今年4月の診療報酬改定で、医療保険で受けられるリハビリ治療に日数上限が設けられた。


リハビリが、発症から最長180日で打ち切られるというもの。


これでは「寝たきり」の人などが増えてしまうのではないかと考えてしまう。


(1)脳血管疾患など 180日
(2)運動器      150日
(3)呼吸器       90日
(4)心大血管疾患  150日


と、このように上限がある。


4月1日から数えるので、呼吸器は7月から受けられないことになってしまう。
☆失語症など厚生省が定めた病気と、医師が回復の見込みがあると判断した場合は除かれる。


確かに、リハビリは効果が明確でない場合があるため、その診療報酬を節約しようという動きは納得できる部分もある。


が、しかし。

リハビリは、タイミングと期間が重要なのだから、回復のチャンスを奪われる可能性もあるでしょう。



もう一度検討してほしいと願いを込めて

リハビリテーション医療の打ち切りに反対する署名活動
に賛同したいと思います。




多田富雄氏が『リハビリ中止は死の宣告』という中で書かれている


http://my.reset.jp/~comcom/shinryo/tada.htm


私と同棟に180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。

 そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。今回の改定は、「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである。


生きるために頑張ろうとしている人間にどうして国はこんな仕打ちをするのだろうか。


「継続的にリハビリを行うことにより回復の可能性があるものは、上限の適用除外」とされるらしいが、
ただでさえ、病人は生きることに不安を抱えているのに、
現状では期日以降もリハビリを受けられるか保証されておらず、不安を募らせている人も多いのではないか。



今回の改定は、4月1日から数えるというものです。


ところが、医療機関への通知が年度末ギリギリだったコトと、

「数え始めは発症日から」という謝った説明もしくは解釈がなされたため現場は混乱している。


そのためか。


現時点でリハビリを打ち切られた患者もいるらしい。


診療報酬改定によって点数が最大3.16%引き下げられたことも少なからず影響しているのではないだろうか。


http://www.uedacpa.com/clinicnews/051220.html
http://www.meinan.net/column/col_one/2006_01_20.htm


医療に関わる大事な問題が、このように決められてしまうコトは恐ろしいと思う。


必要な医療が受けられる社会になってほしいと願います。

ひとつ前の記事「傷ついた子ども時代を受け入れること」から関連した内容になります。


というのは。


ゆうこさんから
「コメント欄に書くには長くなりましたので」
とのメールを頂きました。
とても素敵な内容でしたので、許可を頂いたうえで記事にさせて頂きます。



ゆうこさんご自身も、私と同様に子ども時代に家庭環境によって心の傷を負っていたようなのです。

過剰な期待や他人と比べられることで精神的に傷ついてきたのでしょう。


私としては、親と子の関係で、適度な距離を保ちつつ愛すること。
それによって、子どもは一人の人間として尊厳されるのだと思います。



なので。


私の場合は、母親に私物化されたように呑み込まれ、母の価値観に値しなければ突き放されてきたため、
一人の人間として尊重されなかったと感じているのです。


周囲に気を遣いすぎて無感情になったり。
何をするにしても理由付けを必要とし、
~~~だから、~~~するべき。
という方程式に当てはめないと気がすみません。



繰り返し非難され続けたことによって、自尊心を傷つけられてきたので、自己評価が低いのだと思います。

だからなのか、「母親はこうあるべだ」という考えが頭からはなれず、自己否定してしまう癖があります。
他人に認められないと不安になり、自分は価値のない人間のように思えてなりません。
すなわち、常に他人の視線が気になり、他人にどう思われているかが気がかりなのです。


さて。
ゆうこさんのメールによると、ゆうこさんも似たような境遇でありながら、
きちんと、自分自身が傷ついた経緯と向き合ってこられました。


何に対して傷ついたのか。
そして、どうして欲しかったのか。


ご自身の中でよく整理したうえで、お母様と話し合われて解決へと導いていかれたのです。
容易に出来ることでありません。
たくさんの時間と努力と苦労を重ねて得た結果だと思います。
自分自身が「癒される」も「苦しむ」も自分次第なんですね。



私は、自尊心を傷つけられて、自信を持てない自分が居ます。
それでもいいじゃない?
だって、そういう家庭環境で育ってしまったために、私にはそこの部分が育たなかったのですから。
たまたま、自分にはそういう所が育たずに大人になっただけ・・・
こんな風に、今の虚しい気持ちを認めることが必要だと思う。
親のせいにしたっていいと思う。


しかし、過去にぶら下がっているだけでは過去に引きずられ前へは進めません。
ここで止まっていてはいけないのだと思う。

過去を認めたうえで、
こんな自分でも、必要としてくれる人が必ずいると自覚することです。
他人の視線が気になり生きづらさを感じているけれども、これは言い換えれば他人の気持ちに敏感だということにもなります。
少々無理があるかもしれませんが、自分の生きづらさをプラスに変えていくことで、自分を変えることができると思うのです。

今の自分を変えることで、過去を変えることに繋がればいいと思う。


ゆうこさんのように強く前向きな生き方は、私への何よりのエールとなりました。
ありがとう。

「満たされない気持ち」 という記事にコメントいただいていたのですが、気がつかなくてごめんなさい。
もう1ヶ月以上もたってしまいました。

こんなに内容の濃い素敵なコメントを放置してしまって、本当に申し訳なかったと思います。

それなのに何も言わずに普通にお付き合いくださってありがとうございます。

今回は、コメントを読んでの感想と私の想いを記事にしますので、

よかったらそちらのコメントからお読み下さい。

 


私は大人になって、

初めて親のあり方を考えました。


そして人の親になったとき、
初めて自分の育てられ方を振り返りました。


多くの傷を背負ってきたことを実感しました。


私の母は間違った愛情表現をしてきたのだと気づきました。



母もまた、親の都合の良い愛され方をし、子ども時代に傷ついてきたのです。

「親の言いなり」の人生だったと思います。


そんな母は、母なりに精一杯の愛情を注いでくれました。

母には感謝しなければならないと思ってます。



母は女手ひとつで、私たち二人の姉妹を育ててきたのですから、たいへんな苦労があったと思います。
そんな母に感謝することができなくて、ずっと苦しい思いをしてきました。


今でも本当に心の底から純粋な気持ちで感謝できるかと問われれば自信がありません。


けれど。

親に対する感謝の気持ちと、自分が背負ってきた傷とは、切り離して考えるべきなんですね。


そんな風に、親との関わりで子ども時代に自分が傷ついてきたことを認めれば、少しずつその苦しみから解放されます。


孤独感、不安感はいったいどこからきているのだろうか。
自信がもてないのはどうしてなのか。


子どもの頃に得られなかった「何か」を今、自分で埋めていくしか方法がありません。


親の愛を十分に実感できていれば、自信に満ちあふれた人生をあゆむことができたのではないでしょうか。


人間の根底にある大切なもの、それは喜怒哀楽の感情です。
それらの感情を受け止めることができるのは親です。


私のこれまでの人生が、そのことに気づかせてくれたのだと思います。


傷つき苦しみの原因さえも、生きるパワーの源になるのだと思えれば、私は自分の過去に誇りをもつことができます。


一つひとつ過去を整理して、自分で受け入れることが大事であり、未来へのステップへと繋がるのだと思います。


自信に満ちあふれた人生をあゆみたいです。


子どもに叱りすぎてしまったなと思うコトがよくあります。

叱り方は一環していなければならないと、言う人がいます。


いつもはダメなのに、今日はいいとか。
またその逆。
親の気分次第で、叱ったり黙認するコトはいけないのだと言います。


確かにその通りだと思うし、私もなるべるその日の気分によって態度を変えるのはやめようと思う。
けれど、やっぱりその日の状況や、私の精神状態によっては、いつもと同じというわけにはいかない時があります。


なぜこんなに怒ってしまったのだろうか・・・・と後悔の繰り返しです。


後悔や反省は、親自身の自己満足だと思うんです。


寝顔を見てどんなに反省しても、それは子どもには伝わらない。





失敗を繰り返してしまうから、なるべく後悔や反省の気持ちを子どもに伝えるように心がけています。




親なら誰だって子どもを愛しているに決まっている。

それは分かるんだけど、それでも子どもはきつく叱られたりすると、不安になると思うのです。


私は子どもの時に、母に愛されていると感じることができませんでした。

だからいつも不安で、母の要求するいい子を一生懸命に演じてきました。

褒められた記憶はほとんどありません。

何も言わない時が、母が私を受け入れてくれた時だと思っていました。



子ども時代は、愛情を実感できなくて不安でした。

そして今は、愛を伝えられないことが不安です。



だからこそ。
気持ちを素直に言葉にして子どもに伝えたいのです。


「いい過ぎたね」


「ごめんね」


「疲れてたから、ついつい怒っちゃったよ」


「本当は大好きなんだよ」


親だって、間違えるコトはあるというコトを子どもに教えたいと思うし、間違えたときは謝る姿を見せるのは何よりの教育だと思ってます。

親の威厳が云々という人がいるかもしれません。

けれど、何も取り繕う必要なんてないと思うんです。

親だって一人の人間。

そして子どもを、一人の人間として尊厳し、気持ちを伝えることは悪い事ではないはず。


言う事を聞かないからと言って、次はもっと厳しく叱らなければと思い、エスカレートしていけば返って逆効果なのです。

なので、たとえ謝らなくても、反省したり後悔したりする「気持ち」はとっても大事なコトだと思います。

それは親として成長していく過程のひとつだと思うので、
その気持ちがあれば、何かを感じて立ち止まり、自身を振り返るチャンスがあるのですから、きっと次に活かせます。


後悔したことで、叱りすぎたことが帳消しになるわけではありません。

それだけで終わってしまえば、それこそ親の自己満足に過ぎません。


親の不安な気持ちを必ず子どもは、感じ取ってしまうから。
叱りすぎたなと思った時は、ギュっと抱きしめてあげたら私も落ち着くし子どもも安心できると思います。

「アダルトチルドレン」という言葉は好きじゃないけれど、
その関連の書物やサイトを見ていると、
やはり自分自身もそうなのだと再認識してしまう。

アダルトチルドレン。
そのまま読むと、「大人子ども」
だけどそうではなくて、
子どもらしい子ども時代を過ごせずに、大人になった人。

子どもは、本来、何にでも興味を持ち挑戦しようとする心を持っています。
意欲的で行動的です。
しかし、大人の規制によって学習し「自分でやりたい」「手にとって触ってみたい」という気持ちを抑えるようになります。


つい先日、息子がコップにお茶を注いでいたとき、こぼしてしまいました。
私は、とっさに怒ってしまいました。
なんで怒ったんだろ・・・
こんなコトで怒ってしまうなんで母親失格だわ。

子どものヤル気を喪失させてしまうじゃない?

子どもの失敗を叱る母親なんて最低。


ここでの私の思考は、こうです。
うまく出来たとき褒めるというのは、「褒めて育てる」という観点からすると一見、良いことのように思いますが、
親の都合の良い条件を満たした時に「褒める」ことになります。

そうなると、子どもは自然に、親の期待に応えようと「褒められること」をして受け入れてもらおうとするのではないでしょうか。


このように条件付きでしか、自分を受け入れてもらえないと思い込んでしまった場合、
子どもは感情を抑えてしまう可能性があります。

そして、失敗をしてはいけないと思い込んでしまう可能性もあり、自信喪失へと繋がります。

子どもの失敗を怒ってはいけませんね。
本当にそう思います。

そして、今日。
また息子は自分でお茶を注いでいました。
やっぱり、こぼしてしまい私に叱られると思ったのか、泣いていました。
今日は、怒らずに「拭けばいいんだよ」と言えました。

自分で注ごうとしたコトを褒めてあげれば、もっと良かったかも。


子ども時代に、子どもらしい感情を親に受け止めてもらえなければ、
自己愛に乏しく、情緒不安定な大人になります。


親は子どもを愛しているつもりでも、その愛情は子どもに伝わってない場合があります。
子どもは不安感を募らせています。
親の都合のいいように愛してしまうと、子どもは親に合わせようとします。

私はそういう子ども時代を過ごしてきました。

アダルトチルドレンであると自覚したとき、私はとっても楽になりました。
子育ても何かの方程式にあてはめてそれに従わないと不安でなりません。


自分に自信が持てないのは育ってきた環境が影響しているのです。

自分のせいではないのです。
そのコトを認めて自覚すればきっといい方向へと進めると思います。


ちょっと気になる映画。

「バッシング」


イラク戦争での拘束事件をヒントにした作品だそうです。



当時、なぜあんな激しい「自己責任」を問うバッシング報道がされたのかと考えさせられる。



映画監督は、「描きたかったのは『なぜ、自分は何もしていないのに非難されなければならないのか』という主人公の内面と、弱いものを叩くという、日本全体が病んでいるこの社会―――。」 
と言っておられます。(映画「バッシング」上映会・小林政広監督講演会


「自己責任問題」が一人歩きしすぎたのではないかと思う。


いつの間にか、すっかり収束してしまい何事もなかったかのような現状にこの映画は何かを訴えているのでしょうか。



権力のある人が発する言葉の重み。


テレビや報道って、とても人が信じやすいものだから、情報はそんな風に世の中に流れていくものが大半じゃないかな。


どんなに偉い人の言葉でも、

例えニュースであっても、

少しは疑ってみたほうがいいのかな。



様々な情報が流れる中で、

本当に信じていいものか、

一つひとつ考える必要があるのでしょうね。



全ての情報を鵜呑みにしていては、

思考がパンクしてしまうと思うんです。



自分で情報を選択することが大事なんですね。



それが自分に責任を持つということや、

周りにも責任を持つことになるんじゃないかと思う。


そうすれば、

あんなバッシング報道に惑わされることもなかったかもしれない。


「子どものやる気を引き出す」
という記事にメアリーさんからいただいたコメントを読んで、返信というわけではありませんが、
私も同じように考えたり心配したこともあったので、それに関連したことを書きたいと思います。



息子が穏やかな性格だった頃は、それはそれで心配でした。

でも、
保育園で男の子と遊ぶようになってからは、お友達に負けず喧嘩もたくさんするようになりました。
特に自分が気に入って使っているモノを横取りされそうになった時は、とても攻撃的になるそうです。
園の子はみんな逞しいですから、取り合いも強烈です。




私の過去記事で
『友達とのトラブルが多く、乱暴で悪ガキと言われる子どものほうが、感情のコントロールが効く立派な大人になるように思います。
逆に感情をあまり出さない「いい子」は、喜怒哀楽の感情を受け止めてもう機会が少なかった可能性があります。』


と書いたコトがありましたが、それにつて…


いったい、何に対して腹が立ち怒りの感情が生まれるのかを体験することも成長過程のひとつだと思うのです。

感情の抑制が効かなくなり、全く別の方向へと感情をぶつけてしまった結果、人を凶器で傷つけたりという悲惨な事件に繋がることもあります。

感情を抑える訓練も必要かもしれませんが、そんな感情を抱いた自分を受け入れることも大事だと思うのです。
そして「怒り」などの矛先を見失わないことです。


私が今、息子にしてあげられるコトは、

そのような感情を向きだしにした息子に対して、
怒ることはいけないコトだと教えるのではなく、

息子の感情を受け止めてあげるコトかなと思います。


乱暴な行動が多い息子のコトで悩んでいた時にこんな風に考えたら、気持ちが楽になりました。


なので「乱暴で悪ガキ」ではないからと言って、心配しないでくださいね。


集団の中では、争いごとを見て、学ぶ事もあると思います。
体験するだけが得ることとは限りません。





上の娘が3歳で幼稚園に入園した時、自宅ではすぐに泣くし、わがまま放題でした。
きっと園でも、泣いてばかりで先生の言う事なんて聞かずに、困らせているのだろうと思ったら、

園ではとてもお行儀よく、いい子だったのです。


そんな娘に頭をかかえていた私に、

家庭が心のより所になってる証拠だよ。

と言ってくれた人がいました。


なるほど…


確かに、弱い部分をさらけだせる家庭のほうがいいですね。


外で頑張って、

家でも頑張って、
いつでもどこでも「いい子」をしていたら、
いつか子どもは潰れてしまいます。


最近では、家で「いい子」を演じて、
学校や園でストレスを発散させようとする子が増えているとも聞きますので、
母親の前だけにみせる子どもの感情があってもいいのかなぁと考えるようになりました。


そう思うと、時々みせる息子のかんしゃくでも、

私の前でしかやらないなぁ

と冷静に考えることができるようになり、
そんな息子が愛おしいとさえ思えるのです。


家の中ではわがままを言い、外ではけんかをせず穏やかにしているという息子さん。


息子さん的には、そうすることでバランスが保てているのかなと思います。



必ず、~~しなければ、~~できない子になる、という誰にでもあてはまる方程式はないと思うんですよ。
確かにトラブルを多く経験している子は、トラブルの対処法を身につけるでしょうけれど、そうではない子もいます。
それぞれの子どもに合った成長過程がきっとあるのだと思います。


私自身、穏やかな子でも攻撃的な子でも心配です。
幼稚園でおりこうさんだと言われても安心できずに心配事は尽きません。

では、私はどんな子どもなら安心できるのか…


お友達をたくさん作ることができて。
適度に喧嘩して。
女の子にも優しく。
男の子とも逞しく遊べる。
学校(園)でも、家でも、態度を変えることなく、適度に揉め事をしていろんな経験を積んでいく子ども。


もし、そんな子どもに育って欲しいと願っているのなら、それは「理想」なんですね。
理想通りの子どもなんて実際に存在したら、子どもらしくないですよね。


子どもらしい子どもでいて欲しいと願います。

朝食はパンとご飯、どちらがいいのでしょうか。


私はパンでないと食べられない人なので、家族にもパンを食べて欲しいのですが、家族は皆ご飯が好き。



朝から、パンとコーヒーをいただくと、落ち着くんですよ。
それにお手軽ですし。

なので私一人、パンを食べているわけですが。


何を食べても家族で囲む食卓が何よりの栄養源となり、幸せを感じます。

でも。
最近は・・・

私も、なるべくご飯を一緒に食べるようにしてます。



朝は、栄養面よりも「食べる」ことを最優先に考えいますが、食生活って本当はとても大事なんですよね。



戦後60年間で、元気なお年寄りが増え続けている背景には、食生活が充実したことも理由だと思うんです。


米、魚、大豆、根菜、、、といった伝統的な日本食が長寿の秘訣かなとも思います。
でも、この伝統的な日本食が近年、崩壊しているようなのです。



白米や白いパン、うどん、精製した油などは、見た目も口当たりもよく、美味しくいただけるのですが、精製の過程で鉄分やカリウムなど、様々な微量の栄養分が、除去されているんですよね。


その替わりと言ってよいのかわかりませんが最近、栄養補給に一役買っているのがサプリメントです。


伝統食の重要性を考えさせられます。



なるべく自分では、不足しがちなカルシウム補給は調理で工夫しながら、天然ダシなどで減塩することを意識しているつもりなのですが、どうしても偏ってしまっていると思います。


ごまをスプーン一杯ご飯かけるだけで、カルシウム・脂肪・たんぱく質・ビタミンB1・B2・鉄・リン・・・・とイッパイ含まれているそうです。
食品で食べるほうがいいことがイッパイ。


サプリメントなどはお手軽で確実に栄養補給できるのでいいと思うのですが、いろんな食材を食べてきた日本人は素晴らしかったんですね。


近年の子どもたちは、体格はどんどんよくなっているのに、体力は落ちています。

また、小児肥満や、若い人の心筋梗塞などもあるようですし。

我が家の食生活を見直そうと最近思うのでした。

子ども向き教材には、「植物の観察」が付録にあります。
娘は「こどもちゃれんじ」を購読しているのですが、1年生の時はひまわりでした。
今年はプチトマトです。


教材には小さい鉢が付いているのですが、昨年は水のやり過ぎでしょうか。
教材のひまわりはダメになってしまいました。



予感はしていたんですよ。

だから。
ひまわりの種を買って、庭に植えていたんです。


地植えのものは元気に育つんですね。

見事に花を咲かせました。


今年も。

もちろん、プチトマトの苗を植えています。



なんだか。

子どもの失敗を先回りして、保険を打つ親って・・・どうなんでしょうね。
バカ親って感じです。



昨年は、ナスビとキュウリも植えたのですが、実のつくモノは肥料とかちゃんとしないとダメみたいで、全滅でした。


今年は、土を買って肥料も入れたので大丈夫だとは思うのですが、ちょっと不安。



娘は、帰宅すると玄関よりも先に庭へ行ってトマトに水をあげます。


そんな娘を見ていると微笑ましく思います。



野菜を育てると共に感性が養われていくでしょう。
命あるモノを育てる気づきがそこにはあります。
観察して水をあげる労働の喜びもあるでしょう。
こんな些細な経験でも、自分自身への気づきに発展していけばと願います。


必ずしも野菜は元気に成長するわけではないから、子どもと一緒に喜んだり落胆したりして見守りたいと思います。



娘の。
野菜を見つめる真剣な眼差し。
輝いた目を大切にしたいです。

娘の成長を感じることができ、ありがたいと思います。


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憎しみや怒りの感情は他人を傷つけ、自分自身も傷つけます。

どうして、自分の中にそういう負の感情が生まれるのでしょうか。




たとえば


人の集団というのは似た物同士が集まり語り合うことが多いです。
気の合う者同士が集まった時、心地良いと感じるものです。

また、汚い環境の所には自然にゴミが捨てられ、ゴミが集められます。

人の感情もそれと同じで、怒りや憎しみの感情がある所へは、それに似た感情が集まるのではないでしょうか。


人間関係の摩擦で人は、いろんな感情を抱えているものですが、きっと私は、自分で負の感情を引き寄せているんですね。


本来、人は傷つけあった分だけ、強く成長すると思うのです。


感情を抑え込み、一人で抱えて、自分の中で消化することによって強くなる人もいるでしょう。

しかし負の感情を消化するのは容易ではありません。
消化不良を起こしてはたいへんです。

そこで必要なのが、人との繋がりだと思います。
誰かと繋がっているというのは安心できるのです。
依存心は安心感をもたらします。



負の感情を持っていると、自然に人から離れてしまうことはないでしょうか。

怒りや憎しみの感情は、その対象だけでなく、全ての人から心理的に離れてしまうようなことがあります。


負の感情を乗り越えるという事は、気持ちを穏やかにすることなんだと思います。


自分が穏やかでいれば、周囲も穏やかでしょう。


そうやって心地良い場所というのは、自分で作っていくものなのでしょうね。


簡単で当たり前のコトなんだけとなぁ


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