鎌宮諏訪神社:石川県中能登町金丸又た


住宅地の中の一角。鳥居はあるが社殿はない。玉垣が巡らされた中にこんもりとしたタブの木があるのみである。赤錆びた鉄扉が開いていたので、玉垣の中に足を踏み入れる。そこで出会ったのは異様としか言いようのない光景だった。

 

二柱の御神木に夥しい鎌が刺さている。これを見てぎょっとしない輩はいないだろう。丑の刻参りさながらで、どこか禍々しく、いけないものを見てしまったような気になる。

 
神木に刺さっている鎌は薙鎌(ないがま)という。僕は諏訪大社上社本宮の境内にある宝物殿でしか見たことがないが、それは鶏冠のある鳥を模した奇怪な形をしていた。重要な神器だという。諏訪大社上社前宮の境内には大祝(注*1)の即位式を執り行った鶏冠社があるが、この形となにか関係があるのだろうか。当社の薙鎌はこうした装飾を凝らした形ではなかったが、打ち込んであるのは柄の部分で、鋭利な刃はこぞって外を向いている。
諏訪大社上社では、七年に一度の御柱祭の前年(丑および未)に八ヶ岳の御子屋山(御柱山)に赴いて御柱にする樅の木の見立てを行うが、この時に目印として打ち込まれるのが薙鎌である。薙鎌は御神体であるともいい、諏訪神を分霊する時には薙鎌を分けているという。御柱の精霊が宿ると見做すのだろうか。
 
この薙鎌打ち神事は諏訪からかなり離れた信濃国と越国の県境、雨降山の西にある北安曇野の小谷村でも行われている。地図で確認しても秘境中の秘境のようなところでアクセスには非常に難儀しそうな場所だ。信州の伝承文化を紹介するサイトに紹介があったので引用しておく。
 

「諏訪大社式年造営御柱大祭の前年にあたる丑年に小倉明神で、未年に境の宮諏訪社で行う。古くは、信濃の国境を示し、諏訪明神の神威の直接及ぶ範囲を示す神事であったという。「薙鎌」は鶏のトサカのような形をした諏訪明神の神器のひとつ。諏訪神の信州開拓の象徴であるとか、また「なぎ」が「凪ぐ」に通じることから風雨鎮護、諸難薙ぎ祓うの意味ともいわれる」。神事のあらましを知りたい向きは文末(出典*1)を参照されたい。

 

諏訪大社宮司であった三輪磐根は、薙鎌について「かつて御柱祭の前年に信濃国中の末社に鉄製の薙鎌を送る神事があり、末社の氏子も諏訪明神の氏子であることを確認させることが主な目的だったが、次第に薄れ、現在ではわずかに小谷村に伝わるほかは近隣の上下伊那の各神社が御柱祭の当年薙鎌を譲り受けるだけになった。小谷村にはこの薙鎌が元禄時代の信越国境論争の証拠となったという史実があり、ゆえに伝統を保ち続けている」と記している。(*出典2)

 

さて、能登の鎌宮諏訪神社に戻ろう。祭神はもちろん建御名方命だ。薙鎌打ちの神事は、鎌祭と呼ばれている。神事は小倉明神のものとさして変わらないようだが、こちらは鎌が二挺あって、日足鎌と薙鎌の左右一対の鎌の刃先に稲穂と御幣をつけたものを、タブの神木に打ち込むという。これは稲の収穫の予祝に加え、九月朔日の風の盆ともからんで風鎮めを祈願する、つまり台風除けである。大正期の記録によれば、近隣の農民は稲を刈る鎌を持って鎌踊りを踊り、狂喜乱舞したという。

調べていくと、どうやらこの鎌打ち神事にはふたつの役割があるらしい。ひとつは、小谷村にみるように「国境を決める」ことだ。柳田國男は「信州随筆」所収の「御頭の木」というエッセイで、信府統記にみえる「越後・越中・加賀三国の神様が、それぞれ諏訪明神と立ち会って議定なされ、その後この三箇所へ七ヶ年に一度ずつ、内鎌(ないがま)というものが到来して境目の証とした」という旧俗伝を引いている。(出典*3)鎌宮諏訪社のあたりは、鹿島郡と羽咋郡の境界にあたり、争いが絶えなかったために諏訪神を勧請することでこれを治めたのではないかとの見方もあるようだ。(*出典4) もうひとつは「風鎮め」である。「日本書紀」持統天皇五年八月二十三日の条には、「使者を遣して、竜田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ」とあり、諏訪を大和王権にとって重要な地と見た持統天皇が勅使を派遣し、風祭りを持ち込んだとされる。これは中世、諏訪大社の御射山祭にも受け継がれ、御射山社(注*2)の神木の近くでも薙鎌が発見されている。大祝は風祝でもあったのだ。では、風を鎮めるのになぜ薙鎌が用いられるのか。

 

吉野裕子は、薙鎌を用いた風の鎮祭、風送りについて、資料(綜合日本民俗語彙)からこう要約する。「ナイガマとは信州諏訪地方にある古い風習で木に鎌を打ち込むことである。薙鎌は神幣にもなり、各行列の先頭に今も立つ。風切鎌・風返しは草刈鎌を強風時に屋根に立てる。或いは屋根に打ちつける板をいう」。その上で「木に鎌が打ち込まれる理由」として、この人の真骨頂の陰陽五行から解釈を試みる。「五行において『風』は『木気』。つまり風はすなわち木、であって、風と木は密接に関わりあう。五行の相剋の法則の中に『金剋木』があり、木は金気によって剋し傷めつけられる。金気は金属、刃物に通ずる。そこで木気の風を撃つ最上の手段は金気を以って、風を剋することである。木、すなわち風、金、すなわち鎌である以上、風祭呪術として、金気の鎌が、風に見立てられた木のなかに打ち込まれることになる。天武・持統朝の白鳳期は中国の哲理を背景とする呪術の最盛期であった。諏訪に置いて古木に打ち込まれた鎌のなかに白鳳の銘の入ったものがあるというが、この事実は風祭呪術における『金剋木』の理の応用として受け取られるわけである」。(*出典5)

能登から諏訪、諏訪から大和、そして唐代の呪術へと、話がとんでもないところに及んでしまった。前述した柳田國男の「御頭の木」には、当社は「鎌の宮」として紹介されているが、同様の神事や鎌に因む信仰を持つ神社は、新潟、和歌山、福島、秋田、熊本、飛騨など他にもあったようだ。また、能登半島の鎌打ち神事は、当社の他に鹿島町藤井の諏訪神社、七尾市日室町の諏訪神社で、今も行われているらしい。

 

温暖化の影響で、日本列島は異常に大きい台風に襲われるようになった。農作物への被害はもちろんのこと、ひとたび土砂崩れや洪水が起これば、命や生活に関わる。人間はずっと自然災害と闘ってきたわけだが、日本の神々への信仰からいえばこれは荒御魂のなせる業で、ひときわ大きい薙鎌をもってしても到底太刀打ちできないだろう。相手は、神様≒自然だ。宥めていくには人間の方から変わる必要がある。世の中SDGsだのなんだのと、とりわけ経済界はたいへん喧しいのだが、持続可能な開発など本質的にはあり得ないことではないかと僕は思うのである。

 

(2020年10月17日)

 

(注)

*1 大祝(おおほうり)

祝は神職の名称の一つ。ふつう神主、禰宜の次位の者をいうことが多い。諏訪大社上社の大祝は祭神、建御名方命の神裔であり、信濃国諏訪郡の領主でもあった。

*2 御射山社(みさやましゃ)

中世に諏訪大社の祭儀、神事が行われた場所。上社は長野県諏訪郡富士見町、下社は霧ヶ峰にある。

(出典・参考)

*1 式年薙鎌打ち神事 - 信州の伝承文化 - 信州の文化財

*2 三輪磐根「諏訪大社」学生社 1979年

*3 柳田國男「御頭の木」柳田國男全集15「信州随筆」筑摩書房 1990年

*4 小林忠雄・高橋裕「鎌宮諏訪神社」谷川健一編「日本の神々−神社と聖地」第八巻「北陸」白水社 1985年

*5 吉野裕子「陰陽五行と日本の民俗」人文書院 1992年

藤森栄一「諏訪大社」中央公論美術出版 1975年

柳田國男監修 民俗学研究所編「改訂日本綜合民俗語彙」第一巻、第三巻 平凡社 1985年