最近、息子のイヤイヤを分析してみるとこんな感じです。


欲しいものが手に入らないと怒る。
待つことができなくて怒る。



5歳児ってこんなですか?


上の娘が、年長の頃はこんなではなかったと思うんですよ。


まぁ、成長には個人差がありますし。
子どもって思い通りにならないと気がすまない生き物なんでしょうね。


成長と共に「思い通りにならないこともある」ことがわかってくれればいいのですが。
それってどうやって覚えていくのでしょうか。


いろんな経験や生活の中から自然に教えられることもあるし、
親が教えなければならないこともあると思います。


集団生活で友達との関係から我慢を学ぶ機会は多いと思いますが、
それだけでは足りないだろうと、最近特に思うのです。


では、どうやって親が、我慢を教えればいいのでしょう。



頭ごなしに叱って我慢させていることが最近多かったので、
それでは子どもはストレスを溜め込む一方になり、かえって逆効果かなと思いました。



「お菓子を買いたい」と言った時、「ダメ」だけでは子どもは納得しません。


「昨日も買ったから毎日はダメ」とか、我慢しなくてはいけない理由を伝えることも必要なんですね。


とは言っても子どもが納得する理由なんて、あまりないとは思いますが。



頭ごなしに「ダメ」という言うだけよりは、今の状況を理解させることで、我慢を無理強いするのではなく、積極的な我慢の気持ちが生まれてくると思うのです。


子どもの「嫌だ」「嫌だ」に、私がイライラしてしまっては、子どもの我慢を育てることなんて出来ませんね。



私がどんなに叱っても、萎縮することなく、
自分の感情を思いっきりぶつけてくる息子に感謝です。


一呼吸おいて、ゆっくり子どもと向き合っていけたらいいなと最近、思っています。

最近、子どもが親に対して不平不満を言うようになりました。
これから成長と共にどんどん親への不満も募っていくのだろうと思います。


私は子どもの頃、早く大人になって自由になりたいと思ったものです。
そういう思いがあって、頑張ってきたように思います。


最近の我が子は、不平不満のかたまりです。

不満を抱えたまま親に頼り、いつも親に不満を解消してもらっていては自立できない大人になってしまうでしょう。


全て親が解消してしたのでは依存心ばかりが育ってしまうのではないでしょうか。


私自身、子ども時代に満たされない気持ちが多かったから、ついつい子どもには甘い態度をとってしまいます。
でもそれだと子どもは成長しないですよね。



不満そのものは悪いものではなく、自分にとって意味のあるものだと思うのです。
なので、不満を排除する必要はないと思います。
不満を排除するなんて到底できないでしょうから。

 


相手に何かを求める依存心も時には必要です。
でも依存と自立のバランスは大事。

依存心が大きいと自ずと不満が生じてくるものです。 



自分が抱える不満なのに、その解決を相手に求めてしまうことがあると思います。


不満を抱えたまま我慢するのも良くないです。
だからと言って不満を態度に表すのではなく、不満に対する考え方を変えていけると良いと思います。


やはり、不満を抱える原因は自分の中にあるのだという所にたどり着きます。



「あれも嫌だ」

「これも嫌だ」

「ぜーんぶ嫌だ」

息子の攻撃にはマイッテます。

先日、久々に子どもたちとドッチボールをして遊びました。


私は嫌で仕方がなかったのですが、子どもたちは何度もボールを拾っては投げてと夢中です。
いつまでも飽きない様子の子ども達。

ボールに当たったら、交代するというルールがあるのですが、都合のいいように自分たちで変えていきます。
納得できても出来なくても、自分達の好きなように進めていってお姉ちゃんの都合のいいルールに始終笑顔で従う息子。
でも、とっても楽しそうです。



息子の同級生にどうしても集団遊びが苦手な子が居ます。
皆でボール遊びをしようと声をかけても、絶対に入りません。

その子のお母さんが言うには、「○○君とは気が合わないみたいなの」

お母さんの解釈によると、気の合わないお友達が多いようです。



私たち親にはわからない、子どもの世界がそこにはあるのです。
遊んでいる子ども同士でルールも変わっていくでしょう。
わがままや自己主張することもあります。
お友達に嫌な思いをさせたり、させられたりとトラブルがあってこそ子どもは成長していくものだと思います。



仲良く遊んでいることだけが、子どもにとっていいこととは言えないのです。


私も、もっともっと子どもたちと一緒に遊ばなければと反省しました。


子どもは「生まれる」のではなく「産む」というのが普通の考え方なのでしょうか。
これに関しては賛否あるようですが、親の側から見た論ではなく、生まれた子どもの立場から考えるコトのほうが私にとっては重要なのです。
生まれてきたことの意味を追求することは、私が子育てをしていくうえで避けることのできないポイントなのです。



私には、両親が仲良くしていた記憶がありません。

父親については、悪口しか聞いたことがなかったので、母と父に愛し合った時代があったなんてことは子どもの頃の私には想像も出来ませんでした。



そして母は、私たち子どもへの愛情をこんな言葉で表現しました。

「あなた達のために苦労して頑張っている」
「再婚もしないのはあなた達のため」


周囲の大人も私に言いました。
「お母さんは一人でたいへんだから、お姉ちゃんがしっかりしないとね」


そんな母の生き方を見て、自分の存在が母の幸せを奪っているのだと私は考えるようになったのです。
母は私の犠牲になっているのだから、私は幸せになることを望んではいけない。
自分の欲求は全て我慢しなくてはならないのだと思い込んでいたのです。


自分が親になって思うのですが、子どもにそんな風に思わせてはいけません。

親は親のしたいように人生を歩んでいる姿を子どもに見せてやることが望ましいと思うのです。


私のように自分の楽しみを否定して育ってしまうと、自信が持てない人間になってしまいます。

自信を育てるということは、子どもらしい感情を持って子ども時代を過ごさなければならないと思うのです。

再婚したければして欲しかったです。
再婚しないコトを子どものせいにしないで欲しかった。

母は私たちのために父と別れたというようなコトを言ってました。
それは事実でしょうけれど、もし説明するのならば、
「母自身のために」
「母の意志で離婚した」
と説明するべきだったと思います。


父親の悪口を言うのもいいでしょう。
けれど、もし言うのならば、
悪口を言った分、愛していた時代があったことも話すべきでした。

そんな時代が存在しないのであれば、父親の悪口なんて言ってはいけないと思うのです。


母親が父親を否定するという事は、子どもが生まれてきた事の意味を否定するのと同じです。


子どものために人生を犠牲にしてきた、と言う人は多いです。
その気持ちは子どもへの愛情表現なのだと思います。そう信じたいです。

そうでなければ、自分の人生に自信がなくて子どもを理由づけして生きていこうとする証なのかもしれません。

自分の人生や生き方に自信を持てない人は案外多いのかもしれませんね。

そんな人たちが「子どものため」を支えに生きていこうとする。

その気持ちや考え方は間違いではありません。



けれど、その気持ちを子どもに伝える時は慎重にしなければならないと思うのです。



子どもを愛するがゆえ、間違った愛情表現をしてはいないだろうか。

子どもにはいつも自信たっぷりの笑顔でいてほしいと願います。


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久しぶりの更新になります。

こんな感じで今後も、のんびりペースで更新していきますので、気長にお付き合いくださいm(._.)m


さて、前回の続きとなりますが。

前回は子どもが生まれてから、子育てに自信が持てないというお話でした。

今回は子どもと出会うずっと前から、自信がなかったという私のお話です。

私の場合は、「子育て」にというより、「親になること」に自信が持てませんでした。



本当に自分は子どもが欲しいのだろうか。
曖昧な気持ちでは産んではいけないように思っていたのです。



結婚してから、周囲の期待に応えなければという思いで出産を迎えました。
なかなか子どもができなかったので、子どもが欲しいという思いは一層強かったです。
周囲の温かい声に励まされたり、時にはプレッシャーになったりもしました。


そんな中で、私は本当に【自分の意思で】子どもを産みたいのだろうかと考える暇も余裕もなかったように思います。


「子どもを産みたくて産む」のだという気持ちをしっかりと持ちたかったのです。



私は子どもの頃、自分の存在が母にとって邪魔なのではないかと、心のどこかで思ってました。
本当に望まれて生まれてきたのかと疑問に思ったときもありました。


そんな思いを抱えていた私は大人になりきれなかったのかもしれません。


だから、本心から子どもを必要として、親になる自信がなければ子どもを産んではいけないと思っていたのです。
子どもには、「待ち望んであなたは生まれてきたのよ」と言いたいです。

子ども心に、そんな感情を味わった覚えが私にはありませんでしたから。



「親になる自信が持てない」という言葉の意味は、言い換えれば私にとって、
「自分という存在に自信がもてない」ということになるでしょうか。




先日、母の日にカーネーションを持って実家へ行きました。
すると母は、子どもたちにお菓子をたくさん買っており、私には洋服を買ってくれていました。

母の日に私が会いに来てくれると思って準備していたのです。


年金暮らしで生活に余裕があるわけでもないだろうに、そう思うと母の気持ちがありがたかった。

私は親孝行できているのだろうか。

寂しい思いをさせているのだろうか。

最近、そんなことを考えるようになりました。


母にとって私はかけがえのない大切な存在です。
私の存在そのものが母の心の支えとなっているのです。

必要とされているというその思いは、私の親としての自信へと繋がるのです。



すくすくと成長して毎日笑顔を絶やさない子どもたちに感謝です。


泣き顔を見せてくれる我が子に、安心します。
子どもは、親の前で泣き虫&わがままなくらいが、ちょうどいいと思えるようになったのは、きっと母のお陰です。


母と今度会うときは、『ありがとう』って素直に言おうと思います。

阿蘇石.jpg


「子育てに自信が持てません」という言葉をよく見かけます。
それに対して、否定的なアドバイスが多く聞かれますが、自信を持って子育てをしなくてはいけないような気がするのは私だけでしょうか。


「自信が持てない」と言っても人それぞれのニュアンスがあると思いますが、私が思いつくものを3つほどあげてみたいと思います。


私も子どもを生んだ時から、自信がありませんでした。
もちろん今もですけど。



まず1つ目、

子育てに対する対処方法の問題に不安を感じている場合。


例えば、夜泣きはどうするか、トイレトレの方法、叱り方、おこづかいの与え方などなど。
具体的な対応方法について「これで良いのか」と悩み、不安を感じて自信が持てないと言うのではないでしょうか。



次に2つ目、

子どもを好きになれない、愛せない、という思いがあり自分を責めてしまう場合。


私たちは、子どもを産んで当たり前、育てて当たり前だと思っています。
なので子どもを産んだら、子どもを可愛いと思って当たり前だと思い込んでいるのではないでしょうか。
しかし、実際子どもなんて、24時間いつだって無条件に可愛いと思えるものではありません。
憎らしい時もあるでしょうし、むしろそっちのほうが多いかも・・です。
気持ちに余裕がある時は、可愛くてしかたがありません。
でも余裕がなければ、そうは思えません。
この感情は一時的な感情の場合が多いと思いますので、多くの人に起こりうることではないでしょうか。


「子どもを好きになれない」という人でも、決して自分を責めないで欲しい。


子どもが憎らしいと思う。
子どもの声にイライラする。
感情的になって怒鳴ってしまう。(叩いてしまう。)


そんな風なことで悩んでいる人には、「それはいけません」とは思えないのです。
母親自身が子どもの頃に、親に対して寂しい思いをしたり憎らしいと思ったりしたことがあったのかもしれません。
自分が子どもの頃に叱られていたことと、同じことをしようとする我が子に対して許せないという思いが心のどこかでありませんか?

親に叩かれたり怒鳴られたりした理由に納得できてない場合、我が子に同じ場面で同じ対応をしてしまうような気がします。


でも、だからと言って、このような問題が、母子関係だけの影響ではないと思います。
親子関係が全ての問題の根本ではないでしょう。


イライラの原因はどこにあるのでしょうか。
幼い命にイライラをぶつける前に、自分の育ってきた環境を振り返ることで、自分を責める育児をしてしまう母親たちが、何に追い詰められてきたのか見出せたらよいと思います。



子育てに自信が持てないのは当たり前だと、私は思うのです。
それよりも、その事を堂々と言えることのほうが素晴らしいと思います。



【長くなりましたので三つ目の、産む前から「こんな自分が親になる自信がない」的なお話は、次回です】

夕焼け


「~して欲しい」と、他人に対して要求ばかりしてしまう。
周囲の状況に納得できずに不平不満ばかりを募らせてしまう。
大人になりきれず自己中心的な考え方をする人が最近多いのだそうです。



確かに、私もその一人だわ!!!
そして私の母もそうです。


「~して欲しい」と他人へ要求する考え方は、満たされない気持ちの表われなのですね。
ですから気持ちを満たすために自己中心的な考えになります。


これは、幼児期の親子関係が深く関わってくると思うのです。
親が子どもに関心を持っているという事は、子どもにとっては安心できます。

自分の存在価値を認識できる子は気持ちも安定しています。

なので自分よりも他人へt関心を向けることができると思います。


幼い頃に、わがままを言ったり甘えるとか、怒りの感情や悲しみを親に受け止めてもらうこと。
生活の基本的な環境を整えてもらうこと。


それらを充分にさせてもらえず、子供らしさを出せずに大人になった場合、大人に保護してもらうことを諦め、自分で自分を守ろうとしてしまいます。


なので、他人の気持ちを考えるより先に自分の感情を優先する思考になり、常に関心が自分にあります。



自己主張をわがままとして聞き入れなかったり。
すぐに泣いてしまう子を「泣き虫」だと決め付けて泣かせないようにしたり。
怒りの感情を抑えきれずにお友達を叩いてしまう子を頭ごなしに叱ったり。



それら全てを正しい方向へと導いてやることも必要ではありますが、その前に子どもの感情を受け止めてあげることが何よりも大切だと思うのです。



友達とのトラブルが多く、乱暴で悪ガキと言われる子どものほうが、感情のコントロールが効く立派な大人になるように思います。


逆に感情をあまり出さない「いい子」は、喜怒哀楽の感情を受け止めてもう機会が少なかった可能性があります。

私も母も少なからず、このような幼少時代が影響しているような気がします。



若い頃の私は、今よりも自己中心的な考え方で不平不満が多かったです。
でも就職して友人との時間を大切にして、結婚して家族との出会いが私を変えてくれました。


自分がして欲しいことを望む前に、相手は何を望んでいるのかを考えるようになりました。
相手の要求に応えることが、私自身の喜びに繋がるのです。


自分を犠牲にするのではなく、誰かのために~をしたいからする・・・・


そういう思考は、物事をプラスの方向へと導いていきます。


今でも他人に~して欲しいとの要求を強く抱くことがありますが、そういう自分のマイナス思考を除去する努力をするのではなく、プラス思考を取り入れるように心がけたいと思います。


自分の悪いクセというのは、簡単には直せないと思うからです。


悪いクセとうまく付き合っていくためには、それを打ち消すチカラを取り入れるしかないと思うのです。


相手が自分の事を理解してくれないという前に、自分は相手を理解しているか。
自分が納得できないという前に、相手は納得しているのか。


自己中心的な考え方では何も生まれないのです。
いい流れを作り出すためには、ブラス思考で動き出すことが必要なのだと思いました。



このような想いを、文章にすることで自分自身が癒されるのです。

落ち着いて考えることも出来ます。

読んでくださる方がいらっしゃるお陰でみなさまから自分育ちの機会を与えられたように思います。
こうして気持ちを落ち着かせることができるのも皆様のお陰。
読んでくださってありがとうございます。

阿蘇火口3.jpg


「子どもの日」にちなんで、「子ども」探しをしてみたいと思います。


いじめが原因とされる自殺や、トラブルが原因で若い命が失われていく現代。

胸が痛くなります。


「いじめ」や「子ども同士のトラブル」を分析したり、調べたりしていても何も変わらないのですね。

ただ、親として。

一人の大人として。

「子ども」を探していくことが必要なのだと思う。


子どもの存在そのもの。

子どもらしい時間。

子どもの居場所。


それらがない子どもたちは、自分を大切にすることができるのでしょうか。

自分で自分の存在を尊いと思えるのでしょうか。


私たち大人や社会は、「子どもを大切にしている」と思っています。

そう思っていると、ますます子どもは発見できなくなります。




登校拒否をした子どもは、今度は親と闘わなくてはなりません。



大切にされない子どもは、自分の命を大切にできないという事だと思う。


私が見ている子どもは、本当に子どもなのでしょうか。

「子ども」を見失わないようにしていきたいと思います。



わらびしんりょく


今日は家族でバーベキューに行ってきました。

穏やかな陽気につつまれて気持ちよかったです。


陽光に照らされて輝く新緑はまぶしいくらいに素晴らしく美しかった。


大自然の中での食事は美味しく最高!!

空気も美味しい。


でも、トイレがなかったので、、、アセアセあせる


緑を見てると癒されてほっとできるんですよ。


ゼンマイとワラビもたくさん採りました。


わらび4


【ワラビその①】

ワラビの生え始めはこんな感じ・・・・

コレは若いので採りません


ぜんまい5


【ワラビその②】

このくらい大きくなったモノを採ります。



わらび1


【ゼンマイ その1】

コレがゼンマイなのですが、私はゼンマイとワラビの違いを教えてもらって知りました。

ゼンマイもワラビもスーパーでパックになってるものしか見たことありませんでした。

こんな風に生えているんですね。

感動です。




ぜんまい4


【わらび その3】

葉が開き切ってしまうと食べられないそうです。

突然ですが umeさんのブログ


「ありのままの子供を受け入れる事がどうして出来ないのでしょう?」まあやさん からのコメントより)


という記事がありましたので私もそれについての個人的考えを書いてみたいと思います。



umeさんは受け入れられない理由の一つとして、


自分(母親)が自分のありのままの姿を
受け入れることができていないからではないかと・・・。


と言われてます。


自分(母親)が自分自信を受け入れることができれば、子どもを受け入れられるのでは?
ということです。
その為にも母親の気持ちが満たされていることが大事なんですね。


この考えには私も同感です。



けれども私はそこからさらに、深く突っ込んで考えてみました。

というのは、どうしてもそう簡単には自分自身を受け入れられないと感じるのです。


それはおそらく私自身の子ども時代の親との関わり方が深く影響しているのだと思うのです。



私は小学校1年生の時、学童の帰りに妹を保育園に迎えに行き二人で帰っていました。
毎日ではなかったので時には忘れて下校したこともあり、誰も居ない家に着いて思い出し、そこからまた保育園に迎えに行ったこともありました。
家の鍵は首からさげていたんですが、プールの時間に外してそのまま学校に忘れたこともあり、とりに戻ったりもよくあったように思います。


妹とはよくケンカしました。
けれどいつも「お姉ちゃんなんだから・・」と母に叱られました。
私から見た妹はかんしゃくもちで、わがまま。
日曜日はそんな妹の子守をしなければならなかった。
妹の存在がイヤで仕方がなかった。



母は幼い子を抱えながら仕事と家庭の両立でイッパイイッパイだった。


私はいい子でいることを強いられ、母に受け入れてもらえるように頑張った。


感情を抑えることがいつの間にか身についてしまい、自分の欲求は受け入れられないものと、諦めてしまったのかもしれない。



そして今、母となり子どもたちと接していると、時々過干渉になりヒステリックに感情が爆発してしまうことがあります。


「どうしてこれくらいの事で弱音を吐くの」
「何故、そんなにわがままを言うの」
「そんなに弱虫でわがままを言っていたらろくな大人にならないわよ」


それは私自身が子ども時代に、わがままを言えず弱音を吐けなかったから・・
きっと、そんな子どもたちが受け入れなれないのだと思います。



私が感情的になるときは、ある法則があります。


それは決まって、子どもの将来を悲観する考えに陥ったときです。


そして子どもに怒鳴ってしまうセリフは、私が幼い頃、母に言われた嫌なセリフ・・・


自分が言われてイヤだったコトは、子どもには言わないようにしているのに、どうしても次から次へと出てしまう。

それは、過去の自分を我が子の中に見てしまうのではないでしょうか。


私は寂しい子ども時代を過ごしてきました。
辛いことも親には言えず、愚痴や弱音を母には聞いてもらえませんでした。
学童の先生が話しを聞いてくれたことが唯一の逃げ場でした。

だから本当は、子どもが弱音を吐いたり悲しい顔をしているのを見ると、無条件で受け入れてあげたいのです。
悲しみを受け止めて子どもの全てを包み込んであげたいのです。
なのに、そうしてもらえなかった自分の過去の経験が邪魔をして、このままだと弱い子に育ってしまうのでは・・?という気持ちがあります。
まずは自分の子ども時代を断ち切らなければ私はこのジレンマから逃れなれない。

私は自分の「子ども時代」と断ち切るために、意識的に「ありのままの子どもを受け入れる」ことをしています。
お友達と仲良くできる子がいい子だと思わない。
親の言うことを素直に聞ける子が決していい子ではない。
泣き虫でもいい、子ども時代に子どもらしく成長できることが最優先だと自分に言い聞かせています。


いつの日か、我が子に過去の自分の姿と重ね合わせることなく、別の人間として尊重できる日がくることを心から願っています。
それができた時が、本当の意味での
「ありのままの子どもを受け入れる」ことができた時だと思うのです。