■自分だけが決められること

被害を受けたのは自分だけど
まわりの人が
「それは違うよ」と言うので
自分は被害を受けたのではないと
信じるしかなかった。

それが生きずらさとなり
その後ずっと抱え続けている。

そんな状況は、おかしいです。

なぜなら、
被害を受けたかどうかは
他の誰でもなく
自分だけが決められること

だからです。

自分でそう思ったのなら、
被害は絶対にあったのです。

謝罪や償いを求めたり、
裁判などで争ったりするのは、
また別の話です。

とにかく、
自分が被害を受けたと思ったら
自分は被害を受けたのです。

それが事実です。

事実とすることに
何も問題はありません。

その事実は、
自分の事実であって
他の誰かの事実ではありません。

他の誰かが
どう思おうとも
それは
自分の事実には関係しないのです。

■傷が癒される機会

何も気にならなかったら
自分は被害を受けたと
思うことはありません。

だからそんな状況であれば
被害はなかったのです。

でも、
他の誰かの攻撃により
嫌な思いをしたのであれば、
それは被害を受けた、
ということです。

他の誰かが
攻撃したと認識しているかどうかは
別の話です。

もしそれを
「何もなかった」としたら
嫌な思いをした自分の
居場所がなくなってしまいます。


嫌な気持ちになったから
嫌だと思ったのです。

そう思う自分は
自分の大切な一部です。

自分の一部なのに
自分の一部と認めないのは
自分に厳しすぎます。

嫌だと思った自分は
「それが嫌なんだ」と
自分に知らせてくれてる
大切な存在です。

「何もなかった」とするのは
そんな大切な自分に向かって
「それは違うよ」と
拒絶を伝えるようなものです。

自分の役に立とうと
自分の一部は働いてくれたのに
「それは役に立たないよ」と
存在否定をしているようなものです。

そうして、
嫌な思いをした自分を
「何もなかった」に
し続けている間は、
その嫌な思いをして
傷ついた自分は癒されません。

癒されないと
ずっと痛いです。

その痛みは
直接には影響せずとも
自分の生活全般に
影響を及ぼします。

それは
「ずっと気分が晴れない」
という形の影響かもしれません。

それは
「ずっと表情が暗いまま」
という形の影響かもしれません。

それは
「相手を信じられない」
という形の影響かもしれません。

それは
「どんなに休んでも休まらない」
という形の影響かもしれません。

いずれにしても
その影響がある限り、
生きずらい感じは
なくなりません。

そのうち時間が経過すると
何があったために
この生きずらさがあるのかが
だんだん他とごちゃまぜになって
わからなくなってしまいます。

そうして、
「何もなかったこと」にしたことで
嫌な思いをして傷ついた自分は
癒される機会を失ってしまうわけです。

だから、
嫌な思いをした
最初の時点で、
「嫌なことがあった」すなわち、
自分は被害を受けたんだ、と
自分で認定することは
とても大切なことです。

嫌な思いをしたわけですから
「何もなかった」は
正しくありません。

何かがあったから
嫌な思いをしたのです。

被害を受けたら、
その被害を受けたことを
認定することで、
その傷は癒される機会を
得られるのです。

■共有できると癒される

人間は
「人の間」の存在です。

すなわち、
誰かと共有したことは
「無かったこと」にはならずに
「確かに有るもの」となります。

どこに有るのか?が
人の間、というわけです。

そして、
共有には
批判や評価はありません。


「これです」と言って出したものを
そのまま「これね」と言って
認めることで共有となります。

例えば、
自分は日本人だ、と
思っているだけでは
確かにそうなのでしょうけど
確かにそうなのかの
実在感が微妙です。

それを相手に
「自分は日本人です」と
伝えて、相手が、
「そうですね、あなたは日本人ですね」
と返してくれたら、
自分は日本人であることの
実在感をちゃんと感じられます。

この仕組みを利用して
性暴力の被害を受けたことも
信頼できる相手に共有できたら
「何もなかった」にはならずに
「ちゃんとあった」になります。

一人で思っているだけだと
人の間にはまだないので
「ちゃんとあった」とは
感じにくいのです。

信頼できる相手に共有できると
人の間にあることになるので
「ちゃんとあった」と
よく感じられるのです。

自分が被害を受けたことが
あったかどうかを決めるのは
自分です。

そして、それを、
実際の形にすることが
相手と共有することです。

認定→共有の
2段階です。


共有のときに
怖く感じるのが、
共有にならずに
批判や評価をもらって
しまうことです。

相手は
自分が被害を受けた話を
批判や評価をすると
簡単に優越感を搾取できます。

「それくらいで、何しょぼくれてるんだ」

「そんなの被害のうちに入らないよ」

「もっと大変な人だっているよ」

「それなら自分の方がもっとすごいよ」

「暗くならずにがんばろうよ」

批判や評価なら
何でも優越感の搾取に使えます。

こんな状況が
二次被害と言われる状況です。

だから共有するときは
いくら信頼できる相手でも
「共有したいので、協力してほしい」と
目的を明確に示してから
始めることです。

共有がわからなければ
「あなたにはただ
自分の話したことが
わかったかどうかだけを
返してもらいたい」
と確認してから始めることです。

または、
相手が批判や評価を始めたら
「それは共有ではなく
批判や評価なので、
それをされると辛い」
などと都度修正をお願いすることです。

それでも
どうしても批判や評価を
相手がしてしまうなら、
すぐに中断することです。

今その人とは
共有できない状況なので。


共有がうまくいったときは
心が楽になった感じがします。

そうしてちゃんと
「有ったこと」とできると
抱えた生きずらさは
なくなっていきます。






お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。




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