出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -36ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 芳ヶ江国際ピアノコンクール。

 明石は、第二次予選で落選します。しかし、明石は、演奏者たちの体を通してあふれ出る音楽が、彼らが育った土地、風景と無縁でないことに気付きます。

 

 音楽っていいな。

 明石はふと素直にそう思った。

 真の世界言語だ。

 もはや自分が落ちたことは、どこかに行ってしまっていた。

 

 私も同じ。

 ミスタッチだらけでも、本当に音楽が好きというのが伝わる演奏、楽しんで演奏しているなというのが分かる演奏、人柄のあふれる演奏、そんな演奏に出会えた時、私は幸せを感じます。

 努力とか技術とかでどうこうできるものではない、その人の人間性あるいは音楽性とでもいうべきもの。奏者の奥深いところから紡ぎ出される音楽。少年・風間塵の演奏もそういうものでした。

 

 愛されている。

 亜夜が少年の顔を初めて見たとき、頭に浮かんだのはその言葉だった。

 この子は、音楽の神様に愛されているんだ。

(恩田陸、『蜜蜂と遠雷』より)

 

 音楽を愛する人は、大勢います。

 でも、音楽に愛された人は、おそらく本の一握り。うらやましい限りです。

 

 ずいぶん前にシンガーソングライター・矢野顕子さんが、「ピアノが愛した女」というキャッチコピーで紹介されていました。あまりにも楽しそうに弾き歌う矢野顕子さんを見ていると、きっと風間塵もこんな感じの演奏者なのだろうと想像が膨らみます。

 

 

 

 

 

 

 芳ヶ江国際ピアノコンクールを巡る演奏家たちの物語。

 育ちも音楽に対する思いも違う人たちが語る言葉なのに、どれも私の中にある音楽への思いに、どこかで重なります。そんな言葉を取り上げるブログの第2回目。

 

 楽器店に勤務する高島明石は、仕事の合間をぬって練習を重ね、プロとは違う、生活者である自分にしかできない音楽を追求しています。

 その明石が、幼い頃を振り返っての言葉。

 

 明石は、蔵の隅に置いてある、背もたれのない小さな木の椅子に目をやった。祖母は、あの上にいつもちょこんと正座して、ぴんと背骨を伸ばし、孫の弾くピアノを聴いていたのだ。

 明石の出す音は優しいねえ。お蚕さんも、明石のピアノが好きみたいや。

  (恩田陸、『蜜蜂と遠雷』より)

 

 

 私の母方の祖母は、目が見えませんでした。

 私が子どもの頃、ピアノを弾いていると、祖母は私の邪魔をしないように、そっと隣の部屋の椅子に座り、ずっと私の弾く音楽を聴いてくれていました。

 私がピアノの部屋から出ると、祖母は、「ゆうちゃんのピアノはうまいなあ。前、テレビで聴いたピアノよりずっとうまい。」と言ってくれたものでした。祖母の欲目とは分かりつつも、目が見えないぶん、きっと普通の人より音に敏感なはずの祖母の言葉は、ずっと私を支えてくれました。

 

 祖母が亡くなってもう25年経ちます。

 それでも、ピアノを弾いていると、時々、「おばあちゃんに聴いてほしいなあ。」と、子どもの頃を思い出します。

 売れっ子ミステリ作家・猪飼真弓が、高校時代からの友人であり、著名なピアニストである嵯峨三枝子に言います。

 
…でも、ひとつだけ、あたしたちには絶対にかなわないことがあるじゃない。
 世界中、どこに行っても、音楽は通じる。言葉の壁がない。感動を共有することができる。あたしたちは言葉の壁があるから、ミュージシャンは本当に羨ましい。
 
 
 もう、30年も前になるでしょうか。
 指揮者の小澤征爾さんが、インタビューに答えていました。
「夕日を見て美しいと思うのは、日本もヨーロッパも同じ。音楽だって、いいものは世界に通じる」
 やっと日本人が、世界の舞台で認められ始めた頃でした。しかし、それ以降、この言葉の通り、世界で活躍する日本人演奏家は、どんどん増えています。
 
 
 『蜜蜂と遠雷』、読み始めたばかりですが、音楽を嗜む人はきっと共感するであろう言葉が目白押しです。私のブログも、しばらくこの小説にかかりきりになりそうです。

 『読書と私』は、大江健三郎さんや丸谷才一さん他27名の方が、読書について書き下したエッセイ集です。今日は、その中から丸山健二さんの言葉を紹介します。

 

 自分の言葉を持つということは大変なことだ。なぜなら、その言葉の裏づけとしていちいち体験や行動を貼りつけなければならないのだから。精いっぱい生きて、充分に働かなければならないのだから。

 

 たくさん本を読んだから、言葉が豊かになる。そんな単純なものでもないようです。

 とびきりの体験をした人の書く文章が読み手をその世界に誘ったり、逆に悲しい経験をした人の素朴な言葉が人の心を打ったり・・・。“文は人なり”という言葉は、言葉には、その人を形づくってきた人生が自ずと含まれる、ということなのでしょう。

 だから、言葉に魂を吹き込むことができるように。精いっぱい生きていかなければ。