が必要です。

Make  Mood   #3

ムードメーカー 雰囲気を作る力

楽しい雰囲気を作ることが得意で、みんなと一緒に楽しもうとします。

イベントの企画をしたりコーディネートすることが得意です。

Body   #2

身体的バイブレーション

バランスを保つことが必要です。
肉体的なことや精神的に頑張りすぎると体調を崩していまうので注意が必要です。


Emotion   #1

情緒    感情の現れ
情緒面には創造の爆発的エネルギーがあり、子どものようなピュアな心を持っている人です。

Inteligence    #7

知性   知的才能でそれをどう役立てるか

ヒロミさんは、ずば抜けた知性の持ち主です。物事を追求して考え、整理して経験してきた知恵と融合させて、その知性を生かしていくことができると思います。
研究や作家としての才能もあります。

〈History〉
Cycle   環境や大きな流れ
Pinnacle  状況、環境
C hallenge   挑戦

〈0〜27歳〉
Cy(2) Pi  (15-6)  Ch   (2)
この時期はバランスを取るため、色々な人との関わりや様々な経験をすることにより学びとなる。

学生の頃は地元の暴走族に入っていたという。
そこで先輩、後輩の上下関係が厳しいなか、人との関わり方などを学ぶ。
また、この時期2回の事故を経験する事から、身体が健康であることの大切さを学びました。

そして困難とぶつかった時、自分自身と真剣に向き合えた時期だったのではないでしょうか。

1965    0歳  ヒロミ誕生
(#18)       父親   建築家
兄、妹の3人兄弟、次男として、八王子市内で生まれ育つ
父親、建築家のためか手先が器用で才能あり、のちの仕事でも活躍されていくことになります。

1977   12歳 暴走族の仲間に入る

 (#21)

暴走族と言っても、子供の頃地元のお兄ちゃんで「かっこいい」と思い仲間入りしたようです。

その頃、ヒロミさんも含め暴走族仲間のなかで「どうせ悪いことするなら、堂々とやる」みたいな「不良の美学」があったとの事です。

暴走族仲間に入り「そんな生き方がいい訳しない生き方の原点かもしれない」と言っていることから、遊びを通して精神性を学ばれたと思います。


1981   16歳 バイクの免許取得する

  (#25)

高校生時代の頃、周囲ではバイクの免許を取って乗り回すのが流行っていて、ヒロミさんは早生まれのため、暴走族仲間では遅めの免許取得で、その後はバイクに乗り遊び回っていたとのことです。

子供の頃から、上下関係、グループの中の協調性やまわりをよく見て空気を読んで行動を体で学んでいく。理不尽なことを言われてもハイっと言って、やらなければいけない。不良だからといってなんでもやっていい訳がない。

でも、社会にでたらもっと理不尽なことは沢山ある。不良の世界はまったくひけをとらないと言っていました。

暴走族時代の遊びを通して自分との調和をとり、相手との調和を取ることでの人との境界線の学びは2番の特徴でもあります。

また、社会人になった時に、人との関わり方を学ぶことが大きく変化することは5番の特徴だと思います。

 

1983   18歳  日産工場へ就職 自動車事故で内臓破裂

(#27)     

親戚の叔父さんの職場、製造工場で働くことになりました。

真面目に働いていましたが、休日になると仲間と自動車で出かけ遊び回っていたようです。

そんなある日、仲間と数台の自動車で出かけ、どっちがスピードが出るか競っていたそうです。

雨が降っていてカーブでスリップしてコントロールが不能となり、ガードレールにぶつかり、外に吹き飛ばされ内臓破裂する程の大事故でした。

医師には死を宣告されたそうです。

しかし、お母さんは「ダメもとで手術して下さい。」とお願いし手術を受けたところ、成功して生還する事ができました。

そして無事、退院して社会復帰することができました。

 

27のナンバーの時、事故を通じて、生死を彷徨い、本当に自分がやりたかったことに気づくことになります。

本来の自分と向き合って、多くの体験を広げて拡大するきっかけになったと思います。


1986   21歳 お笑いコンビB21スペシャル結成
  (#2-3)  

サラリーマンを辞めた後、お笑いタレントとして芸能界へ入るまでの下積み時代はアルバイトでホストで働きました

そこで相方のデビットとミスターちんと出会い、3人でコンビを組みました。

初めのグループ名は「ヒロミズだぁ」で活動していました。

その後も新宿のショーパブでコントをしていました。

その時、ビートたけしさんと星セントルイスさんがお客様として来店。

その時、星セントルイスさんに「B21スペシャル」とグループ名を改名して頂き活動することになりました。

 

3番は「喜び」を現すナンバーです。

コンビを結成して、お笑いタレントとしてこの世に笑いを広めてゆくことになります。

   

松本伊代さんとの出逢い

伊代さんが司会する番組「オールナイトフジ」での共演がきっかけ。

ヒロミさんのことを「かっこいい。」と一目惚れしたのは伊代さんだった様です。

交際も始まり極秘のためデートは大変でしたが、どんどん愛が深まっていきました。

 

2のサイクルで共依存とも言われますが、お互いのことを意識し交際スタートします。

3番は楽しさがテーマです。素敵な出会いとなったと思います。

               

1987  22歳 木梨憲武と藤井フミヤと出会う

  (#2-4)         

木梨さんは苦手だったけど憧れの先輩、フミヤさんはアイドルスターだったけど、実はヒロミさんのファンだったらしいです。

番組で共演することになり、プライベートでも付き合うことになり、大親友で今では家族ぐるみのお付き合いとの事です。

 

2番は、相対ナンバーとも言われます。

相手と関わることに信頼関係ができ、4番は安定、何でも打ち明けられる大親友に出会った年となったと言えます。

 

1988  23歳 お笑い第三世代ブーム

  (#2-5)

お笑いタレントの下積み時代は、新宿や六本木などのショーパブでは人気はあり、徐々にテレビにも出られる様になります。

この頃よりお笑い界でも一気にブームとなり、お笑い勝ち抜き戦に出演できるようになってきました。

 

5の数は「変化」を表します。

また、話術が巧みで挑戦者ナンバーとも言われます。

お笑い界でもブームとなり、B21スペシャルも他の芸人さん達にはない、自分達のカラーを出し勝負に出たと思います。


1990  25歳   ゴールデンアロー賞 芸能新人賞を受賞する
(#2-7)

お笑い界で多くの芸人が活躍され、お笑い旋風が起きます。


7の数は、コンセプトや計画をより深める時期でもあり研究や学びを表します。

そして才能が評価され、賞を頂くことに繋がったのではないでしょうか。

1991   26歳  レギュラー番組で火傷の大怪我
(#2-8)   

ヒロミさんは全身火傷を負ったが番組は最後まで成し遂げ、番組終了後、病院へ行き入院しました。

入院中、傷の痛みでかなり辛く自分の脚も自力で動かすことも出来ず、退院した後もリハビリが必要で、すぐ社会復帰ができませんでした。

仕事も順調だったヒロミさん、リハビリなどを終えてタレント活動に戻るも、徐々に仕事が激減していく様になります。

そこで、事務所退社を決意することになりました。

 

8番は、責任と義務というところがあり、ここで事務所を辞めるか続けるか、考えた決断だと思います。

リーダーシップや負けず嫌いのところがあり、次の勝負にかけたと思います。

 

1992  27歳  マネージメント事務所 「ビーカンパ二ー」を設立
(#2-9) 

事務所を退社し、個人事務所を設立することになります。

設立にあたって性格的にわがままで生意気と言われても、自分で背負っていくタイプと思われていた様です。

自己の信念を固め、才能を発揮して行く
新たに会社を立ち上げスタートするのは、9番のナンバーの特徴がでています。

〈28〜45歳〉
cy(13-4)
〈28〜36歳〉
Pi(7)   Ch(1)
新たな基盤作り、自分の能力を社会で活かせることの出来る時期

起業や開拓するには、最も良い時期でもあり、安定した収入もえることが出来たのではないかと思われる。
真面目で親しみやすい性格であるため、たくさんの人との交流も多くなっていく。


1993  28歳  松本伊代さんと結婚
(#2-10)
妻は、元アイドルです。交際中は人目を気にしながら交際していた様です。

周囲からも格差婚と言われましたが結婚されました。

 

伊代さんは天然キャラで有名です。

2は共依存ナンバーとも言われておりますが、相手を責めることなく、ダメな部分は自分が補えばいいと言って、相手に対して気遣って、お互いに刺激しながらアットホームな家庭を築いてこられたと思います。


1995  30歳  長男誕生
(#3)
1999  34歳  次男誕生
(#3-7)

#3のサイクルの時は喜びを表すナンバーであり、愛を育むともいわれています。
長男の誕生と同じサイクルで喜びを表す時に出産しています。

次男の誕生の時も同じサイクル時に家族も増え、賑やかになり、暖かな家庭を築いてきたと思われます。


〈37〜45歳〉
Pi  (13〜4)    Ch(1)
より多くの経験を重ねて視野を拡大し、コンセプトや計画をより深める時期
前期のサイクルでも、13-4と同じ
数字があり、軌道修正しながら新たな計画を立て、常にチャレンジの時期とも言えます。

 

2003  38歳頃 海外へ行こうと考えた

(#3-11)

大学に入る為に海外へ行くことを周囲に相談しました。

伊代さんには「いいんじゃない」と言われるも、堺正章さんとは、不仲説で騒がれていますが、実はプライベートでも付き合っていて、堺正章さんのことを「先生」と言って慕っています。そんな堺さんに「海外へ行ったらダメ、日本にいろ」と引き止められた様です。ヒロミさんが海外へ逃げようとしている様に感じとって、説得されたのは堺正章さんでした。

 

11番は、分岐点をあらわします。

この年は、勇気と決断の時で悩んだ時に堺正章さんのアドバイスがなければ、違った人生を歩んでいたのかもしれません。

しかし、ヒロミさんは堺正章さんのアドバイス通り、日本に留まることになりました。

結果的には自分の決断したことに納得され、今現在のヒロミさんで発揮されているのではないでしょうか。

 

2004  39歳 師匠である星セントの死

(#3-12)

星セントさんに「この世界は厳しいからやめておけ」と言われ、現在もその言葉が身に染みてわかります。と感じられています。

 

師匠の死の直前に、ヒロミさんのタレントとして活動している姿をきっと師匠は、わかっていて言った言葉だと思います。

12の数は、環境に流されやすいところもあり、自分の役割をしっかり持ち進んいくことを学ばれたと思います。

 

2005  40歳    トライアスロンを始める 加圧トレーニングジム経営

(#4)

この頃、トライアスロンが流行っていて、ヒロミさんは大会に申し込み参加することになりました。そこで参加された経営者や実業家と出会いました。

俺の人生ではかなりのターニングポイントだと思っていた様です。

元々、自分が身体のトレーニングをしたいという事から、通うなら自分で作ろうと思っていました。

トライアスロンで出会った人達に経営について学び、加圧トレーニングジム経営をすることになりました。

 

4番は「基盤作り」がテーマです。

今後の計画や安定を手に入れるナンバーとも言われています。

コツコツと頑張ってきたことが、成果となりました。
 

2009   44歳  「時遊人-ヒロミ流・遊びの教本」出版

(#4-8)

ヒロミさんは遊びを仕事にしたり、人生をとても楽しんでいます。

そのことをまとめ、本を出版しました。

 

ヒロミさんは、人生の中で遊びも大切なことも書籍を通じて発信していきます。

人生の基盤作りは4番のナンバーでもあり、8番は幅広い人々に交流や発信していくのに適しているとされています。

 

 


〈46歳〜〉
C y (21-3)   Pi(5)   Ch(1)
これまでにしてきた経験や学んで来たこと、多岐に渡り才能を身につけた事が、自信となり視野が広がっていき、活躍されて行かれるのではないでしょうか。

2014  49歳  テレビバラエティーに本格復帰
(#4-13)  

妻伊代さんのテレビ番組で特別ゲスト出演することになりました。

内容の殆どが伊代さんについてでした。

ヒロミさんは、趣味や遊び、仕事など色々と活動して来ましたが、やはりテレビに出てもっと自分を表現しアピールしたいと思ったのは、3番の表れではないでしょうか。

本格的復帰は1番のスタートをきったとも言えます。

 

2015  50歳   「言い訳しない生き方」を出版      

(#5)

 

変化のサイクルナンバーに入る。

仕事も起動に乗り、楽しんでいかれると思われます。

ヒロミさんは自由が好きで趣味多彩なので、仕事も自分で経営するなど、色々と活動されマルチな才能を生かし5番サイクルの5番でさらに変化を起こしています。

もっと多岐に渡る才能をこれからも発揮されていくと思います。

 

2016  51歳  長男俳優デビュー

(#5-6)

我が子も自分と同じ芸能界の道に進み子供の成長に喜びを感じたと思います。

 

2017  52歳  24時間テレビで駅のリフォームを手掛ける

(#5-7)  

八王子工務店事業も立ち上げる

 

#7は、極めナンバーとも言われていて、もともと美的才能はあったがチャリティー番組で全国に才能が認められていくことになります。

この頃からリフォームや大工職の仕事が増えてきました。

 

2019  54歳 「小休止のすすめ」を出版

(#5-9)

ヒロミさんは、人生においての喜怒哀楽、自分と向き合いながらさまざまな経験をしてこられました。

一度は芸能界から離れましたが、休息することで新たな自分を取り戻す、貴重な時間だったと思われます。

 

9番は貴重な体験を完結させ、また奉仕ナンバーでもあります。 

もし人生に行き詰まっている人がいたら救ってあげたいという気持ちがあったと思います。

この書籍で小休止し、また新たに奉仕活動や社会貢献の為に活躍されていかれると思います。

 

 

リーディングを終えて
ヒロミさんのコアナンバーは#6と#9の数字が主にあって「調和」と「完結」です。

ヒロミさんはこれまでの人生で、事故や怪我、仕事面で色々と悩んだ時期もありました。

しかし、ヒロミさんは辛い経験もプラス思考の考えに切り替えて、時に自分を見失いながらも常に前向きに考えて、ひとつひとつ乗り越え次のステージへ進んできました。

ヒロミさんを読み取る中で知ったのは、どんな困難があっても前向きに考え、彼のモットーは「決めたら動く、頭で考えない。」と言って行動することでした。

また、ヒロミさんは「出会いは宝」と言っています。

周囲からも慕われ、幅広く交流されてとても愛が深い方です。

ヒロミさんの数秘を読み取り、コアナンバーには意味があり、それぞれの数字に意味がありました。

相手を読み取ることで自分を知ることになり、自分の本質を受けいれ、これからの人生、有言実行前向きに進んで行きたいと思います。

数秘に出会えた事に感謝です。

ありがとうございました。

 

first-year student by Shoko・K

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

梨園に生を受け、脈々と受け継がれてきた伝統を自身がしっかり繋ぎ、さらに海外へも目を向け歌舞伎界の発展に力を注いだ中村勘三郎さんをリーディングされたHiromiさん。常に自分のアイデアを形にするべく新しさに挑戦していた勘三郎さんの生き方を読み解いていく中で彼女の内側に浮かんできたものはどんな事だったのでしょうか。

(2019年10月のものです)

 

十八代 中村 勘三郎

~伝統ある歌舞伎に新風を吹き込み駆け抜けた人~

 

本名: 波野 哲明(なみの のりあき) 

出生: 1955年5月30日

没: 2012年12月5日 (57歳)

職業: 歌舞伎役者 俳優

 

歌舞伎役者の家庭に生まれ育ち、伝統を守り伝承していくことと、自分らしさを出すことに葛藤した人生を、数秘を見ながら振り返ってみたいと思います。

 

 

 

<誕生数> 生まれ持った資質、人生の使命     

# 1(19―10)

カルミックナンバーの19と10を持つ1番の勘三郎さん

家族や自分の殻から抜け出そうともがき、揺れて不安定になり、せっかちな未熟面を出しながら自立を目指し人に癒しを与える人です。

本当の意味での自信と威厳を現実社会で確立していくことを学ぶ、力のある人で金銭的に困らない人です。

平成中村座を立ち上げ、様々なトラブルがありながら海外公演を実施し、継続させることができたのも、#1の性質が出ています。

#10スピリチュアルナンバー 

霊的な素質を豊かに発揮する能力に恵まれています。

直感力や洞察力インスピレーションが目的成就への有効な手段となります。

 

<運命数> 表面の意識、仕事面に出る       

# 8

パワフルで革命的向上心を持つが、納得できないと動けない一面があるのが特徴です。組織の中でトップを目指すには、ワンマン、短気に気を付けシェアをする事が大事です。

コクーン歌舞伎、平成中村座の立ち上げを行うことが、歌舞伎界への新たな挑戦になりタイプⅡのLeadの#3ともリンクして、自分の考え構想を口にすることで周囲を巻き込み、一緒に創りあげていくことができたのだと思います。

 

<ソウル数> 心の中にある魂の欲求        

# 5

自由でありたい 歌舞伎という伝統を守り、伝承していく責任を背負いながら新しいもの、演じる時に合わせた演出、自分の感じるまま思うように演じたい気持ち、周囲を巻き込み、勘三郎さんは魂の欲求に従って行動していた姿が見えてきます。

 

勘九郎として最後の年に、夢は叶うもの、自分でできる限りの努力をすれば。

一番大切な事は諦めないこと、どんな時でも自分の夢を捨ててはいけない、夢を持っていれば必ず突き進んでいけると想いを伝えています。

 

<人格数> 環境などから身に付けた表面的人格(ペルソナ)   

# 3(30)

お茶目な遊び人、アイデアマン、多趣味多忙、人を癒し惹きつける人

プライドも高く失敗に対する不安も強い、メンタル面が弱いところもあります。

勘三郎さんは子供の時から天真爛漫で、物怖じしないのびのびした演技は「天才少年」と称され、父や祖父の芸を受け継ぐ歌舞伎界のホープとして期待されていました。人との交流も広く信頼も強かったようです。

 

<実現数> 何を実現しようとしているか    

# 9

9番は、完成・完結ナンバーです。歌舞伎の伝統継承と新しい風の融合に取り組んだ勘三郎さんの功績は、歌舞伎役者の活躍の場をテレビドラマ、舞台、ミュージカル、ラジオなど枠を超えて社会と繋いだことからも伺えます。

 

 

<ステージ> 活躍の場     

# 8

勘三郎さんにとって活躍する場所は、まさに歌舞伎の世界でした。

4歳(22)で五代目中村勘九郎を襲名し、桃太郎で初舞台。

49歳(5-14)で五代目中村勘九郎を桃太郎で舞台納めをしました。

50歳(6)に入り十八代中村勘三郎として本格的活動が始まりました。

#8は、達成の場であり、様々な力の中でバランス、コントロールが必要で体と心(健康)にも注意が必要です。#6サイクルともヒットして、病に注意が必要な時期だったように思えます。

 

<チャレンジ> 生涯をかけて挑戦していくこと   

# 1(19-10)

誕生数と同じ数字を持つ勘三郎さん

歌舞伎の伝統継承と現代の新しい考えの融合への挑戦、新風を吹き込むことが始まり自立の数字#1を持つ特長だと思います。

コクーン歌舞伎や平成中村座の立ち上げ、ニューヨーク公演、現代劇と歌舞伎の融合を進めた事が挑戦でした。

 

 

<タイプⅡ>  

人生の航海図を読み解く鍵になる その人の個性、特質を教えてくれる。

 

Creation 創造する力  何かを生み出す力

#4 基礎をしっかり形成させ、実際の成果を導く力があり、学び教える事ができる。

着実性やこつこつ時間をかける忍耐力があり形にする能力があります。

勘三郎さんが子供時代からドラマ・ラジオと多方面で活躍し、人脈を得て行ったことが、コクーン歌舞伎・平成中村座の立ち上げに繋がり、この力が発揮されたものと思います。子供達や次世代に与えた影響も大きかったようです。

 

Growth  魂の成長 何かを成長させる力

#2 真の自立した人間関係を学び、受身から自立へ自らの人生に責任を持つ人

勘三郎さんの誕生数、チャレンジ数の後押しをして、歌舞伎の伝統継承を守り伝えるだけでなく、自分の思い、構想を取り入れ新しい事への挑戦にも影響があったと思われます。

 

Maturity  集合意識へのシンパス

#3 感情(怒り・イライラ)にまつわる集合意識のキャッチ コミュニケーション能力を発揮できる人

人懐っこいお茶目な面を持つ勘三郎さん。楽しく過ごす事、場を盛り上げる事に長けていたのは、この力も影響があったように思われます。

 

Lead    リーダーシップ(職業での立ち位置)人をどう導くか

#3 感受性豊かな表現により、人の心に光を灯す。その人のエネルギーをもらいインスピレーション・ヒントを与える中でリーダーになっていく人

勘三郎さんの歌舞伎に対する取り組みは、自分の考え構想を口にする事で、周囲の人のアイデアを生み出して一緒に作りあげていったようです。 

       

Support   サポートする力 何かを支援する力

#1 無気力・病・不満など自分が経験したことをシェアして、勇気を与えて行くことができる人だが、一匹狼的

八月休演が通例の歌舞伎座で、納涼歌舞伎を初上演できたのもこの力の影響があったかもしれません。

2012年、病気入院中に、野田秀樹に癌で入院して医療器具につながれた姿を芝居にしたいから、しっかり記録をしてほしいと話されたことも、病と戦う人への応援だったのではないでしょうか。

 

MakeMood  どんな空間造りができるか

#5 刺激(香り、音楽などのアイテムを使う)をもたらすバイブレーション 

リズミカルでペースがはやく、変化と冒険の人

シアターコクーンでの「コク―ン歌舞伎」上演、新作歌舞伎「野田版研辰の討たれ」平成中村座の海外公演などに特質が発揮されています。

 

Body     身体エネルギーの強さをみる

#1 バイタリティー循環、エネルギーが回らなくなると、不安によるうつ病に注意が必要です。運動が必須です。

2010年末から2011年の体調不良に現れたのかもしれません。

 

Emotion    情緒、感情の強さの現れ

#5 鋭利な感受性 束縛と自由 激動と熱情 激しくのたうちまわるエネルギーを持つ人です。エネルギーの循環が必要で、日々忙しく移動や時間刻みの仕事をしたり、仕事から離れてゆっくりエネルギーを回す時間を無意識のうちに行っていたようです。

 

Inteligence   知的才能とそれをどう役立てるのか

#3 人の前で話すこと。パフォーマンス表現することをやるべき人。

習うよりやった方が良い、理由なき才能を持った人

勘三郎さんは、このInteligenceの#3の特性を思う存分に発揮したように伺えます。

 

 

<タイプⅢ> 2極的性性質が表記される

Balance プラスなので先天的にたくさんの資質を支えられています。

 #4    何をやってもそこそこできる。だが、本人は認めない。気づきにくい。

 

 

<人生の周期> 4つの周期に分類される

Cycle Numbers:その時のテーマ(cy)

Pinacle Numbers:その時の状況(p)

Challenge Numbers:その時の課題(ch)

 

➀0~35歳 10歳から#2自分の人生 結婚・子供の誕生、親友たちとの出会い(cy:5・p:8・ch:2)

自由に新しい風を起こし、形になったものを更に活性化させ、不可能への挑戦と開拓をすすめる時期でした。

課題として調和を計ることでした。

子供の時から天真爛漫で、人望もあり歌舞伎だけでなく、テレビドラマ・舞台・ミュージカル・ラジオと幅広く自由に活躍していた勘三郎さん。

その経験の中で人生の仲間との出会い、自分の思い、夢を語り共有し、達成を目指し日々努力を積み重ねていました。

歌舞伎の世界で生まれ育った同じ環境であった、好江さんとの結婚は、自分の破天荒な行動、考えを理解し、共に歩んでくれる最高の理解者を得たと思われます。

二人の子供の誕生、自分の思い「中村屋」の未来を託していける心強い後継者にも恵まれ、充実した時を過ごした時期であったように思われます。

第一サイクルは、家族障害が起こりやすいが、新しい風を起こす数字を持っているので調和が図れたと思われます。

 

 

②36~44歳  新しい立ち上げへの経験と学習

(cy:3(30)・p:5(50)・ch:1)

楽しく表現し、具体的な計画のもとに、より多くの事を経験しながら視野の拡大、開花を楽しみ、自立、何かを確立することを課題とした。

32歳(4-6)で、父十七代中村勘三郎と死別し後ろ盾をなくしながら、父から引き継いだ演目を必死に演じるなかで、夢をかなえるために諦めない努力を続け、39歳(4-13)で、渋谷シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を初上演 

父から習った最後の演目「四谷怪談」を上演しました。

これが、五代中村勘九郎の名を世間に広げるきっかけとなり、今後の活躍を裏付けるものとなりました。

 

 

③45~53歳  夢の実現と勘九郎から勘三郎へ襲名

(cy:3(30)・p:4(13)・ch:1)

楽しく表現し、基盤をつくり、安定を図りながら#4(13)の創造と破壊を繰り返し、常に学びを喚気させられる厳しいナンバーを勘三郎さんは持っていました。 

自分の思い通りに行かなかったり、人道的な軌道をはずれたり、欺きがあると大変な事態に発展することがあります。自立が課題となります。

19歳の時に小屋を作り、世界の色々な人々に歌舞伎を観てもらいたいと思った思い、勘三郎襲名に18年の歳月をかけ、勘九郎のままで良いのではという思いがあるが伝統ある名を継承していかなければならないなど葛藤がありました。

45歳(5-10)に、夢であった、江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場「平成中村座」を隅田公園内に立ち上げ、夢を着実に現実のものに進めて行きます。

勘九郎として最後の演目を「苦労納御礼・今昔桃太郎」桃太郎で勘九郎を襲名し終わらせる勘三郎さんのお茶目な一面を周囲の人も理解し、楽しんで創りあげていった様子が伺えます。

50歳(6-8)に国税局より申告漏れを指摘され、長い間経理を任せていた人の裏切りが勘三郎さんの精神的苦悩の始まりで、社会的制裁を受けてしまいました。

 

 

④54歳~  精神不安からの体調不良

(cy:2(20)・p:7・ch:3)

いろいろな変化を受け入れ、人間関係と協調性を学び、本来の自分を内省し精神の充実を計り、平穏さを保ち、コンセプトや計画をより深めていくことを楽しみながらコツコツと取り込んでいくことが最終サイクルのテーマになっています。

54歳(6-10)で長男が結婚し、親としての責任から解放されました。

過密スケジュールからの体調不良 毎年受けていた健康検査を受けず、遅れて受けた検査での食道ガンの発見(6-13)体に影響の出る生と死の№の年です

手術後の復帰を急ぐ気持ちが招いた、誤嚥からの肺炎併発

急性呼吸窮迫症候群(ARDS)に陥り、自分の夢だった外国人演出家に歌舞伎を演出してもらいたい、自分がいなくなった未来にも色々なところで「中村座」を開催してもらいたい、との思いを二人の息子・孫に託し2012年12月5日 57歳(6-13)で永眠する。

 

 

 

<History>

 1955年5月30日(#19)

  姉二人のあと、中村屋の跡取り息子として東京都で誕生する

            父:十七代 中村勘三郎

            母:元代  六代 尾上菊五郎の娘

            長女:久里子

            次女:千代枝

 

1959年4月 4歳 (#22)

歌舞伎座にて「昔噺桃太郎」桃太郎で五代目、中村勘九郎襲名し初舞台をふみました。

#2は芽吹き、#4は基盤作り、#22仕事面であらゆる分野の創造、開拓、指導を目指すところでの初舞台と襲名を迎えています。

歌舞伎役者五代目中村勘九郎の活躍を予言するかの良い時期のスタートだったと思います。

  

1965年  10歳 (#2) 自分の人生を進みはじめる

舞台・映画・テレビ・ラジオで子役として活躍

 

1986年  13歳 (#2-5) 親子でしか演じられない「連獅子」を初めて踊る

父(十七代中村勘三郎)と「連獅子」を踊る。

歌舞伎の演目の中で親子でしか踊ることができない連獅子を2周期の5サイクルで踊っていることは、歌舞伎を継承していく中で父の背中から多くのことを学ぶ大切な場になったのかもしれません。

 

1977年  22歳 (#3-5) 初ミュージカルに挑戦する。

「若きハイデルデルヒ」初のミュージカルで大竹しのぶさんと初共演する。

ここで共演した大竹しのぶさんとは、共演中に遊びに行ったりしていたとのエピソードがあります。

この時にはそれ以上の発展はなく、数年の時を経て、親友と呼べるような関係になっていきます。

3周期の5サイクルという時に出会った大竹しのぶさんは、勘三郎さんにとって互いに成長したい気持ちや楽しみたい気持ちを刺激し合える存在だったのかもしれません。

 

1980年  25歳(#3-8) 結婚

子供の頃から直接話をする機会は少なくてもその存在は知っていた七代目中村芝翫さんの娘、好江さんと1979年夏(#3-7)で再会したことで赤い糸が繋がったと感じ、1980年11月27日に結婚しています。

勘三郎さんにとって3周期の8サイクルでの結婚は、「中村屋」を楽しく発展させていくのに良い時期での結婚であったと思われます。

 

1981年 26歳 (#3-9)

長男誕生 1981年10月31日 波野雅行

 

1983年 27歳 (#3-10)

次男誕生 1983年5月18日  波野隆行

 

1985年 30歳 (#4)

野田秀樹と出会う(基盤を作る)

 

1986年 31歳 (#4-5)   父との「連獅子」を踊る

これが父(十七代中村勘三郎)との最後の共演となりました。

後にこの共演について、高齢になった父を心配していたが、舞台の上の父親に後光がさし、なんて役者なんだと感じたと語っています。

この共演が勘三郎さんにとって父親がとても大きな存在であり、いつでも心の中にいて十七代目が喜んでくれるよう役者になりたいと思うようになる出来事の1つとなりました。

師から学びながら基盤を作るのに良いタイミングでの共演ではありますが、5番は障害ナンバーとも言われる数字であるため、偉大な父(十七代中村勘三郎)に捕らわれることなく、自分らしい歌舞伎役者に向けて基盤を作っていくことを大切にするべき時でもあったように思います。

 

1987年 31歳 (#4-5) 2人の子どもが同時襲名する

長男 雅行 5歳2ヵ月 二代目 中村勘太郎

次男 隆行 3歳7ヵ月 二代目 中村七之助

「門出二人桃太郎」で初舞台。

 

1987年 32歳 (#4-6)

父(十七代中村勘三郎) 肺癌が見つかる

歌舞伎座百年記念興行幕開け一月の舞台9日目で父の演じた俊寛の代役を務めた。

入院中の父から「四谷怪談」を最後に教え受けた。細かく教えてもらい、習ったことはすごくためになったそうです。

 

1988年 4月16日 32歳 (#4-6)

父、十七代中村勘三郎死去 

歌舞伎の世界で、まだまだ未熟な時に偉大な父の後ろ盾を失くし「中村屋」の今後への不安、途方に暮れている時に「四谷怪談」を公演する機会があり、五代目中村勘九郎という役者を世間に知って貰えるようになりました。

#4基盤を作る時期に#6父との死別により、自分の学ぶもの、内面の強さを養う時期だったと思われます。

 

1990年 8月 35歳 (#4-9)

8月休演が通例の歌舞伎座で「納涼歌舞伎」を初上演する。

今までの堅い歌舞伎のイメージを軟化させ、江戸時代のような芝居小屋で歌舞伎をやると宣言したのがこの時期です。

 

1994年 39歳 (#4-13)

5月渋谷シアターコクーンで「コクーン歌舞伎」を初上演。

父から習った最後の演目「四谷怪談」を上演しました。舞台での必死さ、一生懸命さ、純粋な姿が伝わり、五代目中村勘九郎の芝居を観に若い人達が劇場に足を運ぶとか、今まで歌舞伎を観たことがない人が歌舞伎座に来るとか、新しい風を起こしたきっかけになったようです。

 

2000年 45歳 (#5-10)

11月浅草、隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した、仮設劇場を設営「平成中村座」と名付け「隅田川続儀法界坊」を上演。

19歳(2-11)の時に、唐十郎さんの状況劇場 赤テントを建てて狭いところにぎゅうぎゅうで座り、演じている役者と観ているお客の熱気が伝わる様をみて、江戸時代の人達もこうやって芝居を観ていたんだろうという思いから、芝居小屋での歌舞伎上演を目指してきたことが、宣言から10年で立ち上げることができました。

 

2001年 46歳 (#5-11)

8月野田秀樹脚本・演出による新作歌舞伎「野田版研辰の討たれ」を歌舞伎座で上演する

 

2004年 49歳 (#5-14)

7月ニューヨークで平成中村座を設営して「夏祭浪花鑑」を上演

演出に串田和美を迎える

12月歌舞伎座渡辺えり子脚本・演出「苦労納御礼・今昔桃太郎」の桃太郎で五代目中村勘九郎舞台納めをする。

(5-14)海外と縁のある時期に、ニューヨーク公演が行われ、今後の海外公演の道標を立てることができたのでしょう。

歌舞伎という世界で、自分はどうあるべきか考えた末での決断 

勘九郎という名に未練を持ちつつ、次のステップへ進むことを選択しました。

 

2005年 50歳 (#6)

3月~5月 十八代中村勘三郎襲名公演を行う。

 

2007年 52歳 (#6-8)

ニューヨークで平成中村座再演 ドイツ・ルーマニアなど海外で公演

5月、2005年まで3年間の申告漏れを東京国税局から指摘される

 

2008年 53歳 (#6-9)

11月 紫緩喪章受彰する

 

2009年 54歳 (#6-10)

10月28日 長男二代目勘太郎と前田愛 結婚

結婚披露宴で、嬉しさのあまり酒を飲みすぎ酔いつぶれ、披露宴後の記者会見をキャンセルしたエピソードがあります。家族の繋がりを大切にする勘三郎さんらしい、喜び溢れた息子の結婚だったのでしょう。  

 

2010年 55歳 (#6-11)

年末よりうつ病診断を受け入院

2011年2月 初孫誕生

2011年3月 うつ病ではなく特発性両側感音難聴と診断

 

2011年 56歳 (#6-12)

7月舞台復帰する

11月~2012年5月 長男中村勘太郎 六代目勘九郎襲名

平成中村座ロングラン公演を行う。

10月10日義父七代目中村芝翫 死去

 

2012年 57歳 (#6-13)

6月 初期食道ガン発表

7月27日手術

8月2日誤嚥から肺炎、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)

12月5日 死去する

 

 

まとめ

今回の数秘を学んでみて私自身が、自分のことを見つめるのを避けている

何か理由をつけて別の方向へ切り替えている、無意識にしていることが多いことに気づきました。最終リーディングの方を選出するのに、自分と同じ誕生数の方の人生を追うことで何かヒントを得ることができればと思いました。

 

中村勘三郎さんは歌舞伎役者の家庭に生まれ、仕事も歌舞伎役者を選択する運命の方でした。決められた運命の中でもがき、苦しみ自分らしさ、自分の夢を求め努力する姿に感動しました。勘三郎さんは、父の姿を見て歌舞伎の演目の踊り、表現などを学んでいます。

そして、その勘三郎さんを見て、二人の子供が成長しています。

伝承されてきたものを自分が当たり前にしている事で、苦ではなかった事柄を子供たちが継いで行ってくれる喜びと安心が感じられます。

親の姿を見て子は育つ。私の中にも無意識にある親から引き継いだもの、得たもの、その得たものを無意識に子供へ残そう、伝えようとしていた自分に気づきました。

今回の数秘講座、何で受講しようと思ったのか。自分を見つめる一つの手段になる?

受講したいと言った、娘と息子を連れて行き、最後まで見届けたい。

同じ空間で一緒に学び、共通の時を過ごすことを大事にしたい。

そんな私の姿を見て子供達が何かを感じ、思い、成長へと繋がってもらえれば大変嬉しく思います。

 

夢は叶うもの 自分でできる限りの努力をすれば

一番大事なことは諦めないこと 自分の夢は捨ててはいけない

夢を持っていれば必ず突き進んでいける 

と言った勘三郎さんの思いが心に残ります。

私の夢は何だろう。漠然としているものを整理して、これからの人生を楽しく過ごして行きたいと思います。

 

食道ガンからの肺炎の併発、勘三郎としての責任、焦りから生じたものかもしれないと考えると残念でならない。病気から復帰した勘三郎さんの活躍がもっと見たかったと思う気持ちと勘三郎さんの二人の子供、孫の今後の活躍を楽しみにしています。

 

first-year student by Hiromi・H

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

 

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

自由奔放に生きてるように映る杉本彩さんをリーディングしたKaoriさん。

杉本さんの幼少期の状況や家族との問題や仕事面でたくさんの事を経験しながら真の自由を獲得していかれた姿をみて、ご自分の心に映し出されたものはどんな事だったのでしょうか。

(2019年10月のものです)

 



杉本彩さん
〜自分の魂に忠実に生きていく強さを持つ不屈の戦士〜


本命:松本 基栄 (まつもと もとえ)
生年月日:1968年7月19日


日本のタレント、女優、グラビアアイドル、歌手、ダンサー、小説家、実業家、動物愛護活動家として色々な分野で活躍されている杉本さん。自身の書籍の中で「私はいったいどう生きたいのか」と、幼い頃からずっと自分に向けていたとありました。
見た目とは違う内面をもつ杉本さんのリーディングをさせていただきます。




B 誕生数  
生まれもった「資質、性格、個性」に加え「生きる姿勢や才能、その人の潜在能力」を表す
#5   変化 自由 多才 破壊   
家族問題があるとされるナンバーで、生まれつきの勝負師と言われています。
特に14-5をもつ方は自由の誤用を理解するナンバーです。

華やかで自由奔放なイメージの杉本さん。
小さい頃から家族との問題を抱え、生きていく為に高校を辞めモデルの道へ進み生活費を稼いでいたと言われています。
この頃から母親や妹の為に生活の援助や父親的役割をこなすなど自分を犠牲にして頑張っていらっしゃいました。
#5の家族問題です。
障害を乗り越える勇気のナンバーで、あえて家族が障害になってくれたりします。
小さい頃から心の痛みを伴いながら辛い時代を過ごされたと思います。
しかし、家族の抑圧、呪縛から解き放される事で、本来の自分を自由を取り戻し多才な才能を発揮していかれます。

D 運命数
人生における使命や目的、何を実現していくべきか主に「仕事」に大きく影響
#2   相対 調和 協調 受容 境界 バランスを学ぶ反面、依存 共依存が出るナンバーです。
仕事としては調整やサポート、癒しを提供する職業 コーディネーター 芸術などが向いてます。

24歳の時に独立しオフィス彩を設立。
又、スキンケアブランド「アンデスティ」を立ち上げる。その後はヘアヌードや官能小説の執筆、「花と蛇」という映画の主役に抜擢

バラエティ番組もこの頃から増えたとありました。

H 22年には経営陣に加えていた妹夫婦との経営方針をめぐる対立によりプロデューサーを退任されますが、同年、美と健康をテーマに化粧品とサプリメントがメインの「リベラータ」という会社を新たに立ち上げプロデューサーとして活躍されています。
ここでは、#2のもつ感受性が豊かで人を思いやる心、知的でロマンチストなところが仕事に反映されています。

しかしその反面、相手を受け入れると言うテーマを持っているので相手との境界線をなかなかうまく取れずに自分を明け渡してしまう為、依存、共依存が強く自己犠牲もありとても苦労されています。与える事と受け取る事のバランスをはかるのが難しかったのではないかと思われます。

S ソウル数  魂の欲求
#5  Bと同じ#5を持っていらっしゃいます
変化 自由 刺激 大胆です

14-5を持っている杉本さん。芸能界では、いつも華やかに活動されていますが、度重なる母親による嫌がらせや妹夫婦との仕事上のトラブルなど、今迄自己犠牲のもと家族の事を1番に優先されてきました。
この頃、自由とは何かともがいていた時に「アルゼンチンタンゴ」に出会います。
タンゴとは、人間の喜び、悲しみ、情念を見事に表現している芸術です。
♯5の最大のテーマは「自由」です。
試練に立ち向かい痛みを伴いながら成長し乗り越えていけるのが5番さんです。
タンゴと出会い自分の心に向き合い自分の価値を認めた事で自分を解放できたのではないかと思います。
ここから自分の自由を獲得していく旅路がスタートされてます。

P 人格数
その人の第一印象「ペルソナ」みためです。
#6  調和 愛 美 愛情 誠実 献身 奉仕など
 

お仕事では世の為、人の為に尽くす仕事、美に関する仕事、平和運動があります。
杉本さんの第一印象は、美のエロス、華やか、自由奔放、責任感の強い人といったイメージがあります。実際、芸能活動や執筆の他に化粧品のブランド「リベラータ」を設立。

又、20歳の頃からボランティア活動されておりまさに#6のもつ、美 愛情、無条件の愛で動物達への奉仕、サポート、社会に貢献されています。
恋愛では、信頼できるパートナーとあります。現在のご主人はオフィス彩の副社長で一般男性です。ご主人の大病がきっかけで#6に持っている献身的な介護を通して2人の愛が育まれていったのだと思います。

R y      今回の人生での可能性や実現
#7  飛躍 知性 内省 独立性 直観力 探究心
 

彩さんの書籍の中で、常識、モラル、制度、世間からの刷り込み、そこからくる
「こうあるべき」という思い込み、それらが私を苦しめてきたのだという事実。

このままではいけない、生き方を変えようと心に決めた背中を「リベルタンゴ」が押してくれたとありました。

タンゴを通して自分の内側に入り内観する事で、ありのままの自分でいいのだと、今まで囚われてきたものから解放されていかれたのだと思います。

まさに#7のもつ精神性の目覚め、本来の自分の内省です。

自分の心と向き合う事が様々な抑制や呪縛から開放され生きやすくなったと言われてます。
彩さんが最も好きな言葉が「リベラル」です。世の中の常識や因習に囚われずに「自由」を大切にして生きることだそうです。

ステージ  活躍する舞台
#2  Dでも、持っているナンバーです。
 

依存、共依存が強く自己犠牲もでている彩さん。仕事でも人間関係をうまく築けずに苦しまれていました。自分の世界を確立したくても事務所の応援がないかぎり、どうにもならないと痛感され今のご主人と共に個人事務所を設立。

ここでは#2のもつ人間関係と協調性の開発、協力、変化を受け入れていくことを学ばれています。
現在、個人事務所の他に化粧品のブランドや動物愛護団体など、すでに創立者、指導者として活躍されています。

チャレンジ  課題です
#9  完結 人類愛 博愛 正義感などのナンバーです。

不要な物を手放し本物を見抜いていくことです。自己救済し愛と理解力を持って人類愛を実践すること。

20歳の頃からボランティアをしていた彩さんですが、すでに団体のトップとして自分の内にある信条に向かって良い環境の中に身を置き、これからも更に活躍されていかれると思います。

イヤーサイクル #6-11
#6のもつ献身、奉仕など喜び活動することで#11の真の理想に向かって現実社会の中で生きることを意識し人と触れ合っていく事で、人脈の拡大また彩さんの評価が更に上がっていかれると思います。

<Type2>
クリエイション 2 
受容的、創造的、但し受容しすぎると晩年独自性に固執しやすくなる。

グロース 4 
責任と義務のバランスと忍耐力の育成
ゴールではなくプロセスを重視、柔軟性の学び

マチュリティ 3 
感情にまつわる集合意識のキャッチ、コミュニケーション能力の発

リーダー 4 
支援という立場から物事を形成する役割

サポート 3
セラピスト、ヒーラー、表現者、アーティスト 

メイクムード 2
皆が寛ぎ楽しむことを優先する雰囲気づく


ボディ 3   

セラピスト

 

エモーション 4
理性のある人 過度な責任感又は無責任感

インテリジェンス 2

批判家的センス 聡明さ
シンプルに頭が良い

タイプ2ではグロースとリーダーが4とたけており、会社や福祉協会などトップとしての責任、また支援しながら様々なサポートをされており、サポートの3の表現者として、タンゴを通じてイベントの開催やご自分もダンサーとして活躍されています。又
エモーションも4と責任感が強く理性のある人です


人生の周期
サイクルナンバー:  テーマ(cy)
ピナクル    : 状況(P)
チャレンジ   : 課題(ch)

①0〜31歳(cy7  p8  ch6)感性よりも知性、開放、探究心を求めていく、心と魂を追求していく時期
置かれている状況は、積極性、現実的、信頼、情熱、実行力
課題としては「出合いと別れ」内面の成長を目指すこと、調和することでした。
美、愛情、

②32〜40歳(cy1  P7  ch5)
自己主張し決断していく、現状打破していくこと、不要なものを整理して現実的に動いていく時期
多くの経験を、重ねて本来の自分を内省していくことが必要な状況
課題として変化、自由を求めて現状に、しがみつくことなく、形になったものを啓発していくことでした。

③41〜49歳(cy1  P6  ch1)
テーマは30〜40歳と同じで、現実的に動いていく時期
状況としては愛、美、愛情、調和すること
課題としては、あらゆる分野の指導者となること。はじまりです。

④50歳〜 (cy6  P4  ch1)
現在の彩さんのサイクルです。
テーマは愛、奉仕、調和です
状況としては安定、今まで取り組んできた事に対して少しの軌道修正をかける事で安定を手にいれていかれます。
課題は「どう生きていきたいか?」自分の創造性を表現していくことです。


<ヒストリー>


(0〜31歳)
0歳 #23
京都の祇園に生まれる
母方の両親が着物関係の仕事をしていて、母はテーラー、父は洋服の生地を扱うサラリーマン、年子の妹と2人姉妹。
幼い頃は内気で人見知り、小学校までは母親の期待通りに育ったと言われています。

小さい頃から靴の脱ぎ方や脱いだあと後の洋服のたたみ方、整理整頓や食べ方などいわゆる「しつけ」には厳しかったと言われています。
小学生になるとバレーボールに夢中、男勝りで活発な子。

中学生でもスポーツ万能、学力も優秀、学級委員もするほどまさに文武両道。

彩さんが中学生のころに父親が脱サラして母親と一緒に小料理屋を始めた頃より、家では多忙な母親に代わって自ら毎日食事を作っていたそうです。

ここでは#2の優しさ、協力、気配りが見られますが、相手を受け入れるという事を無条件にしてしまい子供ながらに大変だったと思います。

又、楽しいナンバーでもある#3を持っていますがここでは自分だけが楽しんではいけないと自己犠牲的に皆んなの為に頑張っていたのだと思います。

15歳 #2-11   自殺を図る
中学生の時に、父親が知り合いの保証人となりその知人が失踪した為、多額の借金を背負い込み一家は崩壊。この事で母親は新しい恋人に走り、父親は酒に溺れ常に喧嘩が絶えない生活でした。

精神的に追い詰められた彩さんは手首を切り自殺を図りますが、発見が早かった為一命をとりとめました。

コアに11-2をもつ彩さん、15歳という多感な時期に自己犠牲をしいられ傷ついてしまった為の行動だったのではないかと思います。
#2のもつネガティブな部分が強く出ています。又#11は分岐の年でした。

16歳 #3  高校一年で中退 家出
生活費を稼ぐ為に16歳で家出。
この時、モデルの仕事をスタートします。
のちにモデルやキャンペンガールなどの経験を重ねスターダストプロモーションのスカウトにより芸能界入りが決定。
生活の為の芸能界入りでしたが、♯3の芽が出るデビュー期です。
もともと本来のピュアさだとか、明るさというものを開花させて行かれます。
まさに自分らしさを表現し芸術、芸能へと進まれていきます。

19歳 #3-6 
「オールナイトフジ」で中村あずさのアシスタント役として抜擢。 

堂々とした立ち振る舞いや媚びないセクシーさから女性からの支持も多く集めたそうです。
ここでは#3のもっている表現力#6の喜び活動する事で内面の成長を目指す事になります。

24歳 #3-11
個人事務所、株式会社「オフィス彩」を 設立。 

又、ミュージシャンで音楽プロデューサーの沼田利則さんと結婚されますが、35歳、#13の時に離婚されています。離婚の原因は鬱病を患っていた実母と一緒に同居していた事で不安定だった実母による夫への暴言、又、当時売れっ子だった彩さんとのすれ違いが夫婦間の患者を悪化させたと言われています。

25歳 #12
「ENFIN」を皮切りにヘアヌード写真集を多数発表。官能小説を執筆。

「花の蛇」の主役に抜擢。エロスの伝道師と標榜される。

30歳#4-8
運命のアルゼンチンタンゴと出合う
己の魂の叫びそのもの。最高の表現手段だと言われています。
#4のもつ軌道修正をする事で、#8のもつ情熱、大胆、野心、自己信頼と能力の育成へと努力されていかれます。

(32〜40歳)
36歳 #5
スキンケアブランド「アンデスティノ」を設立。

経営の実務を妹と内縁の夫てあるパートナーにまかせる。
この時、妹夫婦は経営は素人だったにもかかわらずチャンスを与えるような気持ちで任せた事で会社の経営状況は徐々に悪化していきます。

(40〜49歳)
42歳 #5-11
妹達との経営方針をめぐる対立により取締役及びプロデューサーを退陣。
♯5の破壊、家族問題です。
わたしだけが幸せではいけないと思い込んでいた彩さん。

これまで家族だから当然だと思って与えてきたもの、又、家族も当然だと思ってきたもの、♯5のもつマイナスの部分の罪悪感、依存、共依存が強く出ています。

家族に手をさしのべて愛を与えたつもり、面倒を見て行かなければならないと思い込んでいたおごり。私の思い込みが、母や妹の自立を妨げてきたのではないかと言われています。

この事に気づき、今まで家族のためにやる事が当たり前だった自分の人生と家族を切り離す事で自分と向き合う事ができたのではないかと思います。
まさに#5の変化、そして自由です。
この頃から「自由」に自分の進む道へ進まれていきます
#11の分岐の年でもありました。

同年 新たなブランド「リベラータ」を
設立。プロデューサーとして就任。
#11の真の理想に向かって目標をしっかり掲げてスタートされてます。



 

43歳  #5-12
オフィス彩の副社長との再婚
♯12は♯1のはじまりで♯2の相対です。
コアで2をもっている彩さん。
今までは相手を受け入れるという事を無条件でしていましたが、ここでは相手ではなくまず自分をいかに受け入れるかという事と、相手を受け入れるという時に境界線を
上手に距離をとれないからこそ学び、ご主人とのいい関係を築いて行かれると思います。

又♯12は♯3でもあり、喜び楽しむという愛のテーマでもありました。

46歳 #6
一般財団か法人動物環境、福祉協会「Eva」を設立。
♯6は愛、奉仕の番号です。
究極の愛というものを学ぶナンバーでもあります。彩さんは自分の保護した動物達だけでなく怪我をしたり、虐待されたその他の動物達にも分け隔てなく手を差し伸べ無条件の愛を捧げていらっしゃいます。

47歳 #6-7
「Eva」が公益財団法人として認定
彩さんは大の猫好きです。以前訪れた犬猫専門の動物園の環境が劣悪だったことにショックを受け動物愛護をするきっかけになったそうです。

東日本大震災で保護した猫ちゃん達や保護施設で虐待を受けていた老犬を引き取ったりと、現在猫11匹、犬3匹と一緒に生活されています。
ここでは#6のもつ献身的に愛を捧げる事#7の飛躍です。

これからも動物達の命を守り福祉の向上に貢献されていかれると思います

(50〜     )
51歳 #11
現在の彩さんのサイクルです。
芸能界でも安定されており、事業へのチャレンジも実現し慈善活動も活発にされています。今後も自分のやりたい事に向かって自分らしく突き進んでいかれる事でしょう。


<まとめ>

メディアで見せているイメージとは違う内面を持っている彩さん。

小さい頃からさまざまな抑圧、家族の呪縛に苦しまれてきました。 

私自身も小さい頃からしつけというなの虐待、母からの抑圧を受けながら自分が悪い事をしていなくても反抗できずに、いつも「何故、私だけが、」と思いながらすごしていました。

就職、結婚した事で親から離れ、自由になれたと思っていましたが、今思えば母からの抑圧に加え主人からの執着もプラスされ、身動きができない自分がいました。まさに14-5をもつ人の家族問題です。 

自由のナンバーを持っているのに自由を知らずにもがき苦しんでいた彩さん。

自分の心にかけた呪縛を自らの手で少しずつ解き放つきっかけになったと勇気をくれたのが「リベルタンゴ」だと言われています。

自分の心と向き合い心を束縛する枷を一つずつ外していく事で、自分がここに存在していると思えるようになったそうです。
又、若い頃から動物愛護活動をされていますが、彩さんのもつ♯6の無条件の愛、まさに分け隔てなく光を注ぐことのできる人です。

私自身も結婚してから猫を5匹飼っていました。猫ちゃん達が懐いてくれる事で嫌な事があっても癒さている自分がいました。彩さんも動物を救済することで孤独だった自分の心が満たされていったのではないでしょうか。

現在、女優、プロデューサー、愛護活動家、タンゴダンサーとしてさまざまなステージで活躍されています。
彩さんの人生における究極の目標は「自分の魂に忠実に生きていく」事だそうです。これからも、今迄以上に輝いていかれると思います。

レポートを終えて
私も杉本さんと同じ#14-5のナンバーをもっており、家族問題で重なる部分があり、まさに自分を見ているようでした。
彩さんが言われている「自由とは何か」
まさに♯5の最大のテーマで私自身の課題でもあります。
杉本さんのリーディングを通し、小さい頃からそれが当たり前だと思って生活してきた自分を振り返り、私の中にある依存、共依存、そして執着と言うものをあえて家族が障害となって私に教えてくれた事に気づくことができました。

こらからも自分と向き合い、自分らしく人生を楽しんでいきたいと思います。
ありがとうございました。
 

 

first-year student by Kaori・N

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

 

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

男性でも数秘を学んでる方はいます。Naoyaさんが岡本太郎さんを卒業課題に選んだ理由は自分もアーティストとして活躍していきたいという夢があり、巨匠と言われる岡本太郎さんの持つ情熱の秘密を知りたかったからだろうと思います。

2つの道があれば困難なほうを選んできた…という岡本太郎さんから学んだものはあったのでしょうか。

(2019年10月のものです)

 

 

岡本太郎

〜歓喜の芸術家〜

 

生年月日:1911/2/26

 

神奈川県川崎市高津区の生まれ 父は漫画家の岡本一平、母は歌人で小説家である・かの子との間に長男として生まれました。 父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠という芸術一家の出身。

 

 

 

◆ Birth 誕生数 (生まれ持った資質・性格・個性・生きる姿勢や才能) #4(22・13)

#4は人生や生活の基盤となる形を作り、安定、継続させるナンバーです。

 「自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。」 

生涯を通して常に自分や人生と真剣に真正面から向き合った、岡本太郎という存在の#4らしい基盤となる 言葉だと思います。

 

#13はカルミックナンバーで創造と破壊を繰り返し 常に学びを喚起させられるナンバーです。 障害のたびに変容する修練を経験し、カルマの負債を清算することになります。

#13らしい言葉として、

「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」や、 「不動のものが価値だというのは自分を守りたい本能からくる錯覚に過ぎないんだよ。破壊こそ創造の母だ。」 と述べている通り、様々な人や作品と出会い、衝撃を受けるたびに考え方が変わっていきます。

 

#22は、天と地のかけ橋となるマスタービルダーというカリスマナンバーです。

強い感受性を持ち高い理想を現実化でき、ゼロから無限を創り出せるナンバーです。

前人未到のチャレンジや、大改革をしていくこともできます。

#4の人より強運に恵まれていますので、学びの機会(試される)として障害やトラブル にぶつかり、波乱の人生になることも多いです。しかし、そうした障害を克服する力を持っており、克服したのちに#22の安定感とパワーの源が内側にもたらされます。

あらゆる分野の創始・開拓・指導・権威者を目指せるとともに、現実社会での大きな事業への取り組みをしていくことと思います。 

また、海外に縁のある数字でもあり、父の一平が朝日新聞の特派員としてロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになりました。

太郎も東京美術学校を休学後、父母に同行して渡仏し、約 10 年間をパリで過ごしました。

太郎も#22らしく国際的なアート集団の日本支部の立ち上げに関与したり、国家規模のイベントプロデ ューサーに任命されるなど大きな事業へ取り組みました。

また、持ち前の強い感受性を生かし、芸術家としてたくさんの作品を創作していきました。

 

 

◆ Destiny 運命数 (表面意識・人生における使命や目的・仕事に影響するナンバー) #9

#9は繊細で才能豊か、社交的でロマンチスト、芸術家などを表すナンバーです。

絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれ、 画家になる事を迷っていたそうです。

パリで暮らし初めて間もない頃、ルーヴル美術館で見たセザンヌの絵画の鮮烈な色彩に感動しました。

さらにその2年後の夏に、ポール・ローザンベール画廊でピカソの絵画《 水差しと果物鉢》に大きな衝撃を受けたそうで、「帰りのバスの中でも涙が止まらない」くらいの衝撃だったと述べています。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになったそうです。

 この時の感動を「抽象画こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だった のだ」と述べています。

 

ピカソの絵画《 水差しと果物鉢》

 

 

また、職業という観点からは 「僕はパリで人間全体として生きることを学んだ。画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、もっと広く人間、全存在として生きる」という言葉や

「本職って、あえていえば人間かな」と述べています。

 交友範囲も非常に広く芸術家はもとより、思想家、学者、文学者、建築家、政治家、俳優、コメディアンなどジャンルを問わずさまざまな人々と交流し、触発しあったそうです。 

たくさんの人々と触れ合った社交性や、絵画を見て涙が止まらなくなる繊細さや共感力は#9らしいと思いま した。

 

◆ Soul ソウル数 (魂の欲求・1 番大切な価値観・優先したいこと)※気付きにくい #8

#8はパワフルで負けず嫌い、情熱的で行動力と向上心にあふれたナンバーです。 

負けず嫌いの逸話として、慶應義塾幼稚舎で太郎はクラスの人気者となるも成績は 52人中の 52番でした。 

ちなみにひとつ上の 51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「藤山はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったそうです。 

 

また、情熱という観点からは「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。「いずれ」なんて言うヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。と述べています。

絵画以外にも執筆活動や壁画創作、造形作家活動など非常に幅広く多岐にわたる創作活動を行い、死の間際までパワフルで情熱的に創作活動を続けたバイタリティは、魂の欲求に従った結果と思えます。

 

◆ Personality 人格数(ペルソナ) (他者の目に映るその人の表面的人格) #1(19・10)

#1はリーダー気質のしっかり者で、大胆不敵で行動力のあるナンバーです。

#10はカルミックナンバーで前世でやり残したカルマや目的を今生で果たすためのナンバーです。 #19も#10と同じカルミックナンバーで「力」を現し、権力や力の誤用を修正することで本当の意味での自信と威厳を現実社会で確立していくことを学ぶナンバーです。 

幼少期には小学校の先生から権力や力の誤用を学びました。

また、戦後の閉鎖的な日本芸術会を刷新するためにバースの#22のパワーと相まって、より強力で大胆不敵なリーダーシップを取りました。

 

◆ Realization リアライゼーション (人生での可能性や実現性) #4(13)

40歳前後から使用していく項目で、#4は基盤づくりや軌道修正。

#13は創造と破壊を繰り返し、常に学びを喚起させられるナンバーで共にバースにヒットしています。

ちょうど40 歳頃から、前衛芸術を認めない旧態依然とした戦後の日本美術界に#13らしく革命を起こしてい きます。その結果、日本での前衛芸術の#4らしい基盤を作っていきました。

 

◆ Stage ステージ (活躍する舞台) #4

ここもバースにヒットしています。

#4は自分の能力を社会で活かしていくナンバーです。 太郎の芸術的な能力を活かし、さまざまな活動や表現方法をとおして、たくさんの人々に影響を与えていきま した。

 

◆ Challenge チャレンジ (チャレンジする課題) #9

#9は自分の中に核を定め、そこにエネルギーを集中させるナンバーです。 

「人生の目的は悟ることではありません。生きるんです。人間は動物ですから。」や、 「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。

ただ前に向かって身心をぶつけて挑む瞬間、瞬間があるだけ。」 と述べている通り、あくまでも一人の人間として「生きる」ことに専念しました。

 

◆ Month number マンスナンバー (若年期の様相) #2

#2は母親との関係性や受容を表すナンバーです。 

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。世間知らずのお嬢さん育ちで、家事や育児が全く出来ない人物でした。

太郎が 3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子はヒモでタンスにくくりつけることが多かったというエピソードがあります。 

我が子を放って創作に没頭するかの子のひどくやせて青白く、束ねられることもない後ろ髪の姿の印象を、後年「ユーレイかの子」と述懐し「母親としては最低の人だった。」と語っていますが、生涯敬愛し続けました。

父・一平は酒と女にお金をつぎ込んだ放蕩者。

かの子は次第に病んでいき、ある日自殺未遂をしてしまいます。 それをきっかけに一平は心を入れ替え浮気をやめますが、今度はかの子が恋人を作り家族と同居することを認めさせます。

かの子はその後も次々と男性遍歴を重ねていったそうです

 

このような経験から太郎は物心ついた頃には独身主義を誓うようになったと述べています。

また、両親については「私が今考えて父母に感謝することがあるとすれば、父も母も世間一般の親としてはまったく落第だったが、常に対等な友人のように人間同士として扱ってくれたことである。」とも述べています。

複雑な家庭環境で育った太郎ですが、そんな状況も#2らしく受けいれて父母に感謝しています。

 

 

【TYPE II】

◆ Creation クリエーション (想像する力・何かを生み出す力)

#4

#4は基礎をしっかりと形成させ実際の成果を導く力や、着実性やこつこつ時間をかける忍耐力を表すナンバーです。

20 代のほとんどをパリで過ごし、パリで人生観や芸術の方向性を確立させていきました。

 

◆ Growth グロース (魂の成長・何かを成長させる力) #2

#2は真の自立した人間関係の学びや、自らの人生に責任を持つことを表すナンバーです。

複雑な家庭環境で幼少期を過ごした太郎ですが、19 歳で単身パリ生活を始め、様々な人たちに出会い人間関係を学びました。

 

◆ Maturity マチュリティ (完成度・成熟度・集合意識へのシンパス) #3

#3は感情にまつわる集合意識のキャッチや、コミュニケーション能力の発揮を表すナンバーです。 繊細な感受性で世間の感情をキャッチし作品に反映させていきました。

 

◆ Lead リード (リーダーシップ・けん引する力・人をどう導くか) #4

#4は支援という立場からものごとを形成する役割や、ルールを作る、強靭さと忍耐強さで人々をバック アップするナンバーです。 自分の思いを作品に込め、その作品や名言を通して間接的に影響を与えるかたちで支援し作品を見た人々 を導きました。

 

◆ Support サポート (サポートする力、何かを支援する力) #3

#3は表現者、アーティストなどを表すナンバーです。 生涯を通して表現者として作品を作り、その作品を通して気づきなどを促してサポートしました。

 

◆ Make Mood メイクムード (ムードメーカー・雰囲気をつくる力) #2

#2は知性的だが時に排他的を表すナンバーです。 著書や名言で教えを説いたりしながら、自分の邪魔をする者には徹底的に反抗しました。

 

◆ Body ボディ (身体の持つ創造的ヴァイブレーション) #4

#4は医療や鍼灸、リラックスや呼吸法を表すナンバーです。 現在に至るまで、鍼灸でツボに刺激を与えるように、空間デザインや著書など様々な角度から人々に刺激を与え続けています。

 

◆ Emotion エモーション (情緒・感情の現れ・感情の活かし方) #3

#3は繊細な感受性を表すナンバーです。 

繊細な感受性を生かして、様々な芸術作品で表現しました。

 

◆ Intelligence インテリジェンス (知的才能とそれをどう役立てるのか) #2

#2は優秀でロジカルな思考と理解や、聡明さを表すナンバーです。 著書や名言で自分の考えを論理的に説明したり、教えを説いています。

 

 

 

History

□ 1st ステージ 0~32歳

サイクル #2 受容の学び

ピナクル #1 自己主張・現状打破

チャレンジ #6 愛情と思いやり

 

・1911 年(0 歳:#22) 幼少期は東京・青山と祖父母が住む京橋を行き来して過ごしました。

 

・1917 年(6 歳:#19) 権力や力の誤用の修正

6 歳になった岡本は東京・青山の青南小学校に入学しますが、学校に馴染めず 1 学期で退学し、その後も数校の小学校を転々としています。

理由としては「先生のいろいろな卑しい態度が気になりはじめ、我慢できなくなった」と述べており、この時点で早くも権力や力の使い方を学んでいると思われます。

 

・1918 年(7 歳:#20) 直観力・変化を受け入れる 4つ目の学校となる慶應義塾幼稚舎へ入学。両親と離れて寄宿生活を送りました。 直感でこの学校ならと思ったのか、両親と離れて暮らすという変化も受け入れました。

 

・1925 年(14 歳:#18) 創造・負けず嫌い 処女作となる「敗惨の嘆き」を制作。

同級生と発行した同人誌の表紙に使われました。 ボートレースの学校内対抗試合に負けた悔しさを、創造力と負けず嫌いを生かして作品にしました。

 

・1930 年 1 月(18 歳:#22) 新しいステージに向かう・開拓する年 パリに到着。

単身パリ生活が始まりました。 親元を離れてのパリ生活という新しいステージがスタートしました。

 

・1932 年(21 歳:#16) 真理の探究 ピカソの「水差しと果物鉢」に衝撃を受け、抽象芸術の道を志します。 表現方法の模索という芸術的な真理の探究をしている最中に、運命的な芸術作品と出会いました。

 

・1936 年 1 月(24 歳:#19) 権力や力の誤用の修正 思想家ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受け「素手で魂をひっかかれたように感動した」と述べています。 

ジョルジュ・バタイユによるアンチファシズムの演説により、当時強大な力を持っていたヒトラーの力の使い 方の間違いを認識しました。

 

・1938 年(27 歳:#22) 新しいステージに向かう・開拓 パリ大学にてマルセル・モースによる民俗学の講義に夢中になりました。 (マルセル・モース:世界各地の呪術がもつスピリチュアルな力が社会で果たす機能を研究した方) のちに「芸術は呪術である」と述べています。 

マルセル・モースの民俗学を学んだという事は、太郎の中で新しい知識を開拓し、その知識を元に新しいステ ージに向かったことなのだと思います。

 

・1939 年(28 歳:#23) 受容して成長

母・かの子逝去(49 歳・脳溢血) 敬愛していた母の死を経験して受け入れ、さらに成長したことと思います。

 

・1940 年(29 歳:#24) 受容して現実を知る 

第二次世界大戦中の日本への最後の引揚船でパリから帰国しました。 戦時中という状況を受け入れて帰国したが、日本に戻っても戦争中という現実を体験したと思います。

 

・1942 年(31 歳:#17) 開始して視野を拡げる

中国戦線へ出征。戦場では欧州帰りの自由主義者とみなされ、特に規律の厳しい中隊に配属され、連日の厳しい訓練を受けます。 

終戦後、約1年間の捕虜生活を含めた時期を「わが生涯の最悪の暗黒時代」として、多くを語っていません。 戦争という太郎が経験した事の無い状況が開始した年です。

「わが生涯の最悪の暗黒時代」と語るように強制的に抑圧された生活を送りますが、それも視野を拡げるための経験だったと思います。

 

□ 2st ステージ1 33~41歳 

サイクル #8 達成の時 

ピナクル #2 芽吹き 

チャレンジ #5 変化

 

・1947 年(36 歳・#22) 新しいステージに向かう。開拓 新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界 に挑戦状を叩きつけました。 

詫びさびだけが高尚という戦後間もなくの日本美術会を新しいステージに引き上げようと奮戦しました。当時の日本の状況を鑑みると、新たな表現の開拓に対する反発が想像され、厳しい日々を送られたのではないかと 思います。

 

・1948 年(37 歳・#23) 協調・発展 

旧態依然とした芸術界を改革しようと「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を本格的に開始しました。同年秋には 「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足し、生涯のパートナーとなる平野敏子と出会いました。 

また「ニヒリスチックで批判的」な父の岡本一平が 62 歳で逝去しています。 

評論家も巻き込み、芸術家達と協調して革命運動を起こしました。また、新たに造形芸術にも取り組みはじめ、 表現の幅を広げ発展させていきました。

 

・1951 年(40 歳:#26) 感受性・審美眼 

東京国立博物館で縄文土器の四次元的な美を発見し、衝撃を受けました。 

太郎の感受性を生かして複雑怪奇な縄文式模様と宗教的な意味合いを感じ取り、#6らしい審美眼が発揮さ れ、模様の“美”と宗教的な“聖”の調和を四次元的と表現しました。

 

・1952 年(41 歳:#18) 開拓精神・向上心 

壁画第一号になる「太陽の神話」完成。

その後、太郎にとって最初のパブリックアートである「創生」が完成し ました。

太郎の開拓精神と向上心により、今までとは違ったジャンルの作品も作り上げています。

 

□ 2st ステージ2 42~50 歳 

サイクル #8 達成の時 

ピナクル #3 発展 

チャレンジ #1 オリジナル

 

・1954 年(43 歳:#20) 俯瞰 国際アートクラブ日本支部代表に就任。現代芸術研究所の完成と共に現代芸術をリードする役割を担うことに なりました。

現代芸術のリーダーとして、芸術をより俯瞰して見ていくことになります。

 

・1956 年(45 歳・#22) 大きな事を成し遂げられる年 

旧東京都庁舎の「日の壁」「月の壁」を制作し、国際建築絵画大賞に選ばれました。このことがパブリックアー トに関する太郎の評価を決定づけることになりました。 

国際的な賞をもらうという大きな事を成し遂げました。

 

・1959 年(48 歳:#25) 感受性・変化 

初めて沖縄を訪問し「御嶽」に感動し、画風がカリグラフィックで象徴的なものに変化していきます。この年から彫刻も始めました。 

太郎の感受性を生かして木と石以外何もない空間から“聖”を感じ取り、作品に反映させて変化していきました。

 

□ 3st ステージ 51歳

サイクル #3 開花 

ピナクル #5 変化 

チャレンジ #1 リーダー

 

・1967 年(56 歳:#24) 受容・具現化 

大阪万博のプロデューサーに就任。その後「太陽の塔」の原型も完成しました。 万博のプロデューサー要請を受け入れ、自分のアイデアを具現化していきます。

 

・1981 年(70 歳:#11) 自己主張 

「芸術は爆発だ!」が流行語大賞になりました。

 幅広い世代に太郎の自己主張が認知され受け入れられた年になりました。

 

・1996 年 1 月 7 日(84 歳:#7) 世俗からの離脱 

急性心不全にて死去。後日(2 月 26 日)お別れ会が開かれました。 

たくさんの人々に惜しまれつつ旅立たれました。

 

 

まとめ

自分の中では「芸術は爆発だ!」と太陽の塔を作った人というイメージくらいしかない岡本太郎さんでしたが、日本のアーティストの中では尊敬する方が多いという話を聞いており、アーティストを志す自分としては興味があったのでチャートを調べてみました。

すると、自分のチャートにそっくりだったのでさらに興味がわき、卒業レポートの課題にしようと思いました。

リーディングをして、まず気になったのは自分とは違う方向に判断するところです。

自分なら無難に終わらせられる方を選択するところを、岡本太郎さんはわざわざ苦労の多い困難な方を選ぶと言います。言い換えれば、自分は#4の判断を下すところを岡本太郎さんは#13または#22の判断を下しているという事だと思います。

また、非合理的な苦労の多い方を選ぶ理由として挙げられるのが、歓喜を得たいからだと思い ます。歓喜を得るためには対決や緊張感という苦労が必要とも語っております。

アーティストという面から気になったのは、写実的な上手さや綺麗さは絵描き職人がすることだということを語っており、そういう部分を求めていた自分に気づかされました。

確かに岡本太郎さんの作品は写実的な部分はほとんどありませんが、心に引っかかるものや訴えかけるものがあると思います。

時代の波に翻弄されながらも既存概念にとらわれる事なく、人間としての自由や権利を阻害する者や、権威を振りかざす者には徹底的に反抗し、芸術家はもとより一人の人間として常に全力で魂を焦がした方だと思いました。

また、これから自分が一人の人間として生きていくうえで、重要な本質や方向性を教えていただいたと思いますのでこれからじっくりと今後の生き方を模索したいと思います。

 

 

first-year student by Naoya・K

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

Miwaさんがレポートに選んだ方はデヴィ夫人。

破天荒に見えるデヴィ夫人の真の姿を知れば知るほど、彼女へのイメージはどんどん変わっていったようです。

マスターナンバー22を持つデヴィ夫人の人生を辿ります。

(2019年10月のものです)

 

 

↓↓↓

 

デヴィ・スカルノ

~波乱万丈の人生を明るく美しく賢く生き抜く元大統領夫人~

 

【名前】誕生名 根本七保子(ねもとなおこ) 本名:ラトナ・デヴィ・スカルノ

(サンスクリット語で「宝石の聖なる女神」という意味)

【生年月日】1940年2月6日(現在79歳)

日本生まれ、インドネシア国籍

インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人

NPO法人アースエイドソサエティ

株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役

タレント

 

 

Birth #22-13-4

〈生まれ持った資質、性格、個性、生きる姿勢や才能、潜在能力をあらわす番号〉

 

マスターナンバーの22をバースナンバーとして持つデヴィ夫人。22は具体的に何かを建設したり、建物を作ったり、大きな会社を作ったりするといわれています。

デヴィ夫人は、2005年にアース・エイド・ソサエティというNPO法人を設立しています。

世界中の人々が民族、国境、言語、宗教、歴史をこえて、強い兄弟愛で結ばれることを願って設立されました。

また、法人のHPにはこのようにも書かれています。

「政治の犠牲者である世界中の難民、また天災による被災者の方々、地球の自然環境破壊に歯止めを

恵まれない人々すべてに愛の手を差し伸べ、人間と動物の「共生、共存」を願っています」

スローガンは

沢山の愛が未来を変える

・戦いを止め、許しあい、地球に平和を

・あらゆる命に思いやりを

・青い海と緑の大地を永遠に

 

設立以降、北朝鮮に120トンの精米を夫人自身で中国の大連経由で平壌駅へ赴き寄贈されました。

カシミール大地震では毛布と防寒具を数千枚ずつ夫人自らトラックで現地まで行って渡したり

東日本大震災では3日かけて220か所を回りました。

 

また、日本赤十字社とNGO法人「難民を助ける会」への支援のための慈善晩餐会

「ザ・グランド・インペリアル・チャリティ・バンケット」を22年間開催し続けています。

この晩餐会により、日本赤十字社へ2075万、難民を助ける会へ3125万、

2016年度の熊本地震には阿蘇神社に寄付、余生馬牧場に飼葉を1.8トン、20万円

病院、避難所、老人ホーム、動物保護施設などを慰問し200万円余り相当の物資を寄付などなど

その他さまざまな団体組織へ多額の寄付を収めています。

 

文化面ではNPO米国財団法人 イブラ国際音楽財団の名誉会長となり

オペラ歌手・ピアニスト他アーティストの育成に尽力しています。

このように精力的に「高い理想」「博愛主義」掲げ、「外交能力」、「実行力」を用いて着実に社会貢献を行っているのは、まさにマターナンバーの22を持ち合わせ、なおかつ実行できていると読み取ることができます。

 

インドネシアの元大統領夫人となったという華々しい経歴は周知のとおりです。

しかしながら物心ついたころは太平洋戦争真っただ中。

「私の語彙は『B29』で始まり、生まれて初めて知った感情は恐怖であったと書籍に記しています。

疎開先でもB29が飛来して、防空壕がある竹やぶに白菜畑を渡り走り逃げこもうと走る母子に「来るな、来るな、戻れ!B29に気づかれたらどうするんじゃ!よそもんの分際で!自分専用の防空壕を掘れやい!」と殺気立った地元住民にあやうく母が暴力を受けそうになり、幼い七保子が思わず前にでて、母をかばうこともありました。

戦中、メチルアルコールの大量摂取によって視力を失った父、足の悪い母、幼い弟を持ち、幼くして一家を守ると決意しました。

 

中学卒業後は応募者450人、採用3人という倍率150倍の千代田生命に採用されます。昼間は会社員、夜は定時制高校に通うも、父の死後は家計を支えるためホステスに。のちにスカルノ大統領にみそめられ、愛人となりました。

母が危篤となり日本に帰れども、マスコミの誹謗中傷に会い、追い打ちをかけるように母の病死、二日後に弟が自ら命を絶つという悲劇が続きます。

 

天涯孤独となった七保子はインドネシアにもどり、日本国籍を捨て、名前もラトナ・デヴィ・スカルノと改名し、インドネシアに骨を埋める覚悟を決めます。

しかしクーデターという大きな歴史の変革に翻弄されフランスへ亡命、のちにNYへ移住というまさに波乱万丈の人生。

海外ナンバーを持つ22の特性、また22のa-matureである「波乱万丈」「衝撃的なダメージ」「苦労人」などが表れています。

 

#13(カルミックナンバー)

創造と破壊を繰り返し、常に学を喚起させられる少々厳しいナンバー

若くして両親、弟を亡くし、いやおうなしに変化をせまられたその人生は、その都度カルマの負債を清算してきたと読み取れます。

 

#4

自由奔放な印象のあるデヴィ夫人ですが、学生時代は勤勉で成績は常にトップクラス。得に歴史と英語を得意としていました。

当時は先生も学友も高校へ進学するものだと思っていたようです。ですが、進学ではなく就職を選びます。

ある日、七保子が早めに学校から戻ってくると、学友のお母さんが母親にお金の返済を迫っているのを見てしまったのです。

母は必死に謝り少しでも返済を待ってもらうようにお願いしていました。

どうやら学費が足りず、学友のお母さんからお金を借りていたようでした。

少しでも早く自分の手で収入を得て母を助けたい。この強い気持ちから、七保子は進学ではなく就職を決めたのです。

#4らしい、とても現実的な判断だと思われます。

また、就職をするも夜の世界へ。一見ホステスという簡単に大金を得る道を選んでいるように思われますが、それは母を助け、弟を大学に入れてあげたかったため。

当時中卒の給料は6千円、大卒でも1万円。

しかしホステスだと数時間でその額は稼げてしまいます。

これまた、合理的な#4の判断といえましょう。

 

このようにも述べています。

「お給料はOLの月給がたった一晩で入ってくるほどの超高収入。自立や家の家計を助ける意味もありましたけど、わたくしはそれとは別の計算があったのですよ。 

「これからの社会では絶対に英語が話せないといけない」

社会で生かせる英語は教科書で学んでもダメ。クラスで英語は一番だったとはいえ、実際多くの外国人と話さなければ上達しないと思っていたので、世界の社交場であるサパー・クラブで働きながら会話の練習をする毎日。そして一流の外国人と会話を交わしながら、世界への道を模索するチャンスを伺っておりました。」

 

毎朝、新聞は隅まで目を通し、そのクラブでは海外のエグゼクティブと政治や経済の話を英語で会話。

同時に女優の下積みをして、働きながらもなんとか日舞は舞台に出られるまで上達して、初舞台は三越劇場に出演。 華道は草月流、茶道は裏千家に、英語力を伸ばすために世界のペンフレンド・クラブに入り生きた英語を身につけました。

これらのエピソードからもまさに勤勉な、堅実、真面目で努力家の#4の面がうかがえます。

 

Destiny # 3

〈才能や個性をどう生かしていくのか、人生における使命や目的〉

 

Destiny #3を持つ人は、精神的喜びを与える、表現する分野、芸術芸能、接客に適しています。

デヴィ夫人はまさにこれら全てを網羅しているといえるでしょう。

デヴィ夫人がスカルノ大統領だけでなく、多くのセレブリティを魅了してきたのは、まさにホスピタリティにより精神的な喜びを与えてきたからにほかなりません。

#3の社交性、感性の豊さ、知性、表現力、すべてを用い大統領夫人となった際は、大統領を癒すことに専念していました。

 

幼いころから絵が得意で、中学卒業時には、友人から学生手帳に絵をかいて欲しいと頼まれていました。

学芸会の時にはいつも紙芝居の製作を任されて、そんな七保子に母はお金を工面して青山の絵画教室に通わせてくれました。

また、学芸会で主役に抜擢され、それまでに抱いたことのない自信がわいてくるのを感じ、「女優か画家になろう」と将来を夢見るようになった。

#3らしく表現することにも優れており、絵を描くことを楽しんでいます。また自らの絵画を売り、慈善団体に寄付をし、若手アーティストを支援するなど、表現、芸術分野で貢献しています。

そして、テレビでみる芸能活動は3番らしく無邪気にバンジージャンプやスカイダイビングなど、さまざまな無茶ぶりにNGを出すこともなく、「ライバルはイモト」と言い放ち、常にお茶の間を賑わすその様は、3番らしい個性の生かし方といえるでしょう。

 

Soul # 3

〈魂の欲求、価値観や優先したいことなどの内的な願望〉

 

デヴィ夫人の恋愛観から#3のソウルナンバーを読み解きたいとおもいます。

今年デヴィ夫人は「選ばれる女になりなさい」という著書を出版し、発売2週間で重版3回目、すでに7万冊以上売り上げているベストセラーとなっています。

この著書にはデヴィ夫人の#3らしい魂の欲求や価値感が随所に見受けられます。

中でも象徴的なのが

​「楽しんでこそ恋!」

「ほんの小さな失敗やうまくいかないことで悩んでいたり、それが原因で勇気や自信をなくしてしまっているのなら、もっと“気軽”にもっと“楽しく”恋をなさっていただきたいと思っています。ガチガチの硬い婚活をしている人に限って、一度のミスで婚活をやめてしまうのよ。もう少し気軽に楽しく婚活なさったらいいわ。彼からの電話が来ないからって家で落ち込んでいてはダメ。女性の人生はもっと自由で楽しいものよ。心から楽しんでいる女性に、きっと恋愛の神様は微笑んでくださるでしょうね。」と。

 

亡命先のフランスでも様々な魅力的な相手と#3らしく恋愛を楽しみます。

その相手はアランドロン、津川雅彦、スイスのスペイン人の銀行家、イギリスのエリザベス女王のいとこパトリック・ザ・アール・オブ・リッチフィールド伯爵。

そして伯爵と付き合っているときにも別の男性と恋に落ち、その男性が伯爵の庭にヘリコプターを呼んでくれて、そのままロンドンのヒースロー空港、その足でファーストクラスに乗りニューヨークまで逃避行など、また、「彼氏は20人いてもいい」とも。

「結婚をする前は自由なの。特別な男性がいないときは、おおいにいろんな男性を知ったほうがいいんじゃないかしら。 そうね、人数は2人でも、3人でも……10人でも20人でも、彼氏はたくさんいるに越したことはありません。だって、いろんな男性を知っておいたほうが、結婚後、無駄に遊ぶ必要もなくなりますしね。」

#3以外に誰ができる!という恋愛の楽しみ方を謳歌しています。

 

Personality #9。

〈他者の目に映る印象や雰囲気、第一印象〉

 

全ての番号を内包している9。NPOを設立、起業家としての顔、一家の大黒柱としての顔、大統領を内助の功で支える女性らしい顔、明るく無邪気で社交的な顔、勤勉で真面目な努力家の顔、変化を恐れない自由な顔、慈愛に満ち、世界平和を願う顔、フランス亡命後、「東洋の真珠」と社交会で愛されるな…様々な顔を持つデヴィ夫人。現在継続的に行っているチャリティイベントに参加する多くの面々を拝見しても、その人脈に驚かされます。持ち前の明るさと社交性で幅広い人々と交流できる#9が生きていると思われます。

 

Realization #7​

〈人生での可能性、実現性、到達〉

 

今世において、7を実現可能な番号としてもつデヴィ夫人、精神性を極めていくと思われます。

波乱万丈な経験をし、デヴィ夫人にしか知りえない何かを探求していくことでしょう。

7は自然とつながる番号でもあり、設立したアースエイドソサエティは自然保護も目的としていることから、もしかしたらより自然との関係が深まっていくことも考えられます。

「気」を大事にしていると述べているデヴィ夫人。

精神性へのより深いつながりも生まれるかもしれません。

 

Stage #2「相対」

変化に満ちた世界で、常にバランスを求められてきています。

マスコミや、大統領のその他の夫人たちなど敵対する相手も多く、国家までも相手にしなくてはならないなど、緊張の多い舞台で生きてきました。

また男性関係では尽くす愛を実践し、女性性を生かす舞台で活躍しています。

 

Challenge #7「飛躍」

自身の経験や会得した智慧を世の中に広めていくことに、挑戦していくと思われます。

様々な慈善活動を通して、精神性を深めていくことでしょう。

 

Nature # 9 「完結」

マルチな才能を持ち、誰とでも社交的に親しくなれるデヴィ夫人。

家族に対する愛、世界に対する博愛、社会に対する正義感などが素顔にあります。

 

Action #5「自由と変革」

世界を飛び回り、変化を恐れない勇気ある行動パターンを持っています。

好奇心旺盛に次々と新しいチャレンジをしていく夫人らしい番号です。

 

 

HISTORY & LIFE CYCLE

 

0-32 / Cycle  #2   Pinnacle #8

 

戦争、貧困、差別など社会の理不尽さと対峙し、受容、妥協とバランスをとりなかがら乗り越える時期でした。

10台後半以降の七保子はそんな理不尽さや逆境を逆手に家族を養うべく、8番を生きて収入、富を手に入れていきます。

 

1940年東京都麻布区霞町(現在の西麻布)に生まれます。大工の棟梁の父、母、弟(八曾男・やそお)が一人。

母は後妻で、年の離れた異母兄姉がいました。太平洋戦争中は母と弟の3人で福島県浪江に疎開します。

 

幼少期の七保子は、様々な理不尽さ、葛藤と向き合って過ごしました。

※給食のミルクがどうしても受付られず、先生との我慢比べ。

やがて日が傾き、机の上にお椀の影が長く伸びるころにも屈っしません。しまいには先生が「根本さん、捨てていらっしゃい」と音を上げました。

筋道を立てて考える年ごろではなかったが、社会の不条理に必死に反抗していた。

なぜ、ミルクが嫌いだからといってこんなにもひどい仕打ちに会わねばならないのか。社会にはなんとなく釈然としないものがありました。

 

※同級生に、いつも先生にちやほやされ、児童劇でも主役を割り当てたれる子がいました。

ある日、その子の家で遊んでいると、腰を低くして妙に卑屈なほほえみを浮かべる先生が家庭教師にやってきました。

自分には教育のある親もいない、経済的にも家庭教師を招くことはできない、しかしみんなと同じレベルで学力を判定される理不尽に我慢がなりませんでした。

 

※ある日、木枯らしの吹く寒い日に父がバラックの屋根を修理している姿を見かけました。友達の「あの人可哀そうね、こんな寒いのに」という言葉に、自分の父だということができませんでした。

家では威厳のある大黒柱の父も、一歩外では一介のトントン大工。真面目に生きている父が、なぜ木枯らしの中ふきさらされなければならなのか。

 

※金を無心しに来る異母兄の存在、近所の病的な陰口魔のS夫人の存在も七保子を苦しめていました。

 

※就職2年目の暮れ、父が亡くなります。まだ中学生で弱い性格の弟と母を支え、一家の支柱になるという幼いころからの予感が現実のものとなった。

父親の死亡届を出しにいった七保子を見て「こんな子どもに死亡届を出しにこさせるなんて・・」と役所の方が憐れんだそうです。

 

中学卒業後、進学はせず高倍率の競争を勝ち抜き千代田生命に努めますが、ここでも女性社員は出世しないことなどの理不尽さと向き合います。同時に夜学生もしていましたが、最終的にホステスの道を選びます。

七保子の千代田生命での初任給は6千円。高卒で8千円、大卒で1万円の時代。

しかしホステスだと、2時間テーブルに座っているだけで千代田生命の月給が稼げるのである。チップを合わせると、月数十万の収入があることもわかったからです。

17歳の誕生日を待って、千代田生命を退職。

同時にホステスに転身し、母と弟を連れて独立します。接客などに適しているYear#3の時でしたが、母と弟を効率よく養うための賢明な4番の判断も加わっての決断でしょう。

 

ホステス転身後は10代にして「恐ろしいほどの金額」の貯金もたまり、渋谷にバーを出店します。

しかし経営に失敗、定時制高校からもドロップアウト、恋人は不治の病にかかるなど、水商売につかれてきます。

しかし母弟の面倒をみなければならない負担もある中、1959年コパカパーナで客として訪れたK氏と知り合います。そこで彼から一夫多妻ですでに2人の夫人のいるスカルノの元へ愛人として赴くよう持ちかけられました。

1959年6月16日、ついに帝国ホテルでスカルノ大統領と出会います。

19歳、Year#23の時でした。

9月15日にはジャカルタへ。情熱的にスピーディに愛に向かった23-5を生きた年です。

 

 

 

1962年、インドネシアに渡って3年後、病気の母まさが2月に65歳で死去。

2日後、弟が自ら命を絶つ。不正手形を掴まされ全財産を失い、母の死に目に会えなかったこと、姉の重荷になっている自分を責めてのこと・・・

 

1か月後の62年3月、正式に第3夫人として結婚。ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと名乗り、インドネシアで生きていくことを決め国籍も変えます。

「母と弟の死によって、もう日本国民でいる理由はないわ、神様の啓示だわ、自由の身になって大統領にだけつくしなさい って言われたと思って、インドネシア国籍にかえたのです」

22歳、Year #17-17の時でした。

新しいサイクルの始まりとともに、インドネシア国王夫人としての地位、力を手にいれたのです。同時に様々な権力や策略、嫉妬、執拗なマスコミなどとの戦いも始まったのでした。

 

1965年、のちに「9月30日事件」とよばれるクーデターが発生(#20)

市民によるスカルノ退陣を訴えるデモが頻繁に行われ、デヴィ夫人への風当たりも強まりスカルノ大統領は幽閉されてしまいます。

1966年11月大統領の子どもを身ごもったデヴィ夫人は日本に帰国(#21)。

1967年3月、長女を出産します(#22)

1969年バンコクへ赴きインドネシア大使に帰国を打診。

しかし「カリナちゃんを取り上げられ、大統領との面会はおろか一生インドネシアから出られない、命の保証がない」といわれ、傷心を抱き日本に向かいます。

また、スカルノ大統領の女性関係など絶望の中、俳優の津川雅彦と出会い、つかの間のロマンスに陥る(#24)ほかにも数々の著名人とも噂になり、出会いや別れ、愛に生きる6の年でした。

 

1970年6月スカルノ危篤の一報を受けたデヴィ夫人は入国を禁じられていたインドネシア航空に無理やり降り立ち、スカルノと再会。その翌日、元大統領は69歳で死去しました。この時に莫大な遺産を手にしたとも言われ、パリに亡命します(#25)常に新しいステージを開拓する22番、そして政治的亡命者に寛容なフランスを賢明に選択する4番らしいところに、22-4をバースナンバーにもつデヴィ夫人らしさが表れています。

 

33-50/ Cycle#6 Pinnacle #2(33-41)・#1(42-50)

 

類まれなる美貌と努力、地位、財力、長けたコミュニケーションなどによりパリ社交界の花となる。「東洋の真珠」と呼ばれ、スペイン人のフランシスコ・パエサ、フランス貴族のサブラン公爵など数多くの浮名を流します。

まさに「愛」の6番を生きる周期でした。

1980年(40歳#8)、インドネシアへ戻り、石油関連事業を興します。スハルト政権下、非常に苦しい戦いだったにもかかわらずヨーロッパの5つの大きな会社のエージェントとしてビジネスを成功させ、メンテン地区という高級住宅地に自分の力で家を建てます。8番のミッションを達成すべく、自分の城を築きしっかり稼ぐ1歩を踏み出しました。

 

 

51-/Cycle#14-5 Pinnacle # 7

 

(#28 spiritual fall 翌年ようやく1桁に!新たな人生のスタート!)

NYに移住します。自然とつながり精神性を高めるRealization #7を達成すべく、環境保護、慈善事業など新しいステージを生きることになります。Pinnacle # 7とRealization #7がヒットしています。

 

1991年(51歳、#28)NYに移住、UNEP(国連環境計画)の特別顧問として活躍します。

生態の保護、熱帯雨林の保護、先住民の生活保護と権利の保護、人間社会環境の保護と促進など。

自身で描いた野生の動物、鳥、魚などの水彩画37点を93年の慈善オークションに出品し10万ドルを寄付します。

1992年傷害罪で逮捕(52歳#2)

第4代フィリピン大統領の孫娘のミニーオスメニャの顔をシャンパングラスで殴打し、37針縫う大けがをさせて逮捕。34日収監されます。他者との境界を学ぶ年でしたが、ヒステリックな2のa-matureな一面が出てしまったようです。

1998年(58歳#8)世界中の難民救済を目的に慈善事業を始めます。

2000年(60歳#10)Spiritual Fall! 日本における新たな芸能人生のはじまり。

以降、優雅で煌びやかな衣装と華麗な経歴 そして浮世離れした不思議な存在感で他に類のない独特なキャラクターと認識され、TVなどで活躍します。

2004年(64歳#5)生活の拠点を日本に移す。

2005年(65歳#6)アース・エイド・ソサエティ設立

人類と世界平和、自然保護のためにより一層精力的に活動します。

2016年(76歳#8)経理担当による横領が発覚。8の年に発覚する金銭問題、力のコントロールを学ぶべきして起きた事件か?

2019年(79歳#11)

経理担当者に実刑判決。2億円消えたのに判決では2000万円分しか認められず、民事訴訟を検討するというが、#11のイニシエーションイヤーをいかに過ごすのか、気になるところです。

また、本年YouTuber としてもデビューし、著書「選ばれる女におなりなさい」がベストセラーに。

天と地のかけはしとなる11の年にどのようなメッセージを発信していくのか。Destiny#3をもつ表現者として邁進していくのは間違いないようです。

 

TypeⅡ

 

Creation,Growth,Maturity, Support,Emotion 9項目中5つが#3

#3x5、#2x2、#4x2

 

Creation 【感情をストレ―トに表現する創造性 人に何かを伝える)

歯に衣着せぬ物言いや、喜怒哀楽をストレートに表現している姿は周知のとおりです。

近年ベストセラーになっている著書は、ストレートな物言いが若い女性に受け、またYouTuberとしてデビューするなど時代に合わせ、デヴィ夫人らしい表現で人々に影響を及ぼしています。

 

Growth 【自己の感情と感受性を淘汰し、表現を行い、人を喚起する、楽しく人生を歩む、修行に弱い】

幼いころから教室に通い、今なお絵画を趣味とするなど、表現をすることはデヴィ夫人にとって安らぎでもあり楽しいでもあります。時に滝行などもテレビで披露はしているものの、常に楽し気に成長することがデヴィ夫人にとっては大切だと思われます。

  

Maturity 【感情にまつわる集合意識のキャッチ、歓び、怒り、葛藤、哀しみなど コミュニケーション能力の発揮】

デヴィ夫人の発言は毒舌ともとらえられるが的を射た発言も非常に多くみられる。大衆の喜怒哀楽や心理を代弁しているところに共感する人も多いのではないでしょうか。

 

Support 【セラピスト ヒーラー 、表現者、アーティスト 自己と相手の波動を合わせることで相手を癒す能力】

デヴィ夫人がスカルノ大統領から寵愛を受けた理由は美しさだけではありません。深い愛をもって献身的に尽くしていたから故のことでしょう。

大統領からのプロポーズは「私のインスピレーションとなり、力の源泉となって、私の人生の喜びとなってください」でした。この言葉通り、デヴィ夫人は大統領に波動を合わせ、寄り添い続けたと思われます。

 

Emotion 【繊細な感受性 波のある感情 過敏なところがあるが、明るく陽気、おしゃべり人の涙や笑いを誘う】癖の強いキャラであるにも関わらず、お茶の間の人気者であり続けるデヴィ夫人。明るく正直に感情をあらわにするところが、好感度の元になっているのでしょう。

 

おわりに

 

当初私がデヴィ夫人に抱いていた印象は、「美貌を武器に大統領夫人に成り上がった、毒舌、強欲な人」という非常にネガティブなものでした。しかし課題を進めるうちに、そのイメージはあっという間に覆されます。

戦争貧困という時代の荒波にもまれ、異国の大統領夫人となり、その後も政治や国際情勢に翻弄されながらも強く逞しく賢明に生き抜き、多くの恋愛も楽しみ、中年期以降は慈善事業に情熱を注ぐ。TVで拝見する華やかさとは裏腹に、とても勤勉で努力家、政界平和を望む愛にあふれた女性を知ることができました。

なぜ私がデヴィ夫人を選んだのか…不思議に思っていましたが、最終サイクルにデヴィ夫人のCycle# が14-5、私のPinnacle #も14-5 とヒットしています。海外を飛び回るデヴィ夫人のように、変化に富んだ日々を送るのかと楽しみでもあります。

そして、デヴィ夫人のBirth#22-4は、私のSoul#22-4とヒットしています。50代以降に慈善事業団体を立ち上げ、社会貢献を続けるデヴィ夫人。

感情的だったり、物欲や敵も多そうなa-matureな一面も目立ちますが、高い理想をもって#22-4を生きる先輩の活躍に今後も注目していきたいと思います。

 

 

first-year student by Miwa・K

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

 

 

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

矢沢永吉さんをリーディングしたNorikoさん。

障害に遭っても負けない彼の不屈の精神と自分を信じてチャレンジし続ける姿に少なからず学ぶことがあったのではないかと思います。

(2019年10月のものです)

 

矢沢永吉

〜ロック界を牽引し続ける永遠のチャレンジャー〜

 

生年月日 1949年9月14日(70歳)

 ロックボーカリスト

 

 

誕生数(生まれ持った資質、潜在能力) <19-10-1>

 

絶対的存在感を放ちエネルギッシュに活動し続ける矢沢さん。

常に前を向きはっきりした目的を持ちながら前進する姿には勢いがあります。

オリジナリティを大切にしコンサートステージや楽曲などは一作ごとに新たな挑戦を試み、別の世界を拓いていく開拓精神にも#1の特徴が出ています。

 

あらゆる分野の創始者になるという数字のとおり、ミュージシャンの海外レコーディングや著作権ビジネスの先駆者としての使命を生きています。

 

矢沢さんはカルミックナンバー#19と#10を持っています。#19はカルマの負債を清算するため家族や自分の殻から抜け出そうともがくナンバーです。

幼い頃に両親がいなくなり祖母に引き取られ極貧の少年時代を過ごします。食事も満足に取れない中、どうやったら自分で稼いでお腹いっぱいごはんを食べられるか?しか考えられない生活を送っていました。

また貧しいがゆえにいじめも受け「金持ちになる」との思いが芽生えた、と話しています。

そして#10。スピリチュアルナンバーです。霊性を発揮する能力に恵まれその直感力や洞察力が目的成就への有効な手段となります。

 

#1の短所として不安症がありますがご本人は自覚されていて、著書の中で「いつも不安だらけで安心したいがために行動する。素早く行動して裏付けを取って安心したい」と語っています。

 

運命数(表面意識、人生における使命・目的) <14-5>

 

#5はマルチで何でもでき、変化を重ねて本当の自由を手にするナンバーです。

そして芸能にも向いています。

長所である頭の回転の速さ・柔軟性・機敏さを生かし、ミュージシャンという枠にとどまらずCMやドラマに出演したり会社を設立するなど多才ぶりを発揮しています。CMやドラマでは世間一般に浸透している”矢沢永吉”を覆すような役どころをあえて演じて既存のイメージを破壊し、世の中に刺激を与えています。

また海外と縁がありアメリカでも活動されています。

 

若い頃は虚勢を張りはったりをかけ強引に物事を進めるという短所も目立ちましたが、年を重ねてバランスが取れてきてからはカルミックナンバー#14を持つ#5の”いぶし銀の魅力”が出てきていると思います。

 

ソウル数(魂の欲求) <8>

 

ソウル数は一番表面化しにくく本人も自覚していない場合も多いとされています。しかし矢沢さんはよくわかっていたようです。

”たくさん稼いで金持ちになる” ”スターになる・TOPに立つ”。

この明確な欲求に向かって走り続けてきました。

 

著書では#8を表す言葉をたくさん語っています。

・オレには意地がある、根性がある

・自分で働いて稼いで生活していく。それが一番快適で堂々としていられる

・オレはロマンチストだ

・いつもあったのはただひたすらに勝ちたい、上に行きたいという気持ち

そしてこうも言っています。「勝ち続けるしかない。勝ち続けてきた上で人生は金じゃないんだとはっきり言える」。

これはこれまでの努力と経験によって本当の豊かさに気づいたからこその言葉だと思います。

 

情熱・パワフル・自信・実行力・野心という要素も矢沢さんにはピッタリです。

ただ、誕生数#1との逆相もあるため支配欲・コントロール欲も出ています。

ご自身が会社を設立したきっかけはソロデビューでした。キャロルの時に契約を結んでいた事務所がメンバーに無断で過去の音源などを使い金儲けを企んでいたそうです。

”キャロルの矢沢”のイメージを引きずりたくない、写真や音源を勝手に使われたくないと思っていた矢沢さんに「自分の権利・財産は自分で会社を設立して管理しなさい」と教えてくれた人がいました。

「それを素直に実行した。管理するのは商売だけじゃない、矢沢のプライドも入ってる」とのことで、現在音楽の出版権・肖像権・グッズの販売までを管理されています。

また前妻とその子供たちに対しても「オレの都合のいいようにコントロールしてた」そうです。

 

人格数(他者から映る表面的人格) <6>

 

ステージ上のかっこいいロックスターの顔とは別に普段は穏やかで責任感が強く周りからの信頼も厚い人です。

不遇な家庭環境で育ったこともあり家族を大切にする思いは人一倍強いようです。

また愛情深い方でもありその愛は家族だけでなくスタッフやファンにも注がれています。

 

実現可能数(何を実現しようとしているか) <6>

 

#6は愛・美・調和・奉仕・自己回帰のナンバーです。

30代の頃スターの地位が確立しているのに幸せではなかった矢沢さんは、40代になり家庭・家族からの学びを経て50歳の時”成功のレールは右にあって幸せのレールは左にある”ことに気づきました。

この2つのレールを調和させることにより内面の成長も促され、より輝きが増したように見えます。

過去にはコンサートで得た収益を被災地に寄付したこともあり、今後こういった活動が増えていく可能性もあるのではないかと思います。

 

ステージ(活躍する舞台) <5>

 

運命数と同じ#5です。

興味があるものを追求し、そのあふれる才能を思う存分表現できる芸能の世界は、まさに矢沢さんが活躍する舞台となっています。

 

チャレンジ(人生を通して挑戦していくこと) <7>

 

#7は内省・独創性・分析力・直感力を表しています。矢沢さんは常に”矢沢永吉”を探求していると言っています。彼の音楽性を極め出来上がったものを世の中に発表する、それが人々の心を豊かにする。

また#7は精神性の領域へ向かうナンバーでもあります。これまでの経験から得たものを心の学びに生かしていってほしいと思います。

 

イヤーサイクル(今年の個人数) <6-8>

 

#8は達成、義務と責任のナンバーであり#6と共に健康面に注意が必要な時期です。

今年はソウル数の#8も重なっているので、心身のバランスを取りながらやるべきことをやっていく年になります。

 

【History】

 

0~35歳

サイクル(どのようなことを学ぶ時期か) 9

ピナクル(その時の状況) 5

チャレンジ(この時期の課題) 4

 

変化・自由・刺激・不安定という状況で複雑な二極性を学ぶ時期でした。

課題として忍耐強く着実に目的を実現させるプロセスを学び、自分の能力を社会で活かしていくことでした。

 

1949年 0歳 #19

広島県広島市に生まれる

 

1952年 3歳 #22

母が蒸発

 

1957年 8歳 #18

父死去

 

1963年 14歳 #24

ビートルズを聴きロックに目覚める

 

中学生になると自分の境遇もある程度受け入れられるようになり(2)→(4)人生のベース(基礎)となる音楽と出会います。勉強をまったくしない不良少年がギター教室だけは真面目に通いきちんと練習する傍ら作曲も始め、スターになることを夢見るようになります。

 

1968年 19歳 #20

高校卒業と同時に上京。横浜で働きながらバンド活動を始める

 

一掃して新しいステージに行く#20の年でした。

 

1972年 23歳 #24

キャロル結成

 

その楽曲やファッションなど圧倒的な存在感を放ち、のちに日本のロックシーンに大きな影響を与えた伝説のバンドと称されます。

人との距離感や協調性を学んできてのバンド結成、メジャーデビュー。

そしてこれから生きていく芸能の世界での基盤を作り上げ、現実的な安定がもたらされました。

 

1975年 26歳 #27

キャロル解散そしてソロデビュー

 

キャロルという不動の地位を手に入れさらに変化を望み新しいことを試したい矢沢さんと、ラクラク稼げる今のぬるま湯状態から抜け出したくないメンバーとの間に確執が生まれ解散となりました。

2のメンバーへの依存を断ち切りひとりで極めていくという7の年にステージアップしました。

世に出て3年目の血気盛んな矢沢さんからは、誕生数#1のオリジナルで勝負したい、そしてソウル数#8のもっと稼ぐ・勝ちたいという思いが溢れ出ていたように思います。

 

1978年 29歳 #2-3

・CMソング「時間よ止まれ」が大ヒット

・長者番付歌手部門でロックミュージシャンとして初の第1位を獲得

・自叙伝「成り上がり」を出版。100万部を超えるベストセラーになる

 

歌以外に本というツールも使い”矢沢永吉”を目一杯表現し、精神的喜びを人々に与えるなど開花と発展の年でした。

 

1980年 31歳 #2-5

アメリカでの活動を視野に入れCBSソニーからワーナー・パイオニアに移籍

 

運命数#5と重なっていることもありその特性が強調され、国内での成功に飽き足らず新たな刺激を求め海外で活躍したい・挑戦したいという思いがより強く出た年だったろうと思います。

 

1981年 32歳 #2-6

渡米しアメリカのレコード会社と契約を結ぶ

 

人間関係が拡大し色々なことが観えてくる一方で揺れ動きが多く、内面の強さを養う年でした。

また表向きは家族を日本に残した単身渡米ということでしたが、現地で恋人と一緒に生活していた恋愛期でもありました。のちにこの女性と再婚することになります。

 

36~44歳

サイクル 14-5

ピナクル 10-1

チャレンジ 9

 

開拓精神・独創性・現状打破、また#10の0は霊性ナンバーなので精神性を使っていくという状況です。

そして多才・革新・器を拡大する・冒険心というテーマに加え、#14の衝動的な欲求を克服することや家族からの学びに取り組む時期でした。

矢沢さんは運命数にも#14-5を持っているため変化がかなり大きく、さらに#1とソウルナンバー#8の逆相もあるため自己不信の傾向も強かったと思われます。

 

1985年 36歳 #2-10

ライブエイドに出演

 

「一億人の飢餓を救う」というスローガンの下、アフリカ難民救済を目的として行われたチャリティーコンサートに出演しました。#10の霊性ナンバーの時でした。

 

1988年 39歳 #3-4

東芝EMIに移籍。日本国内を重視した活動になる

 

アメリカで十分な成果を出すことができなかったことやワーナー・パイオニアへの不信感から移籍となりました。

#4の安定・信頼がより強く出た年なのかもしれません。

軌道修正であり再スタートであり新たなチャレンジでもあると思いました。

 

1990年 41歳 #3-6

現在の妻と再婚

 

ふたりの間にはすでに子供もいたことから家族的な愛が強調された#6の時でした。

 

1991年 42歳 #3-7

初の自前制作のコンサートツアーを行う

 

友人から「お金をかけていないステージだ」と言われ、音楽の世界では非常識なこととされるコンサートの制作を自分で手がけました。

ファンに良いステージを見せたい、最高の気分にさせたい、クオリティを上げたいといった思いを追求した結果の#7の年でした。

 

1992年 43歳 #3-8

缶コーヒー「BOSS」のCMに出演

 

「イメージが違う、と周囲から反対されながらも、それが逆に新鮮に見えて引き受けた。自分が一番楽しんだ」と矢沢さんはおっしゃっています。

表現することにより自分も他者も楽しくさせ、さらに精神的にも現実面でも想像以上の豊かさを受け取った年だったろうと思われます。

 

45~53歳

サイクル 14-5

ピナクル 6

チャレンジ 5

 

学びのテーマは続いたまま置かれている状況は愛情・調和・家庭でした。

課題もサイクルと同じ#5でありコアナンバーにもあるため、この時期も変化が大きかったように見えます。

 

1994年 45歳 #3-10

テレビドラマ「アリよさらば」で主演と音楽監督を担当

 

1997年 48歳 #4-4

ロンドンのウェンブリー・スタジアムで行われたロックフェスティバル「Song and visions」にアジア代表として出演

 

世界的に有名なロックスターが多数参加する中、知名度ゼロだった矢沢さんへの対応はひどいものでした。

しかし最高のパフォーマンスをし称賛され、その実力も人気も世界的に拡大し堅実なものとした#4の特性が大きく出た年でした。

 

1998年 49歳 #4-5

オーストラリアで被害総額35億円以上の横領被害に遭う

犯人は側近の部下2人だった

 

10年に渡って行われてきた横領がこの年発覚しました。著書の中で矢沢さんはこの時のことを「負けるわけにはいかない。勝ち続けるしかない。事件は起きたけれども大きいステージをこなしたりTVにも出た」と語っています。

#5の衝突・環境の変化がありながらも”被害”という事実に囚われることなく柔軟性と機敏さを持って行動しました。

 

1999年 50歳 #4-6

・映画「お受験」で初主演を務める

・初のアメリカツアーを敢行

 

映画やアメリカでのステージなどこれまでとは違った人たちとの関係が増えたことで、自分の内面と向き合うことも多かった年だったのかもしれません。

 

2001年 52歳 #4-8

自叙伝第2弾「アー・ユー・ハッピー?」を出版

 

これまでの経験や心情を改めて”本”という形で現実化し、さらなる富や名声を手に入れた年だったろうと思われます。

 

54歳~

サイクル 5

ピナクル 14-5

チャレンジ 4

 

現在70歳の矢沢さんはこのサイクルです。30代半ばから学びのテーマは同じです。また生涯を通して#5があるため”チャレンジし続ける人”ということができます。

今後さらなる冒険や変化を重ね本当の自由を手にしていかれるのだろうと思います。

 

2007年 58歳 #5-5

前人未到の日本武道館100回公演を達成

 

これまでずっと大胆に挑戦し続けてきた矢沢さん。コアナンバーにもある#5の影響力がとても強い年に偉業を成し遂げました。

 

2008年 59歳 #5-6

EMIミュージックジャパンとの契約を終了し、自らのインディーズレーベル「GARURU RECORDS(ガルルレコード)」を立ち上げる

 

変化と自由の5周期、自分の生み出すものに対して責任を持ち極端な完璧主義の#6の年です。

またソウル数#8の支配・管理欲求も深くかかわっているのだろうと思われます。

 

2016年 67歳 #5-14

SPACE SHOWER MUSIC AWARDSで「BEST RESPECT ARTIST」(音楽シーンに貢献し多大な影響を与えているアーティストに授与される賞)を受賞

 

チャレンジナンバー#14の器を拡大する時期でした。

 

 

 

 

【Type】

 

TypeⅢ バランス〈4〉 先天的にたくさんの資質を与えられています

 

TypeⅡ 特徴としては以下のものが挙げられます

 

・Creation(創造する力・何かを生み出す力)〈1〉

 ・開拓精神

 ・オリジナリティにあふれた創造性

 

・Growth(魂の成長・何かを成長させる力)〈6〉

 ・あるがままの受け入れ

 ・達観の域に達するほどの客観性を得る

 

・Support(サポートする力)〈0〉

 ・人のサポート皆無または自己満足の行動が自覚なしに人のためになっている

 

・Make Mood(雰囲気をつくる力)〈5〉

 ・刺激をもたらすバイブレーション

 ・リズミカルに変化させる

 

・Body(身体の持つ創造的バイブレーション)〈1〉

 ・バイタリティ循環

 ・運動必須

 

・Emotion(情緒・感情の現れ)〈5〉

 ・感情豊か

 ・激しくのたうちまわるエネルギー

 

総合的にみるとこれらの特徴は矢沢さんの活動そのもののように感じます。オリジナリティを大切にし、強い向かい風の中をパワフルに突き進み音楽業界を開拓してきた姿は、才能を余すことろなく出し切った生き方に思えます。

 

【まとめ】

矢沢さんのリーディングを終えてみて、こんなにも自分の個性を生かし才能を使いこなしている人がいたことに正直驚きました。

障害ナンバー、特に家族問題を通して学んでいく#5・#14・#19を持ちながらも、これがあったからこそ人生の基盤(#8、自分で稼いで生活していく)が出来上がったのではないかと思います。

自分の人生もコンサートのステージもいいものにしていきたいという信念のもと、多くの反発にも屈することなく自分を信じチャレンジしてきたその生き様に真の強さを感じます。

 

矢沢さんと私は持っているナンバーがほとんど同じです。パワーがあること、変化を続けていくこと、自分を信頼し行動していくこと、そして楽しむことを忘れないこと。これらをリーディングを通して教えていただいたように思います。

 

 

first-year student by Noriko・M

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

 

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

林真理子さんと同じナンバーを持つAtsukoさんが、人生を自分の責任でしっかり行動して掴みとってきた林さんの半生をリーディングしてみて自分にもある才能、これから必要なものに気付けたものであったのかもしれません。

(2019年10月のものです)

 

↓↓↓

 

林 真理子(はやし まりこ)  

~努力と野心で逃げずに自分の世界観を切り開く~

 

本名:林 真理子

生年月日:1954年4月1日 (現在65歳)

山梨県山梨市生まれ

職業:小説家・エッセイスト

 

 

 

林真理子さんは

鋭い感性で物事の言い難い本質を切り出すためエッセイや小説は

賛否両論ありますが、多くのひとを魅了してやまない方

その“林真理子”の世界観を紐解いていきます。

 

誕生数 バースナンバー  #6

 

誕生数とは、生まれ持った資質、性格、個性、生きる姿勢や才能、その人の潜在能力を表します。

 

#6は、愛と調和と美のナンバーです。

周囲の人へのサポート、社会へ貢献したり、自分を愛し認めることが大事になります。

林さんは、女性特有の感情、リアリティー、ホンネ、憧れをリアルに描いている小説が多いです。

これは、自分の心の奥底にある理想と憧れを小説で表現しているのではないでしょうか。

その鋭い観点から女性からの支持と共感を得て小説、エッセイで女性の代弁者、かつ社会に発信してくれてるところに人気があり世の中に貢献していると思われます。

そして、Workでは世のためひとのために尽くす仕事が理想 

まさに小説家・エッセイストは適職だと思われます。

 

あと、アマチュア的要素も持ち合わせている部分も垣間見れます。

贅沢、所有欲、独占欲、執着

自身のブログ「あれもこれも日記」で、カテゴリ別に

美食、ワイン、ブランド「ジル・サンダー」交友関係等、高級志向な内容のブログが多いです。

美では、「日本の美」総合プロジェクト懇談会登録

授賞時には必ず着物を着ていくと決めているそうで、美意識が高く

高いこそ、高級志向で贅沢、所有欲、独占欲の表れがでていると思われます。

 

運命数 destiny    #12-3

 

人生における使命や目的、何をして現実していくべきか30.40代以降に特質として現れ、仕事に反映するナンバーでもあります。

#3は、楽しく表現、成長 チャレンジ

「開花」「具体的な計画」楽観性、感性、より多く経験し視野の拡大 開花を楽しみ、さらに創造力を発展し豊かさを受け取る。がテーマ

#12は、バランスと開放

林さんは、就職活動をするも30社以上落ちたがめげずに、いつか自分が有名になった時用に 全ての不採用通知をまとめ束にし宝物にしてた、という話がある。これは#3の特質 楽観的でピュア、ポジティブなところ。

そして、大学卒業後は色々なバイトをすることになる。

植毛クリニックでは2年以上バイト ブス雑誌のモデルなども経験。

こうして美貌もコネもお金もない現実を突きつ付けられながらも根拠のない自信だけは持ち続け、今では若い頃の経験や体験、自分の思いを、小説やエッセイで表現し開放、特に女性から共感、支持され、小説家、エッセイストとして成功する。

自身の経験や理想、憧れ、心に秘めた野望、野心を文章に託し、女性の本音、現実を表現

 

ソウル数  soul  ナンバー  #9

 

魂の欲求、一番大切な価値観、優先したいことなどの強い内的な願望を表します。

  

#9 他のナンバーの特質も持ち合わせているが 成就、完成、全体的意識、人類愛

 

就活で全敗だった自分が、野望、野心、努力をあきらめず、#3の表現力を活かし、小説家、エッセイストとして成功 有名人となり、夢が叶った。

今度は人のため人類愛のため、人を感化し教化させ得る才能を活かし、人を導く力を実践することが願望であり、内的欲求なのではないでしょうか。

 

人格数 Personalyty  ナンバー  #12-3  

社会的な仮面、他者から見た表面的人格をあらわします。

 

#3 お茶目で無邪気、楽しい人。多趣味多忙

中学時代はブスであることでひどいイジメにあっていたが、前向きに「私のことが気になるから」と前向きに捉え、何とかやり過ごす。高校になると、自身の表現力で皆を笑わせお茶目な性格で人気者に。そして高校時代、県内の放送オーデイションに合格 DJ務める。

現在は、講演会やコメンテーターとしても多数出演

#3の表現力を活かし 芸能芸術で活躍。

 

実現可能数 Realization  #9  

何を実現しようとしているか?

 

#09 成就 完成、智慧と奉仕 芸術

完成で1つの周期の終わりです。不要なものを手放し、次の準備に入ることにもなります。

 

林さんは、小説家、エッセイスト、講演等で活躍されています。

彼女を知らない人はいないでしょう

それぐらい、小説家として地位を確立、支持されていらっしゃいます。

今度は、その業界以外、世界へと視野を広げていくことに。

2011年 フランスで「女性の地位」に関しての講演で「レジオンドヌール勲章」

この賞は、「卓越した功績」を残した人に授与される フランスの最高勲章です。

因みに、北野武・トヨタの社長豊田章夫氏・向井千秋 などが受賞

そして最近では歴史小説 執筆、60代を超え

これからどのようにシニア期を迎えるか、自身のストーリーを踏まえ振り返りながら

語る講演会の仕事も増えてきた。

これも、変容、奉仕、完結に向けての、心の分野、芸術で発揮されることでしょう。

 

Stage    #5

人生の活躍の場です。

#5、自由、変化のナンバー

現状にしがみつくと淀むナンバーでもあるので

小説家だけでなく、評論家や、講演の依頼を受け「野心のすすめ」「私の仕事」

「林真理子 流の生き方」など 、彼女の生き方や考え方を話されるそうで、講演会を開くと、チケットが即完売にもなるそうです。

それだけ、周りから支持され憧れの存在だと知り得ます。

そして、フランスでの講演もあり、海外にも進出

講演会申し込みでは、

2015年に設立  有限会社「林真理子企画事務所」代表取締役に。

これから、ますます活躍されることでしょう。

 

Challenge    #8 17-8

人生の挑戦、生涯をかけて挑戦していく事

#8 パワフルで現実ナンバー

小説家以外でテレビにコメンテーター、講演会、ブログ開設などしてパワフルに充分に活躍をはたしていると思います。

#17 探求心をもって自分の内省を極め実行し実現している

林さんならではの相応しいナンバーだと思います。

 

Year Cycle   #4-8

今年は、#8 バイタリティーあふれる、富と名声を現実するナンバーからして

#4の周期も相まって、真面目に着実に仕事をこなし信頼を得て、小説家以外のいろんな分野でお声がかかり活動、注目を浴びている。

 

 

人生の周期

Cycle  Number:テーマ (Cy)

Pinnacle Number:状況 環境 (P)

Challenge number:課題 (Ch)

 

0~30歳 

Cy  #4

P   #5

Ch  #3 

真面目にコツコツと取り組み基盤を作るがテーマ。

継続し信頼を得てゆくことで、自分の周りや状況、環境が変化していきました課題は、より多くの経験をし、自分のやりたいことを楽しみながら表現していくことでした。

幼少期は実家が本屋を営んでいたことでたくさんの本に囲まれ、中学時代はイジメられていたこともあり、本が友達となり、読書する時間をたくさん持て創造力も育まれる環境でした。

中学と高校時代では真逆な境遇となり、高校では発想や表現力が面白くて人気者に。

その自信から、創造力や妄想力を得意とする仕事、広告関連の仕事に就きたかったと、のちに話しています。

 

 

31~39歳

Cy  #1

P   #11-2

Ch   #9

#1の新しい事への始まり、小説家として本格的スタート 

#11-2のパートナー依存と揺れ動きもありながら女性として幸せも手に入れたく、36歳で見合い結婚します。

#1があるので、家庭には入らず家庭と仕事の両立を目指し、自立した生活で完璧な人生を思い描いてゆく時期でもありました。

 

 

40~48歳

 Cy   #1

 P    #7

 Ch   #6

小説家としての地位を確立

絶対的な存在にするため、自分の内省を極め、探求心を深めていきました。

#6の時に出産し家庭との両立を図りバースの6を持ってることで調和のとれた愛ある環境にしていったと思います。

 

 

49歳~

Cy   #1

P    #14-5

Ch   #3

自由と変化がテーマで、形になったものがさらに外向きに活発化していく環境に。

会社も立ち上げ現状を打破していくことで、楽しみながら活躍の場を広げこれからも発展してゆくのだと思います。

 

 

History  

 

1954年 0歳   #24

1954年4月1日 山梨県山梨市、二人姉弟の長女として生まれました。

幼少期は、両親が営んでる本屋でたくさんの本を読んで育ちました。

1歳から#16~

しばらく二桁の数字が続きます。

 

1970年  16歳 #17-22 高校入学

中学時代は、ブスであることで壮絶なイジメにあって波乱万丈だったが、いじめっ子達と離れ高い理想とパワーで楽しい学校生活を送る。

 

1976年 22歳  #18-19

就活では30社以上受けて全落ち

行動力はあったものの、#9の揺れ惑い、不安定が表面化した結果に終わってしまったかと思われます。

 

1979年  25歳   #18-22

バイト生活から離れ、念願のコピーライターとして西友ストアのPRスタッフになる。

#22マスターナンバー 創造と破壊 卓越した才能と高い理想を現実に向け、コツコツと仕事に取り組んでいたと思われる。

 

1981年  27歳  #18-24

西友ストア向け広告コピーで 新人賞

受容とバランスで仕事を真面目にやってきた事が、センスの良さを持つ#6で結果が残せたのでは。

 

1982年  28歳   #18-25

エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」 処女作で大ベストセラーに。

知的分野で新しい風を巻き起こし知性を極め、芸術的エッセイストとして活躍しました。

 

1986年  32歳   #19-20

「最終便に間に合えば」「京都まで」で、第94回直木賞受賞

スピリチュアルナンバー 20 直観とひらめきのバランスが取れ自分の殻から抜け出し、自信と威厳を現実社会で確立していくテーマを実践していた。

 

1990年  36歳  #19-24

2+4=6で、愛のナンバーへ

見合い結婚する。パートナーに依存、女性として結婚の憧れ、家庭を持って安定志向へ。

 

1995年  41歳  #2-2

二桁から一桁に。

「白蓮れんれん」 第8回柴田錬三郎賞 受賞

作家として調和とバランスが取れてきた結果だと思います。

 

1997年  43歳 #2-4

「不機嫌な果実」はTVでドラマ化され、映画までになる。

着実に仕事をしてきた結果と、作家として今後の基盤、基礎となる。

 

1998年  44歳 #2-5

「みんなの秘密」第32回吉川英治文学賞受賞

母性、女性的なナンバー、4月には#6にもなる切り替わり時期に出産。

長女誕生(2月)

 

2000年  46歳  #2-7

直木賞選考委員 就任 他、数々の文学賞の選考委員務める。

専門分野でより深めていける人物だということです。

 

2011年  57歳  #3-9

フランスで「レジオンドヌール勲章」シュヴァリエ受賞

この賞は「卓越した功績」を残した人に授与されるフランスで最高勲章

「女性の地位」に関して講演活動し、受賞となりました。

#9の完結、成就の意味を持ち、人の中に身を置き自己の信念を固め才能を発揮し、次のステップの後押しとなったことでしょう。

 

2013年  59歳  #3-11

「アスクレピオスの愛人」で第20回島清恋愛文学賞 受賞

「野心のすすめ」も出版する。

マスターナンバー11 インスピレーションと高い芸術性を持ち合わせ、カリスマ性も出てきて不動の地位に。

 

2015年  61歳  #4

有限会社「林真理子企画事務所」代表取締役 設立

#4の安定、基盤作りにご自身の事務所を立ち上げたタイミングは良かったと思います。

仕事的には、講演会を受けたり対談とか信頼されてるからこそ、小説以外の仕事も舞い込んできます。

 

2018年  64歳   #4-7

 天皇から紫綬褒章 受賞

芸術的分野で、探求心をもって深く取り組んだことで業績を残し認められた結果のものでした。この時のコメントに「後世に残るものを書きたい」と言っていた。

 

 

Type  Ⅱ

その人の特質、個性を表します。

 

Creation: 4 創造する力、何かを生み出す力

→基礎をしっかり形成させ成果に導く力、現実的

 

Growth; 3  魂の成長→自己の感情と感受性を淘汰し表現

する。楽しく人生歩む。

 

Lead:   3 リーダーシップ、けん引する力→感受性豊かな表現で人を改革したり喚起していく能力・作家向いてる

 

Body:  3 身体のバイブレーション→セラピスト系

 

Maturity:2 成熟度 キャッチしやすいか→感受性の鋭さ

 

Support:1 支援→1の要素リーダー的導くが一匹狼的

 

Emotion: 1 情緒 感情→子供のようなピュアさ 改革者

 

Make mood: 5 ムードメーカー→ 刺激をもたらすバイヴルーション、覚醒させる、喚起させる

 

Inteligence :5 知性、知的才能とそれをどう役立てるか→有用な直観的判断力、映像により知覚する知性

一番突出してる数字は ムードメーカーと、インテリジェンスで一番表面化しやすい。↑作家は向いている。

そして、グロース・リード・ボデイが3つが3と持っている

 

Destinyも3、Personalityも3と、#3の持つ意味を

表現し楽しんで開放することがテーマになっていると伺えます。

 

バランス→6 プラス要素 先天的な要素をたくさん与えられている。

 

 

まとめ

 

林真理子さんは、野心と努力を怠らないと決めて、人生を今を歩んでいます。

バースが#6、愛と美に関わる仕事、世のため人のため、理想や憧れを文章にし小説にして、女性の気持ちを表現し成功を収め支持されています。

私は家庭があるから、子供がいるからと言い訳をし、出来ない、やれないとネガティブな気持ちで現実逃避してる部分がありました。

そんな中、強い信念と野望、野心を持って突き進む林さんは、自分の理想とする強さを持っていて羨ましい。と思っていました。

今回林さんのリーデイングを通して、自分で自分に言い訳してるマイナス部分を振り返ることが出来ました。

 

林さんのCycle Numberが49歳~と私もちょうど切り替わるタイミングが一緒、何か導きがあり、林さんのリーデイングをしていて気付かされました!

そして、林さんが持ってるサイクルナンバー#1、と私のピナクルナンバー#1 

1の意味、決断、実行に移す。身近な一歩を踏み出すこと。

自分はどう生きていきたいか?今ある自分を見つめるに良いきっかけとなりました。

林さんが持っているDestiny/ Personality #3 表現して楽しむことを見習い

私はStage #3 人生で活躍する場を楽しく表現できるようにしたいです。

林さんのステージ#5、ピナクルナンバー#5

私のDestiny Cycle Number#5もヒットしてます。

自分がチャレンジしたい事には理由はなく、自分の心のまま、気が向くままに行動し、色んな刺激を受けて楽しめる人生に自分の手で掴み取る方向にしていきたいと気付かされました。

 

林さんのコアナンバー、BOXナンバーはそれぞれが持つ特質、資質に沿って林さんの軌道に合っていました。

イヤーサイクルでは、41歳から一桁となり、それ以前は二桁で読み解くときは、数字が絡み合っての特質が出ていました。

今は#4周期です。真面目にコツコツと基盤を作りながら他の活動もしていき71歳からは#5周期、変化を求め、自由に活動の場を増やしていけることでしょう。

 

 

first-year student by Atsuko・T

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。

自由をテーマに持つEtsukoさんは実業家の孫正義氏をリーディングされました。

孫さんの不屈の精神、言い訳をせず諦めずにやり続ける努力の人、その行動を調べてみて何を感じとったのでしょうか。

(2019年10月のものです)

 

↓↓↓

 

孫正義(日本の実業家 ソフトバンクグループの創始者) 

〜情熱を持って突き進み自由に責任を持って生きて行く不屈のチャレンジャー〜

 

生年月日:1957年8月11日

◇birtuh number 5-14  生まれ持った資質 個性 深い意味での人物像 

◇destiny number 5-50 (運命数)人生における使命や目的 表面意識を暗示 

◇soul nannber 5-23 魂の欲求 

◇personarlity 9 社会的な仮面 他者から映る表面的人格

◇rerlization 1-10 今回の人生での可能性や実現性

◇challenge 2-20 この人生でチャレンジしていきたいこと

◇stage 4-40 活躍する場所

□box

cycly numbers 0才~31才 8 32才~49才 2-11 50才~ 4-22

pinnacle numbers 0才~31才 1-19-10 32才~40才 6-33 41才~49才 7-52 50才~  3-30-12

challenge numbers 0才~31才 6 32才~40才 2 41才~49才 4 50才~ 4

 

 

 

◆佐賀県鳥栖市の戦前から韓国、朝鮮の人たちがバラックを建てて住み着いた区画に在日韓国人三 世(現在は日本に帰化)で4人兄弟の次男として生まれる。 

弟に実業家アジアングループ代表取締役の孫泰蔵がいる。

孫家は元々中国から韓国に渡ったとされる。祖父の時代に韓国の大邱から九州に移り住んだ。

 

正義が生まれた1957年は宇宙意識数 22の年 大きな事を成し遂げられる年に11日生まれという事で理想に向かう揺るぎない意志とバイタリティーを持って生まれた人なのだと思う。 R(10-1)ソフトバンクグループの創始者となる事に繋がる。

8月生まれ 若年期の様相として父親から「日本で1番だ」「おまえは大物になる」という言葉で全身で褒められた。すると正義は「おれは やればできると思うようになった。なみのレベルで満足しちゃいかんのだと思い込んだ。ひょっとしたら天才かもしれん」

これは8の持つ「自信」というものではないかと思う。

そしてBirthNo5(14) Destiny5 Soul5(23) typeIIemotion5 personarity9 realization10-1 ステージ4 チャレンジ2

5の特質を沢山持ってる人だという事が分かる。

 

そしてBirth No5-14を持っていることから、家族関係に障害があるように設定して生まれた来たことがわかる。正義は在日韓国人3世で幼稚園の時に石を投げられる屈辱的な経験をし  高校生の時の語学留学へ向かう空港の出国ゲートで仲間から離れて1人だけ外国人ゲートに向かわないといけなという在日であるという現実をつきつけられたり、小学校の先生になりたいと夢を語れば、韓国籍だから無理だと言われたという。 

だが正義はこの壁にも5の特質である知性、冒険、革新、破壊を持って自由を勝ち取っていくのであ る。 5-14は海外にもご縁があるナンバーでもある。

在日であるという事で不自由を味わった正義少年は、小さな島国ではなく海外へ意識を向けたのではないかと思う。

 

1973年の夏 アメリカに語学研修

正義少年16才 高校2年生である。 アメリカでは彼らは国籍を全く気にしない、人と人とのぶつかり合いなのだ。 そして正義少年は日本の高校を辞める決意をする。

「自分は韓国籍だから大学を出ても 日本では認めてもらえない」

「アメリカで結果を出せば、日本で評価される」

そして正義は日本の高校を中退して、アメリカのカルフォルニアに旅立った。

1974年 17才 year cycly 22の年である。

大きな事を成し遂げられる年、夢の実現、インスピレー ションを持って渡米したのである。そしてbox8 情熱 大胆 実行力 ピナクル1(10、19) 全く別の道へ変化、家族や自分からの脱却 そして自立へ向かう。より良い社会を作るために稼ぐための第一歩ではないかと思う。

 サンフランシスコ郊外のホーリー・ネームズ・カレッジ構内にある英語学校(ELS)に入学。正義の胸には「実業家になる」という日本から持ってきた大きな夢があった。

「おれは天下を取る」 1974年9月サンフランシスコの南に隣接するディリーシティにある4年高校の2年生に編入する。しか し正義は一刻も早く大学に進みたいと思い、校長に直談判する。

 

ここでも22のサイクルの年 ドラマチックに大きなヴィジョンを描き新しいステージに向かう開拓 する年に、5の特質、雄弁、話術が巧み、挑戦者を持って翌日には3年生に進級する。

そしてまたまた 5の特質である知的欲求、鋭い知性が発揮される。食事中もトイレも片時も 教科書を離さず猛勉強する。その様子を見た校長の英断で3年生から4年生に なる特例が認められる。だが間髪入れずいきなり 大学入学の為の検定試験を受験する。 アメリカでは高校を卒業せずに大学へ行くケースは珍しくないが、僅か数週間で高校を終えて難関 の試験に合格した例はほとんどない。 

あまりの問題の多さに、試験官に辞書の使用と時間の延長を申し出る(これも5の特質 冒険や自由な発想からくると思われる) 当然断られるが諦めず、ここでもbox8のど根性、負けず嫌い、情熱 そしてピナクル1 やはり情熱的 5の特質話術が巧を発揮して、教育委員会に電話をしてもらい、 その熱意に負けて辞書の使用と時間延長がみとめられる。

そして 見事合格 一生懸命やってそれでだめなら諦めもつく、少年は自分自身に対して言い訳が大嫌いである。

そして正義は高校生活を僅か3週間で終えて大学生になることが出来た。 

なんとドラマチック、これもまた5の特性である。 

そしてこのサイクル22の年に奥さんと出会っている。「僕の女房になる女性は優美さんしかいない」とインスピレーションが働き、2歳年下の正義が早く一緒に勉強したいと飛び級させるきっかけになった人である。

yearサイクル22の年 インスピレーション box8 情熱  ロマンチスト ピナクル1 ピュアな心、そしてやっぱりドラマチックな 5 なのである。

 

ここでpersonality 9(27)エピソード 少年時代は在日であることを受け入れ、明るく素直な少年だった。(これは2の特質の受容、調和) 奥さんが出会ったころの正義は背中に黄色いリュックをせおい、教科書一式を入れる。

コットンの ズボンも自分で工夫して改良。

大きなポケットをズボンに縫い付け、そこに ペンを15本くらい突き刺し、ペンから定規から電卓まで一式いれる。

授業と授業のあいまにガシャガシャ音を立てて走る。そんな青年で、奥さんの最初の印象は「年齢不詳の変な奴」だったらしい。これは7の特質の個性的 オタクである。 そして大人の正義は、ビジネスの交渉をした人達から「あの人は不思議な魅力がある」と評される ことが多いといわれる。

 これは少年時代の2から青年時代の7そして大人になり9に変化していることを表すと思う。そして5-14の特質の何だか魅力的に当てはまる。

 

話を戻そう。奥さんのほかに正義の人生を決定づけたもう一つの衝撃的な出会いがあった。スーパ ーで買った科学雑誌「ポピュラーエレクトロニクス」の中にあった1枚の写真だ。 

インテルが発表したi8080コンピューターチップの拡大写真。こんな小さな物が人間の未来を一変させるかもしれない。

「おれは天下を取る」「事業家になる」という大きな夢を抱いていた正義はyearサイクル22の年に夢の実現のためインス ピレーションが働いてたのではないかと思う。 そうでなければコンピューターチップの拡大写真に目が奪われるなんてことないのではないかと思う。

そしてこの出会いが正義を勉強に駆り立てた。

 

1975年9月ホリーネームズカレッジに入学した正義は何をするときも教科書を離さず、車を運転するときもテープに録音したものをヘッドフォンできく、信号待ちには教科書をひらく。これもやはりbox8の情熱、向上心、ピナクル1の行動力5の知的欲求などが関係していると思われる。

そして1977年21才サイクル25の年にカルフォルニア大学バークレー校の経済学部に編入できた。ホ ーリーネームズカレッジからバークレー校に編入できるのは全体の10%にしか過ぎない。 

yearサイクル25 2の学び そして5の機知の年である。「新しい風」「環境の変動」形になったものがさらに外向きに活発化したと思う。 

そして正義がバークレー校を選んだ理由にも、ノーベル賞者を世界一多く輩出している名門大学というだけでなく自由な校風だった事がある。

これもまさしく5 の特質の自由である。 

正義は大学時代とにかく勉強した。大学を卒業したら事業家としてスタートする決意だったからだ。1日に5分間の仕事をして1ヶ月100万以上稼げる仕事ないものか。

肉体労働では限界がある、徹底的に頭を使うしかない。

そこでひらめいた、発明をして特許を取ろう。 そしてたどり着いたのが「音声機能付き電子翻訳」というコンセプトだ。

辞書、液晶ディスプレイ、スピーチシンセサイザーの三要素をくみあわせたもので、これはのちに商品化され電子手帳の原型にあたる商品となる。 

そして1978年サイクル26の年、正義の発明に協力した人たちのお陰で、音声機能付き電子翻訳機ドイツ版完成!!

 

2の協力のもとに6の世の人のために尽くす仕事の一つである。 

そして優美さんとの結婚もこの年である。まさに内面の強さを養う時期、愛情、家庭の意味を持つ6 の年である。

音声機能機付き電子翻訳機という発明をシャープの佐々木専務に気に入られ商品化が決まり特許の契約金が合計で100万ドルだったという。

box8 富や名声、成功を目指す ピナクル1 実業家としての始まりである。

 

1980年正義はUCバークレーを卒業する。

学生時代に事業を起こして大学を1年休学する。休学した期間も勉強を怠ったわけではない。大学院に残ろうと思えばどこでも歓迎された。

彼は研究者ではなく事業家としての道を選んだのである。 

そして1981年2の周期の始まりである。20番代から1桁に落ちた2サイクルの年に福岡県の福岡市に 事務所を移し

市場調査などをするための企画会社ユニソンワールドを設立する。「芽吹き」の時期である。そして同じ年の9月に日本ソフトバンクを福岡市の大野城市に設立した。

パソコン用のソフトウエアーの流通ビジネス、すなわち卸売業だ。

1982年売上20億社員30人 。目が回る忙しさ、2周期の3サイクルの年、開花を楽しみ豊かさを受取る年

 

1983年26才 2周期の4サイクル 慢性肝炎発症。

正義は集中すると周囲の何も目に入らない。ひたすら仕事に没頭。 ほとんど何も食べない日もあった。4のa-matureのワーカーホリックである。あまりにも忙しく働くことに、今後の準備のために軌道修正がかかり体が休むことを余儀なくしたのでないかと考えた。 そして闘病生活は3年にもおよんだ。

 

1984年27才 2周期の5 birth5-14 distiny5 soul5 5の特質の冒険 

虎の門病院に転院し新しい治療を受ける。そして3年の長い闘病生活に終止符を打つ。病気を通して 身体的不自由を体験して真の建設的な自由とは何かを学んだのではないかと思う。

 

1988年31才2周期の9サイクルの年 box2(11) 真の理想に向かって目標を掲げる 

ピナクル6 責任 出会いと別れ 喜び活動する

ソフトバンク アメリカ設立

 

1998年41才3周期10サイクル ソフトバンクは東京証券取引所第1部上場 3の成長 そして10-1  新しいステップへ

 

2001年1月44才4周期4サイクル ステージ4 box2-11 ピナクル7 2-7の逆相

「今日の午後から社長室には戻らんから。すべてのアポイントとをキャンセルしてくれ一切お客さんに会わない。社員にも会わない。僕はブロードバンドに集中する」 正義は突然ほかのことは任せる、一切関与しないと言い出した。

順調に進み始めたと思われたブロードバンド事業がNTTの大きな妨害にあった。

yahoo!BB開通に必要なNTT局舎内での接続工事の妨害。 

2と7の逆走の時期ではあるが11-2の限りなく情熱的に素早い決断で直感とインスピレーションを頼りにすすむ。 そして7の会得した智慧や研究を世界中に広め人々の心を豊かにすることというミッションを遂行し たのではないかと思う。

そして4の軌道修正し今後の計画 安定を手に入れる。

 

2002年887億円もの巨額赤字という決算発表の席にもかかわらず、正義は笑顔だった。 2003年5月ブロードバンド事業で920億円の営業赤字 そして同年8月には「yahoo!BB事業は顧客獲 得費用を除けば既に単月で営業黒字を達成した」 

6のサイクル 世のため人のために尽くす仕事をして責任を果たした結果が出たものと考える。

 

2004年47才 4周期7サイクル コンセプトの計画をより深める時期ADSLサービス「yahoo!BB」の顧客個人情報から約452万件 が不正に盗まれ、恐喝未遂事件がおきた。 ピナクル7 ここでは7の持つ分析力、洞察力、内省を持って解決に導く。

「世界一のセキュリティー体制を作る」

最悪な事態は避けられた。今後はこれを教訓にして乗り越えてゆく。

自分の人生を前向きに生きている人はやはり逆境さえもチャンスに変えて突き進んでいくことがわかる。

 

2006年49才 4周期9サイクル ボーダフォン日本法人買収 不必要なものを手放し、本物を見抜くドラマチックな時期 

正義は自ら思い描いたモバイル機能を加えたipodのスケッチをスティーブジョブズに渡した。そして正義は「あなたの製品が出来上がったら 日本向けのもの(権利)は私に下さい」と言った。そしてジョブ ズは「最初に会いに来てくれた君に上げよう」と答えた。

「あなたが約束を守るなら、私も日本のキャリア(通信事業者)をつれてくる」と話した。 そしてその言葉通り正義は200億ドル(約1.75兆円)を投じてボーダーフォンを買収し約束を果たした。

そして正義の最終box4-22 ピナクル3-12が始まった。

stage 4 大きな大きなビジョンを描き新しいステージに向かう開拓の年の幕開けだ。そして今までの事業を改革しつつ、継続、安定に向かうのではないかと思う。 

2008年iphone3G発売。4周期11サイクル安定の時期 積極的に、素早い決断で直感とインスピレー ションをたよりにすすむ。

2010年ipad、iphone4を発売。4周期12サイクル 開花 視野の拡大

 

2011年東日本大震災通信がライフラインと実感 5周期の始まり  

環境の変動の時期 5の破壊 (自由のための) 自然エネルギー協会を設立。2015年2月5周期の8サイクル 形になったものがさらに外向きに活性化 達成の時のである。

「世界中の一人でも多くの人々を笑顔にしたい」 正義の志は揺るがない。

 これからも5の特質の鋭い知性、好奇心をフルに使い未知の世界の解明とそれを広く啓発していくことと思う。そしてとてつもない大きな組織でリーダーシップを発揮していくこととだろう。(ス テージ4) challenge2 今回の人生でチャレンジしていきたいこと イメージの世界での価値ある創造物を現実社会に具現化ということは、実行していると思う。

 

 

typeIIから考察(孫正義の特質、才能、個性)

 

【creation】3 創造する力、何かを生み出す力 感情をストレートに表現する創造性を持ち人に何かを伝えて行く人である。

【growth】4 魂の成長、何かを成長させる力  責任と義務のバランスと忍耐力を育成してゴールではなく、プロセスを重視する強さと柔軟性の学 びが出来る人。

【maturity】2 完成度 成熟度

感受性鋭さがある人

【lead】3 人をどう導くか 感受性豊かな表現により、人を改革したり、喚起していく能力がある人。 【support】2 何かをサポートする力

偉大な奉仕のエネルギー持つ人

【make mood】4 雰囲気を作る力 全体の統率と管理が出来る人 計画力と持続力の為の提案が出来る人

【body】3 身体の持つ創造的バイブレーション 相手の波動を感じ取り、それに対して適切な措置を施せる人

【emotion】5 感情の現れ 鋭利な感受性がある人 情熱がある人

【inteligence】1 知的才能とそれをどう役立てるか 集中的学習壁 閃き、直感力がありインスピレーションを受け取りやすい人

 

ここから見ると 孫正義という人はとても感受性が豊かで鋭く、インスピレーションが働く人。情熱があり奉仕の心がある人と読み取れる。

高校生の留学時の飛び級のエピソードからも、感受性が豊かで情熱的人だということが分かる。集中的学習壁もありとにかく勉強した。

自分の目標の達成の為に、常に情熱を持って行動している。

ペッパー事業の時のエピソードがある。ペッパー開発チームの林さんが開発チームのマネージメントに苦しみ、他部署の協力を得られず悩んでいた時

困っている林さんを役員全員の前で叱った事がある。

役員全員の前で𠮟る事で雰囲気を一変させたのだ。社内でモチベーションが低かったロボット作りのモチベーションを上げたのだ。孫正義のロボットへの情熱をみせた場面だったのではないかと思う。

そして人を導きクリエーションして生まれたのがペッパーである。 

この時に林さんは孫に情熱が足りないとも指摘されそれを猛省する。

emotiom5の熱情とlead3の感情豊かな表現により人を改革したり喚起していった一つのエピソードではないかと思う。

また孫正義は社会貢献への思いが強い。

「お金じゃない、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやってた様な人に喜んでもらえることに貢献出来たら幸せだ。どこか名前も知らない小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような仕事がしたい」と言っている。

そして東日本大震災の時にも100億円の寄付をしている。これは正しくsupport2の偉大な奉仕のエネルギーであり、body3の相手の波動を感じ取りそれに対して適切な処置を施す人ということではないかと思う。 常にだれかの笑顔のために行動するという高い意識を持っているからこそ、鋭い感受性とインスピ レーションが最大限に働くのではないかと思う。

 

 

まとめ

 

孫正義という一人の実業家を数秘で読むことで感じた事は、孫正義という人は自分の生まれてきた使命、魂が望んでること、チャレンジしていく事、活躍する場所までも人生の設計図の通りに歩んでいる人なのだと感じた。 

私と孫正義の共通点はbirth number 5-14 year cycle が全く同じ typeIIgrowth4 support2 emotion5という点である。

5という数字の持つ自由

いろんな意味での自由を努力する事で実現している、常に情熱を持ってインスピレーションを働かせている孫正義という人の人生に少し触れることで気付いた事。

 

私は孫正義みたいな偉大な実業家になりたいわけではない、だが人の為になる仕事をして稼ぎたい、そして一人でも多く人を癒せる人になりたい。

という気持ちが私にもある。それが何をすることなのかはまだ模索中である。でも目標をもって努力していればいつかはかなうのである。

私も豊かな感受性を生かして、より良いインスピレーションを受け取れるようにアンテナを磨き、楽しい人生を歩めるように努力して行きたい。

                                                      

 

first-year student by Etsuko・K

Zero Point Academy 

 

2019/10/20

数秘基礎講座の最終課題としてのレポート2人目です。

Chiharuさんが迷うことなく選んだ有名人は大好きなNACSの森崎博之さん。

俳優や脚本家として活躍している中でも自分の人生の行き先を見つめ、仲間のことを想い自分に合った生き方を模索していった森崎さんをリーディングしながら、人と積極的に関わることを面倒だと思っていたChiharuさんにもたらされたものがあったなら素晴らしいと思います。

(2019年10月のものです)

 

↓↓↓

 

森崎 博之(もりさき ひろゆき)

〜NACSを誰よりも愛し農業の未来をとことん応援する愛のリーダー〜

 

1971年11月14日(47歳)

TEAM NACSのリーダー

俳優・脚本家・演出家

北海道フードマイスター・ご飯ソムリエ

 

 

誕生数 バースナンバー   #16-7

 

誕生数とは、生まれ持った資質、性格、個性、生きる姿勢や才能、その人の潜在能力を表します。

 

#7は、内省と探求のナンバーです。また、大自然とつながるナンバーでもあります。

オタク気質で変わり者、他の人がみつけられないような独創性がある数の通り

脚本家としては、自分が苦手なところを吸収し表現したいと思い、勉強して取り入れるなどされています。

また、自分で「農業タレント」と言っているほど、俳優でありながら食に関する探究と分析をし豊富な知識を得ています。

 

地元北海道で15年続く農業番組を通して、農業、酪農に精通し、最近ではTVでも農業タレントとして農業を熱く語っています。

長所として、洞察力、真面目でひたむき、内的情熱、親しみやすさがあるので、農業や酪農に限らず、子育てや食育、リーダー論など幅広く講演会をされるなど活躍されています。

 

短所として、理屈っぽかったり、寂しがり屋なところがあります。

大学卒業後、上京して就職したとき、ホームシックになり皆に会いたくなり住所を教えるなど、メンバーからリーダーうざいよ!という発言が聞かれるのはここからきているのではないでしょうか。

 

カルミックナンバーの#16を持っています。

真理の探究、人との関わり方を学び、何度も価値観を変え真理とは何かを探究し、運命的な絆に吸い寄せられるように神秘的な方向性へ向かうと言われています。

メンバーとの出会いが森崎さんにとって大きな変化をもたらしたのではないでしょうか。

#16に向けさらに、個性を探求し、講演会や脚本家、俳優としても舞台を通して多くのことを伝えたくさんの方々に影響を与えてくれるのではないかと思います。

 

missionとして会得した智慧や研究を世の中に広め人の心を豊かにするとゆうのがあります。

現在も情報を発信したりされていますが、これからもたくさんの情報を吸収し広めるなどますます活躍が期待されます。

 

運命数   destiny ナンバー  #4

 

人生における使命や目的、何をして実現していくべきか

30代から40代以降に特質として現れ、仕事に反映するナンバーでもあります。

 

#4を持つもの森崎さんは真面目で現実派。

全ての維持・管理・安定に関わる仕事や研究に向いているので、リーダーとしての立場は向いているのではないでしょうか。

演出家、脚本家としてコツコツと真面目に舞台人として学生の頃から数多く活躍されています。

 

ただし、頑固なところが出てしまったり、全てをきっちりやろうとしてワーカホリックになることもあるかと思います。

ストレスや過労により突発性難聴や、扁桃腺炎で入院されていた事もあるのは、ここから来ているのではないでしょうか。

人気が出て忙しいとは思いますが、体調には気をつけてもらいたいです。

 

ソウル数  Soul ナンバー  #7

 

魂の欲求、一番大切な価値観、優先したいことなどの強いうち的な願望をあらわします。

 

森崎さんは、誕生数と同じ#7です。

魂の欲求と生きる姿勢、人生の使命が一致しています。

魂が素直に欲している#7の大自然と繋がること。

これは、子供のころから自然いっぱいの所で育ち当たり前のようにごく自然と繋がっていたのだと思います。

米農家の祖父母の畑にマヨネーズを持っていきキュウリやトマトをおやつとして食べ、田植えや稲刈りのお手伝いもされていたようです。

現在では、タレントとして東京や色々な地方でも活躍し、たくさんの人の心を豊かにしつつも、農業番組を通し自然の中に戻りリフレッシュして、また頑張れているのではないかと思います。

 

人格数 Personalyty ナンバー   #6

 

社会的な仮面、他者から見た表面的人格をあらわします。

 

#6は愛のナンバーです。

TEAM NACSが大好きだ!北海道が大好きだ!と声を高らかにいつも言っている森崎さんは、メンバーの中で誰よりもNACSを愛しています。

東京で頑張っているメンバーが北海道に帰ってきた時の帰る場所をきちんと守ると地元に残り支えています。

 

私生活でもとても家族思いで、家族のことが大好きで、感謝の言葉を忘れずに伝えているそうです。

三人のお子さんが生まれた時も「健康に生んでくれてありがとう。奥さんは尊い」と言っています。

仕事が忙しい森崎さんはお子さんにも「札幌にいる時に生まれてきてくれてありがとう」と伝えたそうです。

 

そんな森崎さんは子育てにも積極的で三人目の時は、奥さんが大変だからと上の二人の息子さんと朝ご飯の準備をして食べさせ、送り出し、おむつの交換、お風呂など積極的に取り組まれて、ブログでも愛溢れるコメントが書かれています。

メンバーだけではなく家族からもリーダーと呼ばれているそうで、これからも愛されキャラで大きな愛で包み込んでくれるのではないでしょうか。

 

実現可能数 Realizatoin ナンバー ♯11-2

 

何を実現しようとしているのか?

 

♯2は受容と調和、バランスです。

イメージした物を現実社会で具現化する事、マスターナンバーの♯11の霊性のナンバーもあるので揺れやすく揺さぶりがかかって分岐として試されることもあります。

また、BirthとSoulの♯7とRealizationの♯2で逆相も見られます。

♯7の極めたい気持ちと♯2の調和との間で揺れてしまい逃げ出したくなる事もあるかもしれません。

 

森崎さんは、脚本家、演出家としても活躍されていますし、絵本も出されています。

苦手なものも勉強し取り上げ、イメージしたものを俳優、脚本家、演出家としてのそれぞれの立場でメンバーやスタッフさんとバランスを取りながら良い作品を作り上げています。

 

また、子供たちのために農業を通して自然や食育の絵本を出されています。

これからも、自然を愛しつつ高い芸術性を発揮していってくれるのではないでしょうか。

 

Stage #4

人生の活躍の場です。

 

Destiny(運命数)と同じ#4の森崎さんは、ワーカホリックになる時もあるかもしれませんが、真面目にコツコツとしっかり基盤を作り自分の能力を活かし、ますます活躍されていくのではないかと思います。

 

Challenge #3

人生の挑戦、生涯をかけて挑戦していく事

 

#3は楽しく表現する。 精神的な喜びを与えることがチャレンジとなっています。

舞台やテレビ、ラジオを通して、その役割を充分に果たしているのではないかと思います。

 

Year Cycle #6-9

 

#9は成就、完成で1つの周期の終わりです。

不要なものは手放し、次の準備に入っているのかもしれません。

2018年9月の胆振東部地震のあと、#6-9に入ってから#6の人への奉仕サポートをし社会へ貢献するという事をされています。

自身も被災し大変な中、たくさんラジオ等で呼びかけボランティアとして片付けや炊き出しにも行かれていました。

 

また、もう少しで#6-10サイクルに入ります。

10のスピリチュアルホール、霊性に導かれ何かが動き出すかもしれません。

 

《人生の周期》

Cycle Number:テーマ(Cy)

Pinnacle Number:状況・環境 (P)

Challenge Number:課題 (Ch)

 

0~29歳

 Cy #11-2

 P  #7

 Ch #3

 

人間関係と協調性の開発、変化を受けいれていく事がテーマで

状況・環境は自分を内省し、研究や学びの時期で才能を開花させていく事でした。

課題は、より多くの経験をし、楽しみながらも視野を拡大していくことでした。

メンバーとの出会いもあり演劇について、たくさんの経験をし表現者として多くの成長をされた時期だったのではないでしょうか。

 

30~38歳

 Cy #14-5

 P    #14-5

Ch #4

  

テーマと状況が同じ#14-5でした。

自由と変化がテーマで形になったものがさらに外向きに活発化していく環境で、独立し現状を打破した時、基盤がしっかりと出来て安定していく時期でした。

課題として基盤を作り今後の準備をすることでした。

 

Destinyの#4とCycleの#14-5で逆相が見られます。

基盤を作り安定したい気持ちと、動きたい気持ちで色々と揺れる時です。

実際、色々と悩んだ時期でもあったようです。ですが、逃げずにきちんと自分と向き合い決断しています。この頃、俳優として東京での活動も増えていましたが北海道に腰を据えることを決意し、農業タレントとしてのスタートを切った時期でした。

 

39~47歳

 Cy #14-5

 P  #12-3

 Ch #1

 

現在47歳の森崎さんはこのサイクルです。

変化と自由のテーマは同じです。

状況は#3で楽しみながら表現することで、新しいステップへ行き変化を受け入れていく環境です。

課題は創造し開拓していく事です。

 

この時期に地元北海道で15年続いている農業番組をきっかけにドラマに出演が決まったり、講演会の出演が増えています。

 

48歳~

Cy #18-9

 P  #11-2 

 Ch #7

 

来月お誕生日を迎えると、最終サイクルに入ります。

BirtthとSoulの#7とChの♯7がHitします。

才能を開花させ、自身を信頼し精神を解き放ちながらも努力を惜しまず、ますます、智慧の探究をし才能をいかしてバランスをとりながら社会貢献、奉仕をしていかれるのではないかと思います。

BirtthとSoulの#7とPinnacleの#2で逆相が見られますが、森崎さんなら悩みながらも自分と向き合い内省しながら決断し、社会貢献、奉仕の方向に向かっていくのではないでしょうか。

 

 

《History》

 

1971年  0歳    #25

 

1971年11月14日 北海道上川郡東川町で2人兄妹の長男として産まれました。

幼少期は恥ずかしがり屋で極度の人見知りだったそうで、小学校3年生のころ転校した時うまく溶け込めずにいたそうです。

この頃から米農家の祖父母の畑にマヨネーズを持って行きキュウリやトマトをおやつとして食べていたそうです。

4歳で二桁から一桁の2周期に落ちています。

受容し協調性やバランスを学んだのではないでしょうか。

このまま人生を楽しまないのはもったいないと思い#2-10で中学校に入ると中学生デビューをして、ガラッと自身を変えたそうです。

#10の霊性の時でした。

 

1990年  18歳   #3-7

 

旭川市西高等学校理数科を卒業し指定校推薦で、北海学園大学法学部に入学。

演劇研究会に所属します。

BirthとSoulと同じ#7で内省探究の時です。

 

1991年  20歳  #3-9

 

安田顕さんが入学し出会います。

 

1993年  21歳  #3-10

 

 佐藤(戸次)重幸さんと出会います。

 劇団イナダ組に参加します。

 

 スピリチュアルホール#10の時に今後、脚本、演出をすることになるきっかけにもなった、イナダ組に参加しています。

 

1993年 22歳  #3-11

 

  大泉洋さん、音尾琢真さんと出会います。

  この頃から5人が“なっくす”と呼ばれだします。

  #11の分岐の時に5人がそろいます。

 

1994年  23歳  #3-12

 

 演研で森崎さんの初めての作・演出の作品を“CHAIR~立ち続けることは苦しいから”を上演。

 作・演出“POOR~在り続けるプロセス”で演研を引退します。

 

 #12の自立してマルチに表現することの時に脚本家、演出家としての第一歩を動き出しています。

 

1995年   24歳  #4-4

 

 この年から4周期に入ります。

 TEAM-NACSと命名し、旗揚げ解散公演“LETTER~変わり続けるベクトルの障壁”をして1000人動員します。

 

 大学卒業・就職します。

 上京し証券会社に就職しサラリーマンになり新人ながら売り上げトップになり社長賞をもらいハワイ旅行に行きます。 

 サイクルが4周期になり、安定、基盤作りのサイクルに入りました。

 

1996年  25歳  #4-5

 

 ホームシックと祖父の死をきっかけに会社を辞め札幌に戻り、演劇の世界にも戻ります。

 TEAM-NACS復活公演“RECOVER~描き続けるもうひとつの結論”を公演し1200人動員します。

 コミュニティーFMで番組を持ちます。

 #5の変化の時でした。

   

 

1998年  26歳  #4-6

 

 TEAM-NACSアマチュアからの卒業“FEVER~眺め続けた展望の行方で2500人動員します。

 2か月後デビュー公演“DOOR~在り続けるためのプロセス”で4000人動員します。

 STVラジオで番組を担当。

 現在の奥様と出会います。

 #6の愛の番号で、内面の成長をする時でした。

 

1993年  27歳  #4-7

 

 “ESCAPER~探し続けた場所”でTEAM-NACSで初めて複数会場で公演し7000人動員します。

 #7才能を開花させる時でした。

 

2001年  29歳  #4-9

 

 ナックス全員が出演する深夜ラジオが始まります。

 

“LOVER~思い続けた君への贈り物”で8000人動員します。

 初めての恋愛ものに挑戦します。

 

2002年  30歳  #4-10

 

 “WAR~戦い続けた兵たちの誇り”で9500人動員します。

 動員人数もだんだん増えてきました。

 東京池袋サンシャイン劇場のプロデューサーから2年後にうちでやらないか?と声を掛けられ東京公演をやる決意をします。

 

 この時、所属事務所のOFICE CUEは道外の仕事はアミューズでと業務提携をします。

 #10の霊性の時です。

 

2003年  31歳  #4-11

 

 ナックスとして全員でのCMがきまります。

現在も北海道で放送している【ハナタレナックス】がスタートします。

 現在5人で集まるのはこの番組の時くらいではないかと思います。

メンバーが個々で活躍し、地元北海道に帰り、戻る場所にもなっている番組です。

#11の分岐の時です。

 

2004年  32歳  #4-12

 

 “LOOSER~失い続けてしまうアルバム”で15400人動員します。

  本人たちは修学旅行気分で行こうと言いながら、初めての地方公演として、

東京公演をし、アンコール公演もしています。

  前売り券は完売し、当日券を求めて連日300人並んだそうです。

  #12 新しいステップへの始まりを受け入れて楽しんで表現するときでした。

 

2004年  33歳  #4-13

 

 ハウルの動く城でナックス全員が声優として参加します。

 CM出演も増え始めます。

 

 TEAM-NACSから『―』をとりTEAM NACSに改名します。

 “COMPOSER~響き続ける旋律の調べ”で全国公演11都市を回り4万人を動員します。

 

♯13決断し楽しみながら表現していく時です。

 

プライベートでは、8年付き合った彼女と結婚します。

まさに、安定、基盤を作る時、人と触れ合い結婚に向いてる時でした。

 

2006年  34歳  #5-5

 

  映画 シムソンズ、UDON

  ドラマ おかしなふたり、大麦畑でつかまえて

  など東京での仕事が増えていきます。

  チビナックスがスタートします。

  

 5周期に入り変化の年です。

 また、障害ナンバーでもある#5の周期でYear Cycleも#5で家族問題が出やすい時でもあり、Bodyナンバーでもあるので怪我など注意の年でもあります。

 

 お父さんが若年性アルツハイマーにかかり、森崎さん自身も扁桃腺炎で入院・手術しています。

 

 この頃、メンバーも東京で活躍し始め、このまま皆と同じように東京で仕事をするようになっていく事に戸惑い悩み始め自分の力不足を実感します。

 

2007年  35歳  #5-6

 

 TEAM NACS 10th Aniversary TEAM NACS TENで全国6ヶ所にて開催します。

 

 TEAM NACSふるさと公演 3~5月のロングラン公演“HORN~守り続けた痛みとともに”で4万8千人を動員します。

 

 メンバーがそれぞれ東京でも活躍し実力をつけ始めたことで、脚本に対して評価するようになり、この作品でメンバーとの力の差を大きく感じたことになった作品でメンバーと     

一番ギクシャクした作品でもあったそうです。

Personalytyの#6とヒットしていて#6のアマチュアと#5と#6での葛藤として感情の揺れ動き、傷つきやすさ、様々な価値観の混沌による混乱と分裂

が出てしまった時ではないかと思います。

 しかし、森崎さんは北海道の劇場でお客さんをいっぱいにする事が目標だったと思い出し、東京での仕事が増え戸惑っていたころ【自分のやりたいことをやって、迷ったらだ め! ブレずにドン!と構えてメンバーを支える存在でいなさい。フラフラしてたら皆がダメになる】と助言を受けて自分を信じることに決めます。

 

2008年  36歳  #5-7

 

 地元北海道で15年続いている農業支援番組として あぐり王国北海道がスタートします。

 

 この番組がきっかけで、北海道に腰を据えることに決めます。

 メンバーとは別の仕事をした方が幅も広がると思い、東京で頑張っている皆を北海道で「おかえり」と迎えよう。

  メンバーを一番愛する存在でいよう!

 自分は土だ!と、決意した農業タレントの誕生です。

 北海道フードマイスター、ご飯ソムリエを取得するきっかけになり#5の変化の周期で#7の飛躍、何かを始めるのにはいい時期でした。

 

 

 

2009年  37歳  #5-8

 

 長男が生まれます。

 オフィシャルサイトで育児ブログをはじめます。

 ブログの中で、1日くらい徹夜してても大丈夫。奥さんの方が大変だと愛のあるコメントや息子と向き合っている事が書かれています。

 

 あぐり王国の番組がきっかけでこの頃から農業や食に関する講演会の依頼が来始めます。

 #8の挑戦と開拓の時期です。

 

 

2011年  39歳  #5-10

 

 次男が生まれます。

 スピリチュアルホール霊性の時です。

 TEAM NACS15周年を迎えます。

 

2012年  40歳  #5-11

 

 WARRIOR~唄い続ける侍ロマンで18都市7万人を動員します。

 #11の理想に向かってゆるぎない意志、目標を掲げる年でした。

 

2013年  41歳  #5-12

 

 お父さんが66歳で若年性アルツハイマーにより逝去

 #12新しいステップへ依存からの解放です。 

 

2014年  42歳  #5-13

 

 森崎博之のジャンジャンジャンプがスタートします。

 天才テレビくんの出演がはじまります。

 

 この頃には、メンバーそれぞれの活躍によって多忙を極めます。

 TEAM NACSから精神的自立をし、楽しく表現することが増えていってるように思います。

 

2015年   43歳  #5-14

 

 “悪童”で6万人動員します。

 初めて脚本・演出をメンバーではなく、外部の方に頼みます。

 千秋楽は、ライブビューイングで3万人動員します。

 

 この頃には日本一チケットの取れない演劇集団と言われ始めます。

個人としても、農業、食育、子育てなどの講演会がますます増えていきます。

 #14 チャレンジナンバーで器の拡大をする時期です。

 

2017年  45歳  #6-7

 

 TEAM NACS 20周年を迎えます。

 

2018年  46歳  #6-8

 

 長女が生まれます

 “PARAMUSHIR~信じ続けた士魂の旗を掲げて”で8万人動員し、千秋楽のライブビューイングでは3万5千人を動員します。

 6年ぶりに森崎さんの原案、演出です。

 第二次世界大戦で無条件降伏を受け入れた直後のソ連との闘いの話しで、北海道に生まれたのにこの事実を知らなかったと取り上げた作品で、自分たちが取り上げていいのかすごく迷った作品だったそうです。

 

 昨年までの5周期の家族問題や変化する事から6周期の内面の強さを養い成長を目指す事、愛の周期に入りました。 

 #8の責任と義務、達成の時、様々な力の中でのバランスをとる時期でもありました。

 

2018年  47歳  ♯6-9 

 

あぐり王国の番組がきっかけで、ドラマ「下町ロケット」の出演が決まります。

そして、ドラマの役のモデルとなった北大の野口教授との講演会もされています。

♯9の幅広い人達との交流の時です。

 

TypeⅡ

 

その人の特質、個性を表します

 

Creation:創造する力、何かを生み出す力

Make Mood:ムードメーカー、雰囲気を作る力

Intelligence:知性、知的才能とそれをどう役立てるか

 

2:見極める力があり、人からアイディアをもらえる

  皆が寛ぎ楽しむことを優先する

  高度な専門的知識を習得する

 

Realization、来月からはPinnacleとヒットします。

これからも優しく見守っていくのではないかと思います。

 

Growth:魂の成長

Emotion:情緒、感情の表れ

 

3:辛くても楽しみながら表現し、楽しく人生を歩む

  繊細なところもあるが明るく陽気でおしゃべり

 

まさに森崎さん!と思う部分です。

 

Maturity:完成度

Body:身体の持つ創造的ヴァイブレーション

 

4:忍耐強く物事を成し遂げる力がある

  呼吸が浅くなりがちでリラックスや呼吸法のためのヨガ等が向いてる

 

Lead:リーダーシップ

 

1:カリスマ的リーダー、自らが破壊をおこし創造をつかさどる

  独自のやり方でリードする

 

Support:サポートする力

 

6:自分より世のため人のため、調和をはかり優しい

  自分を大切にしないと人のために枯渇した人生

 

 Supportの6が一番突出していてPersonalityとヒットしています。

 自分を明け渡すのではなく、自分をしっかり持って世のため人のためと奉仕の方にいかれるのではないかと思います。

 

 

まとめ

 

16-7の森崎さんは幼少期から、自分でこのままではもったいない!と自分をガラッと変えるなど、破壊と変容を繰り返してきています。

 

精神性、極の7でとことん突き詰め人との関わりも、自ら突っ込んで行かれています。

マイナスに出やすい要素をとことん向き合い、プラスの要素に変えていっているところは、本当に凄いと思いました。

また、自ら直感的に早い段階でわかってらっしゃるんだろうと思います。

私が逃げやすいところがあるので、見習いたいと思いました。

 

パーソナリティの♯6をいかんなく発揮し、頭と声だけではなく大きな愛でみんなを包み込み、ドンと構えてそこに居る!

そういう、森崎さんならではのリーダーとして居てくれる事が皆に安心感を与えくれてるのだと思います。

私も、愛溢れる人になりたいと思い目標にしたい人です。

 

Historyを見て思いましたが、それぞれのCycle事にしっかりと沿っていると思いました。

3周期の時はとことん楽しみ、表現し、4でしっかりと基盤を作り、5で迷い変容そして、6に入りました。

 

人生のCycleも最終Cycleに入っていき、これからの、森崎さんがどのように活躍されていくのか楽しみです。

 

今回、森崎さんをリーディングして気づいたのは、変化を恐れず人との繋がりを大切にする事です。

 

 

 

first-year student by Chiharu・O

Zero Point Academy 

 

2019/10/20