数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。
亡きお父様が画を描いていらして子供の頃から絵画が身近にあったKeikoさんがレポートに選ばれたのは、死後その才能を世に認められ「日本のゴーギャン」と呼ばれた孤高の画家、田中一村氏でした。
思い入れのある一村氏をリーディングする中で深く彼女に切り込むものがあったことが窺える、1つの小説を読んでいるかのようなリーディングです。
彼女の感じた感動が読み手にも必ず伝わるものと思います。
(2019年10月のものです)
はじめに
毎週日曜日の朝に在宅していれば必ず見ていた『日曜美術館』という番組で私は『田中一村』という画家の存在を初めて知りました。一目見ただけで作品の美しさと不思議な雰囲気に魅了されました。作品を知って田中一村という人がどういう人なのか知りたくなり、知るうちにますます引き込まれていきました。その後、展覧会が開催されると知り、待ち焦がれて足を運びました。
初めて原画を目の前にしたときの衝撃は今も覚えています。清々しいほどの美しさを感じると同時に思わず身が縮む思いがしたのです。
それは見ているこちらの心の奥を見透かされているような、姿勢を正さなければその画を前にしてはいけないような金縛りにも似た、その画の前から動けない・・・といった感覚でした。
そう思わせる田中一村の紹介から始めます。
本名、田中 孝は、明治41年(1908)7月22日、栃木県に彫刻家の父・母と6人兄弟の長男として生を得ます。
幼い頃から水墨画に才能を発揮し『神童』と呼ばれていました。
7歳の時に児童画展で天皇賞(または文部大臣賞)を受賞し、当時の中学卒業後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学します。
同期には東山魁夷らがいました。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で三か月で退学。その後、画を描いて一家の生計を立てますが両親と3人の弟を病気で相次いで失います。
残った祖母と姉・妹とともに、母方の親類を頼り千葉に移り住み、そこで農業や板金工として働きながら画を描きます。その間、戦争がありました。
39歳の時絵画展で入選し、これより雅号を『一村』と改め名乗るようになります。翌年40歳の時、再び絵画展に出品。
2点のうち1点は入選しますが自信作の落選に納得できず、入選自体を辞退してしまいます。これを境にかつての師と決別。
その後、日展や院展に出展しますが落選が相次ぎ、画壇への絶望を深め50歳の時に単身奄美行きを決意します。
一押しすれば倒壊しそうな粗末な一軒家に一人住み、大島紬工場で染色工として働き、『5年働いて3年描き、2年働いて費用をつくり、個展を開く』という画業10年計画を立てます。
しかし、57歳の時に最大の協力者の姉・喜美子を失います。
一村は独り遺骨を抱いて奄美に戻ります。
その後も紬工場で染色工として働きながら画を描き続けますが、結局個展の開催は実現せず、昭和52年(1977)9月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、69歳の生涯を閉じます。最後まで中央画壇に認められないままでした。
誰に媚びることなく、自分の良心に忠実に。ただ、ただ、魂で作品を作り続けました。その作品群は画壇の間で永きに渡り封印され続けました。
時が流れ、南日本新聞やNHKテレビ日曜美術館が取り上げた事により庶民の間で評価が広がり全国区の反響と人気を得て行きます。
各地で展覧会が開かれ美術館が作られました。
無名の画家が辿った、その経緯は他に類を見ないほど劇的なものでした。
当時日本に返還された南の島、奄美を目指したことから『日本のゴーギャン』とも言われています。その画風は日本画にして独創的で見る者の心に迫って来ます。
孤高の画家、田中一村とはどのような人物だったのでしょうか。
田中一村(本名:田中 孝)1908年7月22日生まれ 日本画家
Birth 【2-11】誕 生 数:人生の使命、生まれ持った資質、生きる姿勢、才能
Realization【2-11】実現可能数:何を実現しようとしているか
BirthとRealizationともに【2-11】です。
【2】は<調和・協調・受容・境界・平和・バランス>のナンバーです。
仕事においては芸術があげられ<イメージの世界で価値ある創造物を現実社会で具体化する・完成予定図を描く>とあり、<依存・共依存>がテーマでもあります。
一村は、教育熱心な両親の元、恵まれた教養を身に着け幼少期から画才を発揮しますが、相次いで家族を病気で失い、若くして一家の大黒柱となります。
画業で生計を立てようとしますが、生活と画業の両立は想像以上に困難を極めます。しかし、困難を受容し決して弱音は吐かず黙々と目の前のやるべきことをこなしていた一村には、いつの時も強力な支援者が現れます。
家族や親族や支援者を得ながらその場その時に順応し周囲と調和していたと言えます。
一番の協力者は姉でした。姉は生涯弟一村に尽くします。
姉との関係では依存関係があったと考えられます。
a-matureに<実行力にかける・一貫性がない・環境に流される・優柔不断・対立>とありますが、生涯を画に注ぎ、貧困の中、『5年働いて3年描き、2年働いて個展を開く』という画業10年計画を立てます。
画に対する一貫した思いや情熱は生涯変わることはありませんでした。
ただし唯一対立はありました。画壇という権威に対しての頑なまでの対立。
しかし、これは画壇からの一方的なものだったのではないかと考えます。この理由は後にも述べます。
【11】は、<神秘・霊的感受性・直観>のナンバーで<理想主義・鋭い直観力・天才的な能力と高い芸術性・バイタリティー・神秘的能力>という点もあげられます。
一村は、『画を描くために生まれ、生涯を画に捧げた人』といっても過言ではありません。
また、『神を描いた男』とも言われています。幼少期から画才を発揮し、名誉ある賞を受賞し、今の東京藝術大学に入学するものの早くに退学してしまいますが、教授群から「既に何も教えることがない」と言わしめています。
これらのことから一村の並外れた天才的な芸術性がうかがい知れます。
奄美へ渡ってからの一村は、自然を愛し自然の中で自然と同化するように画を描いていました。魂の籠る画面からは樹の精霊が宿っているかのような不思議な生命感が漂っています。
自ら「樹が話しかけてくるようだ」と友人に話しています。
画業を人生の中心に置き、画を描くという使命を全身全霊で全うした生き方はバイタリティーにあふれていました。芸術により精神性を昇華させ、一村は自らの理想に向かってゆるぎない意志を貫いていたと言えます。
だからこそ、純粋な精神で作品を生み出していた彼とその作品群は、権威にものを言わせていた当時の画壇とは対立せざるを得なかったのではないでしょうか。
一村が展覧会に作品を出展した時に、審査委員を務めていたかつての恩師が、群を抜いて圧倒的な存在感を発揮している一村の画力に観いっていたにもかかわらず、彼の画と知ると踵を返すように落選とした模様が映画『アダン』の中に描かれています。理由は「画壇の傾向とはちょっと違う」と言うものでした。
真の芸術性・精神性と決して媚びない一村に、当時の画壇は脅威をも感じ、あえてその存在を遠ざけたのではないかと思われます。
いつまでも認められないということは、どんなにか悔しく悲しく苦しい思いだったことでしょう。
しかし、その悔しさはある意味で一村の絵画における精神性を高める原動力となっていたように思います。自ら身体と精神を研ぎ澄まし、そぎ落とし、命を注ぎ込んだその生きざまは、彼の死後人々の心に響き届きます。
【11】においてのPersonalityに「激しい側面」という点について、それを思わせるエピソードがあります。奄美時代の一村を知る人物から『画を描いているときの一村は飢餓状態で一心に画面に向かい額に青筋を立てて、まるで戦っているようであり、画について語るときは激しく別人のようだった』と語られています。
Destiny【9】
運命数:才能・個性をどう生かすか、人生の使命、実現する事、仕事に反映
【9】は、<完結・完璧完成心理・苦>を表し<芸術・曖昧な事象の焦点を絞る仕事、本物を見抜く智慧の探求>のナンバーです。
画業を本業とし、人生の全てを画に注いでいました。画を描くことが使命とわかっていたのでしょう。自身の心が納得できる仕事を生涯続けます。
自己の名声や生活のために描く画や、そういった行為は一村にとっては無意味で無用でした。
両親を亡くして家族を養うことになった一村は、画業で生計を担いますが『パンのために画は描きたくない』という信念で画は描いても売らず、経済的安定は得られず、あくまで生活を支える手段は板金工や染色工として誰よりも真面目に懸命に働きました。
仕事の正確さや色のセンスなどはずば抜けていましたのですぐに頭角を現します。
終始集中している姿に「折った膝を崩さず微動だしない姿勢に声をかけることを躊躇した」と同僚たちは言っています。画も仕事も、1か100かの姿勢で臨んでいたようです。
a- matureの<強情・マイペース・刹那的>といったところは一村の生き方の一部であったと言えます。
Soul【5-14】
魂の欲求:魂の本質、心の中の欲求、根源的な価値観、強い内的願望
【5】は、<変化・革新・多才・自由・破壊・冒険・不安定>のナンバーです。
南画(水墨画)で賞を取り、支援者もいて周囲に認められた画風をガラッと変えて独自の画風を求めました。
まさに破壊と創造です。しかし、それまでの支援者からは賛同を得られず画壇からは認められず家族と離れ独り南の奄美を目指しました。
旅立ちに際し膨大なスケッチと院展出品作品を焼却してしまいます。
一村は今までの一切のことと決別し、二度と戻らぬ覚悟だったのでしょう。しかし、一村の心は誰にも縛れず全身が画に向かっていると自ら語っています。
『なんと批判されても私は満足です。それは見せるために描いたのではなく私の良心を納得させるためにやったことなのです』と。そして生前は認められなかった作品群が彼の死後、世に出たとたんにドラマティックな変容が訪れます。
【14】は、<過生における自由を理解するためのナンバー>と言われています。
独り奄美で画業に励み得たものは、一村にとって今生での真の自由だったのではないでしょうか。
Personality【4-22】
人格数:親や環境からの表面的人格、ペルソナ、社会的な仮面・他者に映る表面的人格
【4】は、<安定>のナンバーです。<規律・秩序・信頼・堅実・真面目・勤勉・忍耐力・責任感・几帳面・終始一貫・倹約家・物静か>とあります。
彫刻家の父の元、大学へ進学するなど恵まれた教育を受けていました。
姉弟で歌舞伎を鑑賞するといったこともあり、どことなく育ちの良い真面目で誠実なきちんとした印象を持っています。
忍耐強くコツコツ地道に内に情熱を秘めながら計画をこなす人でした。
また、人の世話になることを極端に嫌い、独立独歩で友人のアドバイスや援助を受け付けない頑固さ・強情さは終始一貫しています。
【22】は、<創造性・偉業・理想主義・絶対的方向・インスピレーション・卓越した才能・強い感受性・爆発的なパワー・完璧主義・>のナンバーであり、世の中を変えるくらいの大変革をもたらすとも言われます。
10代にして大黒柱となり、経済的な困窮は生涯ついて回りますが、それを感じさせない面がありました。
穏やかで誰とでもしっかりと正面から瞳を合わせて会話する人でした。
写真に残る黒目がちな澄んだまっすぐな瞳が物語っています。
『真面目だけど話すと楽しい、人を笑わせることが大好きで、少年のような人だった』と、友人が語っています。
奄美時代は『夏はパンツ一枚。冬も肌着に地下足袋といういでたちで(ちょっと変わった人)』という印象を周囲に与えていました。
気性が激しく人を寄せ付けないところもありましたが、一村に出会った人は熱烈なファンになってしまう人が多いと言われています。
作品を観た人々の心を動かした反響の大きさに社会が動かされ、展覧会が相次いで開かれ、美術館が創建され、画集が発刊・増刷され今日に至っています。
Stage【8】
ステージ:活躍の場
【8】は、<秩序・自信・大胆・実行力・信頼・パワフル・ど根性・情熱・革命的・向上心>といった特性を持ち、一村にとっての活躍の場はまさに絵画の世界でした。
また<富や名声・成功を目指す>とありますが一村は全くこれらと逆方向というか、縁がありませんでした。
しかし、野望はありました。ひそかに奄美で描きためた作品で展覧会を催した際には『日本画壇に風穴を開けてやろう』『勝負をかける』というものでした。
自己信頼と能力育成の為、地道に情熱的に努力を続けていました。
謙虚に人の意見に耳を傾けることよりも自らの心のままに、より高い所を目指し開拓していくことは、精神性の向上のための手段であり、内面の豊かさを経験することでした。しかし活躍の場を、画壇との確執により失う事になります。
a-matureな彼の反権威的な精神が一村の心の耳をふさいでしまったのかもしれません。
Challenge【6】
チャレンジ:生涯をかけて挑戦していくこと、人生の選択
【6】は、<調和>のナンバーです。<愛・美・平和・責任・家庭・真実・献身・美的センス・出会いと別れ・内面の成長>とあります。
一村の絵画に対する愛ともいえる高潔なまでの<美意識、在り様、堅実さ、忍耐強く真の美を追求した審美眼・芸術的才能>は常に挑戦的であったと言えます。
当時珍しかった写真をも我がものにし、独自の画法を見出し自身の作品に取り入れています。写真の腕前はプロをもうならせました。
a-matureに<極端な完璧主義・頑固で利己的・自己破壊的・執着>とありますが、一村の芸術への意識はむしろa-matureもmatureに内包されたものと考えられます。
出逢った人や自ら築いた作品との出会いと別れ。自己破壊的にも映る一村の生き方・やり方は、相当な痛みを伴ったものではなかったでしょうか。
そうまでして成し得たいものがあったのだと言えます。
生涯をかけるという事は、ある意味執着なくしては成り立たないと言ったメッセージが込められているようにも思えます。
一方、<恋愛や家族問題・自立性・精神性の向上>も【6】の学びのテーマです。
生涯を独身で通した一村に結婚のチャンスがなかったわけではありません。
生涯未婚で常に一村を支えてくれた姉・喜美子に対しての想いで、自ら縁談を破談にしたと言うエピソードがあります。
一村も自身の家族を支えました。そして独りになった時、親身になって援助し支えてくれた人々の存在も行く先々で出会います。
孤独と戦っていたようですが、実は愛にあふれていたのかもしれません。
家族にも絵画に対しても無条件の愛を注いでいたからこそ、一村にも愛が注がれ愛を受け取っていたのではないでしょうか。
特に自身の芸術に対しての高潔なまでの美意識、極端な完全主義や身体的貧しさと引き換えにした忍耐強さや精神性は魂の叫びであり、全ては絵画に向けられていました。
続いて、TypeⅡ(魅力・特質)を見ていきます。それぞれ次の特性が見られます。
Creation:創造する力・生み出す力【3】
<感情をストレートに表現する創造性、人に何かを伝えていく、ヴァイブレーションを合わせる>
自身の精神と自然のヴァイブレーションを合わせて独特な画風を作り出していました。画を描くことは生きることであり喜びでした。
自然の豊かさや人の温かさに歓喜の涙をこぼし、怒りは目標へと向かう爆発的なエネルギーとなり画面へ表出させています。
Growth:魂の成長・何かを成長させる力【3】
<自己の感情と感受性を淘汰し表現を行い人を喚起する/楽しく人生を歩む 修行に弱い>
一村の画には魂が感じられます。全てをそぎ落とし、全力で画面に向かっていました。彼の画業・生き方には修行にも似たものがあったと思います。
Growth【3】は、修行に弱いとありますが、一村の場合は絵を描くことが生きることであり、生きることが修行とでも言えるような厳しさがありましたが、その厳しさをいとわないほど、魂の成長と自己の感情を表現することを熱望していたのでしょうか。
Maturity:完成度・完熟度・集合意識へのシンパス【3】
<集合意識のキャッチ、歓び 怒り 葛藤 哀しみなど コミュニケーション能力の発揮>
時代の流れを感じ取り、退学したり、画風を変えたりしています。奄美に移ってからは自然の様々な集合意識をキャッチし、コミュニケーションを取っていたようです。日課のようにして山々を歩いていました。一村にとって山歩きは喜びであり楽しみでした。後に『樹が語りかけてくるようだ』と言っています。
Lerd:リーダーシップ・牽引する力・人をどう導くか【0】
<リーダー資質皆無又はリーダーを超えたリーダーへの君臨>
彼の人生においてのリーダーは彼自身でした。
精神的にどこへ属することなく自身の魂に忠実に従っていたと言えます。
一村の生き方から、『自分はどう在りたいか』を問われているように思います。
圧倒的な生きざまで、静かに人々を牽引しているように思えます。
Support:サポート力・支援する力【6】
<理想という概念を外した受容性と支援、救済を超えた救済/人のために生きる枯渇した人生>
サービス精神が旺盛で、人のために全精力を使い向き合う人でした。
その為、人と会うことで消耗してしまうこともあったようです。家族を支え、家族や周囲に支えられました。
奄美に移ってから和光園(ハンセン病官舎)に身を寄せていた時代に、患者家族や職員の依頼により似顔絵を描き、とても喜ばれていました。
医学的にも喜びは免疫力向上につながり医師からも治療に効果ありと定評だったと言います。一村は自分のできることで、喜んで周囲へのサポートを行っていました。
一方、他人の世話になることを非常に嫌いました。受け取り下手だったと言えるかもしれません。
Make Mood:ムードメーカー・雰囲気をつくる力【3】
<協力的姿勢、楽しい雰囲気つくり>
楽しいことや人を喜ばすことが大好きでした。
時におどけて見せることもありました。
一方筋の通らないことにおいては相手が誰であれ、しっかりと意見を言うのが一村流でした。
Body:身体・身体の持つ創造的ヴァイブレーション【3】
<セラピスト、相手の波動を感じ取りそれに対し適切な処置を施す/エネルギー鬱積時には躁鬱と悪癖>
脳卒中や腰痛に悩まされ、幾度か寝たきりになり、不自由になった身体を抱えていました。酢を中心とした独自の食生活や早朝からの山歩きで染色工と画業を両立していました。
一村は自然を巧みに取り入れて困難を乗り切っていました。自然が彼を癒していたのです。画業において妥協を許さなかった一村は、ぎりぎりの精神力で、ぎりぎりの体力で、画を描いていました。
自身を飢餓状態にすることで『見えてくるものがある』と言っています。
Emotion:情緒・感情の現れ【4】
<理性のある/冷静さとパニックの間を揺れる、過剰分析による思考の混乱、責任感と過度な又は無責任感>
27歳にして家長となり一家を支える責任を負い、コツコツ働きながら制作にも励みますが、画壇との決裂に、受賞作品も、含め何もかも全てを捨てて、家族さえも置いて、独り奄美へ渡ります。
無責任とは言いたくありません。それまで弱音もはかず独り家族を支えつつ自身の制作にも全勢力を向けていた一村でしたが、糸が切れたように、感情の揺れや表出のし方が多少両極端なところがあったようです。
知人が次のようなエピソードを語っています。『「とりわけゆったりした大物ぶりがあるかと思いうと、子供みたいなところがある。知らない人には合わない。秩序正しい彼の生活ペースを狂わせると激高するが、すぐに冷静になる」などの性格の激しさ、落差を見せる面もありました。』
Intelligence:知性・知的才能とそれをどう役立てるのか【4】
<優秀でロジカルな思考と理解、批判家的センス、聡明さ>
誰を前にしても物怖じしない。人を虜にするカリスマ性を持っていました。
『美術関係は命を懸ける覚悟がなければ大成しません』ときっぱり言っています。
説得力のある一言です。
Balance 【-6】
マイナスナンバーは生後の経験を通じて自身の才能を積み上げていくタイプであり、辛いことを乗り超えてきた証です。
一村は生まれ持った能力を生かしつつ、なお、並々ならぬ経験をいくつも乗り越え、才能をさらに開花させたと言えます。
次に、Year Cycie及びHistoryを見ていきましょう。
人生の周期Cycle(個人数:人生の9つのサイクル):流動的な方向性・課題
1 0~34歳
Cy【7】 テーマ:飛躍・内省・調整・霊性・叡智・直観
P 【2-11】 状 況:相対・受領・境界・感受性・バランス・霊性・神秘霊的感受性
Ch【3】 課 題:発展・生産・真実・解放・成長・知性
0歳【20】明治41年(1908)
7月22日父弥吉(彫刻家)、母セイ(教育熱心で賢母)の長男として誕生。本名孝。幼少から頭脳明晰、父弥吉の影響を受けて画才・芸才に秀で神童と言われる。
(Birth 【2】、誕生日【22日】、Year Cycle【20】、卓越した才能を持ち、偉業を成し遂げ、霊性を生きるナンバーであり、ドラマティックな人生を予想させます。)
6歳【17】大正3年(1914)
画才・芸才に秀でた一村の教育のため、東京市麹町に一家揃って移住。
(家族の決断は一村のためにありました。発揮された神聖さは家族をも動かしたのでしょう。)
7歳【18-9】大正4年(1915)
既に南画(水墨画)に才能を発揮し児童画展で天皇賞(文部大臣賞)を受賞。
父から米邨の号を与えられる。
(南画において一定の域に達したことを示し、受賞や号を得るという客観的な形により、ある種の完結を意味したと言えます。)
13歳【15】大正10年(1921)
東京市芝区芝公園の私立芝中学校入学。頃栃木県親類宅で何度か画会を開く。
(環境の変化が外向きに活発化し、更なる活躍の場が与えられました。)
15歳【17-6】大正12年(1923)
9月1日関東大震災で家が罹災したことにより南画家小室翠雲邸に身を寄せ、南画の指導を受けることになる。
(震災により新生せざるを得なかった始まりでした。南画は一村にとって飛躍の種となり家族を支える糧となります。)
17歳【19】大正14年(1925)
東京市四谷区へ引っ越し、家主の四谷区長の重藤悦造に漢詩文の手ほどきを受けることになり新しい知識と深い学びを得る。
全国美術家名鑑「超然並びに余枝」の項に『田中米邨』の名が掲載される。
(新たな環境と学びが用意されました。若くして美術家名鑑に名を遺すほどの実力を成就させます。)
18歳【20】大正15年(1926)
抜群の学業成績で芝中学校卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷らがいた。
しかし、学校の指導方針への不満や父の病気、自身の体調不良などが原因で同年6月4日、入学後わずか2ヶ月で退学。
当時南画を得意としていた一村にとって日本画壇や美術界の動向から南画の時代の衰退を察知し、然るべき師の存在が無く学ぶべきものがない学校と判断したのかもしれないとも言われている。
退学後、一村の南画は相当のレベルにあり南画を描いて父に代わり一家の生計を支えることになる。小泉又治郎(小泉元総理の祖父)や元衆議院議員など有力な発起人主催の絵画展「田中米邨画伯参奨会」が開催される。
(境界線の学び、家族の病気や依存関係の問題を孕みつつ、直観力で目的達成のため次なる手段を判断し霊的素質を発揮したと言えます。大物との出会いにより援助者を得、才能を発揮する場を与えられました。)
19歳【21】昭和2年(1927)
弟芳雄(16歳)逝去。
(初めての肉親(弟)の死をもって自己の成長を改めて学ぶ時期でした。)
20歳【22】昭和3年(1928)
弟実(14歳)、母セイ(43歳)逝去。
(創造と破壊の22、相次ぐ家族の死を否応なしに受け入れざるを得なく、変化を強いられた時でした。新たなステージへと向かうためのプロセスだったのでしょうか。
それは近い将来に訪れる固い意志につながります。)
23歳【16】昭和6年(1931)
それまで描いていた南画と訣別。将来進むべき画風を支援者に示すが賛同を得られず以後絶縁状態となる。
本人の後日談に「私は23歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなくその当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養ふことになりました」とある。
(相次ぐ肉親の死と現実のはざまに否が応でも現状打破し価値観を変えざるを得なかったとも言えます。同時に一人の賛同者も無く新たな道へ進んだのは頑固さというより、真理の探究の為、霊性を深め誘われるように神秘的な方向へ向かったのではないでしょうか。)
27歳【20】昭和10年(1935)
父彌吉(52歳)、弟明(19歳)逝去。
(才能の生みの親でもある父の死と、弟の死。一家の大黒柱になり生活を支えることになります。それらを受け入れざるを得ませんでした。)
29歳【22】昭和12年(1937)
大東亜戦争勃発。
(再び創造と破壊の時でした。)
30歳【23】昭和13年(1938)
母方の親戚川村幾三氏を頼って姉・貴美子、妹・房子、祖母スエとともに千葉県に移り家を新築。農業に取り組み家族を支える。
川村幾三氏家族は一村にとって終生の理解者・支援者であった。川村氏宅で月に一回行われた坐禅会に一村も加わる。
この会はやがて、一村の生活や画業支援の人脈になった。
(農業で家族を支えつつ、理解者・支援者との交流を通して視野の拡大がされています。農業や坐禅会に参加することで、もともと備わっていた表現力や感性の豊かさを発展させるとともに自己探求への扉が開かれ強化されたのではないかと思います。
その後の一村の生き方や画業を貫く在りようが、そう思わせます。)
31歳【24】昭和14年(1939)
第2次世界大戦始まる。
(時は戦争へと突入していますが、2は平和やバランスといったことも学びのテーマです。この時期の一村は家族を支えるために環境に流され自分を無くすほど尽くしすぎて自己犠牲的になっていたことが懸念されますが、私が知るうえで一村が家族の大黒柱になったからと言って、自己犠牲的であったという発言がないことがあげられます。一村はどんな時であれ、目の前のことに必死に取り組む人でした。
むしろ極端なほどだったようです。相次いで家族を失った一村に残された家族を思う気持ちは、必死にならざるを得ず、受け入れるしかなかったともいうべきかもしれません。家族で唯一の男子であった一村は、姉や祖母や妹からも愛情を注がれ互いに助け合っていました。
依存関係とも言えるかもしれませんが。そんな田中家を周囲の人々も支えました。一村の画業は家族や周囲に人々の支えがあってこそ成り立っていました。
コツコツ真面目に目の前のことに取り組む彼らの生活は貧しいけれど、家族愛にあふれ、心の安定は得られていたと思います。一村の作品画面に注がれる対象には、深い愛情が感じられます。その基盤は家族関係からもうかがい知れるような気がします)
32歳【25】昭和15年(1940)
妹、房子が結婚。
(家族が示す変化は一村を保護する立場から保護される立場に将来変わり、彼の作品群を世に出す役割を果たします。)
2 35~43歳
Cy【4-22】 テーマ:創造・偉業・絶対的方向性・理想の現実化
P 【4-13】 状 況:修練・創造と破壊を繰り返し学びを喚起
Ch【5】 課 題:変化・刺激・破壊
35歳【19-7】昭和18年(1943)
船橋市の日本建鉄工場で板金工として働くが体調を崩し闘病生活が続く。
(生活のため現実社会を生きていました。)
37歳【21】昭和20年(1945)
戦勝祈願・身上安全を祈るためか観音菩薩像を多く描く。その後終戦。
(平和という理想の現実化を一村のやり方で表したと言えます。)
39歳【23】昭和22年(1947)
「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。雅号を『柳一村』と改める。
(表現が認められ、発展しました。)
40歳【24】昭和23年(1948)
第20回青龍社展に「秋晴」「波」を出品。
このうち「波」は入選するが「秋晴」の落選に納得できず「波」の入選自体を辞退。
これを境に川端龍子と絶縁することになる。
(人間関係と協調性の開発や、二者択一を避け対立を注意し穏やかさと妥協を学び、発芽・収穫や基盤つくりの時期でもありました。また、理想の現実化を模索するがゆえに自説にとらわれ執着した結果、2の逆相、7のa-matureが出てしまったとも言えます。視野が狭くなっていたのでしょう。)
44~52歳
Cy 【4-22】テーマ:偉業・絶対的方向性・理想の現実化
P 【6】 状 況:調和・完全・義務・献身・奉仕・理想・友愛・美・教育
Ch【2】 課 題:相対・結合・協力・女性性・受領・境界・感受性・バランス
44歳【19】昭和27年(1952)
カメラを使い、風景を逆光で捉えるなどレベルの高い制作をしていた。
(当時では珍しい新たな試みを模索し取り入れていました。すぐにカメラの技術を習得します。)
45歳【20】昭和28年(1953)
第9回日展に「秋林」を出品するも落選。
(落選という結果を受け入れることになります。)
46歳【21】昭和29年(1954)
第10回日展に「杉」を出品するが落選。
(またもや厳しい現実を突きつけられます。)
47歳【22】昭和30年(1955)
「聖徳太子殿天井画」依頼され描き、その後九州、四国、紀州を旅する。
(22は、これでもか!これでもか!という、凄まじい創造と破壊の時期でした。
そのような時、人々の心の救済目的で制作活動を行ったことで、宇宙的なエネルギーを感じ、自然と新しいステージへ動きだしたと言えます。旅行はその後の一村に大きく影響しました。)
49歳【24】昭和32年(1957)
院展への出品を目指し制作を開始するが出品記録なし。
(受け入れられないと知りつつ、諦められないという揺れ惑いを感じます。傷つきながらも自己信頼のために、あえて提出しなかったのか、諦めや頑固さで提出しなかったのか。どちらにしても真面目に取り組んできた一村には、今何が起こっているのかを自身が納得できる全体像を把握できる理由を探していたのではないでしょうか。)
50歳【25】昭和33年(1958)
院展に「岩戸村」「竹」を出品するが落選。
自分の絵と院展の理想主義は合わないことはわかっていての出品だった。
中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意。家を売る。
12月13日奄美大島に到着する。
(揺れまどう自己との決別を強いられたのだと思います。『今までの生き方では、もう生きられない』と。最愛の姉を置いていくという身を切られるような想いで自ら決別・破壊をおこします。変化せざるを得ないといった決意だったのかもしれません。当時は未開の地であった奄美を目指したことは、誘われるような変化が待っていたとも言えます。内省・精神性の表れと捉えられます。)
51歳【26】昭和34年(1959)
国立療養所奄美和光園の官舎に移り住み小笠原医師との共同生活を始める。
(別れがあり、精神性へと誘われ、新たな援助者の出現がありました。
そこ(療養所)では家庭的な雰囲気を味わったとされています。療養所の人々の似顔絵を描いて喜ばれました。)
52歳【27】昭和35年(1960)
千葉に一時帰郷し国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
(家のない一村を助ける存在がここにも表れ、内省と自己探求を満足させる制作に励みます。)
家族を支えつつ仕事と画業とを両立させながらの生活は、どれほど困難であったろうと容易に想像はできません。しかも相次いで落選が続き認められないという事実は心身ともに辛く厳しい時期でした。
落胆、諦め、複雑な気持ちを抱え、独り奄美行きを決断しました。
この時期の奄美行きは一村にとって絶対的な方向性へと誘われた結果と推察します。依存や境界線を学ぶことを誕生数やこの時期の課題に持っていたからこそ、その課題に挑んだというよりは、自然な流れだったのではないでしょうか。
独り自然のなかに身を置くことで一村は自然と同化する(内側に入る)感覚を悟ったのではないかと言われています。『大自然というモチーフのなかに自らが入り内側からその本質(美)を描くのである。』と、自ら語っています。
家族や環境との決別と霊性への目覚めをバランスさせた、この時期のテーマが表れていました。
53~69歳
Cy【9】 テーマ:完結・変容・官僚・寛大・宇宙・浄化・共感・自然
P 【7-16】状 況:飛躍・内省・観察・分析・調整・霊性・叡智・直観過去で他者に与えた苦しみや痛みの生産を強いられる
Ch【2】 課 題:相対・結合・協力・女性性・受領・境界・感受性・バランス
53歳【9-19】昭和36年(1961)
知人の勧めで見合いをし、一時は結婚を決意するが自分の為に生涯を捧げてき姉・貴美子の気持ちを想い自ら破談とした。4月奄美に戻り借家に移り農業を始める。
(複雑な二極性、揺れ惑いが出ています。現実社会の中での本当の意味で自立や普遍的真理の確立もテーマでした。実際に独自の画風を作り上げていきます。)
54歳【2-20】昭和37年(1962)
名瀬市大熊の大島紬工場で染色工として働き始める。「5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」という画業10年計画を立てる。
(生活と真の本当にやりたいことのバランスを図った計画だったと言えます。)
57歳【23】昭和40年(1965)
3月末、姉喜美子の危篤を知らされ千葉に帰省。5月16日喜美子逝去(60歳)
遺骨を抱いて独り奄美に戻る。12月5日、協力者の川村幾三逝去。
(最愛の姉を失ったことは、どんなにか辛い痛みだったことでしょう。協力者の死と相次いで大切な人を失いました。)
59歳【25】昭和42年(1967)
5年間働いた紬工場を辞め絵画制作専念。
以降3年間に奄美時代の主要な作品が制作された。
(『イメージの世界で価値ある創造物を現実社会で具現化すること』を、まさしくやりました。それまでに備わった才能を発揮していきます。)
61歳【27-9】昭和44年(1969)
代表作『アダンの海辺』(中央)を制作。生涯手元に置き、自ら『閻魔大王への土産』と称している。
(やっと納得できる画が描けたのではないかと思います。気の遠くなるほどの精密な描写が精神性への深い探求を表しているようです。誰も見たことのない一村だけが表現できる世界がそこにあります。)
62歳【28】昭和45年(1970)
再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現できなかった。
(実行力の欠如ではなくお金の問題でした。思ったよりも当時の物資の高騰が原因だったと言われています。)
63歳【2】昭和47年(1972)
2月紬工場を辞職。画業に励む予定も4月腰を痛め、7月2日山道でめまいを起こし失神し崖彼から転落。10月10日炊事中にめまい失神、火傷を負う。
12月31日バスの階段で昏倒するなど体調不良に見舞われ、思うように制作できなかった。
(健康問題に悩まされます。)
64歳【3】昭和48年(1973)
『蘇鉄残照図』『岩上の赤翡翠』等の制作。秋、再び紬工場で働き始める。
(表現へのエネルギーは高く情熱を保ったまま、集中して純粋に目的達成のために邁進しました。代表作品が生まれています。)
64歳【4】昭和50年(1975)
7月または8月、紬工場を辞める。
(画業のため、コツコツ着実に物事を計画的に進めていました。)
68歳【7】昭和51年(1976)
6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ一週間入院。
その後名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリに励む。
姉・房子と甥・宏が来訪。身体が利かなくなった一村の家の中には奄美で描かれた画が散乱している状況だった。二人は一村の作品を預かり千葉に持ち帰る。
(バランスを崩しやすく注意が必要でした。)
69歳【8】昭和52年(1977)
春、体調やや回復する。3月、5月奄美在住だった友人の紹介で写真家・田年辺周一と会う。田辺は散逸しそうだった一村の遺品を預かり保管する。
9月1日それまで住んでいた借家を引き払い和光園近くの畑の中の一軒家に移り「御殿」と称し暮らし始める。何物にもとらわれず、いよいよこれから画業に専念しようと一村は意欲に燃えていた。
11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、独り旅立つ。
69歳の生涯だった。夢見るような美しい死に顔だった。
葬儀は島で親しくしていた人の手で行われ、親族は間に合わなかった。
遺骨は後日親族に引き取られ満福寺の田中家墓所に埋葬された。
法名:真照孝道信士
大自然の生命の営みや躍動といった真実の美(真)に日本画の画法の光をあて(照)、それをモチーフとしてその真実世界を画家の良心にかけて描く、そうした嘘のない画業の道(道)に忠実に愚直に生き(孝)、虚飾のない作品で中央画壇に勝負をかけた、画心一如の画家、男らしい気概に満ちた信念の士、絵を画くなかでにニライカナイ(海上他界)に心を遊ばせていた(仏の心境にあった)人(信士)、という意味。
(Year Cycie【8】は、永遠・無限を表し現世と永遠の死を示しパワフルでバイタリティーにあふれたナンバーです。
秩序・情熱・権威・支配・野心・活力・制限・現実性・繁栄といったことも代表的な内容ですが、一村はまさに自己信頼や開拓精神と精神性の向上に常に務め、地道な努力と目標意識を高く持ち続けていました。
22日に生まれて11日に旅立った一村。
【22】は、精神性の目覚め、2つの世界をつなげる役割を持っています。破壊と創造を繰り返し痛みを伴いながら魂の成長を目指しました。
【11】は、エネルギーが強く自分の持っている霊性を世のために使うナンバー。
漠然とした直観を活かして自立独立・バランスをとる、真の理想を追求し魂の成長を遂げる。高潔さを選ぶこともテーマでした。
一村は与えられた時間の中で、見事に生き切ったといっても過言ではないと感じます。)
ここからは、一村没後の経緯
76歳【6】昭和59年(1984)
12月16日、没後にNHKの『日曜美術館』「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」放映や『南日本新聞』に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催、一躍脚光を浴びる。
南を目指したことから「日本のゴーギャン」などと呼ばれる。
評伝や画集も複数が刊行され、記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになった。
77歳【7】昭和60年(1985)
8月旧版 『田中一村作品集 NHK日曜美術館「黒潮の画譜」』 日本放送出版協会出版
93歳【5】平成13(2001)
変化・自由・革新・多才・機知・冒険・刺激・破壊
美術館開館 鹿児島県奄美大島(現・奄美市)の旧空港跡地に「田中一村記念美術館」がオープン
『田中一村作品集 新板』 日本放送出版協会、出版
98歳【10】平成18年(2006)
田中一村の生涯を描く映画『アダン』が企画・公開。監督:五十嵐匠、出演 :榎木孝明、木村文乃、田中喜美子、古手川祐子、村田雄浩、加藤剛、中村嘉葎雄
100歳【12】平成20年(2008)
生誕100年にあたり、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展-原初へのまなざし-」が開催。入場者25,000人。
ここからはチャートから読み取れない(載っていない)
102歳【 】平成22年(2010)
千葉市美術館で、「田中一村 新たなる全貌」を開催。
一村ゆかりの地(栃木、千葉、石川、鹿児島)にある美術館が共同で取り組む初めての回顧展で近年新たに発見された資料を多数含む約250点の出品作による最大規模の展覧会となった。入場者は61,166人。
その後、鹿児島市立美術館、田中一村記念美術館に巡回。
『もっと知りたい田中一村 生涯と作品』東京美術出版
104歳【 】平成24年(2012)
沖縄県立博物館・美術館で、本土復帰40周年記念「田中一村展~琉球弧で開花した美の世界」を開催。
石川県立美術館で「孤高の画家・田中一村展」を開催。
105歳【 】平成25年(2013)
田中一村作品集 「増補改訂版」』 NHK出版。
107歳【 】平成27年(2015)
一村の写真集『海神の首飾り』(リーブル出版)刊行。
110歳【 】平成30年(2018)
岡田美術館で「田中一村の絵画-奄美を愛した孤高の画家」開催。
佐川美術館で「生誕110年 田中一村展」開催。
111歳【 】平成31年(2019)
『田中一村“南の琳派”への軌跡』、平凡社「別冊太陽 日本のこころ」出版。
その他:毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。
一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。
[まとめ]
あらためて一村の激しく高潔な厳しい生きざまと人生を知ることになりました。
修行僧のように生き、制作を続けた一村に、尊敬の念を抱かずにいられません。
同時に恐ろしさも感じます。
そして、田中一村という人を想うとき、何故だか涙が溢れてきます。未だ作品を前にして思わず我が身が縮み、申し訳ないような気持ちがするのです。
今の私には、まだこの画を見るに値しない存在なのではないかと。この画を見る準備ができているのか?と、問われているような気がするのです。
数秘を通じて思うのは、一村という人は驚くほどにそれぞれのナンバーのマチュアで生きていたのではないかということです。アマチュアさえマチュアと思うほどに、どん欲に誠実に自分の心と向きあっていたと思えるのです。
貧しさや悲しみと悔しさの中で、もがいていたようにも思われますが、なんと自然体であったことでしょう。本来自身が行くべき道を、ただただ歩んでいたのではないかと。そしてそれは他人が思うよりも、一村自身は満足と幸福の中にいたのではないでしょうか。
自分の心に忠実に生きるということは、なんとも美しく尊く潔いものなのでしょう。彼の作品からは痛いほどの真心と平和と愛が満ちあふれています。
その独自の画業・生きざまから、今、時空を超え、私たちに発信し続けているように思います。
田中一村殿
あなたの残したものは作品だけではありませんでした。心に静かな情熱を燃やして、命を使い切り、『生きる』ということを教えてくれたように思います。
どう在るべきか。どう在りたいのか。
自分の中にあるものを探っていきたいと痛感しています。
追記)一村の言葉や生き方が、我が父と重なる事柄があることに気付いた。
『パンの為に絵は描きたくない。画は売らない。』と言っていたことや、画が気に入って欲しい人にはあげてしまうことや、『数年働いて学費をつくり美術学校に通い、また働き、画材購入するために極限まで生活を切り詰めていたこと』等があげられる。どこか、人の群れを嫌い孤独を愛していたように思う父だった。
サラリーマンをしながら画を描いていた。
父に『お前は、命を懸けるものがあるか』と、問われたことがある。
その時は、(今はまだ無い。わからない。)というような返事をした私に、父は『命を懸けるものがない奴は、生きる資格がない』と、言い放った。
呆然とした。未だに答えが見つかっていない。
今回、一村が同じことを言っていたことに身震いした。
『絵(画)を描くと言うことは、命を懸けると言うことだ。』と、改めて2人から言われた気がした。『生半可な気持ちで手を出すな!』と。
また、『画家たるものは絵筆1本を携えて、飄然と漂泊できるようでなくてはならぬ』これが一村の口癖だったそうだ。
一村が遺した遊印に「自吾作古 空群雄」(吾より古を作り、群雄を空しうす)と刻まれている。中国の篆刻書画壇で活躍した人物:呉昌碩の詩の一句「自我作古空群雄」に由来しており「古今の優れた人々の業績にとらわれずに自ら道を切り拓く」という意味だそう。
・・・二人からのメッセージをかみしめて、これからの人生を進めていきたいと思う。
first-year student by Keiko・D
Zero Point Academy
2019/10/20






















