数秘講座の最終課題としてのレポート提出をもって基礎講座は卒業となります。
第一期生として学ばれたNozomiさんが選んだ方は撮影後に急逝された大杉漣さん。
才能あふれる漣さんのその役者としての生涯をリーディングする中で彼女が受け取ったものは何だったのでしょうか。。。
(2019年10月のものです)
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大杉漣~“1カット入魂”楽しく遊ぶための苦悩~
本名: 大杉 孝
生年月日: 1951年 9月27日
没日: 2018年 2月21日(享年66歳)
俳優 タレント
多くの人に慕われ才能豊な表現者であった大杉漣さん。
自身と向き合いながら表現者としての道を極めていく漣さんの軌跡を
数秘を通して紐解いていきたいと思います。
誕生数 <生きる姿勢や才能、その人の潜在能力を暗示し、一生をかけて行う難易度の高いテーマ> #7
誕生数が#7の人は、自分の内側に入っていくことがテーマです。
自分の中のバランスが崩れやすい傾向があり、どうしたら良いかわからなくなりやすい中で、心や魂に眠るものを追求していく人です。
遅咲きの俳優である漣さんは、若い頃は自分が何をしたいのかわからず、自分に厳しく、自問自答を繰り返していました。
そんな中でも自分の中だけにこもることなく、俳優という仕事を通して様々な経験を重ね、多くの人との出会いに導かれて行きます。
その中で自分らしさを表現していくことの楽しさを知り、晩年は俳優としてだけではなく、アーティストとしても自身の想いを表現していくことになります。
まさに自分自身の中に眠るものを追求し、それを表現する人生であったように思います。
運命数 <仕事に影響が出やすく、人生における使命感や目的を告げるナンバー> #5
運命数が#5の人は、自分の好きなことを突き詰めて行き、それを教育していくのが向いている人です。
変化やロマンのある職業、芸能にも向いていると言われています。
俳優というものは、その作品ごとに変化が求められ、見ている人たちに夢を与える、ロマンある職業だと思います。
俳優という職業を通して、自分自身を突き詰めて行き、最終サイクルに入った後、その経験からの思いや学びを本という形で人々に伝えたり、多くの俳優仲間と熱く語り合ったりしていました。
そんな漣さんの姿や思いに憧れ、尊敬していた人は多く、自然と後輩を育てる役割も担っていたように思います。
ソウル <一番大切な価値観、優先させたいことなど、内的な願望を表すナンバー> #11-2
根本は#2であり、相手のことが良くわかり、大切だからと手を貸し、共依存になりやすいのがソウル#11の特徴です。男性は、女性受けが良く、モテル傾向があります。
漣さんも恋愛面においては、女性受けが良く、親しみやすい印象があり、奥様とも出会ってすぐに同居がスタートしたとのエピソードがあります。
漣さんにとって奥様は、役者として食べていくのに苦労していた時からの絶対的な支えであり、俳優を続けていくのにいなくてはならない存在だと語っています。
パートナーへの依存に注意ではありますが、俳優としての成功があることから、依存ではなく互いを尊重しながらバランスの取れた関係が築けていたのではないかと思われます。
親しみやすく不思議な魅力があるからこそ、年齢を重ねてもその魅力に惹かれた女性ファンが多かったのではないかと思われます。
パーソナル <社会的なペルソナ(仮面)と言われ、ギフトとして受け取るナンバー> #3
パーソナル#3の人は、不思議キャラ、内気でナイーブな面がありますが、何となく気になる独特な オーラを持っている人です。
強面で気難しい印象もある漣さんですが、バラエティーでのトークや撮影現場でのエピソードを聞くと、とてもお茶目な面があるのが伝わります。
俳優としても主演ではなく助演が多い漣さんですが、主役を邪魔しない確かな存在感は独特のオーラを持っている人というのがピッタリな表現だと思います。
実現可能数 <今世での目標、到達点> #12-3
自身が太陽のように輝くことで周りにも楽しさを配れるようになる。
TypeⅡでも3が多い漣さんは、周りを楽しませる特質を多く持っています。
そのことからもまずは自分自身が楽しめることが大切だと思われます。
#3はコツコツと積み上げていくことがテーマでもある為、漣さんも俳優を続けながらも模索する日々が長かったように感じます。
65歳を迎えた頃、ある撮影現場での漣さんの言葉に「楽しく遊ぶために苦しまなくっちゃ、だから楽しいんや」というものがあります。
これはコツコツ積み重ねてきたことでたどり着き得られた楽しさだと考えられます。
積み重ねてたどり着いたその楽しさが周りにも伝わることで同志が集まり、自然と笑顔が絶えない現場を作り出し、多くの作品に呼ばれるようになっていくことに繋がったのではないかと思います。
Stage <活躍の場> #9
人と人を繋ぐことが社会貢献へと繋がっていく。
#9は自身が満たされることで社会貢献ができる人と言われています。
漣さんは自分自身が感じ、学び得てきたことを体を使って俳優として表現することで多くの人に伝えています。
俳優としてだけではなく、音楽活動や執筆活動を通して表現すること、それを知ってもらう為、見てもらう為の様々な企画を考え、実行されていました。
漣さんのこれらの活動は多くの人と人とを繋げていくこととなり、新たな出会いが更に人と人を繋き、その輪は大きくなっていきます。
人と人との繋がりを促すことは、輪を広げて大きな循環を生み出す立派な社会貢献に繋がっていると思われます。
Challenge <この人生を通してチャレンジしていくこと> #5
経験から得たものを人に教えていける教育者を目指していく。
障害ナンバーとも呼ばれる#5は、様々なチャレンジをしていくことになります。
漣さんの場合、思うように役がもらえず、活動の場を変えながら自分の好きを突き詰めていきます。
その中で、金銭的な苦悩、健康面での心配、自身との葛藤を経験しています。
様々な変化にチャレンジしていくことで色々な経験を重ね、そこから学び得たことが多い為、漣さんも1つの場所に留まることを望まず、常に新たな現場に行くことを望んでいました。
そして、これらの経験を様々な活動を通して表現しています。
それは同じように苦労しながら俳優を目指す人や同じように模索しながら苦しんでいる人にとって、1つのお手本のようであり、教育者のような役割を担っていたと思われます。
TypeⅢ:Balance(8)
先天的に沢山の資質が与えられていますが、数字が大きい為、気づきにくく、開花しにくいと思われます。
漣さんが俳優として遅咲きなのは、沢山与えられていた資質が開花して多くの人の目に留まるまでに時間がかかったからだと思われます。
若い頃から積み重ねてきた様々な経験の1つずつが刺激となり、持って生まれた多くの才能が開花し、注目される俳優へとなって行きます。
TypeⅡ:その人の「個性」や「才能」の傾向を示し、その人物像をみることができる項目です。
Creation <何かを生み出し、創造する力>(3)
感情や独自の世界観を表現する創造性、表現者的なクリエーションがあり、音楽や体を使って表現するのが良いと言われています。
Growth <魂の成長の方向性>(1)
精神的安定と自己信頼を学び、その後に教師的な役割がある人。
探求者、成長意欲が高い人と言われています。
Maturity <集合意識へのシンパス>(5)
自分が何をしたいのかわかりにくくなることがありますが、他者を刺激することができ、ビジョンを 与えることができる人です。
Lead <人をどう導くか>(0)
居てくれるだけで、その場が整っていくと言われています。
Support <サポートする力>(3)
表現者であり、自分が楽しむことで明るい波動が相手に伝わり癒しサポートができる人です。
Make Mood <雰囲気をつくる力>(6)
家族のようなアットホームな空間作りができる人です。
居心地の良い空間を作ることができます。
Body <身体の持つ創造的ヴァイブレーション>(2)
感情的なストレスや身体的な緊張に弱い人です。
バランスが崩れやすい為、バランスを取ることを意識することも大切です。
Emotion <感情の現れ>(2)
2極の葛藤や過剰分析に注意が必要です。
頭で考え過ぎないように発散していくことが大切です。
Intelligence <知性の活かし方>(5)
全体的に物事を見ることができる人です。
その頭の良さを理解してくれる職場で働くと良いと言われています。
TypeⅡから見る大杉漣さん
俳優は天職であり、音楽活動にも向いている特質を持っています。
Growthから、探求心、成長意欲が強い人で、様々なチャレンジをすることで経験を積み、その経験が自己信頼へと繋がり自身を成長させ、その学びを伝えていくことができる人だと読むことができます。
Creationが3であることからも表現者的なクリエーション能力が高く、体を使って表現をする俳優や音楽での表現が向いている人であることがわかります。
俳優としての経験を重ね、評価されることで様々な賞を受け取ってきた漣さんは、その賞を受け取るたびに俳優として成長していき、それが自己信頼へと繋がって行ったと考えられます。
強面なヤクザの役、不器用で人間味あふれる父親の役、ちょっと変わったお茶目な役など、様々な役をこなしていくようになる漣さんは、TypeⅡに出ている通り、役を通して様々な経験を重ね成長し、その学びを体を使って表現し伝えていくことに長けていたことは間違いありません。
多くの仕事仲間に慕われています。
MaturityとIntelligenceが5であることから、広い視野で物事を見ることができ、今、必要なことは何かに気づくことができ行動することで、それが一緒に過ごす人への大きな刺激となっていたと思われます。
また、Lead、Support、Make Moodからは、自身が楽しむことで明るい波動を配ることができ、それがアットホームな居心地の良い空間作りへと繋がり、本人に何の自覚がなくとも居てくれるだけでその場が整っていくような存在になれると読むことができます。
仕事現場で「爆弾男」「ムードメーカー」と呼ばれていたのは、これらの特質が出ていたからだと考えられます。
漣さんとまた仕事をしたいと語る監督さんや演出家さんが多々いるのも、楽しい中に不思議な刺激があることに魅力を感じていたからなのかもしれせん。
感情面と健康面でのバランスに注意が必要です。
BodyとEmotionが2であることから、感情面的にも身体面的にも過度な負荷をかけるとバランスが崩れやすく、分析ができてしまうがゆえにそれが過剰となりやすく、葛藤を抱えやすい傾向があると読むことができます。
俳優を極めていくことで精神的な安定を手にていたこと、学生時代からサッカーを続けているからと多少の負荷なら大丈夫と自負していた漣さんですが、俳優として注目され仕事量が急激に増えた時、精神的に安定していてもバランスが取れない程の負荷が体にかかり、体調を崩したと考えられます。
後から漣さんの苦悩を知った奥様が「悩み過ぎ」と感じたこと、現場で「大杉漣は何人いるの?」と聞かれることが多々あったということから、この2つの項目の特質が出ていたことがわかります。
楽しく仕事をすることにこだわり過ぎ精神的な満足感に目が向き過ぎた結果、自身の身体からの声になかなか気づくことができなくなり、気が付いた時には体調を崩して倒れていたのかもしれません。
人生の周期&History
Cycle Numbers <その時のテーマ>
Pinnacle Numbers <その時の状況>
Challenge Numbers <その時に挑戦する課題>
0歳~29歳 Cy:9 P:9 Ch:9
役者としてのスタート。どうしたいのか、何をやりたいのかわからず、苦悩の日々。
9番は月の影響を受け、月は母親の星と言われていますが、教育者の星でもあります。
このことから教育者である父親からの学びも多かったのではないかと考えられます。
特に18歳で東京に出るまでは父親の転任に合わせて引っ越しをすることも多く、父親から与えられる環境から受ける影響は大きかったと思われます。
揺れやすく自分自身がわからなくなりやすい9番がそろった第1サイクルと、自分自身と向き合うことがテーマとなる#7を誕生数に持つ漣さんは、この時期は特に自身の何かに疑問を感じ、悩み、モヤモヤとしたものを抱えていたように思います。
その中で役者としての第1歩を歩みだして行きます。
1951年 0歳 #25
父:学校教師
母:下宿屋の娘で3歳年上の姉さん女房
男4人兄弟の末っ子として誕生。
1964年 12歳 #28
市立富岡中学校に入学。
野球と軟式テニスの選手となる。
この年の誕生日を迎え、数字は1桁、自分の人生を歩く周期へと入って行く。
1967年 15歳 #2-4 サッカーとの出会い。
父の県立城東高校への転任に合わせて引っ越し。自身も城東高校に入学する。
兄の影響とメキシコオリンピックで日本代表が銅メダルと取ったことでサッカーに関心を持ち、サッカー部に入部。
基盤作りに良いと言われている#4の年に出会ったサッカーが、後の「鰯クラブ」不動のエースの誕生、俳優歴よりサッカー歴の方が長いことが自慢だと話すことへと繋がったのかもしれません。
1969年 17歳 #2-6 フォークソングとの出会い。
ラジオの深夜放送でフォークソングにはまる。
感性に触れると良いとされる#6の時期に出会ったフォークソングは漣さんにとって感性を刺激してくれるものであり、何かを表現したいという思いから、晩年の音楽活動へと繋がっていったと考えられます。
1970年 18歳 #2-7 親元を離れ、東京へ。自分自身がわからない、苦悩の日々のスタート。
好きだった女の子の後を追って上京。
自身の誕生数でもある7番サイクルの時に親元を離れ、上京した漣さん。
すぐに彼女にはフラれてしまうも故郷には戻らず、どんな道を進んで行くのか、1人で考える時間を過ごしています。
日雇いの仕事で食いつなぎ、自由な時間がありながら自由ではないと感じる日々を過ごします。
1973年 21歳 #2-10 奥様との出会い。
知り合いに声をかけられ芝居の手伝いに行った稽古場で奥様との偶然の出会いがありました。
奥様の役が関西弁であり、その指導を徳島出身だからと頼まれたことで距離が近づき、その公演の打ち上げ後には同居をスタートさせています。
ソウルメイト(魂での繋がりがある人)との出会いがあるとされる時期に、芝居と奥様という漣さんに とってとても大きな存在との出会いがありました。
先の見えない中で役者という道を追求し続けた漣さんにとって、「稼いでくれ」と1度も言うことなく、応援し支え続けてくれた奥様とは、魂での繋がりが強かったことに間違いないと思われます。
1974年 22歳 #2-11 劇団に入団し、役者人生のスタート。
分岐の年であり、自身を見つめるのに良いサイクルの時に、明治大学を中退し、太田省吾さん率いる転形劇場に入団することで役者人生がスタートします。
入団時のエピソードとして、太田省吾さんの「役者の背中」に出てくる「追われてきた者」「不健全」「現実の生活に適さない」と言う言葉が当時の漣さんを突き刺し、書いた人に会ってみたいと思い劇団募集から連絡を取り、結果、入団することになったとの話がります。
誕生数が#7であり、サイクルに9番がそろい自分自身がわからず揺れていた当時の漣さんにとって、「追われてきた者」「不健全」「現実の生活に適さない」という言葉は自身に当てはまることがあり、強く惹かれるものがあったのだと思われます。
1975年 24歳 #3-4 奥様への不思議なプロポーズ。
劇場初の海外公演が終わり帰国した時、奥様の迎えがなかった為、漣さんは奥様に電話をして空港まで迎えに来てもらっています。
その帰りに2人で食事をした際に「結婚しよう。」「うん、わかった。」とのやり取りはあったが、籍を入れることはなく、奥様も漣さんらしいと思い、特に抵抗がなかったと後に語られています。
3周期の4サイクルという、漣さんは楽しく基盤を作るのに良いタイミングで奥様との結婚を意識しています。
ソウルが#11-2であることから、相手への依存も強くなりやすい傾向があるため、迎えに来てくれなかった寂しさから不安を感じて結婚を意識したのかもしれません。
ここで結婚を意識し、プロポーズをしていても籍を入れていないのは、漣さんの誕生数が#7で、魂での繋がりがあれば世間的な形にはこだわらない、ちょっと変わり者だったからかもしれません。
1977年 26歳 #3-6 胃潰瘍で入院。
1977年8月、急にビールの味がおかしいと感じ、受診した結果、胃潰瘍で入院することになります。
数冊の本を持って入院するも、大部屋で落ち着かないとしょげていたとのエピソードがあります。
6サイクルの8月、体調に注意の6サイクルの体に症状が出やすい8月に胃潰瘍で入院しています。
今まで生活を維持するための仕事をしながら役者を続けるために無理をしていた分、体に症状として出たのだと考えられます。
この入院時に本を読み、自身の時間を作れたなら、6番は自己回帰ナンバーとも言われている為、落ち着いて自身と向き合うと良いタイミングで時間が作れたということにもなると思われます。
1980年 27歳 #3-7 ピンク映画で映画デビュー。
劇団での劇を見た人から声がかかり、ピンク映画で初映画出演をします。
漣さんはピンク映画について好きで良く見ていた、関心があったから挑戦してみようと思ったと語っています。
このことからもマニアックな世界への関心は高かったように思います。
マニアックなピンク映画から映画の世界に惹かれ、今後、数多くの映画に出演していくことになるのが、誕生数が#7であり、7サイクルの時に映画の世界に惹かれた漣さんらしさなのかもしれません。
1980年 29歳 #3-9 本名:大杉孝 から 役者:大杉漣 に。
日常と違う名前を使うことへ憧れがあり、大好きなフォーク歌手、高田渡さんの息子「漣君」からいただき、俳優:大杉漣となる。
9サイクルは1つの関係性を終え、次のステップへ進む時です。
そして、漣さんにとっては第1サイクル最後の年でもあります。
これらのことからも、今までのことを引き継ぎながら新しいステップへ踏み出すのに良いタイミングでの改名だったと思われます。
ここからさらに俳優として極めていく道を進んで行きます。
30歳~38歳 Cy:9 P:7(16) Ch:2
身を寄せていた劇団の解散。活躍の場を変えながら俳優を極める道へ進んで行く。
30歳を越えて第2サイクルに入っても、ピンク映画と言うマニアックな映像の世界での俳優に挑戦し続けていきます。
ピンク映画の世界に全力で向き合い続け手に入れた「ピンクリボン賞 主演男優賞」。
ですがこの受賞式での記者とのやり取りに不快感を覚え、これをきっかけに自分自身が何をやりたいのかをさらに深く考え、より#7の特徴である内省に向かっていくことになります。
その中で、ピンク映画からの引退を決めて軌道修正をすることで再スタートしたのは、1つの結果が出たことで1つの関係性を終え次の関係性に向かうと良い9番のサイクルであり、ピナクルが7番であることから、心や魂の欲求を追求していくことへの後押しになったのではないかと思われます。
しかし、拠り所であった劇団の解散により、初めての役者の舞台は幕を閉じることになります。
明日からの自由を手にしたように感じたようですが、急に行き場をなくしたことを受け入れることが求められました。
第2サイクルの課題である2番、「急な解散」を受け入れるしかない中で、どんな道を歩いていくか、漣さんの出した答えは「40歳までやらせてくれ」という役者を続けていく、極めていくという道でした。
1982年 30歳 #3-10 入籍、そして第一子誕生。
同棲して9年目に子どもができ、子どもができると区からお金がもらえる為、籍を入れてしまった方が良いという奥様の判断で入籍します。
劇団での稽古を終えて家に帰ると「今日から大杉弘美です」と言われ、結婚したことを知らされます。
ずっと一緒にいる気があっても籍を入れることにこだわりが無く、金銭的な面を含めた生活面で支えてもらっていた漣さんにとって、子どもができたことでの奥様の判断での入籍という受け入れの結婚であることが、ソウルが#11-2というパートナーへの依存ともとれるエピソードのように思います。
入籍したのが3周期の10サイクルであり、楽しく明るい未来へ踏み出していくには良いタイミングであり、漣さんにとっては、この入籍からパートナーへの依存ではなく、信頼しているからこその繋がりで自身も自立へと向かっていくように思います。
1984年 33歳 #4-4 「ピンクリボン賞主演男優賞」受賞。そしてピンク映画からの引退を決意する。
漣さんは授賞式でピンク映画すべてに対する愚弄に感じる質問を受け、「本当のところ自分は何がやりたいのか。」自問自答するようになります。
出した答えが、「もう一度、最初に俳優として出発した場所で、みんなといっしょに芝居を作ることを生活の中心にしていこう」でした。
「懸命にやって賞をもらって、だから次にいけるという思いがあった。」と後に語っています。
今まで頑張ってきたことの成果が目に見える形で出ると言われる4サイクルの時に1つの評価として、賞を受賞しています。
このままピンク映画を基盤として成長していく道もあったと思いますが、自分自身に問いかけた結果、漣さんが選んだのは原点に戻ることでした。
4周期の4サイクルと4番の後押しを受け、自身の基盤としたいものを考えた結果が、軌道修正による再スタートだったのだと思います。
1988年 37歳 #4-8 転形劇場の解散。40歳までは続ける決意をする。
評価されていく中で、良い作品をじっくりと作りたい気持ちと、その劇団を維持するためにはお金が必要で要請される評価された演目をこなしていく必要があるという、劇団として大きなジレンマを抱えていきます。
ここで漣さんは劇団を通して思いを込めてやりたいことと、現実的な問題というジレンマを経験しています。
基盤を作る4周期の8サイクル、厳しい環境の中で金銭的な面を補えないことから劇団と言う組織では解散という結果になりましたが、漣さん個人としてはマネージメントしたいというプロダクションの誘いを受けたとこで俳優を続けていくことになります。
まさに8サイクル的な出来事、金銭的、環境的な困難を乗り越えて、みんなと何かを作っていく道を選び、この出会いからテレビへの出演も増え、活動の場を拡大させていくことになります。
この1年後には漣さんの収入だけで生活ができるようになったそうです。
これも8サイクルという自分で稼ぐことができると言われる時に出会った新たな環境がもたらしてくれことかもしれません。
39歳~47歳 Cy:9 P:7(16) Ch:7
1つの挑戦から新たな舞台へ。どんな俳優でありたいのか、役を通して自分と向き合う。
第3サイクルに入りサイクルとピナクルは第2サイクルと同じですが、チャレンジが2番から7番へと変わり、自身と向き合い、極めてきたものをさらに飛躍させることに挑戦する時になったのだと思われます。
新しい挑戦として、40歳になった時、俳優人生で初めてのオーディションを受けることになります。
そのオーディションで出会った北野武さんの「ソナチネ」への出演をきっかけに漣さんの俳優としての世界は広がって行きます。
様々な役に挑戦する中で自分自身と向き合い、今まで積み重ねてきたものが評価されて行きます。
その中で多くの仲間ができ、居てくれるだけでその場が整い、アットホームな雰囲気があり自然と人が集まってくるような存在へとなって行きます。
TypeⅡに表れている漣さんらしい「個性」や「特質」が時間をかけて開花し、俳優としても注目されて行きます。
1990年 39歳 #4-10 サッカー大好き集団「鰯クラブ」の結成。
職種に関係なく、サッカーを楽しむという目的で集まった、サッカー大好き集団が結成されます。
10サイクルという、ソウルメイト(魂での繋がりがある人)との出会いがあると言われているサイクルの時に、同じサッカーが好きと言う多くの人との繋がりを持つことになります。
このチームに参加する時は仕事を忘れて、思う存分楽しむことにしていると語っていることから、俳優をしている時とは違う“楽しさ”がサッカーにはあったのだと思われます。
漣さんがサッカー好きで「鰯クラブ」というサッカーチームに参加していることが知られることで、サッカーに関する仕事をする機会も増えて行きます。
1992年 40歳 #4-11 新たな挑戦、「ソナチネ」への出演決定。
1993年 41歳 #4-12 「ソナチネ」公開で、俳優として注目され始める。
約束をしていた40歳という年齢に到達した時、今まで試験のような感覚が嫌で避けてきたオーディションの話が事務所から来ます。
最初は断るつもりでいましたが、「北野武さんの作品」と言うのを聞いて受ける決心をし、普段なら絶対にしない遅刻で2秒のオーディションとなったにも関わらず、役が決まったとのエピソードがあります。
今までは避けていたオーディションに参加すると決断したのは、北野武さんの作品だったからなのではないかと思われます。
北野武さんは誕生数に#22を持っていることから、社会を変えるぐらいの創造性を持って改革をして行ける人と考えられます。
第2サイクルからピナクルは16-7が続くことからも自身が学び得てきたことを打ちだして行く方法を模索していた漣さんは、yearサイクルでも分岐のサイクルに入ったことで、自然と創造性豊な北野武さんに引き寄せられて行ったのかもしれません。
そこでのご縁から漣さんは俳優として一気に注目されて行きます。
4周期の12サイクルで「ソナチネ」が公開され、俳優として一気に注目されることになります。
これは、現実的にコツコツと頑張ってきたことが評価され始めたということだと考えられます。
ここから先、漣さんの出演作品は急激に増えていきます。
1998年 47歳 #5-9 複数の「助演男優賞」を受賞する。
年間30本ぐらいの作品に出演し続け、それが評価され、「助演男優賞」を受賞しています。
受賞後であっても漣さんは仕事のあり方で迷うことがあったが、いろいろな作品に関わることができて良かったと語っています。
1つの完結を迎える周期でもある9サイクル時に、今まで積み重ねてきたことが受賞という目に見えた形で評価されています。
その後も5つの助演男優賞、その他にも様々な分野での受賞をしていきます。
受賞後も役の大小に関係なく、その場に参加している時間が面白いということは変わらないから呼ばれれば可能な限り応えるという漣さんのスタイルは続いていきます。
1つの現場に参加することで自身が満たされていくことからできた、1つの社会貢献でもあるように感じますが、やや現実性に欠け、可能な限り参加するというスタイルの繰り返しが体に負荷をかけていったようにも思います。
48歳~ Cy:7(16) P:7(16) Ch:2
会社の創設、歌手活動、演出など、自分らしい活動スタイルへ。自己表現を極めていく。
第4サイクルに入りサイクルとピナクルが自身の誕生数である7番、チャレンジが2番になります。
カルミックナンバーである、16番を持った7番がサイクルとピナクルにあることから、今までの学びを人に伝えることがテーマとなり、そこから相手の自立を促し、癒しと安心感の提供を目指していくようになると思われます。
実際に第4サイクルに入り、漣さんの活動の場は役者の枠を超え、さらに大きく広がって行きます。
ずっと続けて来たサッカー、機会があればと思っていた音楽、今までの想いを込めた本の出版など、役者の道を追求しながら同時に続けて来たものを通しても自身を表現するようになっていきます。
同志が集まる会社を創設し、様々な形での表現を通して自身も楽しみ、一緒に過ごす人はもちろん、表現者としての漣さんを見た人たちにも“楽しさ”を伝えていくことになります。
そんな楽しいに包まれた現場で、自身が常にそうでありたいと望んでいた「現場者」として最後を迎えることとなります。
1999年 48歳 #5-10 過労で体調を崩す。
体が丈夫で寝ずに働く日が多くてもめったに寝込まないはずが、いきなり現場の休憩時間に控室で横になったまま意識喪失し、救急病院へ運ばれています。
10番という数字はカルミックナンバーであり、再誕生と言われています。
動きたくなるが修正をかけた方が良い時期でもあります。
このことからも、この過労で倒れたことをきっかけに働き方を見直すべきだったように思います。
しかし、そのままのスタイルで仕事を続け、また睡眠時間の確保もままならない状態で仕事を抱えることとなった2000年にも漣さんは現場で意識喪失しています。
その際にも1日も休むことなく撮影を終え、忙しい日々を続けていきます。
1999年 48歳 #5-10 映画のイベントをきっかけにバンド結成。
2000年 49歳 #5-11 今しかないとストリートデビュー。
2001年 50歳 #5-12 音楽活動と執筆活動、新たな表現の世界へ。
1999年映画「天使に見捨てられた夜」のイベントでバンドを組むことになり、これをきっかけにライブ活動をするようになります。
1999年から故郷の徳島で漣さん主催の映画上映会をやるようになり、2000年に徳島で行われたその映画祭のあと、酔いざましに出た外でストリートライブをしている2人組の男の子を見て、「ストリートデビューをするなら、今だ!」と思い、ギターを借りてストリートデビューを果たしています。
さらにその1年後には自伝のようなものは嫌だと思っていたはずが、少し「ウシロ」を振り向こうと思い単行本を刊行しています。
この頃の漣さんは、俳優という仕事を通して、新たな出会い、昔からの付き合いを深めるなど、人との繋がりから活躍の場を広げています。
広がった活動の中でも音楽活動や執筆活動を通して表現する楽しさを感じ、自身が表現者であること実感しています。
俳優という役を演じることでの表現だけではなく、音楽や執筆を通して自分自身を表現する活動にも力を入れていきます。
2007年 55歳 #6-8 ZACCOの創設
2007年 56歳 #6-9 40年続けてきたタバコをやめる。
「雑魚のように、逞しく泳ぎたいと願う表現者の集団」という意味を込めて芸能事務所ZACCOを創設。
最初は3名の俳優、3名のスタッフで始めた事務所は、一緒に仕事がしたいと思える人に声をかけることで、メンバーを増やして行きました。
自己回帰ナンバーであり愛情深い番号である6の周期、今までやってきたことが現実化する8サイクルでの起業であり、特に#8には人々を繋ぎ物事を拡大していくパワーがあるとされていることからも、会社のコンセプトにピッタリなタイミングでの創設であったと考えられます。
同年の誕生日を迎えてから、漣さんは自身の身体のことを考え、長年の身体にとっての悪習慣であったタバコをやめています。
特に体調面で自身を見直すのに良い6周期の不必要な執着を手放す方が良いとされる9サイクルで禁煙していることは、大変なことである禁煙を成功させる後押しになったのではないかと思われます。
2011年 60歳 #6-13 ネット配信のバラエティー番組「漣✯写でGO!」開始。
2013年 62歳 #6-15 バラエティー番組「大杉漣の漣ぽっ」がBSフジにて放送開始。
2017年 65歳 #7-9 NTV「ゴチになります!」レギラー出演。
漣さんは60歳以降、バラエティー番組にも出演されています。
特にバラエティー番組での漣さんは、明るく楽しい波動が周りにも伝わり、アットホームで居心地の良い空間を作り出す、TypeⅡの特質が全面的に出ていたのではないかと感じます。
バラエティー番組で周りを笑顔にしている姿は、漣さんの座右の銘である「あるがままに」だったのかもしれません。
2017年 65歳 #7-9 初プロデュース映画「教誨師」。
65歳にして、漣さんは初めて自身で映画をプロデュースし、その映画の主演を務めています。
自身を見つめることで飛躍し、自身の誕生数でもある7周期の1つの結果が出る9サイクルで、漣さんは自身の理想とする作品作りの場を築いているように思います。
この撮影時、会社の社長であり、一番の支えであった奥様が初めては毎日現場に同行し、撮影に張り付いていたとのエピソードがあります。
漣さんにとってこの映画は、1つの集大成でもあり、次のステップへ進む為の1歩だったのだと思います。だからこそ1番の支えであった奥様にも見て欲しかったのかもしれません。
奥様にとってもここでの時間は「宝物のような時間だった」と語っていることから、とても大切な時間であり、ここで俳優としての漣さんの姿を見たことが、漣さん亡き後も「俳優:大杉漣」の在り方を伝える場所を作ることに繋がったのかもしれません。
2018年 66歳 #7-10 2月21日 撮影後、急逝。
「バイブレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~」の撮影を終え、共演者と一緒に飲酒を交えての食事をし、その後ホテルの自室に戻るも、ひどい腹痛に襲われ、共演者に付き添われ病院に行きますが、容態は回復せず、急性心不全で亡くなりました。
撮影時にも特別体調が悪かったという話はないようですが、時々、一人で待機車に戻っていたとの話もあります。
TypeⅡの特徴から、健康面においてはバランスを崩しやすい傾向にあり、過去にも本人が疲労を自覚した時には倒れているということを繰り返していました。
これらのことからも、本人がまだ大丈夫と思っていても仕事の積み重ねで思っていた以上に身体的には疲労が貯まっていた可能性があり、そこに2月の寒さなどが加わったことが、急性心不全に繋がってしまったのかもしれません。
漣さん亡き後
突然の死を迎えた漣さんですが、死後も多くの仕事仲間に慕われ、ファンからも愛され続けています。
漣さんの立ち上げた会社は解散となりましたが、そのホームページは奥様が中心となり「大杉漣記念館」へと名前を変え、漣さんの軌跡、漣さんが残した多くの想いや言葉を紹介し、人と人との繋げるサイトとなっています。
役者であり、1人の表現者としてまだまだやりたいと思っていることがあると語っていた漣さんは、存命であればさらに後世に名を残すような、自身と向き合うことの難しさ、苦しさから人を導くような人間味あふれる“作品作り”に関わっていたのではないかと思われます。
それでも日々1カット入魂で目の前のことに真摯に向き合い、楽しく遊ぶための努力を惜しまなかった漣さんは、「現場者」としては悔いのない最後を迎えたのであれば良いなと思いました。
まとめ
極めていく時に1つの形にこだわることはなく、1つの形を貫く=極めるではありません。
漣さんは確かにずっと役者ですが、その活躍の場は劇団から始まり、ピンク映画というマニアックな世界から映画の世界へ入り、テレビ業界へと広がり、その演じるスタイルも変化させています。
漣さんが俳優として「300の顔をもつ男」と呼ばれたのは、常に変化が求められる#5を運命数に持ち、誕生数に自分自身と向き合う#7を持っていたからこそ、俳優という職業を通して心や魂に眠るものを追求していきたどり着いた漣さんらしい俳優スタイルなのだと思います。
そして、俳優という職業を通して、自問自答を繰り返えすことで自分自身の中に眠るものを追求し、それを表現者として伝えていく姿は、誕生数#7の極めだと感じました。
数秘を通して大杉漣さんの人生の軌跡に触れてみて、今、自分自身がモヤモヤとしているものに気がつき、自分だけではなかったと強く感じられたことが私自身にとって成長へと繋がる気づきであり、1番大きな学びであったように感じています。
苦しみながらも努力することは悪いことではなく、それを楽しむことへと繋げていくことができ、その楽しいを誰かに伝えることで役に立つこともあり、さらなる楽しいに繋がるのかもしれない、そう思えたことで、これから先に進んで行く道が明るくなり、自分自身も胸を張って楽しんでいますと言えるようなものを見つけていきたいと感じることができました。
追求するものが違う、追求の仕方も違う、それを伝えていく方法も違う、同じ数字を多く持っているからと言って同じものに惹かれるわけではなく、同じ方法を選ぶわけでもありません。
それでも漣さんを通して、極めていくということ、変化をさせていくということ、今というこの瞬間に真摯に向き合い続けることで自身の中にある「個性」や「特質」と言われる才能が、自身が輝くための後押しをしてくれるのだということを感じ、苦しくてもその先に楽しいがある可能性を強く感じることができました。
ですが、楽しいから、やりたいからと自身の限界を顧みずに進むことが極めることではありません。
自分自身と向き合うことで感情的な方にだけ耳を傾けるのではなく体からのサインにも気がつけるようになり、自分自身を大切にしながら進んで行くことが極めることに繋がるのだと感じました。
そして、この数秘を通して知り得たことが全てではなく、漣さんが語っているように、1つ1つに大切なことがあり、それを簡単に選んだり、伝えたりすることはできませんが、だからこそ、表現し伝えてくれる人がいる大切さ、それを受け取る人がいる大切さを実感しました。
この素敵な出会いへの感謝を忘れずに、自分自身と向き合い続けていきたいと思います。
first-year student by Nozomi・H
Zero Point Academy
2019/10/20

