出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -34ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 おけら長屋の住人は、がさつで気の向くまま、でも人情に厚い。いつも騒動を起こしながら、それでもそんな人間関係の中に自分もいたい、と思わせてくれます。

 

 だから、おけら長屋の人たちの生き方を語る、こんな言葉がすっと胸にしみこんできます。

 

「子供のことを考えて一生懸命になってさ。でも、それがなかなかうまくいかない。うまくいかないから面白いのさ。笑って、泣いて、喧嘩して、それが必ずいい思い出になる。そんな人生の方が楽しいと思うよ。」(畠山健二、『本所おけら長屋(六)』より

 

 今も未来の自分から見たら、人生を形作る大切な1ピース。

 だから、笑って、泣いて、喧嘩して…。

 誰でも心の中に重い荷物を抱えています。その荷物に潰されるか、肥やしとして生きていけるかは、「自分次第」だという万造と松吉に対し、お熊ばあさんは言います。

 

「違うさ。大切なのはまわりの人たちさ。自分ができるのは、せいぜい心の中の荷物の紐を解くところまでだね。その荷物を心の中から取り出してやるのは、まわりの人の仕事なんだよ。だから人は、人とつながって生きていくのさ」

 (畠山健二、『本所おけら長屋(五)』より)

 

 このお熊ばあさんも、十の頃から心の中に重い荷物を背負って生きてきたのでした。だから、9歳になる直吉という男の子を救い、「重い荷物を心に背負っていくのは辛いからねえ」という言葉を残して死んでいきます。お熊ばあさんも、「粋」な人です。

 

 粋な人たちが集まり、お節介を焼き合いながら生きていく「おけら長屋」。人とつながって生きていく楽しさをしみじみと感じます。

「楽しいよ、お節介って。やくのも、やかれるのも。だって、その人が好きってことだろ。嫌いな人にお節介なんてやかないからね。だから、あたしたちには、好きな人がいっぱいいるってことさ」

 (畠山健二、『本所おけら長屋』(四)

 

 そう言えば、昔は、地域にもお節介な大人がたくさんいました。

 

 小道で遊んでいたら、「道路で遊ぶなっ!」と犬の散歩をしながら怒ってくるおじいさん。

 スポーツ少年団の練習に顔を出して、いろいろと教えてくれるおじさん。

 お祭りのあとには、自宅でうどんをふるまってくれるおばさん。

 

 時々、うっとうしく思ったり、その好意を好意とも気付かずに甘えたりしてばかりでしたが、今、思うと、その人とはもちろん、地域や友達同士の関係が近かったなあと思います。お節介が減っていくごとに、人とのつながりが薄れているような寂しさを感じます。

 久蔵は、妻・お梅と生まれたばかりの亀吉を喜ばそうと思う余り、金や出世に目がくらんでしまいます。挙げ句の果てに人の道を踏み外しそうになる久蔵に、万造と松吉が語りかけます。

 

「おめえがするべきことは、できる限り、お梅ちゃんと亀吉の側にいてやることじゃねえのか。お梅ちゃんの手を握ってやることじゃねえのか。亀吉の寝顔を見守ってやることじゃねえのか」

 万造の目にも涙が溢れてきた。

「万ちゃんの言う通りだなあ。・・・久蔵、所帯を持って気負うおめえの気持ちはわかる。お店で認められてえ、金もほしいって思うのも当然だろう。だがな、お梅ちゃんは、そんなこと望んじゃいねえんだよ。親子三人が仲良く助け合って暮らしていけりゃ満足なんでえ」

 しばらくは、部屋の中に久蔵の啜り泣く声だけが響いていた。

  (畠山健二、『本所おけら長屋(三)』より)

 

 家族として本当に大切なことは何か。酒や賭け事が大好きで、いつも騒動ばかり起こす万造と松吉の言葉だからこそ、よけいに心に響きます。人として大切なことは、学でも金でも名誉でもないということを万松コンビが教えてくれます。 笑いあり涙ありの落語の味わいたっぷりです。

 「確かに落語は作り話です。できすぎた話もあります。現実にはあり得ない話もあります。でもそれは世知辛い世の中で生きる庶民たちの夢なのです。せめて落語の世界ぐらい、そんな笑えて泣ける出来事があったっていいではありませんか」
(畠山健二、『本所おけら長屋(三)より』)
 
 江戸時代の落語は、今の映画のようなものだったのでしょうか。それとも読み聞かせのようなものだったのでしょうか。いずれにしても、いっとき浮世を離れ、別の人生を髄から味わう夢の時間だったに違いありません。
 
 そして、この『本所おけら長屋』自体、笑えて泣ける出来事満載で、一編の落語のようです。