クバの御嶽:沖縄県国頭郡今帰仁村

 

クバの御嶽は、今帰仁城址の南側の山麓から山頂にかけて、つまり山全体を神域とする琉球最大の御嶽であり、その面積は41,702坪に及ぶ。「クボウの御嶽」、「久芳嶽」、「久方の嶽」、「コバウの嶽」とも表記されるが、地元では単に「ウガーミ」(拝み・拝所)、或いは「ウタキ」(御嶽)と呼ぶ。琉球初の正史「中山世鑑」(1650年)には、天帝の命を受けたアマミクが、琉球開闢の九つの島(神の居所)をつくったとある。その九つは以下の順につくられた。1.国頭辺土の安須森、2.今鬼神のカナヒヤブ、3.知念森、4.斎場御嶽、5.藪薩の浦原、6.玉城アマツヅ、7.久高島コバウ森、8.首里森、9.真玉森。2.が本稿でとりあげるクバの御嶽だ。9.の真玉森は所在不明だがそれ以外は現存する。筆者は3.の知念森以下は訪れたことがあるが、安須森(アシムイ)とクバの御嶽は峻険な岩山を登らねばならず、気後れしていたのだ。

 

 

琉球弧の島々はこの二十余年で四十ばかり訪れてきた。当初の関心は、透明度の高い青い海とチャンプルーな文化、とりわけ民謡と食べ物にあったのだが、石垣島川平で初めて御嶽を目にした時、自分の中に眠っていたなにかが強烈に揺さぶられた。それ以来、どこに行っても、ウタキ、グスク、拝所の類をまるで気でも触れたかのように探し歩いた。御嶽は僕にとって聖地探訪の原点なのである。

クバの御嶽への入口は、今帰仁城跡からもっとも遠い第4駐車場と目と鼻の先にあって、徒歩一分とかからない。十二月中旬、よく晴れた土曜日の午前中。コロナ禍の影響から観光客はまばらで、この駐車場には車は一台もなく、行きあう人も皆無だった。聖地にはなるべく人がいない方がいい。人がいるのといないのとでは、まったく違う印象になってしまうのだ。

 
森の中へと続く道がある。吸い込まれるように入っていく。足元には砂利が敷かれ、踏み固められた様子で、その上に枯葉が積もっている。掃き清められた神社の参道のような趣きではない。あちこちから、南方の樹木の枝葉が覆いかぶさってくる。その間から、冬至も近いというのに、いまだ強い陽光が差し込んでいる。奄美を描いた田中一村の絵画そのものだ。時折耳慣れない奇怪な鳥の啼き声が聴こえる。七、八分も歩くと今帰仁村歴史文化遺産・景観保全地区と記された緑の標識、そして道の真ん中に鉄で出来た円筒の賽銭箱。鍵がかかっていたものの、底は抜けていた。この先がクバの御嶽だろうと歩みを進めると、祭場と思しき開けた場所に出た。
祭場全景
手前に石積みの座らしき場、そしてその正面、倒れかけた古木の根元に石の香炉が置かれた拝所が見える。さらに回り込んでみると、背後に大小の石が積まれたもう一つの拝所があった。積年の祈りが堆積した空間。久々に見た御嶽らしい御嶽だ。資料によれば、この祭場は上下三段に分かれ、上の座が祝女(ノロ)などの神職、中の座が一般の女子、下の座が男子の着座になっているとあった。古琉球の祭祀における地位はここにも反映されているのだ。

祭場正面、手前の拝所


祭場奥の拝所

 

この場で感じる聖性はとても鋭く、尖ったものだった。そのことは、標高百メートルに満たないこの低山を登るときにあらためて思い知らされた。祭場の右手、山頂に続く道を窺う。樹々に遮られてよくわからないがなんとか道はあるので入っていく。右手の樹にロープが結わえつけられ、先に続いている。数十メートルも進むと、すぐに道は岩々の間を縫うようになり、直登を余儀なくされる。持参したトレッキング用の手袋を出す。岩をつかみ、足場を決めながら慎重に登っていく。鎖場には少し心得があるものの、ロープなしではとても登れない。高齢のノロ達は山頂のイビ(神の降臨地)に登ることは無理なので、春秋の例祭である大御願(ウフウガン)の際には、麓の祭場で祭事を執り行い、イビには代参者が登るという。

中腹に差し掛かると、右手上方に岩塊があり、ここにも香炉があった。麓の拝所と山頂のイビの関係は、本宮と奥宮、あるいは里宮と山宮の関係だろうが、ここに拝所がつくられている意味はなんだろうか。中継点として設けたのであれば、ここから上はさらに険しさを増すだろうと思われた。

中腹の拝所

案の定、峻険な岩の間をロープを握りしめ、手繰りながらよじ登ることになる。十分ばかり悪戦苦闘しただろうか、道はさらに狭くなり、頭上に空が顔を出しはじめた。イビは頂上の真下にあった。

イビ(神の顕現する場)


ご覧の通り、イビは大小の岩が折り重なった磐座のような様子で、結構になんらかの人為を感じるのだが穿ち過ぎか。香炉はなく、真ん中にぽっかりと穴が空いている。洞窟だろうか。近寄って穴の中を覗くことはしなかったが、この穴はなんらか意味を持つと思われた。この穴は真東に向かっており、沖縄の他界観から考えるとニライカナイに通じる穴なのかもしれない。この山の東麓には小さな鍾乳洞があって、そこはプトゥキヌイッピャ(解きの岩屋)と呼ばれる拝所となっている。安産、子育ての霊験があるといわれるが、洞窟は死生観を象徴する空間なのだろう。

プトゥキヌイッピャ


さて、クバは沖縄でビロウ(檳榔、蒲葵、百子、古くはアジマサ)のことである。ビロウはヤシ科の常緑樹の高木で10mを超える高さになるものもある。葉は扇状に裂けて広がり、垂れ下がる。九州以南の海の近くに育ち、石灰岩質の土壌を好むというから、この山は生育適地なのだ。

 

上代においては非常に神聖な植物であり、記紀、延喜式、和名抄など古文献にもその名がみえる。大嘗祭で天皇が禊を行う小屋、百子帳の屋根は現在でもビロウによって葺かれているという。クバが扇の原型であることはかねてから指摘されていたが、これを丹念に考証した吉野裕子は、クバに「聖」ならぬ「性」を読み取った。宮崎の青島神社でみたビロウの節くれた幹に男根を直感し、熊野那智大社の扇祭りや、出雲の美保神社の青柴垣神事を訪ね、さらに復帰前の沖縄にわたってフィールドワークを重ねる。そして、御嶽につきものの神木、ビロウ(男根)とイビ(女陰)との関係において、「性」が神まつりの中心にあるということを提示した。

 

専業主婦であった著者の好奇心、執念とも言える探究心には頭が下がる。この書はそんな彼女が齢五十半ばにして世に問うた記念碑的作品で、在野の女性民俗学者ならではの着眼、発想とその行動力に目を見張る。彼女は「扇」を起点に、蛇、陰陽五行へと研究の対象を拡げていく。

 

 「つまり、私見によれば、古代日本人における神の顕現とは、人の生誕と同一原理によるもので、必然的に「性」は祭りの中枢に来る。それは従来の神霊降臨という抽象的な神顕現の考え方に相対するのである。更に性を中枢とする祭りは、結局、蛇信仰に由来する、との考えから、以後、私の関心は日本の蛇信仰に向かったのである」(*1)

 

クバの御嶽で僕が目にしたイビの洞穴、西麓のプトゥキヌイッピャの洞窟は女陰の象徴であり、翻っていうならば生と死の境界ではなかったか。

 
イビのすぐ上は山頂だ。そこは猫の額のような狭さで、おまけに尖った岩だらけだった。どこか賽の河原を思わせる異景だ。眼下には今帰仁城跡の全景がジオラマのように見える。その先には東シナ海が茫洋と広がっていた。

 

(2020年12月12日)

 

参考

湧上元雄・大城秀子「沖縄の聖地 -拝所と御願-」むぎ社 2007年

今帰仁村教育委員会「今帰仁村の文化財」今帰仁村歴史文化センター 2017年 

出典

*1 吉野裕子「扇 -性と古代信仰-」人文書院 1996年