出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -35ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 左官屋の八五郎とお里は似たもの夫婦。どっちも譲らず、些細なことから夫婦げんかをして、お里は家を出て行ってしまいます。でも、二人の娘・お糸は、二人を信じ、何も心配していないのです。

 江戸っ子たちの繰り広げる人情物語『本所おけら長屋』。その中にあって、お糸も、他の登場人物の例に漏れず、魅力的です。

 

 お里のいない家で、おっとうの八五郎と向き合って酒を飲むお糸。二人が交わす会話の中からも、お糸の魅力が伝わってきます。

 

「お糸は、どんな男と一緒になりてえんだ。お店者か、それとも職人か」

「仕事なんか気にしないよ。お酒を呑んでもいい。遊んでもいい。でも、一本筋の通った人がいいなあ。おとっつぁんみたいに」

「おだてんじゃねえよ。お里を見てみろ。おとっつぁんみてえな男と一緒になって、苦労ばっかりじゃねえか」

 苦笑いをする八五郎は、どこか寂しげだ。

「だが、これだけは言っておく。相手の男の中から、ひとつでいい、『この男は天晴れだ』って思うところを見つけだせ。それさえありゃ、なんとかならあ。夫婦なんてそんなもんだ。とはいえ、お里はでていっちまったんだから、おれの話にゃ、重みがねえな」

 お糸は、その話を神妙に聞いている。

「うん。わかった。いい話だね。おとっつぁんの言葉、肝に銘じておくからね」

 (畠山健二、『本所おけら長屋(二)』より)

 

 娘が、こんなふうに粋に育ってくれたらいいなあ。

 そして、娘が年頃になったら、こんな会話がしてみたいなあ。

 そう思うのです。

 いつもなんだかんだと騒動の起こる「おけら長屋」。でも、そこに住む人々は、貧乏で、お節介で、人情に厚い江戸っ子気質の人ばかりです。

 困っている人がいたら、放っておけず、後先考えずに行動する万造と松吉。そんな二人を見て、浪人・島田鉄斎は言います。

 

「これから起こることは、そのときに考えればよい。自分たちの振る舞いが、天に恥じないことならば、なんとかなるはずです。」

 (畠山健二、『本所おけら長屋』より)

 

 『本所おけら長屋』。時代は変わっても、大切にしたい「粋でいなせ」な生き方を、笑いと人情と共に届けてくれる連作時代小説です。

 自分の置かれた場所や立場を嘆くのではなく、そこでただ自分のなすべきことに打ち込む。

 渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』を読み、私は、その「自分のなすべきこと」は「自分の花を咲かせること」と勘違いしていました。でも、そうではないということを、『ルピナスさん』と「ことりの木*makiさん」が教えてくれました。

 せっかく生まれてきたのだから
 なにかを成し遂げて
 自分らしい「花を咲かせよう」
 …という価値観もあるけれど
 
 「種を蒔く」ということは
 多分 自分のためではなくて
 
 もしかしたら種を蒔いても
 自分は どんな花が咲くか
 見届けられないかもしれないし
 
 蒔いている時には
 他人には その意味がわからないかもしれないのです
 
 でも
 どんなささやかことでも
 どんなにちっちゃい種でも
 
 いつか誰かのために
 
 次の世代ののために
 
 誰かの心のほんの片隅にでも…
 
 誰が蒔いたのかなんて わからなくても
 
 種を蒔くことができたらいいなあ

 

 makiさんのブログの中から抜粋した言葉です。

 

 私が大学を卒業するとき、色紙に「ただ人のために尽くされた人生こそ真の人生である」と言葉を寄せてくれた人がいました。その人は、その言葉通り、自分のことよりも人のことを第一に考える人だったため、ひときわ感銘を受けたことを思い出しました。

 

 大事な言葉に出会っていても、よくその言葉を忘れてしまいがちです。

 でも、必ずだれかが、その言葉を思い出すきっかけを与えてくれます。

 今の世界は、いろんな音に溢れているけど、音楽は箱の中に閉じ込められている。本当は、昔は世界中が音楽で満ちていたのにって。

 

 そうよね、これまであたし、ずっと音楽から与えられるばっかりだった。あたしたちは、みんな音楽から与えられることばかり考えていて、返してこなかった。搾取するばっかりで、お礼をしてこなかった。そろそろ返してもいいわよね。

(恩田陸、『蜜蜂と遠雷』より)

 

 音楽は、人を、日常から少しだけ違う場所に連れて行ってくれます。和ませたり奮起させたりしてくれます。私たちは、そのお礼として、少しだけ自分の気持ちを添えて、音楽を世にお返しします。『蜜蜂と遠雷』に登場したピアニストたちもそうでした。天才ピアニストでありながら音楽に悩み、涙し、輝かされている彼らの謙虚な姿が読む人の心を打ちます。

 

 『蜜蜂と遠雷』を読んでいると、そこに流れる音楽と時間が目に見えるようでした。

 言葉という音楽に、緊張し、高揚し、震えました。

 私にとって、特別な小説になりそうな気配があり、ゆえに1作品でブログ6話という、私の中では、最も長く引きずってしまった本となりました。

 

 『蜜蜂と遠雷』のブログは、ここまでです。

 長々とつきあっていただき、ありがとうございました。

 『蜜蜂と遠雷』。芳ヶ江国際ピアノコンクールを巡る音楽家たちの物語。

 「本」ですから、物理的な音が聞こえてくる訳ではありません。でも、私の聴いたことのない音楽が届いいてきます。そして、新しい音楽の世界が開けるのです。

 

 私はずっと、「音楽は聴く人がいて、聴いてくれることで完結する」と教えられてきました。だから、聴き手のいるところで演奏することを避けてはいけない、と。

 でも異才のピアニスト・風間塵は「どのくらいピアノが好きなの?」と聞かれ、こう答えます。

 

「世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも引き続けていたいくらい好きだなあ」

 

 さらに、「聴く人がいなくても音楽と呼べるのかしら」という問いに対しては─

 

「分からない。だけど、音楽は本能だもの。鳥は世界に1羽だけだとしても歌うでしょう。それと同じじゃない?」

 

 一人で、誰かに聴かれているというプレッシャーもなく、自由に想像しながら、自分の思うがままに演奏する。私も、そういう時間が好きです。

 風間塵ほどの才能は、まったくないのですけど。