真脇遺跡:石川県鳳珠郡能登町字真脇

 

能登行きの主目的は真脇遺跡を訪れることだった。近年、縄文時代の文化、とくに死生観に関心があって、関東甲信越や北東北の縄文遺跡を訪ね歩いているのだが、ここ真脇遺跡は以前から気になっていたのだ。その大きな理由は、環状木柱列である。鎌田東二はこれを見て「見事に胎蔵(界)曼荼羅になっている」と評していて、たしかになんらかの宇宙観を表しているように思えたのだ。

 

日本で宗教性を帯びた柱と言えば、伊勢神宮の心御柱、古代の出雲大社の神殿、あるいは諏訪大社の御柱などが思い浮かぶ。神の依り代とされることが多いが、建築学の西垣安比古は「柱を立てることは天地を結ぶ垂直の場所秩序をうち立てる行為であり、秩序をもった世界を開く行為ともいえる」と解している。また、環状木柱列に似た縄文のモニュメントとして、環状列石や三内丸山遺跡の掘立柱建物などが挙げられるが、類似性はあるもののそれらとは少し目的が異なったものにも思えるのである。

 

まずは、真脇遺跡の概要を紹介しておこう。

真脇遺跡は能登半島の東側、富山湾に面し、三方を丘陵に囲まれた入り江の奥の沖積平野に位置する。縄文時代前期初頭から晩期終末までの遺物・遺構が出土し、約四千年もの間、この地で人々が生活していたとされる。通常は残りにくい木製品や、動物の骨、植物の種子などが非常に良好な状態で出土し、とくに前期末葉から中期初頭にかけての地層から出土した286頭にものぼる大量のイルカの骨は有名だ。特定の地層からの出土なので、じっさいには何千頭もあるのではないかといわれている。遺構には、 墓穴の中に板を敷いて遺体を埋葬した「板敷き土壙墓」や、同じ場所で6回も炉を作りかえていた「貼床住居址」など特殊なものがたくさんあり、この遺跡以外にはまったく類例がないという。また、遺物においても、イルカ骨と一緒に出土したトーテムポール様の木柱が、イルカ漁に関する儀式に用いられた可能性があるとして注目されている。そして、環状木柱列だ。
真脇遺跡縄文館

環状木柱列は最後のお楽しみにして、先に真脇遺跡縄文館に向かう。コロナ禍の渦中、Go to Travelキャンペーンを利用したが、午前中の遺跡公園には人影はなく、僕が当日最初の訪問者だった。展示室はそれほど広くはないが、展示されている遺物は目を見張るようなものが多い。入って左手にはご当地名物のイルカの骨が大量に展示されている。他の縄文遺跡博物館ではお目にかかれないようなものが多く、引き返して写真撮影の可否を尋ねると、申請書を書けばよいとのこと。目的を執筆用資料として撮影させてもらう。

小型イルカ脊椎連結資料

彫刻柱。イルカの霊送りの祭具と考えられている。
3号土壙墓の人骨

 

縄文時代についてはあまり知識がないので、いろいろ疑問が出てくる。で、一人で受付をしていた女性、K.Y.さんに案内を乞うと「待ってました」とばかりに出て来てくれた。事細かで意地の悪い当方の質問にも的確に答えてくれるので、学芸員か教育委員会の方かと尋ねるとそうではなく、ご縁があってとの由。アルバイトの主婦とは異なり、説明の端々にインテリジェンスが漂う。もしかすると社会科の教員でもやっていて、Uターンされたのかもしれない。

この遺跡の発掘は2012年以来行われていないので、なぜかと問うと「もっと優先すべきことがたくさんあるので、予算が下りない」と残念そうだった。展示室を出ても、台湾から与那国島に渡る「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」に使われた丸木舟の原材の杉の調達、制作は当地で行われたこと(レプリカも展示されている)など、展示物のあれこれを非常に熱心にご説明いただいた。感謝。

さて、博物館の見学を終えて、外に出る。長閑な秋の昼どきだ。それにしてもおおらかな所だ。深呼吸してみる。右手に向かうと真脇遺跡の標識があり、その先の左手には、復元された環状木柱列の遺構が見える。すぽーんと空に向かって立つ十本の木柱の円環は、まるでモダンアートの作品のようだ。

 

環状木柱列の主な特徴は以下の通り。

・樹種はクリ。

・半割柱が使われており、丸太の木心をはずすように割られている。

・割った面を外に向けている。

・柱は真円配置で線対称に立てられている。

・柱の数は10本ないしは8本で、ときには6本のものもある。

・入り口とみられる施設(門扉状遺構)が作られているものもある。

環状木柱列は金沢市のチカモリ遺跡が有名だが、ほか石川県・富山県を中心に約20例の報告があるという。ここ真脇遺跡では、ほぼ同じ場所で6回立て替えられており、A環と呼ばれる木柱根が最大で、直径7mの平面形に最大幅71〜98cm、厚さ18〜37cmの木柱が10本使われている。南側に位置する2本の柱を利用し、門扉もつくられていたようだ。

眺めているだけで神妙な心持ちになる。やはりなんらかの宗教性を帯びているとしか思えない。かたちは本質に通じる。僕たちはかたちを通じて本質に触れる。縄文の人々が今日の哲学や宗教などのような体系化された知を有していたかどうかはわからないが、少なくとも生きること(死ぬこと)そのものから得た集合知のようなものがあり、それがこうした「かたち」に表れているのではないだろうか。

 

門扉とされるところから中に入ってみる。一種のアフォーダンスなのか、ここからしか入ってはいけないという自己規制がはたらく。一瞬、魔法陣の中に入ったような感じ。寝ころんで青空を眺める。すると、からだが宙に浮いているような浮遊感覚におそわれる。空、大地、海、山の真ん中にあって、それらに抱かれているようだ。僕にもそれなりの悩み事はあるのだが、この中にいるとそんなことはどうでもよくなってしまう。

どのくらい時間が経っただろうか。からだを起こして門扉から外に出てみる。この環状木柱列がなにかを知る手掛かりは、その外にあった。50m北に土壙墓が4基あるのだ。縄文時代中期につくられたとされるこれらの墓は、ほぼ東西南北に配置され、その前には三本の木柱が等間隔に並んで立っている。その内の一基、三号土壙墓には土壌化が進んだ骨が残存していた。横臥屈葬で埋葬されていた骨の持ち主は、壮年期(20~30代)の男性で、村のリーダーではないかと推定されている。

土壙墓

 

秋田県鹿角市にある大湯環状列石では、環状列石を中心に、その外側を六本柱、四本柱の建物遺構が囲み、さらにその外側を多数の土坑、つまり墓が囲んでいる。強い配置の規則性があるといい、東北の他の縄文遺跡でも同様の構造が見られる。無責任な思いつきで恐縮だが、もし観念というものに共時性があるならば、ともに縄文後期から晩期にかけての遺跡であり、これが墓地か祭祀遺跡かは別として、「円環」を為す宇宙観や死生観に通停するものがあったかもしれない。

 

万座環状列石(大湯環状列石)

万座環状列石周囲の木柱建物遺構

万座環状列石の建物遺構(出典:文末5

 

円環を為す死生観で代表的なものは輪廻転生だろう。輪廻転生には、再生型、輪廻型、リインカーネーション型の三類型があるというが、日本人の42.6%はこれを信じているという。僕がこの円環の中に入り、寝転んで空を仰いだ時に直感したのも、正に輪廻転生だった。現代の日本においては、生と死がひとつながりのものだという観念は、表向きには薄らいでいるように見える。だが、「生きる」ことはやがて訪れる「死」を意識した道のりでもある。真脇に暮らした縄文の人々は、このモニュメントを囲んで死者の「再生」を願い、盛大に祭りを行っていたのではないだろうか。

 

 

(2020年10月16日)

 

 

(参考・出典)

1.鎌田東二「究極 日本の聖地」中経出版 2014年

2.能登町真脇遺跡縄文館 「新図説 真脇遺跡」能登町教育委員会 2013年

3. 国指定史跡真脇遺跡 

4.形の文化会「図説 にほんのかたちを読む事典」工作舎 2011年

5.御所野縄文博物館「環状列石ってなんだ-御所野遺跡と北海道・北東北の縄文遺跡群-」新泉社 2019年

6.竹倉史人「輪廻転生 -<私>をつなぐ生まれ変わりの物語-」講談社現代新書 2015年

 

<読者の皆様へ>

いつもお読みいただき、ありがとうございます。お蔭様でこの記事で100稿目となりました。日本の聖地を訪ね歩くようになって六年。この間訪れた場所は千ヵ所を超えました。二、三週間に一度しか投稿できませんが、皆様のアクセスや「いいね!」がなによりの励みになっています。これからも粛々と綴っていく所存です。よろしくおつきあいください。